[34]関〜坂下

 

 

1.発言番号:317

    発言者  :深澤 龍一

    題名    :東海道五十三次(坂下宿〜関宿を歩く)

    登録日時:98/06/17 09:37

 

  再び京都に行く機会があったので、帰路前回に続いて伊勢の国の宿場巡りを思い立った。高専時代の悪童の集いの後、亀山に帰る仲間と一緒に「草津線」から「関西線」に入る。目指すは彼の故郷「坂下」宿である。車中で道路や交通事情について色々予備知識を教わったのは助かった。今回の五十三次の中の一番の難所に挑む訳で「困ったら何時でも電話しろよ。車を出すから・・・」との彼の言葉も有難たかった。

  降り立った駅は「関」、すでに12時を少し廻っていた。雨が降っていたのでどうしたものかと20分ばかり駅の周辺や宿場の辺りを覗いてみたが、この梅雨時、明日は晴れると言う保証も無いので思い切ってタクシーで鈴鹿峠の麓、入れる所まで行ってみようと言う事にした。これも彼から得た宿場巡りのヒントである。田舎のタクシーは親切で鈴鹿峠の直ぐ登り口、車のすれ違いも出来ない所まで送ってくれた。

 

○片山神社

 山の麓の荒れ果てた社。「延喜式内片山神社」の石碑だけがやけに立派だった。石段を登ると社や建物も朽ち果てて人の気配は全く無い。「鈴鹿流薙刀術発祥の地」の碑も空しく感じられた。峠への山道の脇に3つ並んだ常夜灯には「享保二丁酉年正月」とあった。

 

○鈴鹿峠

 比較的道幅の広いジグザグの急坂を登ると、山肌に「ほっしんの  初にもゆる  鈴鹿山」なる芭蕉の句碑があった。雨の中、本格的な山道を更に登ると「馬の水のみ鉢」もあった。かつて街道を上り下りする人馬の為に水溜めが置かれていた所。(但し今あるのは平成4年に復元されたもの)更に登ると急に明るくなって広場に出る。錆びた標識に「東海道五十三次」とあって各宿場の名前が並んで、最初の江戸日本橋と最後の京三条大橋、そして関、坂下が「朱記」してあった。峠道は更に続く。雨は降るしどうしようかと大分思案したが、巌さんが薩タ峠に立たれた事を思い出し、こちらも負けられない。一登りしたら平坦になって「鈴鹿峠」の標識に辿り着いた。手前が三重県片山神社、向うが滋賀県土山町、左に折れると高畑山でその途中に「鏡岩」がある。ここは「東海道自然歩道」でもあった。峠を下りて先程車で来た道を引き返す。

 

○岩屋十一面観音

 道に沿って石碑が立ち木戸を開けて中に入る。鬱蒼と茂った木立に苔生した参道、石段の奥には古びたお堂、右手に高さ10メートルはあろう滝が音を立てていた。雨に濡れた緑がとても美しかった。

 

.「坂下宿」

 宿の外れに彼の実家、昔一度だけ来た時と比べて道路が反対側に付いていた。そして程なく立派な寺があった。

 

.鈴鹿山法安寺

 山門の入口に 「西国三十三ヶ所・当寺本尊  信濃善光寺分身如来」と刻んだ享保四年の碑が立った立派な寺。「庫裡の玄関は江戸時代繁栄を極めた坂下の宿場で、諸大名の休泊所となった松屋本陣の玄関であったものを、明治15年5月大字坂下七十九番地に坂下小学校全改築の際校舎玄関に移築され、昭和13年4月、沓掛地区に坂下村尋常高等小学校が移転新築されるまで旧校舎の玄関として保全されてきた。この玄関は文化財として稀少の価値があり昭和35年10月当寺庫裡玄関に転用移築したものである」と粗末な説明書きがあった。

 

.鈴鹿馬子唄会館

  宿の東の外れに不似合いな立派な建物有り。今朝から飲まず食わずで此処まで来たので小休止にと立寄る。管理のオバサンがとても親切でこちらは時間が無いのに態々ビデオを見せてくれたりお茶を出してくれたりで、辞去するのに大変だった。「坂は照る照る  鈴鹿は曇る  あいの土山雨が降る」という奴だ。  この雨の中を訪れていたのは勿論私だけ。

 

.筆捨山

 鈴鹿川大滝のほとりに立つ筆捨山は楽岩と砂岩によって出来ている山(高さ289M)で四季折々に美しい。  室町時代後期の絵師狩野法眼元信は、この山を描こうとしたがとうとう自然の変化を描き切れず遂に筆を捨てた所から「筆捨山」と呼ばれるようになったと言い伝えられている。江戸時代の版画師安藤広重も「東海道五十三次  阪之下」はこの筆捨山を描いている。

  只今では国道一号線に沿って車の往来が激しくて落ち着いて風景を眺める余裕も無かった。

 

B.「関宿」

 風雨の中をとうとう次の宿場まで歩いた。関が歴史に登場するのは7世紀、この地に「鈴鹿関」が設けられたのが初めてで、これが地名の由来ともなっている。

  慶長6年 (1601)に徳川幕府が宿駅の制度を定めた際、関宿は東海道五十三次の47番目の宿駅となり、問屋場や陣屋なども整えられた。古文書によると、天保14年(1843)には家数632、本陣2、脇本陣2、旅篭屋42があったとされ、鈴鹿峠を控えた東海道の重要な宿駅として又、伊勢別街道や大和街道の分岐点として江戸時代を通して繁栄した。

 

1.西の追分

 「南無妙法蓮華経  ひたりハ  いか(伊賀)やまとみち」の大きな石碑。これより「東の追分」までは「関宿重要伝統的建造物群保存地区」に指定されて、江戸時代そのままの宿場の面影を色濃く残している素敵な場所で、こんな所を訪れる事が出来た事に先ずその切っ掛けを作って頂いた巌さんは勿論の事、序でに毒舌を吐いて私の闘争心を掻き立ててくれた太田さんにもしみじみ感謝した。

  ここ西の追分は大和街道との分岐点に当り、東海道、京都方への次の宿は「坂下宿」で、鈴鹿峠を越えて京都へは19里半ある。大和街道は加太越えをして伊勢から奈良に至る。

 

2.観音院

 古くは関西山福衆寺といい、嵯峨天皇の御代(820) に創建されたと言われ、中世土地の豪族関氏の祈願寺として栄えた。諏訪城山の西方に在り。戦国末期兵火にかかって全てのものは焼失したが、幸い御本尊の一体は難を免れた。

  徳川家江戸幕府を開くに当り「先規の例により将軍の武運長久を祈願すべし」との観音山と仏供田を残された。寛文年間(四代家綱)に至り当地にお堂を建立して「関西山  観音院」と号するようになった。

  この辺りから街道の両側の電柱も撤去されて電線は地下に埋められ、家々の佇まいも格子戸に白壁土蔵造りも多い。

 

3.地蔵院

 関宿の特徴を最も良く表す景観は鈴鹿の山々を背景にした地蔵院の屋根を中町の町並越しに見た所といわれる。地蔵院は天平13年(741) 行基菩薩の開創と伝えられ、古くから関の中心で、東海道はここで緩くカーブしている。ここから東の方中町は宿場の中心で様々な意匠の町屋が集っている。又西方新所では軒の高さの比較的低い家が多く、落ち着いた町並みを作っている。

 

4.清浄山福蔵寺(現在天台宗)

 天正11年(1584)織田信孝(信長の三男)の菩提の為に建立された。本尊は阿弥陀如来で横の観音堂に祀られた観音は不動明王・元三大師。境内に若い娘さんが親の仇討ちをしたという「関の小萬」の墓と碑があった。

  山門の前の石碑には「関の小万が  亀山通い  月に雪駄が二十五足」と鈴鹿馬子唄の一節が刻んであった。

 

5.旅篭玉屋歴史資料館

 「ベンガラ格子」に「虫篭窓」の江戸時代の貴重な旅篭建築が復元されて、旅篭で使われていた道具類や浮世絵掛け軸などの美術品も展示されていた。既に開館時間を少し過ぎていたが「東京から来た」と言ったら、係の人が親切にも「ゆっくり見て下さい」と通してくれた。展示の中にあった天保14年の「東海道宿村大概町」と題した街並み図に添えたこの近辺の記録に以下の数字があった。

 

旅篭屋

  宿場   戸数     人口   本陣 脇本陣              合計

  亀山  567  1549                 12   21

      632  1942         10  18  14   42

  坂下  153    564                 37   48 

  土山  351  1505             18  21   44 

 

6.御馳走場

 関の街並は安土桃山時代の天正8年、関盛信によって木崎(コザキ)新所(シンジョ)間に中町が建設された時に基礎が出来た。その後徳川幕府により宿駅が決められてからは、東海道五十三次の四十七番目の宿場として繁盛した。

  ここ馳走場は身分の高い武家や公家に対して宿役人が出迎えや見送りの儀式を行った所で、又、関神社(旧熊野権現)の参道入口でもある。

 

7.東の追分

 ここ「東の追分」は伊勢別街道の分岐点で、鳥居は伊勢神宮の式年遷宮の際に、古い鳥居を移築するのが習わしになっている。江戸方への次の宿は亀山宿。置かれている石の道標には「左  江戸道    さんぐうみち  是より外宮(伊勢神宮)十五り」とあり、「元文五庚申歳正月」と刻まれた常夜燈も残されていた。

  これで「鈴鹿峠」から「坂下宿」を経て次の「関宿」に入り、「東の追分」までを雨の中10キロ以上を歩き通した事になるが、最後に是非関の街並に触れておきたい。

  此処の「街並保存」は徹底していて、例えば街の中心にある「関郵便局」の建物は白壁の虫籠窓、格子戸で局の看板は大きい木の札が掛っている。ポストは真っ黒で角型の江戸時代の「目安箱」を模したものが局の前の他にも、建物群保存地区の全てのポストがこの意匠だった。又、百五銀行関支店もこの街並に位置していたが、矢張り表は低い虫籠窓に格子構えの典型的な商関宿町並み家の造りで、せめて写真ででも是非皆様にお目に掛けたい代物である。1階の屋根には大きな木の看板が横にデーンと座っていた。もう一軒気になったのが「電気屋」さん。通常の電気屋さんならショー・ウインドウに電化製品が並んで道行く人の目を惹かすに訳だか、ここの「松井電気」さんは街並に合わせて飽く迄も「格子構え」だ。勿論格子の隙間からトースターやテレビが並んでいた。

  是非この町に泊まろうと決めてきたが、友達の言うような街並の中に今も宿屋をやっている所は見当らなかったので、仕方なく観音山の中腹の「国民宿舎」だ。途中「百六里庭」と書いた真新しい施設があった。関宿の街並の中に生まれた小公園で、江戸から106里という事で付けられた名前だろう。二階はしゃれて「眺関亭」。テラスから見ると先程の「地蔵堂」の屋根の向うに「筆捨山」がくっきりと見えた。

 

 

2.発言番号:815

    発言者  :巌  隆吉

    題名    :広重東海道53次亀山、関、坂下

    登録日時:99/11/01 17:15

 

  去る10月25日と26日の2日間私は、深沢さんが既に歩いている亀山、関、坂下の三つの宿場をNHKの斑目先生他一行と歩いた。私としても既にこの53次を歩く企画についてのノルマは果たしているが、深沢さんのかねてからのお勧めもあり、しかも私自身有名な鈴鹿峠越えをしないと何となくものたりなと思って、このコースに敢えて挑戦した次第。

  深沢さんは去る98年6月17日から19日にかけて、この広重東海道53次、亀山、関、坂下の各宿場を歩き、その記事(発言番号317と320)を掲載されている。

  今回私が歩いて見ても物凄く詳細にわたりその観察もするどく今更コメントすることもないが、若干その感想を述べたい。

 

  最初の日に坂下宿から鈴鹿峠に登ったが、坂下宿は今では全くの寒村、深沢さんのご指摘の法安寺の庫裏の玄関位しか見るべきものがなかった。しかしその庫裏の玄関はかっての本陣にあり、その後小学校の玄関になったり幾多の変遷を経ながら今に残されている。この地元の熱意には敬意を払いたい。

 

  鈴鹿峠には、岩屋十一面観音の傍の道より東海道の昔の古道が自然歩道として残っていたので、その道を登った。東海道は国道の横も通っているがあまりにも風情がないので敢えて意を決し急坂のこの道を選 んだ。ところが予想以上に急でしかも手すりもなく危ないところも多かったが、古道の昔を偲びつつ漸く片山神社まで辿り着いた。昔の坂下宿は片山神社の下付近にあったが、土石流で壊滅、今のところに移ったのだという。

  馬の水のみ場から鈴鹿峠まで登って、その昔山賊がたむろしたという鏡岩を見て土山側の「万人講常夜灯」まで歩いた。高さ5メートルの大きい石灯籠だった。約370年前に設置されたもので四国金毘羅さん参りの常夜灯。昔3000人がここまで運んだという。非常に大きいので大変印象に残った。

  常夜灯

 

  関の宿場は「町並み保存地区」に指定されて今でも素晴らしい江戸時代の町並みが残っている。電柱と電線は地下に埋設しており江戸時代の美観をそのまま残している。今後のまちづくりの参考ししたいものだ。「関も小まんのもたれ松」の東の方から歩いて東の追分を通って中町の宿場に入る。深沢さんご指摘の通り見事な宿場だ。丁度まちなみ資料館で広重の絵の展示があり見学する。

  われわれ一行をNHKの三重が取材したいというので、その取材に応じた。その26日の夕方放映された。そのテレビ取材は百六里庭の眺関亭屋上より地蔵院筆捨山方向の宿場全体の風景や、関の戸、郵便局、旅篭玉屋の前を歩くわれわれ一行を撮影していた。斑目先生や三谷さんもインタビューされた。このようなことは滅多にないので、関宿での良い思い出ともなった。

  関宿

 

  亀山の宿では「梅巌寺」の33ケ所位が印象に残った。亀山城の多門櫓のところまで登り、また昔の古城跡や城の裏側の公園も歩く。

  急な石垣は昔のまま残っており、また加藤家長屋門を訪ねて城下町としての昔を偲ぶことが出来た。

 

 

3.発言番号:816(815へのコメント)

    発言者  :深澤 龍一

     題名   :広重東海道53次亀山、関、坂下

     登録日時:99/11/02 09:43

 

  「五十三次」を歩いた中で、「もう一度訪れてみたい所は?」と聞かれたら、私は迷うことなくその筆頭に「関宿」を挙げるでしょう。そして「小夜の中山」の面影が残る「日坂宿」と、昔ながらの「本陣」が保存されている「草津宿」とが3本の指に入りましょうが、巌さんは如何ですか?

  その「関宿」の記事を拝見して、巌さんと逆のコースで激しい雨の中を歩き続けた鈴鹿峠から関への道が懐かしく思い出されました。今でも「鈴鹿峠」の上に立ってその前に訪ねた「土山宿」の東の外れ、広重の絵なった「田村神社」へと続く広い道を感慨深く眺めていたのが、つい昨日の事のようです。「鏡岩」もそして「常夜灯」も直ぐ近くにある事を知りながら、雨中の一人旅(辺りには人っ子一人いません)と初めての道で、宿を予約した関迄は距離はあるし車ないしとその時は将に「断腸の思い」で踵を返しました。雨に煙る「筆捨山」の端麗な山容が今もこの瞼に焼付いております。若しも「峠」の写真をお撮りになっておられましたら是非拝見したいものです。(私は雨でカメラを引き出す余裕はありませんでしたから・・・)

  昔の面影を色濃く残す関の町は、住む人の「街並み保存」への熱意がこちらにも伝わってくる心温まる町でしたね。

  東海道の宿場の大半を訪ね終えて感じる事は、若しもあの時隊長殿が「点」でなくて「線」で歩けと命令されていたら、キット即座に「堪忍して!」と断ったでしょうが、今振返って見れば折角なら「線」を歩けば良かったと恨めしくさえ感じます。でも我々は全行程500キロの内で「線」にして一体何キロくらい歩いたでしょうか?お互いで暇な時に計算してみませんか?

  このシリーズの出だし「日本橋」は私がキー・ボードを叩きました。締め括りの「三条大橋」は、隊長殿のメッセージに始まって、当日この「大団円」を応援して同行して下さる皆様にも是非締め括りの「コメント」をと、この機会を借りて今からお願いしておきましょう。