[33]石薬師〜庄野〜亀山

 

 

1.発言番号:320

    発言者  :深澤 龍一

    題名    :東海道五十三次(亀山〜石薬師〜庄野)

    登録日時:98/06/19 13:20

 

 「関ロッジ」での独り寝の夜、テレビの天気予報は「三重県地方に大雨、雷、強風、洪水注意報」を報じて、朝起きても外は雨、「今日はもう帰ろう」と諦めかけていた。

  朝食を摂っていたら食堂のオバサンが 昨日の歴史資料館にいたテレビのロケ班が8人泊っている」と話し掛けてきた。前日訪れた地蔵院は日本最古のお地蔵さんだが、今は修理中、桜の大木もあって此処の住職は尼さんだが、お話がとても上手で「やり手」との評判、精進料理を食べさせたり生け花を教えたりしているとの事。

  食後、雨が上がって明るくなってきたので8時過ぎに宿を出る。昨日雨で素敵なこの町の佇まいを全然カメラに収めていなかったので、あちこちと駆けずり回ってシャッターを押し、8時42分の関西線に乗る。

  駅までの街道筋には昨日は雨で気がつかなかった町屋の説明書が目に付いた。

 

1.川音  尾崎家は関の北蔵門前町の米屋で鈴鹿川の水で米を搗く水車の音から屋号を「川音」と称し、建物も文久時代の物で今も「尾崎米穀店の看板を掲げていた。

 白玉や  江戸時代から続く菓子舗。こし餡と米粉を原料とした昔の味を今に伝えている。

 

2.亀山宿

 今日は列車の時刻も気にしなくてはならない。駅構内の市内案内図を簡単にメモして歩き出す。起伏の多い街でショルダー・バッグが肩に食い込む。

 

京口門跡

 この門は亀山宿の西の端、竜川左岸に東海道の番所として寛文12年(1672)当時の亀山藩主板倉重常によって築かれた。

  石垣に冠木門、棟門、白壁の番所を構え、亀山城の一部としての機能を充分備えていた。崖を登る坂道の両側にカラタチが植えられ、下から見上げると、門、番所の聳える姿は壮麗を極め、「亀山に過ぎたるものが二つあり」と謡われたという。(もう一つは「ソテツ」)

  このような門は他の宿場には見られず、広重の五十三次の内「雪晴」をはじめとする風景画の舞台ともなった。此処には現在石垣の一部が残されて「浄土宗  統一山  梅巌寺」があり、西国三十三ヶ所観世音菩薩が安置されていた。

 

3.亀山城黒門跡・・西の丸から市ヶ坂へ出る門で享保20年(1735)に焼失するまでは「市ヶ坂門」と呼ばれた。(現在市立亀山中学)

 この城は天正18年(1590)岡本良勝によって築城された。三層の天守閣は寛永9年(1632)幕命により解体され、正保年間に天守台に多門櫓が築かれた。門、壁、白壁を連ねる景観は蝶の群が舞う姿に喩えられて、又の名を「粉蝶城」と呼ばれた。

 

4.石井兄弟亀山仇討遺跡

 城の前「石坂門跡」にある池の辺に、元禄の曽我兄弟と称えられた立派な「仇討碑」があった。長谷川  伸の小説「二十九年目の仇撃」で知られる物語だそうな。

  時計と首っ引きで起伏の多い曲がりくねった道を宿場の東の入口「江戸口門」を目指したが、街行く人に聞いても余り知らず、やっとのことで訪ね探してそれらしい辺りまで来た。店の表を掃いていた本屋のおかみさんの話では「あそこの散髪やさんが江戸口さんとおっしゃるから、そこで聞いて・・・」と筋向かいを指差したが、案内板も無さそうな上汽車の時間も迫っていたので駅への道を聞いて大急ぎで引き返した。

  前日のような飲まず食わずでは困ると発車5分前、駅前のパン屋で菓子パン3個を買い求め上り列車に飛び乗る。次の下車駅は「加佐登」。

 駅を出たら丁度タクシーが1台止っていたので「佐々木信綱記念館」と指示する。巌さんご推薦の案内書に石薬師に行ったら是非立寄れとあったので・・・。(タクシーやバスの運転手に聞いても「旧東海道」は余り知らない)

 

5.佐々木信綱記念館

 大して広くはないがこざっぱりした洋風の建物である。受付で料金を払おうとしたら「無料」だが代わりにサインを求められて中に入る。展示物を眺めていたら奥から「館長」さんと思しき人が出てきて、「態々遠い町田から有難うございます。詩歌のご研究ですか?」と聞かれて返答に窮す。「いやいや文学の類は至って不器用でございまして・・・、只旧東海道を歩いていますが、この案内書に是非此処に立寄るようにとありましたので・・・」と汗を拭きながら返事をする。写真や来簡、書、出版物などが展示されて、一通り館長さんが丁寧に説明してくれた。信綱が何時も書斎に掲げていたという故郷の景色、広重の「石薬師」の版画も展示してあった。

  右の壁面にあった大きな掛け軸が目に付いた。「弘綱教誡文章」と題したこの書は、信綱13才の時に父弘綱が子供に送ったものと言う。

  その冒頭の一節に曰く、「人に貴きあり、賤しきあり。富めるあり、貧しきあり。賤しきは貴きをねがひ、貧しきは富めるを羨むは、世の常也。願うべからず、うらやむべからず。貴き人は、思はずに世の恨みをおひて、おほやけばらたたしかるべし。富める人は、積みたる宝を長く子孫に伝えむと 有るが上にもふくつけくなりて、人に憎まるべし。さればとて、あまりに身のいふかひなくて、ひとにあなづらるるも、又、世にふるたつきなくて、朝夕の烟絶々ならむもわびしき物から、世の斜賀はいかがせむ。愁ふべからず、嘆くべからず、仰(そもそも)人の一生は、天地のなしのままなる物にて、願ひてもかひなく、羨みても心にまかすべからず。されば願わず 羨まず、おのおの我が身は我が身のすくせある事をさとりて、其の日の事なくて過ぎ行く事を楽しむべく、悦ぶべき也 人生僅かに五十年、長くとも七八十にあまるは、いと稀也らんかし。さのみ心を苦しめずして 身を保ち、長命をこそ願うべく、羨むべけれ。長命の薬を得んには、遥かなる蓬が島をあさりて、仙丹を得るにあらず。居ながらにして得らるべし。其の薬と友は花・杜宇(ホトトギス)・月・雪・読書・作文・詠歌・歌合・管弦・謡・舞・弓・鞠・茶・香・碁・将棋など、おのがじしの好むままに得べきなり。・・・」とあった。

  小学唱歌で習った「水師営の会見」は当時文部省の職にあった信綱の作詞だが、これを作る為に彼は乃木将軍に面会を求め直接色々状況を聞いたそうだ。「そこには何か樹木などありませんでしたか?」との信綱の問いに、「柿ノ木があったかなあ〜」と乃木さんが答えたとは館長さんのお話。

  帰り際に館長さんが先を急ぐ私に「庄野宿」への旧東海道の道順を懇切丁寧に教えてくれて、田舎道を迷わずに済みこれは大変助かった。

 

6.小沢本陣跡

 記念館の直ぐ隣にあった。東海道石薬師宿は元和2年(1616)幕命によって設立され、宿の名は当時有名であった石薬師堂から採った。今に残された古文書も多く、元禄の宿帳には赤穂城主浅野内匠頭の名も見える。本陣は小沢氏が勤めた。(今も表札は小沢姓)

  踵を返して国道を跨ぐ瑠璃光橋を渡ると直ぐ下手、濃い緑の向うにお堂が見える。ここが広重のポイント「石薬師寺」である。

 

7.瑠璃光院 高富山 石薬師寺

 門前に「西国薬師三十三番霊場」の碑あり。雨上がりで境内の「ガクアジサイ」がとても奇麗だった。

  堂前の由来記に曰く。「この寺は聖武天皇の御宇神亀年間(726) 高僧泰澄大徳が森の中に霊光を放つ巨石あるを認め、是を金輪際よりご出現の霊仏なりと一宇の尊堂を覆い給う。その後弘文6年(815) 弘法大師自ら薬師尊像を彫刻して開眼供養をせられしより霊験いよいよ新たにして時の帝嵯峨天皇の上聞に達し直願所となし、寺領を寄せられ西福寺と称せり。その後天正年間織田氏の兵乱に会い悉く焼失せるも、慶長年間に神戸城主一柳監物直盛公により本堂再建さる。・・・」と。

  石仏は花崗岩で高さ190cm。何時もは開帳していない。

  館長さんの教えてくれた田圃道を暫く行くと「一里塚」跡があった。

 

8.石薬師の一里塚跡

 信長記には天文9年(1540)冬、足利将軍が諸国に命じて四十町を一里として一里塚を築かせ、その上に松と榎を植えさせたと言う。又、家忠日記には慶長9年(1640)秀忠が東海道、東山道、北陸道の三道に一里塚を築かせ、一里を三十六町に改めたと言う。

  くたびれた  やつが見つける  一里塚  (江戸時代の川柳より)

  田圃道が暫く続いて鈴鹿川に架った小さな鉄の橋を渡ってやがて川に平行して走る国道1号線に出る。この川の辺りが広重の中でも名作の一つに数えられる「庄野  白雨」のポイントだが昔日の面影は全くない。

  教えられた通り3ツ目の信号を右折すると程なく庄野の宿に入った。

 

9.庄野宿

 宿場の入口は加佐登の駅から500M程南西に下った所。でもここは何も無さそうである。とぼとぼと昼下がりの田舎道「旧東海道」を歩いていたら「庄野宿資料館」が目に付いた。先の「佐々木信綱記念館」と同様鈴鹿市教育委員会が管理している。

 庄野宿資料館は、江戸時代の商家をそのままに維持保存している。中に古文書や宿帳の他、宿間往還絵図や庄野宿軒別絵図など面白い物も展示されて疲れた私を慰めてくれた。その中の高札場の掟に曰く。

                    定

「近年道中宿人の困窮につき、而此度駄賃銭を割増之候間、庄野より石薬師迄の駄賃銭壱駄に付参拾四文、乗掛荷付人共に同前、荷なしに乗付は弐拾参文、人足賃は壱人にて拾八文  亀山へ壱駄に付八拾六文、乗掛荷付人共に同前、荷なしに乗付は五拾八文、人足賃は四拾四文可取之  但し、泊々にて木賃主人壱人参拾五文、召使壱人拾七文可取之事、馬壱疋にも参拾五文可取候之者也

                                 宝永四年亥年七月     行  」

  因みに庄野宿〜石薬師宿2.7キロ、庄野宿〜亀山宿は7.8キロ。

  展示品の中にロシヤ文字を墨で書いた掛け軸が掛っていたので、係の人に聞いてみた。何でも大黒屋光太夫なる伊勢若松の船頭が難船してロシヤに辿り着き、イルクーツクその他に滞在の後、帰国してロシヤ文字で書いたものと言う。  「名月や  畳の上に  松の影」と芭蕉の句がローマ字調で書いてあった。

  汗を拭き拭きこの館に入ったので、係りの人が「裏に水道があるから顔を拭いてきなさい」と親切に言ってくれたが、JRの発車時刻まで後10分、小走りに駅へと急いだ。