[31]鳴海〜宮

 

 

1.発言番号:673 

    発言者  :深澤 龍一

    題名    :東海道五十三次(「鳴海」〜「宮」を歩く)

    登録日時: 99/06/18 18:08

 

  (プロローグ)昨年「坂下」〜「桑名」を歩き通した時から早くも1年が過ぎて、今年も去る14日高専時代の悪童が下呂温泉に集った。

  今回もそれに便乗して、その日の朝早く家を飛び出して、8時過ぎに名古屋着。直ちに名鉄本線に乗り換えて「有松」で降りる。駅の直ぐ傍を線路に平行して「旧東海道」が走り、此処は「名古屋市有松町並保存地区」にも指定されて、今も江戸時代の雰囲気が残る。案内板に曰く。

 

  「有松は、旧東海道五十三次の<<池鯉鮒>><<鳴海>>の宿の合宿として慶長13年に開かれた。昔と変わらない緩やかに曲った街道沿いに屋根や庇が前面で揃い、防火の為の塗籠造り、二階の虫籠窓、一階には土庇と格子があって、これらが有松の街並の特徴となっている。

  街並保存は今に残る有松の優れた歴史的景観を後世に伝え、良好な住環境作り上げて行くものである。」と。

 

1.服部家住宅(県指定有形文化財)

  店舗並びに居住部  1棟、井戸屋形  1棟、客室部  1棟、土蔵・絞舎・藍舎  6棟、門並びに門長屋  2棟 当住宅は旧東海道に面する町屋建築の遺構であり、有松に於ける絞問屋としての代表的な建物である。主屋は塗籠造で卯建を設け、舎は土蔵造で腰に海鼠壁(ナマコカベ)を用い防火対策を行っている。

  この服部家は屋号を「井桁屋」という。広重の画に出てくる「鳴海名物有松絞」とそっくりの風景だった。

  此処から少し東に行った所に「桶狭間合戦伝説地」がある。

 

2.有松・鳴海絞会館

  子供の頃、我が家は「京呉服」を扱ってよく絞りの糸抜きを手伝わされた記憶が懐かしくて9時の開門を待って中に入る。2階で老婆が2人「絞り技法」の実演をしていたので、「私の子供の頃は・・・」と彼女らに話し掛けたら、退屈していた彼女らは待ってましたとばかりに色々話してくれた。その一人が言うには「京都の絞りは<<>>、こちらの絞りは<<綿>>、祇園の舞子さん目当ての製品にはワイらは叶わないけれど、<<綿>>なら有松は日本一や!」と婆さんは至極得意気であった。但し「近頃は絞りをやる人が少なくなって、此処でこうして実演しているのは94才を筆頭に今12人いるが、70才未満の若い人は一人もいない」とのことであった。

  30分以上も2人の婆さんのお話を拝聴したが、帰り際にその内の一人85才の婆さんが、宿場の外れの祇園寺にあるお釈迦さんの「足跡」を是非見て来なさい。これは日本に余り無い珍しいものだと。

  表に「市指定有形文化財」と書かれた何軒かの住宅と、有松山車を納めた倉庫の前を通って、町並保存地区の西の外れに婆さんの言う通り幼稚園にもなっている祇園寺の山門の「閂」を手で外して中に入る。保母さんらしい人に聞いたら、「これでしょうか?」と境内の片隅の石碑の傍にある大きな石に溜まった砂を手で払ってくれた。良く見ると成る程長さ50センチはあろうかという「両足跡」が出てきた。傍の石碑には「光明皇后恭仏跡」と題して「実ほとけの・・・」に始まる句が刻んであったが、残念ながら最後までは読めなかった。

  先を急ごうと電車で1駅を乗継いで宿場の中心に位置する「鳴海」の駅に降りる。解説書を見ても此処は特に何も無い所と認識していたが、駅前を流れる扇川の畔に「鳴海宿史跡散策図」があったので、そのコースに従って先ず本陣跡を訪ねる。

 

3.鳴海宿本陣跡

  簡素な表示がポツンとあって整地された空地。幕末の頃は間口39m、奥行51M、建坪235坪、総畳数159畳の本陣があった。

 

4.鳴海城(根古屋城)跡

  14世紀末に築城されたが、今はそれらしい石垣と小高い丘が僅かにその名残を留めているに過ぎず、小さな児童公園があった。近くに真言宗「東福院」あり。「この山門の梁は根古屋城の材木で建てた」と住職の手になる手書きの説明書が寧ろ哀れでさえあった。

  西山浄土宗来迎山誓願寺の前を通って、旧東海道は今は寂れた商店街になっているが、ここの曲手だけはしっかり残されていた。宿場の東の外れ「中島橋」の袂に来て前方を見上げたら、こんな町には凡そ不似合いな立派な伽藍があった。

 

5.瑞泉寺(曹洞宗)

  応永11年(1404)根古屋城主安原宗範の創建にかかるこの寺は、当初宗範の法名瑞松居士をとって「瑞松寺」と言ったが、生徳年中(171116)、寺号を瑞泉寺と改め、宝歴5年(1755)鳴海の豪族下郷弥兵衛の援助により堂宇を完成した。山門は宇治市黄檗山万福寺の総門を模して作られたと言う。

  ここから再び名鉄に乗って「神宮前」下車。この辺りに東海道中最大の繁昌を誇った「宮宿」があったが、勿論大都市名古屋の南にあって今は大きな道路が縦横に走って最早昔の面影は全く無し。道行く人に聞いても旧東海道がはっきりしない。

 

6.裁断橋跡

  宮の宿の東の外れを流れる精進川の東海道筋に架っていて、現在の姥堂の東側にあった。

  天正18年(1590)18才になる我が子堀尾金助を小田原の陣で亡くし、その菩提を弔う為に母親は橋の架け替えを行った。三十三回忌に当り再び架け替えを志したがそれを果さずに亡くなったので、養子が母の遺志を継いで、元和8年(1622)完成させた。

  この橋を有名にしているのはその擬宝珠に彫されている銘文で、仮名書きのそれは母が子を思う名文として、この橋を通る人に多くの感銘を与えたという。

  この擬宝珠の実物は現在名古屋市博物館に収められているが、此処にはその複製があって、左に原文(仮名書き)を、右に漢字交じりの大意が刻まれて曰く。

  「天正18年正月18日に小田原への御陣、堀尾金助と申す18才になりたる子を立たせしより、又ふた目とも見ざる悲しさの余りに、今にこの橋をかける也。母の身には落涙ともなり即身成仏し賜へ。

  逸岩世俊と後の世の又のちまで、この書付を見る人は念仏申し賜へや。30年の供養也」と。

  国道1号線から少し入ったこの辺りに道路に沿って「東海道」のコンクリート杭が立って、「伝馬町・旧東海道」と書いた商店街があった。再開発地でこうした「東海道」の文字を目にすると実にほっとする。

  「宮の渡し歩道橋」を渡って少し歩くと、今は「宮の渡し公園」として奇麗に整備された昔の「渡し場跡」に出た。

 

7.「宮の渡し船着場跡」

  江戸時代、東海道の宿場駅であった熱田は「宮」とも呼ばれ、「桑名」迄の海路「七里の渡し」の船着場としても栄えていた。寛永2年(1625)に建てられた常夜燈は、航行する舟の貴重な目標であったが、現在は復元されて往時の名残を留めている。

  安藤広重による「東海道五十三次」の中にも、宮の宿船着場風景が描かれており、当時の舟の発着の様子を知る事が出来る。

  此処には今名古屋港を遊覧する舟の桟橋があったが、乗る人も無い様子であった。

               宮の渡し船着場跡

 

8.丹羽家住宅

  この渡し場の道路を隔てた向う側に、往年の「脇本陣格の旅篭」の建物が名古屋市有形文化財として残され、破風付玄関が僅かにその威厳を留めていた。

 

9.西山浄土宗 宝勝寺

  熱田神宮へ向う途中にこの寺があった。承応3年(1659)〜明治24年(1876)までの間、この寺は熱田湊常夜燈を管理していたという。

 

10.熱田神宮

  「宮」とはこの社の門前町に成立した宿場であるが、境内の弘法大師のお手植えという大楠は樹齢1000年以上と言われる。ここは多くを語るだけ野暮と言うものだが、名鉄からJRに通じる「神宮前商店街」の寂れ方だけがやけに印象に残った。

  こうして12時半、名古屋駅11番ホームで悪童連中と落合う。

 

(エピローグ)翌日悪童の大半は高山に向ったが、私は名古屋に引返して36年振りの再会である。昭和38年に廣島で別れた支店の元女子社員と中央改札口で落合う為である。彼女が私を見付けてくれて懐かしのご対面となり、「稲庭うどん」の早昼の後、再び名鉄で「国府」に向い一緒に「御油」〜「赤坂」〜「藤川」を歩く。

  但し、こちらは来週行かれる巌さんにお任せする事として、藤川宿の脇本陣跡のベンチに腰掛けていた中年女性の二人連れに話し掛けたら、日本橋からズーッと忠実に<<>>を歩いている」と言う。強くなった日本女性には最早脱帽である。