[32]桑名〜四日市

 

 

1.発言番号:323

    発言者  :深澤 龍一

    題名    :東海道五十三次(四日市〜桑名を歩く)

    登録日時:98/06/22 08:29

 

  加佐登から約15分、ローカル線に揺られて四日市に向う。近づくにつれて車窓からはお馴染みの「石油コンビナート」の風景が展開する。

 

 駅前からは幅員百米はあろうかという立派な道路が真っ直ぐに西に伸びて、今回の「近江〜伊勢路」の各宿場町の中では桁外れに「近代的」な佇まいを見せる。これでは大した遺跡も残されていないと直感する。

 

1.諏訪神社

 先ず「旧東海道」に出る為に諏訪神社に向う。途中駅前通りや国道一号線の交差するこの辺りはビルも立ち並んで「街道」は消えている。商店街の外れに目指す「県社  諏方神社」は樹齢数百年の緑の中に静かに鎮座していた。祭殿には 諏訪大神」の大きな額が掲げられていたが、案内書の類は何も見当らず周囲は「諏訪公園」として噴水やジャングル・ジムもある市民の憩いの場になっていた。

 

2.旧町名「南町」(「すぐ江戸道」の道標)

 東海道と港へ通じる東西道路の交差する四つ辻の南に位置した市場である事から、弘治永禄年間(15501570)に南市場と称された。江戸時代には宿場町として栄え、寛文3年(1663)町名が南町と改められた。問屋場や脇本陣、飛脚などと共に多くの旅篭が集中して旅篭町とも呼ばれた。その後東西に新開地として広がった。

  ここの町角に立っている石の道標が面白かった。一面に  「すぐ江戸道」次ぎの面には「文化七庚午冬十二月」、更に曰く、「すぐ京いせ道」、そして「京いせ道  えどみち」と。「すぐ」とは「真っ直ぐ」という事らしい。

  石の道標

 

 ここで思い出したのが、例の石薬師は佐々木信綱記念館の館長さんの説明である。「江戸時代多くの旅人は四日市からお伊勢参りをして関や草津に抜けたから、ここ石薬師と庄野は寂れた宿場町で あったのだ」と。

 そう言えばかの弥次さん喜多さんもここ四日市に宿を取って、翌日は伊勢と都の分れ道なる追分の立場より「ひだりの方」への伊勢路を辿った。「やうやうと  東海道もこれ  石の道標からは  花のみやこへ  四日市なり」と道中記にある。京都まではここから四日の行程。(四日市とかけた)

 

3.三滝橋

 この橋が広重の絵「四日市  三重川」のポイントだそうだが、立派な鉄の橋が架って海の方には      石の道標        コンビナートの紅白の縞模様の煙突も見える。橋の下の河川敷は散策路になって直ぐ傍には広重の絵の陶板があった。

 

4.笹井屋

 この橋の袂に創業が天文19年(1550)という銘菓「なが餅」の老舗「笹井屋」があった。店に入って一箱買い求める。奥さんの呉れた「栞」に曰く。「なが餅の歴史は遠く天文十九年笹井屋の始祖彦兵衛が勢州日永の里の地名に因んでなが餅を創めてから茲に四百年を関して参りました。名称も世の変遷に伴い長餅(と餅) 永餅 日永の餅笹餅  牛の舌などと愛称せられて、なが餅の今日に至りました事も永い年月を物語っております」。

 

5桑名宿

 愈々私の今回の旧東海道宿場行脚も最終コースに入った。ここはじっくり歩こうと少しは土産物で膨らんだ荷物を駅のロッカーに預ける。

  街を歩くとさすがに「はまぐり」の看板や立札が矢鱈目に付く。

 

6.曹洞宗 法性山 海蔵寺(薩摩義士墓所)

 薩摩義士とは、この地方に度々水害を齎した木曽、揖斐、長良三大河川の治水工事による薩摩藩85名の犠牲者を言う。この工事は宝暦3年江戸幕府より薩摩藩に命ぜられ、工事奉行平田靱負(ゆきえ)他薩摩藩士950名と予算30万両で始め、1年半後完成したが、その間85名の犠牲者と270万両の費用を費したが、これによって長年荒れ狂った大河川も制御された。

  当寺は工事終了後、大幅な予算超過と多数の犠牲者を出した責任を負い、切腹した平田靱負の墓碑を中心に、24義士の墓あり。

  義士によって築かれた油島(岐阜県海津町)の堤防には数千本の松が植えられ、今も「千本松原」と呼ばれて偉大な功績跡を残している。

 

7.大塚本陣跡(料亭「船津屋」)

 大塚本陣は桑名宿で最大且つ最高の格式を持った本陣で、裏庭から直接乗船出来た。建物は変わっているが、明治時代から料理旅館「船橋屋」として営業。

 

8.脇本陣「駿河屋」跡( 料理旅館「山月」の一部

 脇本陣は桑名に四軒あったが、その内最も格式の高いのが駿河屋であった。建物は変わっているが現在は料理旅館「山月」。

 

9.七里の渡し跡

 江戸時代の東海道は桑名宿と宮宿との間は海路七里(約28K)の舟渡しであった。

  桑名宿の船着場は伊勢国の東の入口に当る為、伊勢神宮の一の鳥居が天明年間(178189)に建てられた。

  船着場付近は桑名宿の中心であり、船着場の西側には舟番所、高札場脇本陣駿河屋、大塚本陣が並んでいて、船着場の南側には人馬問屋や丹羽本陣もあった。

  ここは別名を「間遠(まとう)の渡し」ともいい、壬申の乱の際、大海人皇子(後の天武天皇)が戦勝祈願の為熱田神宮に渡った際に「間遠の渡しかな」と言ったと伝わった事に由来しているという。

  桑名城址への途中に建設省木曽川下流工事事務所が建てた「江戸時代中期−宝暦治水」と題した説明板があった。曰く。「木曽三川は、木曽・長良・揖斐川の順で川底が低くなっており、その川筋は輪中を取り囲んで網の目のようになって流れていた為、木曽川の洪水は長良川、揖斐川を逆流し、氾濫を繰り返していた。徳川幕府による木曽川左岸の御囲堤の完成(1609)により、美濃の水害が益々多くなった。その後、徳川幕府は宝暦3年(1753)、美濃郡代  伊沢弥惣兵衛為永がたてた木曽三川の分流計画をもとにした治水工事を薩摩藩に命じ、油島締切、大博川洗堰逆川洗堰締切などの大工事(宝暦治水)を1年3ヶ月で完成したが、工事費約40万両(当時の薩摩藩全収入の2年分以上=先の海蔵寺の説明と1桁違う)の内、幕府の負担は僅か1万両で薩摩藩は多くの借財を抱える事になった。

  宝暦治水では三川の完全分流は出来なかったが、近代治水工事の先駆けになったものと言える」との説明と共に木曽三川の地図が添えてあったが、今改めて名古屋市の地図を広げると、桑名は揖斐川一つ隔てた直ぐ隣の都市なのに驚かされる。次の宿場「宮」(熱田)との間は埋め立てられてしまったと言う事を今初めて知った。

 

10.桑名城跡(九華公園)

 揖斐川と長良川との合流点の辺りに良く整備され手入れの行き届いた公園があったので立ち寄った。今、花菖蒲がとても奇麗に咲いていた。

 

11.桑名市博物館

 旧街道に沿って瀟洒な建物があったので覗いてみた。「矢部駿河守桑名護送図」には駿河守が桑名藩預けになった時の大名行列の様子が克明に描かれていた。

 

12.矢田立場(火の見櫓)

 江戸時代の矢田町は東海道の立場(宿場と宿場の中間にあって旅人が休憩する茶店などの集っている所)であった。「久波奈名所図鑑」にはこの立場は食物自由にして河海の魚鱗、山野の疎菜四時無きなしとある。福江町に曲がる角に火の見櫓あり。現在も馬を繋ぎ止めたる鉄輪のある家や連子格子のある家も見られる。福江町も立場の続きで茶屋や宿屋が多かった。福江町の南端は桑名宿の入口に当るので旅人を引き止める為に宿屋の人達が集っている宿引小屋もあった。又、西国からの大名が通行の際には桑名藩からの役人が出迎えて此処から案内した。

  これで宿場跡は一回りしたので近くの近鉄「益生」の駅から桑名までの一駅を乗り、直ぐ来た関西線で名古屋にゴール・イン。駅前のデパートの7階で「大都会」を見下ろしながら、新幹線の発車時刻まで私独り「天婦羅きしめん」を肴に「一番搾り」で乾杯!。未だ腹が頼りないと駅構内の売店で求めた「名物珍しくて美味しい天ぷらあんまき」を新幹線の中で頬張った。フト気がつくとその包紙には「東海道五十三次・池鯉鮒(ちりう)の宿」とあった。

 

エピローグ:鈴鹿峠から桑名までの「伊勢路」を歩いた今回の一人旅では、純朴な田舎人の一寸した親切がとても心に染みた。先ず「坂下」は鈴鹿馬子唄会館で、ずぶ濡れになった私にお茶を出してビデオを回してくれた係のオバサン、「関」の宿舎の朝の食堂で、宿場の色々な話を聞かせてくれた賄いのオバサン、「石薬師」では、佐々木信綱に関する色々なお話と庄野への旧街道を教えてくれた記念館の背の高い館長さんそして、「庄野」では裏の水でゆっくり顔を洗って下さいと言って呉れた資料館のオバサン、「四日市」では建物から出てきた人に諏訪神社への道を聞いた時、「あっちだ!」と指差した後で、私が大分先の商店街を歩いている時に後ろから自転車で追い掛けて来て、もう一度その方向を無言で指差して呉れた80近いお爺さん、更に「桑名」では「九華公園」の中を巡り巡ってすっかり方角が判らなくなった私が博物館への道を聞いた時、「ややこしくて言いにくいが・・・」とその方向を指差すので、「有難うとうごさいます!」とお礼もそこそこに、私の自慢の健脚で先を急いで歩いている時、息を弾ませながら追い駆けてきて懇切に改めて道を教えてくれた散歩中の還暦近いご婦人等々、その人達の温かい心を私はキット何時までも忘れないだろう。そして最後に「困った時には何時でも電話しろよ!車を出すから!!」と声を掛けてくれた青春時代の「悪友」にも序でに感謝せねばなるまい。

  そして、もう一つは「お土産」の話、草津の「うばがもち」もそうだったが、四日市の「なが餅」と「関」の「関の戸」、こちらは寛永年間の創業と言うから「なが餅」よりは約100年後だか、何れ劣らぬ「伝統」を誇るだけに「名物に美味いもの無し!」の喩えは当て嵌まらぬ美味しさだった。「口」にうるさい家内が言うのだからまあ間違いのないお勧め品だろう。

  最後に今回の旅の歩行距離は「万歩計」に換算して、京都での「悪童の集い」の日が、11000歩、「雨の鈴鹿峠」が21000歩、「最終日」は自宅までを含めて34000歩、平地でもピッチを上げたので一昨年痛めた右膝が少し痛んだが、昨日は丹沢を36000歩も歩いて痛みが激しく駅の階段は右足が下りなかった。

 

 

2.発言番号:324(323へのコメント)

    発言者  :巌  隆吉

    題名   :東海道五十三次(四日市〜桑名を歩く)

    登録日時:98/06/22 21:02

 

  親切な人にも支えられての鈴鹿峠から桑名までの五十三次の旅。坂下、関、亀山、石薬師、庄野、四日市、桑名と67,000歩に及ぶ強行軍に心から感服しております。その体力と気力は高齢者ではなくて、まさに二

十歳位の青年ですね。

  私は去る6月16日に予定とうり、府中(静岡)を歩きましたが、到底足元にも及びませんし、まだそのことを寄稿しておらず申し訳なく思っているところです。

  今回深沢さんの歩かれたコースは、何回も車では通っており、しかも四日市には化成と油化の工場がありましたので、比較的土地感はあります。でも旧東海道がどのように通っていたのか、深沢さんの書かれた色々な由緒あるところは全く知りませんので、興味深く拝見しました。

  ついては、二三思いつくままコメントを入れます。

 

  鈴鹿峠の国道脇の広場に車を止めて、子供たちとラーメンを煮て食べたことを思い出しました。おそらく鏡山の近くだったのかなと思っております。

 

  追分から別れた加太は有名な「加太越え三重連」のメッカでしたので子供の希望で何回も滅び行く機関車を写しに行ったものです。昭和45年頃だったのでしょうか?

 

  四日市の「ながもち」と桑名の「しぐれはまぐり」は昔からの名物でしたので、何処に勤務していても出張の都度必ず求めておりました。

 

  桑名には御在所温泉もありますし、桑名カントリーもあり大変懐かしいのですが、肝腎の桑名の渡し口等を見たことはありません。

 

  薩摩藩士の平田靭負(ユキエ のことですが、木曽川三川の工事で、大幅に予算を超過して薩摩に大きな負担を強いる結果になった責任を取り自刃したその責任感については感銘しております。尤も幕府は薩摩の力を殺ぐことにあったのでしょうが、当時としては大変な難工事だったのでしょう。

  かっての化成の社長だった柴田さんは、この木曽川を渡る都度その話を持ち出され、国も会社も一端決めた予算については、このような責任感を持つべきだと訓戒されていました。