[35]土山〜水口

 

 

1.発言番号:298

    発言者  :深澤 龍一

    題名    :東海道五十三次(土山宿〜水口宿を歩く)

    登録日時:98/05/30 16:26

 

  去る5月24日、小学校のクラス会で西下の際、序でだからとその翌日から2日をかけて「土山」〜「草津」の宿場跡を廻った。

 

.土山宿

 草津線の「三雲」からJRバスに揺られて40分、終  点の「田村神社前」からのスタートである。この次の宿場は「坂下」鈴鹿峠の向う側になるから、ここは近江の国の一番の外れに位置することになる。

 

.田村神社

 神社の名前を刻んだ大きな石碑には「元帥  伯爵  東郷平八郎  謹書」とあった。国道1号線に面した大きな鳥居を潜ると、この辺りに不似合いな程の広大な神域、長い参道は大木に覆われて神々しい感じが漂う。両脇の「永夜灯」には文政12年と彫られていた。坂上田村麻呂を祭るこの社だが、御札や祈祷の料金表は矢鱈目に付いたが肝心の社の「沿革」などを記した案内板はついぞ見当らなかった。

  裏に廻って田村川の辺に出る。流れる水は少し濁ってはいたが伊勢神宮の五十鈴川を彷彿させるたたずまいであった。ここが広重の画のポイントと確認する。

  ここから西に2キロ程歩くと「一里塚跡」で、その少し先から宿場跡が始る。家々の軒下に「東海道 土山宿 加賀屋跡  土山の町並みを愛する会」と書いた30センチ四方の木の札が掲げられていて、これを眺めながら歩くだけで往時が偲ばれて結構楽しい。曰く「菊屋」、「車屋」、「たば古屋」、「扇や」、「もっこ屋」、「すだれ屋」・・と続き、「お六櫛  三日月屋」もあった。「油屋平蔵」は今「大原製茶場」の看板を掲げていたが、ここは「土山茶」の産地でもあって街道の裏手には茶畑が広がっていた。

 

.森白仙終焉の地(井筒屋跡)

 文豪・森鴎外の祖父(津和野藩の典医)が参勤交代の途次、此処の旅篭で病を得て息を引き取った所という。後年鴎外も訪れた。

 

.土山宿本陣跡

 江戸日本橋より106里32丁、終点京都三条大橋迄15里17丁余の位置にあり、寛永11年(1634)三代将軍家光が上洛の際設けられ、甲賀武士の末裔・土山喜左衛門を初代として之を勤め、明治になっても皇室の江戸・京都間の往来が頻繁で、土山宿に宿泊される事もしばしはだったという。(今も建物が残る)

 

.土山宿陣屋跡

 陣屋とは代官その他の役人が在住した屋敷を言い、ここを流れる瀬古川の東崖にあつて東西25間、南北30間といわれる。天和3年(1683)時の代官・鵜飼治郎兵衛が建てた。

  これらが並ぶ「旧街道」は国道から一本入った所で、ここ土山町は平安時代に伊勢参宮道が鈴鹿峠を越える旧東海道筋を通るようになって以来、鈴鹿の難所を控える宿駅として発達した。源頼朝が幕府を鎌倉に開くと、従来の京都中心の交通路は、京都と鎌倉を結ぶ東西交通路線が一層重要視されるようになり、武士、商人、庶民の通行が盛んになったという。

  国道に出てバス待ちの間、「御代参街道」を少し歩く。別れ道に建つ道標には「高埜世継観音道  文化丁卯歳三月中井氏建立」と読めた。国道一号線はトラックや乗用車の行き来が大変激しかった。

 

.水口宿

 「土山西口」からバスで「本水口」に行く。ここは元の宿場の中心。バス停も宿場の風景をあしらっている。水口は道によって開け道によって発展した所で、東海道五十番目の宿場町である。

  この宿場は近江の国甲賀郡の三宿の中最大規模で天保13年(1843)の記録によれば家数は692(うち旅篭41)を数えたと「本陣跡」に記録されていたが、今は殆ど何も史跡らしいものは残っていなかったこの本陣も明治2年の明治天皇の宿泊をもってその役を閉じたが、この宿場は珍しく「三筋の通り」があって、宿場の入り口から道が三筋に分かれて、中央の一本が本街道で左右両側に今で言うバイパスが通って、寺社は全てバイパスにあった

 

.高札場跡

 江戸側の入口に再現されていた面白かつたのでその   一部をご披露しよう

             

     一、水口よりの駄賃並人足賃銭

           土山迄

             荷物壱駄      百弐拾七文

             乗懸荷人共ニ  同断

             から尻馬壱疋  八拾壱文

          

           あふつけはから尻に同じそれより重き荷物は本駄賃銭に同じたるへし

             人足一人      六拾壱文

  

           石部迄

             荷物壱駄      百四拾六文

             乗懸荷人共ニ  同断

             から尻馬壱疋  九拾壱文

             人足一人      七拾文

 

           泊々にて木賃銭

             主人壱人      三拾五文

             召使壱人      拾七文

             馬一疋        三拾五文

           右之通可取之、若於相背ハ可為曲事者也

       

                   正徳元年五月    

                          奉行

 

.龍王山  大岡寺

 街道の北に位置する古城山の麓に速玉神社と並んで山裾に建っていた。本尊の観世音は国宝で西国三十三ヶ所霊場の内二十六番札所とあった。境内の「放生池」(献魚供養)の傍に芭蕉の句碑あり。「いのちふたつの  中に生きたる  桜かな」「のざらし紀行」の中の名句の一つで、貞享2年(1685)大津から江戸への途次、旧友と20年振りに再会してこの句を詠み、水口に数日逗留したという。

 

.水口宿枡屋旅館

 宿場の西の外れは商店街。その中に古ぼけた「御旅館」の看板を掲げた宿あり。枡屋又兵衛・・枡又旅館は昔の旅篭で今に続いていると言う。この商店街、平日というのに何故かよろい戸を下ろした店が多かった。

  時間が余ったので「水口城址」を訪ねる。ややこしいが、水口には城跡が二つある。一つは「水口岡山城」で天正13年(1585)羽柴秀吉の命によって築かれたが、関ヶ原合戦で落城し、今は先の「古城山」の上に城の郭の跡だけが残っている。

 

.水口城址

 築城は幕府直営て行われたが、建築や作庭には茶道などで著名な小堀遠州が作事奉行として加わり、寛永11年(1634)三代将軍家光上洛の時、「宿館」として築かれ後に水戸藩加藤氏の居城となった。・・・「家光は3日泊まっただけですよ」と案内人は笑っていた。・・・

  草津線「貴生川」に出る近江鉄道の駅の傍には「歴史民族資料館」があったので覗いてみた。ここには毎年4月19〜20日の両日に亙って行われる「曳山祭」の曳山が一基置いてあった。近くの水口神社の祭礼であるが、宿場町は東西に長く伸びて「旅篭町」や「米屋町」といった町名を持つ20余りの「町」があつて、この町に住む人々は夫々の「町衆」として暮してきた。当時国内は飢饉が続いて宿駅の困窮も重大で、町衆としてはこの状況を打ち払うべく水口神社に願を掛け、これが叶えれば祭礼に曳山を巡行させたいとしたのがその起源という。日も西に傾いたのでこの日は一旦京に戻る事とした。