[37]大津〜京・三条大橋

 

 

1.発言番号:823

    発言者  :巌  隆吉

    題名    :東海道五十三次大津〜京三条を歩く 

    登録日時:99/12/04 18:54

 

  かねてから、この東海道五十三次の締めくくりとして有志が集まり、大津から京三条までを歩いて、京・三条大橋のたもとの高山彦九郎の銅像前で打ち上げ式を行うことが取り決められていた。

  ところが当初の参加予定者の村瀬さん、大前さん、北村さんが身体のご不調でご欠席され、残った私たち4人(深沢さん、太田さん、青野さんと巌)でこの12月1日大津から京三条まで歩き、併せて折角の機会なのでそのまま太田さんのお手配で由緒ある宿舎、「白河院」に宿泊、京都の紅葉の名所を隈なく見物しようということになり、12月1日から3日までの3日間を「東海道五十三次踏破完成記念の会」として開催した次第。

  顧みると2年半前の春、私が恩師からいただいた「広重東海道五十三次」図録を深沢さんに差し上げ、1ケ所でも良いから何処かの宿場を歩いては如何でしょうかとの提案に始まったのだが、皆さんに煽てられた深沢さんが早速全部を歩いて見ようかなとの発言に、太田さんが「なんとも無謀なことを!」とするどく批判、これに奮起した深沢さんが着々と宿場を歩き始めた。私も何とか協力したいとその後NHKの東海道を歩く会に参加して深沢さんとの2頭立てで、この五十三次の全部の宿場をカバーすることとした。既にこの10月までに大津から京三条を残しては、その全部の宿場を二人で歩き終えていた。

  12月1日、朝早く自宅を出て新幹線の中で太田さんと青野さんと落ち合い、京都で乗り変え大津に降りた。駅の構内で先発していた深沢さんの出迎えを受け、直ぐに駅前より北に向い旧東海道まで歩く。

  この途中の説明によると、かってこの駅前付近はその昔大きな沼地だったようだ。また、義仲ゆかりの義仲寺やその愛妾を祭った「山吹地蔵」等がある。

 

1.大津事件跡

  旧東海道を西に歩くと程なく大津事件跡の石柱に出くわす。この事件は明治24年ロシア皇太子を警官が切り付け当時ロシアの脅威を感じていた頃の大事件で、皇太子の傷は浅かったが、その警官の処刑を巡っての政府と大審院が対決、司法の独立を守っている。

  この皇太子はその後帝位に着き、日露戦争では日本と戦いそしてロシア革命で処刑された悲劇の皇帝であったが、最近ではロシアにおいて改葬されているようだが...。

 

2.札の辻跡

  西の方を見ると三井寺が見え北国街道とぶち当たる。ここに昔は江戸幕府の法令を記した高札があり、北国街道と東海道の分岐点が「札の辻」といわれ昔は人馬会所があり大変賑わっていたところ。また東海道はここから折れて南に向う。

 

3.大津宿本陣跡

  暫く歩くと本陣跡があり、明治天皇も休まれている。ここの主は大坂屋嘉右衛門(旧大塚本陣)で大津には2軒の本陣があったようだ。

  昔の繁華街で今も御幸町と言っているのだが町中で屎尿車が働いているのを見るとまだ下水処理が遅れているのだなと大変残念にも思った。

 

4.逢坂山関跡と関蝉丸神社

  関蝉丸神社には、  

      逢坂の  関の清水に  かげみえて  今やひくらん  望月の駒     貫之

と書いた石碑があり、重文の鎌倉時代の時雨灯篭もあり長い歴史を感じた。

             逢坂山関跡の前で

        深沢さん、太田さん、巌さん(左から)

  また蝉丸の

      これやこの  ゆくもかえるも  わかれては  知るや知らずや  逢坂の関

が有名であるが、蝉丸は宇多天皇の第4子といわれ盲目の琵琶の名手。

  この関蝉丸神社は下社、上社、分社と三つもあり中々念の入った神社でそれだけ通行する人の信仰も深かったのだろう。逢坂越えの守護神であり、芸能の祖神でもあり、謡曲をされるお方の参詣者も多いことだろう。

  ここで、われわれと同じように今日で五十三次踏破を終わるという中年のご婦人2人にお会いしてお互い励まし合う。五十三次を歩く人も随分多いのだなと思った。

このご婦人の頼もしさには一同大変驚く。また、この頃の日本の女性の強いことも...。

  関蝉丸神社の下社の近くに逢坂山関所址の石碑が建っている。

 

5.車石

  昔この逢坂山を登る牛車は大変苦労していたようで、その苦労を軽くするため、車の轍の幅に刻んだ車石で舗装していた由。その模型を見ると先人の智恵に深く感心した。

  また、安永8年(1778年)この逢坂を年間15894輌の車が通行しており、脇坂義堂が文化2年(1805年)1万両で舗装したとのことだ。

 

6.「かねよ」のうなぎ

  関所址の直ぐ近くに助川さんのご推奨の日本一といわれる「かねよ」のうなぎ屋がある。おなかも大変空いたことだし飛び込んで折角だからと深沢さんの勧めで庭の綺麗な座敷の方に入る。紅葉を眺めうな丼を食べて腹ごしらえする。エネルギーを入れると一同大変元気になったようだ。

 

7.「走井」のある月心寺(瑞米山)

  いまでも美しい水を満々とたたえる泉がある。

  第13代成務天皇の産湯にも使ったという。広重もこのあたり走井の茶屋を描いているし当時はこの水でものどを潤していたのだろう。月心寺の裏山にも登ったが大分荒れており折角の史跡なのにと残念に思う。

      走井の  かけいの水の  すずしさに   越えもやられず  逢坂の関     清輔

 

8.追分

  やがて伏見街道の分岐点の「山科の追分」があり、その先で三井寺から逢坂山の北を廻る「小関越え」の道と合流する。追分に入る道が判りにくく少し迷ったが、深沢さんが上手く見つけてくれた。

 

9.山科と天智天皇陵 

  珍しい伏見六地蔵を見て、暫く歩くとまた先のご婦人2人に逢う。天智天皇陵の紅葉が綺麗なので是非見てはとのお勧めで陵にお参りする。一同、まことに美しい紅葉でお参りして良かったという。

  天智天皇は大津に都を置いたが息子たちの壬申の乱はあまりにも有名。

  彼女たちに遅れたし、まだ京三条までは大分ありそうなので、心配しつつも私は、有名な「亀の水」は見たいなと思って日の岡峠までを急ぐ。ところが彼女たちの教えた東海道は間違っていると悟った深沢さんの機転によって、道を修正して最初は旧東海道らしからぬ小道を通って漸く「亀の水」にたどり着く。

 

10.亀の水

  日の岡峠にあり木喰寺梅香庵跡の亀の口から水は出ており、いかにも昔から霊験もありそうなので、一杯飲んで渇を癒す。

 

11.粟田口

  いよいよ、最後のコース京都七口の一つで昔からの要衝である粟田口に向う。

  この間暫くすると交通の激しい国道に出る。蹴上げ付近の歩道は工事のため幅1mもない位で本当に危ない。いくら工事だと言っても何とかして貰いたいとつくずく思う。まったくひどい。この際市の当局にも苦言しておきたい。

 

12.三条大橋

  ようやく町中の歩道に出て、16時過ぎに目指す終点の三条大橋に到着する。高山彦九郎に銅像の前は群集で一杯。太田さんも土下座をどうするか思案顔。深沢さんよりも、あの毒舌による叱咤激励がなければ到底今回の踏破は出来ないし、また、数々のあたたかいコメントと今回の参加を諒とし「武士の情」により土下座だけは免ずるとのお達しとなった。むしろ逆に感謝でいっぱいで4人で早速感激の握手となった。

              京三条大橋 弥次喜多像前にて

  このあたりの通行人も「ホー、五十三次をねぇ〜、歩いてか?」と驚嘆していた。

  三条大橋東側の高山彦九郎の前や弥次さん喜多さんの前で記念撮影したことはいうまでもない。

  その頃くだんのご婦人が道を迷い「亀の水」も見ず遅れて到着した。いみじくも深沢さんの名ガイド振りの真骨頂ぶりを裏づけることとなった。

  この夜は太田さんが手配した「白河院」に泊まる。この「白河院」はもと藤原良房の別荘でその後、白河天皇に献上され法勝寺となり、地震や火災で倒壊焼失して今の白河院が建てられている。由緒ある地に建つ京都らしい庭と建物であり、五十三次の打ち上げにはまことに恰好の場所だった。

  風呂で疲れを癒し、早速乾杯する。しかもその乾杯は村瀬さんから贈られた「ボージョレヌーボウー」で・・・。大変美味い。

  次いで記念行事の紅葉狩り。

  明けて12月2日

  深沢さんの案内で高雄に行きまずは、鳥獣戯画の高山寺から西明寺そして階段の長い神護寺へ。紅葉は少し時期が遅れたがそれなりに見応えがあった。 

  それから清滝川に沿って歩いて清滝まで行く。途中殆ど人とも会わず森閑とした中渓谷の紅葉を楽しむ。少憩時、青野さん持参のブランデーで疲れを癒した。

  嵯峨野に降りてからは、天龍寺から常寂光寺を経て亀山公園の展望台から嵐山と紅葉を見ながら歩く。天気は良く快晴、良い時に来たものだとしみじみ思う。

  京都らしい錦市場を見て宿舎へ。

  次の12月3日

  白河院より北に向い、永観堂禅林寺へ。ここは紅葉の名所だけに見応え充分。

  深沢さんの義父はここの84世管長として16年間務められたとのことで、寺院の管長墓所には立派な墓石が建っている。

  ここから南禅寺に向う。ここの三門も見事だ。このはずれにローマの水道のような疏水アーチがあり小学生が上を歩いていた。これが有名な琵琶湖疎水の遺跡だ。子供の頃本で読んでいたインクラインだ。興味を引いたので近くの疏水記念館に入って見る。明治の初め首都を東京に奪われた京都が奈良のように落ちぶれては駄目だとの反骨精神からこの大工事を完遂したのだろう。水道ともなり発電もして、しかも舟を運ぶという大きな企画に当時の京都人の気概を感じた。またその水力発電は日本で最初だったという。

  知恩院に向う。その知恩院も見事だ。

  山の上の一心院を通ったのだが、深沢さんが一寸親父たちの墓参りをするとのことで、私たちもお参りする。そこを出て知恩院の鐘を見る。凄く大きな名鐘だ。除夜にはこの鐘の音を聞くことになろう。

  直ぐ近くの安養寺へ。ここは四十七士が謀議した寺。円山公園の紅葉を見て八坂神社経由、四条の南座の傍の松葉で名高い「にしん蕎麦」をいただく。値段は高いが大変美味い。

  ここから東福寺へ。ここは始めてのところだが凄く大きなお寺で通天橋を隔てた谷あいの紅葉も見事だ。

  更に近くの泉涌寺へ。この寺は歴代天皇の陵もある谷あいの風格のあるお寺だ。なお、この寺に楊貴妃観音像があるのは珍しい。昔湛海和尚が持参されたものというが史実はともかくとして大変美しい像だった。

  その隣は来迎院。大石良雄ゆかりの庭もあるがその近くの紅葉は大変色鮮やかで見応えがあった。東京から来た若い女性もわざわざ見に来ていた。

  3日間天気も良く、紅葉もすっかり堪能出来たので、これで打ち上げ駅に向い新幹線に乗る。

  お互い「大変良い旅だったなぁ〜」と喜び合ってまた乾杯した。

  この間歩数は3日間で約7万歩。私も後半は膝が痛くなって、深沢さんの適切な手当てによって何とかすべての行事を終えることが出来た。その達成感に満足しつつまた皆さんに感謝しつつこの拙い稿をお送りします。  

 

 

2.発言番号:824823へのコメント)

    発言者  :青野 敦美

    題名    :東海道五十三次大津〜京三条を歩く

    登録日時: 99/12/05 09:13 

 

  ダイヤネットワークDOCOKAIの巌さんと深沢さんの二人三脚による「東海道五十三次旧街道を往く」は約2年半の月日を費やし、日本橋から点と線で結んで、去る12月1日 遂にその 最終コース(大津宿〜京都三条)を踏破し完結した。私はこの最終コースに同行する機会を得て祝杯のお零れを頂いた上に、紅葉に染まる京都を満喫した一人として、印象に残った情景のいくつかをコメントし、改めてこの壮挙を称えます。

 

  大津駅前の逢坂市民センターで貰った「逢坂おさんぽマップ」も参考にはなったが、逢坂山を越え、京の東山を越える東海道五十三次終結の旅は、地元京都出身の深澤さんが片時も離さぬ地図の誘導に最後までお世話になった。

 

  旧東海道と標記された街道は狭い。主筆と重複するところもあるが、印象に残った旧跡を列挙すれば

 

@札の辻:江戸幕府の法令を記した高札が立てられていたところ。北国海道と東海道の分岐点でもある。江戸後期になると、ここから車石(牛、馬車の車輪が通る凹んだ石のレール)が京まで舗装されていたという。

 

A大津宿本陣跡:大津宿には、大阪屋嘉右衛門、肥前屋久左衛門の二軒の本陣が在ったそうで、皇女和宮降嫁のときは勿論ここが宿舎になった。札の辻跡に近い旧大塚本陣の跡に明治天皇聖跡碑がある。

 

B関蝉丸神社:平安時代、逢坂越えの関の守護神または道祖神として建立され、これに盲目の皇子・琵琶の名手「蝉丸」伝説が付加されて芸能の祖神としても崇められるようになったと言う。上社と下社そして分社が在り、社殿には謡曲奉納の額がところ狭しと掲げられていた。

 

C逢坂山関址:逢坂越えは平安時代、京都と東国、北国を結ぶ東海.東山.北陸の交通幹線の三道が集中する交通の要衝で、逢坂山関は平安京を護る施設であったという。

  その石碑をカメラに納めて逢坂山を越えると、歩道が極端に狭く交通量の激しい車道に出て、後ろからの危険を感じながら黙々と歩くこと30分余り。紅葉と緑の杜の天智天皇陵を参拝した後は三十六峰「東山」の山越えとなる。途中「亀の水不動尊」の泉を飲んで喉を潤し、京の静かな佇まいを一路三条大橋へと急ぐ。

  大津駅を10時40分に出発し、最終地点の三条大橋到着は16時を少し回ったところ。凡そ15Kmの道のりを約4時間余りで歩き通したことになる。

 

  話題を集めた懸案の土下座する高山彦九郎像前の”東海道五十三次踏破完遂”の儀式は、巌隊長と深沢さんとこれが遂行の基因を為した太田さんの力強い握手で感激の幕を閉じた。その映像は、深澤さんのデジカメにバッチリと納められたが、製本編集に間に合わず、何れライブラリーの写真館に飾られるであろうことを乞御期待。

 

  祝賀会は平安神宮に程近い「白河院」で挙行された。

「白河院」は、もと藤原良房の別荘で北家藤原氏によって代々受け継がれ、藤原師実のとき白河天皇に献上した由緒ある邸宅という。いまは昔の面影を留めないが、古風な庭園の紅葉は今を盛りと色めいて、豪華な京懐石料理に、村瀬さん差し入れの "ボジョレー.ヌーボー”で「乾杯」。

 

  2日目の京都観光は、紅葉の錦に飾られた「高尾」と「嵐山」。やや峠を越えた趣あるも、朝の小雨に洗われて それは見事な景観でありました。

 ケシカケ人?である太田さんは、ここで土下座する ということになっていたのだが、さすがに優しい弥次喜多の二人、熱い握手で

               高山彦九郎

 

 

3.発言番号:825823へのコメント)

    発言者  :太田 

    題名    :「何とも凄い執念・・・」

    登録日時:99/12/06 15:32

 

@五十三次最終回

 深沢さんが「東海道五十三次」その?T「日本橋」のメッセ−ジを流し、私が「何とも無謀なことを・・・」とコメントしてから、2年半が経ったのですね。

 到底無理な話だから五十三次「3」の神奈川辺りか、「8」の大磯辺りで両手をついて勘弁して貰ったら如何と忠告したにも拘らず、彼は強行したのです。

 巌さんが、「広重・東海道五十三次」の図録を渡した責任を感じて、わざわざNHKの「五十三次歩き」に加入の上、略半分を手伝ったのも皆彼の我武者羅のためです。巌さんはほんの1〜2ヶ所やって報告してくれと言っただけなのに・・・。

 

 今回、最終回を私が付き合う羽目になったのは、全く見当違いと思うのですが、三条大橋で土下座して謝れとの強要があったからです。恩人ならいざ知らず、悪人にされたのではたまったものではありませんが・・・。

 体調が良かったわけではありません。前日寝違えて首がよく回らなかったし、薄風邪をひいて咽喉が痛かったのですが、ここで参加を取止めたら、「敵前逃亡」と残り少ない一生を罵られ続けると思って、歯を食いしばりながら、7時半の新幹線に飛乗ったわけです。

 車中のこと、大津〜京都間のことは巌さんや青野さんのレポ−トで十分お分りのことと存じますので、省略します。

 

A三条大橋

 15キロも歩かされて、私の身体は綿のように疲れて来るのに、精神は三条大橋の一幕を想像しながら、弥が上にも昂揚して行きます。

 夕刻4時、薄暗くなりかけた頃、高山彦九郎銅像前に到着して、愈々土下座、口上の準備を始めた頃、ご両人から「武士の情けで免除してやる」と待ったが掛かりました。

 私はほっとするやら、がっかりするやら、今回の旅行のハイライトだったのですから、善悪は兎も角、やってみたかったのです。

 しかし、東京で言えば銀座4丁目交差点みたいな所で、しかも夕方人出の最も多い時ですから、ご両人がたじろくのも無理ありません。

 貧相な老人が土下座して、何やらぶつぶつ言っている前で、憎らしげな老人二人が轟然と構えている姿を見たら、忽ち黒山の人だかり、挙句交番のお巡りさんが駆けつけて、「老人虐待、交通妨害」の廉で京都府警察の豚箱に1晩位ぶち込まれるかも知れませんから。

 それにしても、土下座姿の彦九郎や同じ上州人である赤城山を背にして立つ国定忠治(新国劇辰巳柳太郎が扮した)の面魂は、勤皇精神やヤクザ根性とは全く縁の無い私でも絵になる恰好だなと感心しました。

 今時の福田、中曽根、小渕などの腑抜けた顔は比較になりません。

 

 同夜は白河院の会席料理を前に、村瀬さんのボウジョレヌ−ボ−で五十三次完歩祝賀の乾杯を挙げたことは皆さんのご報告の通りです。

 

B市内観光

 流石、京都生まれの深沢さんは我々ビジタ−の窺い知れない所を案内してくれました。

 例えば、神護寺を見た後の清滝散策コ−スとか、東山の各寺を裏門伝いに歩くなど、好い経験をさせて貰いました。

 彼の義父殿が永観堂の管長だったのでそのお墓に参ったこと、彼の家の菩提寺が知恩院の隣にあって三人で参詣したこと等も。私が生き残って、未だ京都旅行が出来るようだったら、その都度墓参してあげようと心の中で誓いました。

 3日間のご両人が、会う人毎に五十三次達成を吹聴していたのは些か閉口しましたが、反面老いて猶子供のような感受性を持っているのが羨ましくもありました。

 3日間とも、体力の無い私が殿を付いて廻ったわけですが、いつも昼食は2時近く、お茶を飲んだ覚えはありませんでした。

 私の今までの京都旅行では、正午前後に食事、10時と3時には必ずテ-タイムがありましたから、今回のリ−ダ−が如何に強力だったか想像戴けるでしょう。

 

 目標を失った深沢さんに、今私は「関東三十三観音」をお薦めしています。信仰深い奥様とご一緒に、静かにゆっくり廻るのに適した霊場が多いからです。「東海道中膝栗毛」は急がし過ぎましたよ。             〆

 

 

4.発言番号:826825へのコメント)

    発言者  :深澤 龍一

    題名    :ガイドマンの「暗躍記」

    登録日時:99/12/07 14:09   

 

  今回の「打上げ」の後で「紅葉の京都案内」を自ら買って出た手前、その日から「口の悪い皆さんを何処へ案内しようか?」との悩みは消えなかった。旧友や妹に聞いてみても、京都在住のお人は「灯台下暗し」の諺通り余り参考になるルートは出て来なかった。

  え〜ぃ!ままよとばかり自分が行ってみたいと思うコースを選んでから妹に相談した。彼女は何回か新聞の切り抜きを送ってくれたが、結局紅葉の見物は 時期」と「天候」が全てであると観念した。

  「時期」は妹の「今年は遅いから11月下旬」との言と、参加するお忙しい皆さんの都合から12月の初めに、「方面」は「高尾」と「東山〜東福寺」と決めた。

  今回とは全く関係の無い話だが、私の一家が戦時中から戦後の食糧難の時代にかけて大変お世話になった遠い親戚の小母さんが、昨年末に亡くなりその葬儀に参列しなかったのが気になって、この機会に是非お線香の一つも捧げた序でに「大津宿」近辺の状況などを聞かせてもらおうと、データー・ライブラリーの「編集会議」を欠席して1日前に出掛ける事にしたが、これが編集委員連中の耳に入って物議を醸し、つい先日「三菱歴史探訪」の熱海の夜に、樋口・松本両先輩から公衆の面前で散々吊し上げられる破目となり、残念ながらあの時は流石に鉄面皮な私も只管衆人環視の中でジーッと黙ってその屈辱に耐える他はなかった。

  かくて皆さんよりも一足早く30日の早朝家を出て、近江今津の近くまで出掛けたが、先方が一時留守で時間を取り結局「大津宿」の話を聞き出せぬまま汽車の時間が来てしまった。

  妹の家に1夜の宿を乞うたが、その日見た夕刊の「紅葉だより」に、「見頃」・・・永観堂・嵐山、「落葉近し」・・・東福寺・高尾・清滝などと今回予定のコースの名があって先ずは安堵した。

  明けて12月1日、京都駅の新幹線から乗り換えの陸橋で巌隊長以下の面々のリュックとジャンパーに帽子という物々しい姿に出食わした。何しろこちらはジャケットにショールダー・バッグにノン・ハットと彼等と違って見るからに素人臭い格好である。

  「大津宿」近辺も色々のコースを用意したが、結局は隊長殿の鶴の一声で真っ直ぐに「京・三条大橋」を目指そうという事になった。何時もの様に独りで歩く時なら道に迷っても自分の責任だから、自分で戻って正しい道を歩けば済むが、「君に任すよ!」と言われると却ってミスは許されず、地図を片手に真剣な眼差しで町名や道路の数、それに建物の所在等を確め、又道行く小母さんに聞いたりしながら先頭を歩くのは結構疲れる。まともに行って当り前だから誠に損な役廻りである。

  途中昼食を摂った「かねよ」の仲居さんに、何故関西ではうなぎの事を「まむし」と言うのか聞いてみたら、「椀の中のご飯と醤油(たれ)をまぶす(関西弁で混ぜ合わす事)から・・」と言ったが、今「広辞苑」を引いたら「真蒸」(京阪地方方言・・・「うなぎめし」)とあった。でも仲居さんの言う事にも一理有りそうな気がしないでもない。

  歩き通して辿り着いた三条大橋では、太田さんが一向に土下座しないのに業を煮やして、「武士の情」とこちらが免除を申し出たのに、「土下座、口上の準備を始めた頃・・・」とは何ともふてぶてしい事を抜かしおったものである。準備もヘチマもないので、只土下座さえすればいいものを、何処までも”Can−not”が言えない潔さに欠けた誠に「誇り高き(?)」関東の田舎侍ではある。

 

  明けて京都見物の初日は小雨。予定の高尾は無理と判断したが、青野さんが「是非高尾へ行きたい」というから、予報は午後からは次第に回復するというので決行に及んだが、結果的にはこれが良かった。交通費は出来るだけ安くしかも時間を有効に効率的なコースを選んで、見るべき個所は隈なく見せようという訳で、これにも人知れず神経を使った。脚力は一番若造(と言っても私より8ヶ月遅いだけ)の青野さんは流石にサッサと常に先頭を行くが、最年長ではない筈の太田さんは、何時も殿(シンガリ )から悠々とマイ・ペースである。私は時計とこれからのコースとを天秤にかけて、速く歩いたりゆっくり見物したりと気を配り乍ら歩を進める。

  高尾から清滝は私の幼い日の思い出深い逍遥の小道なので、実は大いに期待していたが昔に比べて道路が良くなり興趣半減、却って皆さんには単調な山間の道で申し訳なかった。既に1時半を廻ってはいるが、清滝には食べ物屋も無くて次の嵐山迄青野さん持参のプランデーとつまみで腹を持たす結果になってしまった。(太田さんは食事時間は不規則だしティー・タイムもないとブツブツ言うが、私らは何時もこんな調子で日本橋から此処まで歩き通して来たのだぞ!)

 

  嵐山周辺を見物の後、この日に東京に帰るという青野さんと渡月橋の袂でお別れしてバスで京都へ。彼等は勿論京都の地理に疎いから「錦」が見たいという巌さんの言葉を幸いに、適当な所で下りて家内に頼まれた「買い物」を済ませて「白河院」へ。

  流石に最年長の巌さんは連日の強行軍ですっかりお疲れの様子、食事後は直ぐに床の中。仕方なく我々も8時半の就寝とは将にアルプスの山小屋並みの早寝である。

 

  愈々最終日。私にとっては今年初めての帰省。如何に誤魔化して皆さんを喜ばせながら観光コースの中に「墓参り」を挟み込むかが腕の見せ所である。

  太田さんが先ずは宿舎に程近い「永観堂」からというのを幸いに、間道を抜けて「京の町」を良く知っていると彼等に思い込ませて禅林寺の山門をくぐる。所が 拝観料を出すのは嫌だ!」と二人が言い出した。此処に入らないと義父の「墓前」辿り着けない。両先輩が言うので諦めて周辺の庭の紅葉だけでもとそちらに廻ったが、普段なら料金の要らないその境内部分も流石は「紅葉の名所」。拝観料無しには鼠一匹入れないように固くガードされている。「この庭を見なくては此処に来た意味が無い」とか何とか言って二人に大枚¥300. の拝観料を払わせて中に入る。「もう此処ら辺りで良い と言う彼等に「もう少し奥に義父の墓があるから」とご無理を願った次第。(「墓参りだ!」と言えば拝観料を払わずに済んだものを・・・と後で気が付いた。でも京都の寺社は鎌倉の小さな寺とは違って庭の掃除も大変なのだ。「少し位は財布の紐を緩めて下さいよ!ご両人!!」)

  「インクライン」に巌さんが異常な関心を示したのには驚いた。流石に元メーカーさんだ。元銀行屋の太田さんはつまらなそうに仕方なく付いて来た。私も子供の頃には良く来た所で、見学した「琵琶湖疎水記念館」は先年この近くで小学校のクラス会の折に見つけて、一度入って見たいと思っていた所。5枚入りの奇麗な絵葉書セット迄呉れたから、先程の「拝観料」の元は取ったというものだ。

  さて、次の私の「お目当て」は両親の墓。日頃京都には何度も来て良く知っているという太田さんを先ず煙に巻かねばならない。幸い知恩院の北門から入ったら、この道を知らないというのを良い事に、本堂脇の高い石段を指差して「此処を知っとるか?」と。勿論知る訳が無いのを幸いに「此処には戻らないから・・・」と巌さんの痛い足を気にしながら長い石段を登って菩提寺の山門を潜る。墓前にお花とお水を捧げて寺の「南門」を出た所が、「行く年来る年」で皆さんにはお馴染みの知恩院の「大鐘楼」。勿論流石の太田さんでも此処までは来ていなかった。

  「その日から300年の時が・・・」で始まる「元禄紀行」で初めて知ったが、山科に蟄居中の大石良雄が浪士17人を集めて吉良邸討入りの謀議をした所という近くの「安養寺」に、二人は「新発見」と感心して「墓参り」は感謝されて無事に済ます事が出来た。

  最後の「懸案」は家内にゴマを擂る為の「土産」の菓子屋である。昼飯は「ニシン蕎麦」と巌さんが言い出したのを幸いに、その途中の目指す菓子屋に立寄ってから松葉へと急ぐ。「昨日のニンン蕎麦より高いが美味いよ!」と巌さんも御満悦である。メデタシ目出度し。

  さて、最後のコース「東福寺」は私も行ったことがない。蕎麦屋のレジの小母さんに聞いたら、「バスはこの向うから出るが京阪もある」という。そちらの方が便利で早いと先を急ぐ。

  初めての「東福寺」の広大な境内には正直参った。方向も判らなくなって結局次の「泉涌寺」への道は大分遠回りになったが、勿論彼等にはそんな事は全く知る由も無い。私自身も、両方共に立派なお寺なのに驚いて「何時か近いうちに是非もう一度来たい」と独り心に期した次第。最後にこのお隣の「来迎院」に立寄って素敵な紅葉を愛でて今回の少し遅かった「京の紅葉狩り」は終った。

  そして新幹線は「新横浜停車」のひかりに乗って頂いて、一献傾けながら楽しかった今回の旅の思い出を語り合い無事のご帰京である。