[36]石部〜草津

 

 

1.発言番号:301  

    発言者  :深澤 龍一

    題名    :東海道五十三次(石部宿〜草津宿を歩く ( 5)

    登録日時:98/06/02 21:30

 

  この日の京都は小雨がぱらついていた。妹の旦那と碁石でも並べようかと企んでいたら、空を見上げていた妹が「折角の京都や!どっかへ行っといない!!」と追い出される破目になって、再び草津線は「甲西」(こうせい)で下車。出遅れたので既に時計は11時を過ぎていた。

  雨が降っていたが、巌さんお勧めの「テキスト」には「水口から石部へ向う途中で是非見ておきたいのが平松のウツクシマツ」とあった。車中からその方向をジーッと追い求めていたが、幸い駅前に「天然記念物三雲村美松自生地」と題した大きな案内板があって、詳しい道順も出ていた。曰く「主幹なく根元から曲がりくねった幹が幾つにも分れ、葉先は鋏で刈り揃えたようで、全体は釣合いの取れた傘型をした松、矮小な苗木から、樹齢2〜300年の老木まで日本では此処のみしかなく・・・」とあった。園芸に詳しい権藤さんや松本さんでもまさかご存知あるまいと思うと、どうしても行きたくなった。

  所が登り坂が続いて、標識はあるが行けども行けどもなかなか到達しないどころか、東海道からどんどん離れて行く。2キロ近く歩いたろうか、やっとのことで「立看板」が見えた。犬を散歩させている奥さんに聞いたら「山裾を少し向う側に廻った所から入りなさいと、そして街道に戻るにはもと来た道を引返すしか道はない」という。

  入口の案内板に「標高227.6m、美松山、約1.9ha.松尾神社の神木、樹形扇型(上方山型)・扇型(上方稍円型)・傘型(多形型)箒型の四形式に分類」とあり。ここから「天皇陛下行幸地」の石碑を横目に道幅50cm程の山道に入る。松茸山に入る感じで、雨でズボンの裾はずぶ濡れになる。確かに見たこともない樹形。新緑の松葉が揃って可愛くてなかなかの代物であった。山を下りる時は急坂で手にした傘でやっとのこと滑り落ちずに済んだ。

 

1.石部宿

 2キロ近く街道を西へ行く。心なしか街道沿いの家々の庭に植えた松の木が目に付く。ツバメが行き交い、電線には今年孵ったばかりの雛がとまって私を迎えてくれる。やがて石部町の商店街に入ると街路灯に店の名前と共に「東海道」の名あり。「石部宿町並図(文久年間・・1862年・・)を貼り出した家もあった。

 

A.石部本陣跡

 「明治天皇聖跡」の石碑が建っているだけで見るべきものは何もなかった。

 

B.石部宿小島本陣跡

 小島本陣は慶安3年(1650)吉川代官の屋敷跡に創建され、承応元年(1652)に膳所藩主本多俊次公、康将公に忠節の功により、本陣職を拝命。間口45間、奥行31間、敷地2845坪、建坪775坪とあったが、今の小島家は精々100坪程度。

  ここにも大した史跡は残っていなかったが、駅前に「歴史のまち  いしべ」と書いた「小公園」あり。門には広重の描いた「石部」の宿場図が4種掲げてあった。そしてその横に「石部は古くから伊勢までの街道として栄え、江戸時代には<京立ち石部泊り>として賑った東海道五十三次の五十一番目の宿場町でした。町の北側には日野川が西流、南側には阿星山が聳え、山麓には国宝長寿寺、国宝常楽寺(共に天台宗)があります」と説明がしてあった。公園の中には「白真弓」と題する石碑に万葉集巻第十一にある歌、「石邊の山の常盤なる  命なれやも  恋ひしか留らむ」と読めたが・・・。

 JRで草津に向う。

 

2.草津宿

  駅の東口を出た所に「草津宿  街道ふれ合いの広場」が私を迎えてくれる。平成8年3月この駅舎の完成の時に作られたようだ。真新しい「草津宿本陣」の道標もあって先ずは幸先よし。

 

A.草津川隋道

 出水と通行不便の為、明治17年に着工し19年3月20日に長さ44.5M幅4.5Mのアーチ式煉瓦積隋道の完成を見た。草津川は所謂「天井川」で上流から運ばれてきた土砂で川底が高くなるので「浚渫」でなくて「堤防」を高くする事で洪水を防いだ。だからこの川が「東海道本線」の上を跨いで流れているのを私は初めてこの目で見て全く驚いた。川の位置は草津駅の直ぐ京都寄りである。

  道標に沿って「草津川」を潜る隋道を抜けた所が東海道と中山道の分れ道「草津追分」である。トンネルの両側には「旧街道風景」、「大名行列」、「草津川の渡し」、「矢橋の帰帆」、「薮の玉川 「茶店の風景」と6枚のイラストが描かれていた。(後掲「J.草津川の渡し」参照))

 

B.草津追分

 トンネルを抜けるとそこは「草津追分」。道標に曰く、「右  東海道いせみち    中山道美のぢ」。

  ここはかつての日本五街道(とは東海道、中山道の他、日光道中、奥州道中、及び甲州道中)の最幹線で東海道と中山道との分岐点である。トンネルの出来るまではこの上の川を越せば中山道へ、右へ曲がれば東海道伊勢路へ行けた。しかし、この地は草津宿のほぼ中心地でこの付近は追分といわれ、高札場もあって旅人には大切な目安でもあった。

  この道標は多くの旅人が道に迷わぬよう、又、旅の安全を祈って文化13年(1816)江戸大坂をはじめ全国の問や筋の人々の寄進によって建立されたもので、高さ1丈3尺7寸(4.45 M)、火袋より上は銅製の立派な大燈篭でありながら、度々の風害によって取替えられたが、宿場の名残の少ない中にあって、常夜灯だけは今もかつての草津宿の面影を止めていた。

 

C.草津宿高札場

 追分の向いが高札場跡、高札場は中世末期から江戸時代に庶民の間に法令の周知徹底を図る為、人通りの多い辻、追分渡し場等に設けられたもので、此処に掟書きや禁制を書いた板が掲げられ、草津宿では明治3年に廃止されるまで、ここ追分見付けにあった。

  復元された「五街道条目、添条目」の通達に曰く、

                    定

  公衆、衆門跡方、道中往来の時は、人足三拾弐人  馬三拾疋に限り候処、近年は御定の人馬の他添人馬多く相立ち候故、宿々ならびに助人馬出し候  在々迄困窮に及び候由相聞き候  向後、たとひ宿々馳走として人馬差し出し候とも、御定の員数馳走の人馬共都合五拾人、三拾五疋の外は一切差し出すへからさる事

                       (以下省略)

                  正徳2年                                                                          道中奉行

 

又、「親子兄弟札」に曰く。

             

一.博奕の類、一切禁制の事

一.喧嘩口論をつつしみ、若し事ある時、猥りに出合べからず  手負た

  る者隠し置くべからざる事

一.盗賊、悪党の類あらば申し出るべし

    急度御褒美下さるへき事

                        (以下省略)

                  正徳元年五月

                                           

 

D.史跡「草津宿本陣」

 宿場町草津のシンボルで、寛永12年の設置から明治3年の廃止に至るまで、大名・幕府役人・勅使・宮・門跡等の休泊を担った。二軒あった草津宿の本陣の一つで、面積4,726平米の屋敷地には表門、住居台所、湯殿、雪隠、厩他の建物が現存し、江戸時代の姿をほぼとどめており、 平成の大修理」を終えて一昨年から一般に公開されている。ここに展示の「大福帳」には某年「7月4日浅野内匠頭  銀2枚」、又「同月13日吉良上野介  金壱歩」との記録があった。宿場巡りを続ける私として、この本陣は誠に貴重な「見学」ではあった。

 

E.草津宿脇本陣「藤屋与左衛門家」跡

 本陣の斜め前で、寛政年間

(17891801 にその名が見え以来幕末まで庄屋、問屋役をも勤めた。この辺りは旧中山道から続く商店街で、今は「脇本陣」の看板を掲げた「天婦羅蕎麦や」で「草津観光物産館」の表札もあった。

 

F.草津政所跡

 ここ太田家は江戸幕府の命を受け草津問屋場を預り、又隠し目付を勤めるなど当宿場の権限を任されていたので「政所」(まんどころ)と呼ばれていた。(今は「太田酒造」で「道灌蔵」の表札在り。造り酒の銘柄も「道灌」)

 

G.立木神社

 宿の西の外れにあって祭神は「武甕槌命」。称徳天皇神護景雲元年 (767)6月、命、常陸国鹿島を発ち給い(旅立つ事を鹿島立ちというはこの縁に在り)この地に着き給う。よって里人神殿を創建して命を祭祀し奉ったのが当神社の起源と伝えられている。

  この時命、手に持つ柿の杖を神殿近くの地にさし給い、「この木が生えつくならば、吾永く大和国三笠の山(今の春日大社)に鎮まらん」と宣い給いしが、不思議にも生えつき、枝葉繁茂す。人々その御神徳を畏み、この木を崇め社名を「立木神社」と称し奉るとあった。

  又、坂上田村麻呂が東北鎮圧に当り、当社に大般若経の一部を寄進して道中の安全を祈ったと伝えられている。

  更に境内に石造りの道標ありて曰く。

       「伊勢大神宮  延宝八年甲午 

         七ヶ年中履行月参詣成就所

         山城愛宕山  十一月吉日

         みぎはたうかいとういせみち

        京みぶ村

      万宝院

         ひたりは中せんたうをたかみち

       あしだの行者」

  これは追分の道標の前身といわれる。(延宝八年は1680年で追分道標よりも130年前である)

  ここから更に南西に行くと

 

H.矢橋道標

 ここが広重描く「草津  名物立場」のポイントで、描かれている「うばがもちや」は引越して、今はひょうたん細工の専門店「瓢泉亭」となっていた。店の前に道標あり。「右  やばせ道  これより廿五丁  大津への船わたし」とあった。

  ここで実り多かった「旧東海道」を踵を返して、草津追分を右折して更に「旧東海道」に沿って東へと行く。

 

I.石道標

 常夜灯と並んで草津宿の入口部に位置する所に「石道標」あり。高さ389.6 cmのこの道標は、江戸時代は文化13年に近江商人で有名な日野の豪商中井正治右衛門の寄進により建てられたもので、「右  金勝寺  志からき道    東海道  いせ道  文化13年丙子3月建之   京都  中井正治右衛門  橘武成」とあった。

 

J.草津川の渡し(草津宿江戸側入口)

 この川は江戸時代架橋が許されず、渡るには「橋銭」が徴収された。平素は「砂川」と呼ばれるように水はなく、橋銭は一人3文であったが、降雨出水に際しては水嵩によって増額され、川越人足が旅人の徒(かち)渡りを助成していた。500M下流には中山道の川越の場所(今の隋道の所)があり、金勝山に源を発するこの草津川は、川底が民家の屋根よりも高いと言う全国でも珍らしい「天井川」でその形成は江戸後期といわれる。

  この辺りに引越したという広重描く「うばがもちや」を探したが、見当らぬままに駅に戻ったら、駅舎の中に並んだ土産物店の中に出店があったので早速買い求めた。帰宅してからの家内の品評では、この「うばかもち」、伊勢の「赤福」よりは美味しいと・・・。

 

附記

  今回の京都行きではクラス会が東山々麓で開催され、終了後幼馴染と「黒谷」から「吉田神社」へとそぞろ歩いた。京大横の「東一条」バス停て皆と別れた私は、独り新緑の美しい「近衛通」から「荒神橋」を渡って鴨川の右岸を歩いた。河川敷の横を「みそぎ川」が流れ、京の夏の風物詩「鴨川の床」がこの人工の川の上に張り出されているのも、今回の旅で初めて知った。やがて「三條大橋」に近付いた所で巌さんとの以前の約束を思い出した。「最後のコース<大津宿><三条大橋>だけは皆で一緒に歩こうや!」と。仕方なく私はこの有名な橋の下を潜り抜けて四条大橋に出た。

 

 

2.発言番号:303(301へのコメント)

    発言者  :太田 

    題名 :東海道五十三次(石部宿〜草津宿を歩く)

    登録日時:98/06/03 21:50

 

  5月16日(土)は「おいらく山岳会」の名リ−ダ−故三品邦男氏の追善山行が飯能の先のユガテ平で30名ほど集まって行われました。貴君とK君と小生(3人とも信託同期)は故人を偲んで参加しましたね。

  5月23日(土)は小生は独りで参加し「おいらく山岳会」の「日光御成街道−1」で水道橋から赤羽まで歩きました。

  当日、「信託OBハイキング」で貴君は松本さん、K君と奥多摩へ行きましたね。

  貴君が翌24日(日)は早朝新幹線で京都まで飛び、同窓会へ出席した序でとは言え、25日、26日の両日五十三次の土山−草津歩きをするなど敬服する外ありません。

  三品氏がリ−ドした「五十三次歩き」や昨秋箱根の山中で出会った土方歳三崇拝者の釣  洋一氏のように、東海道を直行するのと違って貴君の方法は名所、旧跡を石碑の一つ迄丹念に調べて行くのですから大変ですね。これから何年かかるか判りませんが、ここまでやって来た以上最後まで頑張って下さい。貴君の抜群の体力と気力を以ってすれば、間違いなく成功すると思いますから。

  昨年夏、貴君が登った白馬岳や八ガ岳なら小生も仮令20−30年前にしても経験がありましたので、日誌やら写真やらを見て何とか記憶を呼び戻せますが、五十三次は全く未経験なので、貴君のメッセ−ジに地理的、歴史的コメントが出来ないのが歯がゆいです。

  いつの日か、貴君が巌さんと一緒に三条大橋で万歳されるのを心待ちしています。

 

 

3.発言番号:304(303へのコメント)

    発言者  :深澤 龍一

    題名    :東海道五十三次 (石部宿〜草津宿を歩く)(303へのコメント

    登録日時:98/06/04 14:48

 

  太田さんコメント故に、誉められているのか冷やかされているのか、或いは馬鹿にされているのか、甚だ理解に苦しむ所ではありますが、日本橋から数えると12ヶ所を訪ねた事になります。

  当初は隊長殿のご命令で始めた事とはいえ、あれから僅か10ヶ月足らずの間に、隊長自らのご出馬もあって、巌さんが回られた所を含めると「点」とはいえ、兎にも角にも20ヶ所を消化したとは、「我ながら天晴れ」と存ずる次第であります。

  ここまでやる事が出来たのも、何を隠そう、事の始めに「何とも無謀な事を・・・」と題して太田さんが投げてくれた私への忠告の言葉「悪いことは言いませんから、五十三次「3」の神奈川辺りか「8」の大磯辺りで両手をついて勘弁して貰ったら如何ですか。  それが貴兄の身の為だと思いますよ。以上老婆心乍らご忠告申し上げます。」が、この私の「老骨」を厳しく鞭打ったのは紛れも無い事実であります。独りで見知らぬ「街道筋」を歩きながら、何時もこの「ご忠告」に心から感謝している次第です。そして、歩いているうちに「負け惜しみ」でなくて、色々歴史上の事を勉強させて頂いたことを心から感謝しています。

  街道筋の中で一番の「難所」と思っていた「薩タ峠」や「鈴鹿峠」も「巌さん」や「点」のお陰でどうにか何とかクリアー出来る目処も立ちました。

  この調子で行くと来年中には巌さんと二人で「三条大橋」を渡れそうな気がしてきます。せめてその時こそ、この「街道歩き」を終始「陰」で支えてくれた太田さんが、是非共私達の先頭に立って「葛飾柴又」の「纏」を高らかに掲げながら、「下にぃ〜、下にぃ〜!」と、せめて橋のたもとの高山彦九郎の銅像前から、大橋を渡った向う側の「弥次喜多道中」の石碑辺り迄で結構ですから、先導して頂きたいものと心から願っております。

  何時に変わらぬご支援、誠に有難うございました。

 

 

4.発言番号:305(304へのコメント)

    発言者  :巌  隆吉

    題名    :東海道五十三次 (石部宿〜草津宿を歩く)(304へのコメント

    登録日時:98/06/04 22:18

 

  五十三次もお陰様で順調に消化出来ていますね。それにしても深沢さんの強健な体力とその強固な意志にはホトホト敬服しています。

  私自身もあの広重の画帳を恩師の奥様より戴かなかったならば、到底東海道を歩こうなんて考えなかったのですが、これから歯こぼれしているところを埋めれば、今年は若干無理としても来年中には、最後のコース三條大橋が渡れそうですね。

  それにしても太田さんの励まし、いや罵倒というかその発言がなければこのように既に三分の一強を消化することは到底出来なかったと思います。

  その点では感謝していますし、またご支援をお願いします。

  また、大津から三條大橋のコースは皆で歩きましょう。