[30]岡崎〜池鯉鮒

 

 

1.発言番号:711

    発言者  :巌  隆吉

    題名    :広重東海道五十三次 岡崎宿池鯉鮒宿(知立)を歩く

    登録日時:99/07/31  17:45

 

  去る7月19日と20日に1泊2日で岡崎宿と池鯉鮒宿を歩いた。この池鯉鮒宿は既に、深沢さんも歩いているので、多少重複している面もあるが、一応記述しておきたい。

  19日、朝の新幹線で豊橋にて名鉄に乗り継いで東岡崎に降りる。

 

  二十七曲がりの道

  かって岡崎城に舟が着いていたという、今でも深そうな乙川の右岸を歩いて二十七曲がりの東口にたどり着く。

  途中高岩弁財天蜜峰寺とか昔郡の公会堂だったという趣のある郷土館等を眺めつつ歩く。先生から織田信長の命による信康の自害と築山殿殺害の悲劇の話しを聞きながら...。

  この東口には昔の「棒鼻」を想像出来るような沢山の杭が打たれた記念碑が建って、二十七曲がりの道順が書かれていた。秀吉の天下統一の後、豊臣方の将、田中吉政がこの城下町を作ったが、町人を出来るだけ城内に入れないと町の繁栄はない、でも防衛面で支障があるのでこのように複雑なカギの手がつくられたという。

  ところどころに目印の石柱が立っているので迷うことはないが、非常にややこしい道筋だ。良く考えていると思う。

  途中繁華街になっているが東本陣、脇本陣、西本陣跡等を見る。本陣の近くに菓子の天明2年創業の老舗「備前屋」があった。私も名物の淡雪(鹿の子)を皆さんにすすめられて土産にする。

  この近くに家康が桶狭間の戦いの後逃げて自害しようとした大樹寺がある。

  ここの登誉上人から家康は「厭離穢土、欣求浄土」(戦乱の世を浄土に変えるのはあなたの役目)とさとされ自害をとどまっている。この言葉を家康は生涯旗印にしているという。また、家康の祖父清康が「是」という字を手に取る夢を見て僧に占わせると「是」という字は日の下に人と書く。子孫に天下人が出る瑞兆 と答えた。清康は喜んでその僧に寺を建立したという「是字寺」もこの近くにある。

  その町角で「朝鮮通信使」「助郷」「三度飛脚」「塩座」「御馳走屋敷」 等の話しを先生から聞く。この御馳走屋敷は間口15間の大きなもので公用の迎賓館で勅使、老中、御三家、所司代、朝鮮通信使等の接待用だった。

  町の中に「唐弓弦」という古い看板の古びた家があった。これは木綿を紡ぐ道具を売っていたのだが、この地方は綿の産地で、トヨダの発祥の豊田織機があった位木綿で栄えていた。もともと日本人の衣服はその昔は麻を着ていてその後呉服という絹(呉は外国の意で使う)そして江戸時代は木綿という流れとの由。

 

岡崎城

  西魚町板屋町から竹千代橋を経て岡崎城に入る。この城は矢作川と乙川の間にあって乙川河畔に船着き場があった。「五万石でも岡崎様はお城下まで船が着く」と唄われていた。

  家康はここで生まれた。その産湯に使った井戸や産着を埋めた「えな塚」がある。15時のからくり時計を見て、再建されている三層の岡崎城に入る。

  この資料館でかって三河矢作川あたりは足利一族の勢力下であったことを知り私は大変驚いた。

 

八丁味噌と矢作川

  八丁味噌の本舗、カクキューを16時半に申し込んでいるので急いで行く。

  昔からの大きな貯蔵樽が並び圧巻。矢作川で寝ていた藤吉郎はカクキューのムシロに寝ていたとの言い伝えがあり、カクキューはその絵を看板にしていたようである。何れにしても宮内庁調達の老舗であるので、赤出し等を買って我が家にも送っておいた。

  大分遅くなったが矢作橋まで出る。急いで私も広重も描いたその橋をスケッチしておく。昔の広重の描いた木橋は今のコンクリート橋より少し下流にかかっていたという。

  この矢作橋の近くで老翁が何処から来たと問うので東京からと答えると怪訝そうな顔をしつつも近くの寺の籠の話し等色々と教えてくれた。

  八丁味噌のあたりの古いひなびた白壁の町を通り、食べ物屋を物色して漸く生ビールにありつき一同夕食。

  その岡崎の夜は、森の中にある近くの国立研究所の先生方が泊まるという静かなグリーンホテル徳川園に泊まる。ぐっすり寝た。

  明けて20日、朝少し雨模様だったがはれていた。

 

  六所神社

  この神社は寛永11年(1634年)家光が再建している。立派な神社だ。5万石以上の大名でないと昇殿出来ず石段も昇れなかったという。

  東岡崎駅で乗り牛田駅で降りる。ここから東海道を東に向う。西教寺を過ぎると来迎寺の一里塚がある。そこから北に向い明治用水を経て鎌倉街道に出る。東海道に比べて鎌倉街道は北にあるが昔の道は川を渡るのに山に近い方がたやすいので概ね北側にあるのだという。これからは、暫く江戸時代を離れて鎌倉時代平安の世で名高い八つ橋を訪ねる。この地区は「日本のデンマーク」といわれる田園地帯でもともと湿地で多くの蜘蛛の足のように橋がかかっていたので八つ橋という。

 

  在原業平と八つ橋

  業平は皇族から臣下になった人。その人のか、き、つ、ば、た の五文字を読み込んだ、「 唐衣  きつつなれにし  つましあれば  はるばるきぬる  旅を思ふ」という歌が「伊勢物語」に書かれている。

  業平ゆかりの紫燕山ー在原寺は尼寺の雰囲気がある小さな寺。本堂の前の業平の竹に「在原の  ありし昔を  伝え来て  残る形見の  竹の一ふし」とあり,「一むらすすきに  八つ橋の  一むらすすき  穂に出でて  はるく来ぬる  人まねくらん」との歌がある。

  近くの浄土真宗のお寺の浄教寺はさすが一向一揆の土地柄だけに豪壮だがこのお寺は歴史を刻みながらも小さくさびしくただずんでいる。

  その他、西三河俳諧の宗匠松堂義玄や山頭火の句碑もあった。その西に鎌倉街道跡の石碑のあるところに「根上がりの松」があり大きな根が蛸の足さながらせりあがっているのは珍しい光景だった。

  更にその西の小高い丘に「業平供養塔」がある。「宝匡印塔」が苔むし黒ずんでいて750年の昔を偲ばせてくれる。

 

  浄教寺

  先にも述べたが浄土真宗の大きなお寺。宝歴7年(1757年)延べ1300人で建造された鐘楼門は大きく目立っていた。このお寺の墓所には、支那事変初期戦死された兵士の大きなお墓があった。

  支那事変頃までは戦死者も丁重に葬られたのであろうが...。

 

  八橋山無量寿寺

  邨社日吉神社と隣り合わせ。神仏混在時代の流れだろう。この無量寿寺は文化9年(1812年)売茶翁の名で知られる方巌和尚が非常な熱意で再興している。保存館にはその和尚の茶道具一式が収められた笈が残されていた。熱意があれば何事も可能なのだと感銘した。

  杜若の庭園が有名なので入った。最早時期を失していたがそれでも数本の杜若がわれわれの目を楽しませてくれた。

 

  池鯉鮒宿

  三河八橋駅から知立に向う。この池鯉鮒宿については概ね深沢さんの歩かれたコースと同じであり既に 詳しく報告されているので行程のみ記述しておく。

  セントピグアホテル(スペイン語でかきつばたの意)で昼食。その後、本陣跡(3000坪)永見氏の居館知立古城跡、多宝塔や御手洗池の知立神社、流汗不動のある総持寺とその大銀杏を訪ねる。

  なお、明治天皇が明治23年陸海軍大演習をこの三河で行ったが事前には全く秘密であったようで突然郡役所に天皇が訪れたため対応に大童だったとの、昭和31年建立の碑を見た。この演習のことは良く知らないが、日清戦争前のことでもあり日本の軍部としてもそれに備えていたのだろう。また、そのような碑を戦後建てられたということにも興味があった。

  早めに三河知立駅に出て豊橋経由新幹線に乗る。二日間で44,000歩を歩いた疲れた身体をビールで癒しながら帰京した。

 

 

2.発言番号:607

    発言者  :深澤 龍一

    題名    :東海道五十三次(第三十九宿「池鯉鮒」)

    登録日時:99/03/14 11:49

 

  3月8日(快晴)急用が出来て日帰りで岐阜迄行く事になったので、少しでも「東海道五十三次」の消化をと、その名前に惚れて序でに「池鯉鮒」宿を訪ねる事とした。

  第三十五宿の「御油」から第四十一宿の「宮」迄の宿場は全て名古屋鉄道の沿線に点在する。私も名古屋から名鉄本線で「牛田」で降りる。車窓からそれらしい松並木が続いていたのでその方向を目指しての急ぎ足だ。正午までに名古屋に戻らないと葬儀に間に合わないから聊か気忙しい。この松並木の東の外れに「標識」があって曰く。「旧東海道三拾九番目の宿  池鯉鮒  江戸日本橋  八拾四里拾七町  京都三条  四拾壱里」。江戸から約三分の二の地点に当る。

 

1.東海道知立松並木  徳川家康が江戸に幕府を開いた時、禁裏のある京都と江戸間の交通を重視して、東海道を整備したのが慶長9年(1604)の事である。当時幅2〜4間(3.67.2M)の道は随分大道であったが、やがて参勤交代が始り逐年交通量は増えてきた。その為寒暑風雨から旅人を守る為、中国の古例に倣い両側に松木を植えたものである。

  知立(池鯉鮒)の松並木は近年まで牛田町から山町まで約1キロ続いたが、住宅が次々と建てられて今は450M程になってしまった。戦前までは昼猶暗い程老樹が鬱蒼としていたが、昭和34年の伊勢湾台風により60〜70%の松が折られたり、根ごと吹き倒されたりしてしまったので、昭和45年幼樹158本を補植し、以後毎年松食虫の防除に努めて昔の姿を今に留めている。

  この並木道は県道に沿った遊歩道になって良く整備され、又遊歩道の下には「明治用水西井筋」が流れている。(埋められているパイプは直径150センチで、農業用灌漑用水を下流に送っている。)天気は快晴で風も無く、小春日和の中を道の両側に並ぶ松の木を愛でながら歩く。

  松並木の西の外れ、国道1号線と交わる辺りに馬の銅像と大きな広重の画があった。ここが広重「池鯉鮒  首夏馬市」のポイントである。

 

2.馬市の跡

  池鯉鮒の馬市は古来、牛田〜八幡間の野原にあったと言う言い伝えがある。その付近に「馬場池」と呼ぶ池があって、70年前頃迄は子供達が良く遊びに行ったとか・・・。

  古代万葉集にも「引馬街」の歌があり、その頃から馬の市があったようである。

  江戸初期、東海道が開け池鯉鮒宿が設けられて人々が町に集ってきた事から、慈眼寺を中心にしたこの付近が選ばれ、時には東海道松並木両側にも空地を設けて収容し切れない馬を繋いだという。

  宿場に入る手前、街道から少し北に入った所にその曹洞宗「慈眼寺」があつて、明治になって馬市はこちらに移されたとの説明があった。境内には「馬頭観世音菩薩」の赤い沢山の幟が早春の風に靡いていた。

 

3.知立神社・御手洗池跡

  慈眼寺から道路一つ隔てた所にあって、御手洗池は殺生禁断の池で鯉や鮒が多くいたので、江戸時代知立を「池鯉鮒」と書く様になったと言われている。日照りの時には幣(ぬさ)を奉納し、知立神社神宝の木製蛙をここに移して降雨を祈願するなど人々の信仰も集めたという。面積は10167坪程の池であったが、明治28年に埋め立てられて農地となった。

  ここ知立は今も交通の要衝で、新しい道路が縦横に走って「旧街道」を歩く我々「歩行者」は身の危険を感じるが、幸い道路を横断する為の「地下道」が随所にあったのは大変有難たかった。

  宿場のあった所は今は商店街で「池鯉鮒宿  本陣跡」や「問屋場跡」の石碑を留めるのみであった 宿場の外れに今は児童公園になっている広場に大きな「知立古城跡」の石碑を見掛けた。

 

4.知立古城跡

  知立城は元来知立神社の神主であった永見氏の居城であった。同氏の系譜を記した「永見家家譜」には平安時代末期に御白河院の北面の武士として、保元・平治の乱に従軍した十三代実春の代に既にその名が記され、二十九代実英まで続いた。

  永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで落城した。その後天正年間に刈谷城主水野忠重が織田信長饗応の為に、約3000坪の土地を整備した。寛永年間には将軍上洛用にと増築したが、元禄12年(1699)の大地震により倒壊した。

  くねくねした旧街道を更に西に進むと、宿場の外れ近くに参詣人の絶えない大きく立派な社があった。

 

5.知立神社

  ここの「由緒書」に曰く。「当神社は近世池鯉鮒大明神も称え奉り、延喜式内の古大社であって、第十二代景行天皇の御宇、皇子日本武尊の東国平定の行路、この地に於いて皇祖建国の鴻業を仰いで国運の発展を記念し給い、御帰途報賽の為創建あらせられしという。

  延喜撰格の際は官社に列し、暦朝或いは神階を奉られ或いは昇叙せられ、又元冦襲来に際して異国降伏の勅願あり。明治元年明治天皇御東幸の際には勅使を差遣わして国運の発展を祈願し給う等、古来朝廷の御崇敬篤く、又歴代各藩主も或いは土地を献じ或いは社殿を造営し、或いは神饌幣帛を献ずる等夫々赤誠を捧げた。又、衆庶の崇敬も厚く、古来より蝮除け雨乞い安産等の御霊験をもって全国に聞こえ、御分社は県内は固より遠く関東関西に亙って所々に奉祀せられ、崇敬者は全国に散在しその数を知り難い。又当社は弘法大師の崇敬殊に厚く、三河三弘法巡拝者の必ず当社に詣ずるは蓋し大師の敬神の精神を体するものである」と古めかしくも懐かしい単語が並んでいた。

 

6.知立神社石橋

  半円形に反った太鼓橋で、全て花崗岩で組まれてお

り、欄干南側右柱には「享保十七年(1732)十一月吉日」と刻まれている。「東海道名所絵図」によると「石橋は神籬(ひもろぎ)の外にあり、池を御手洗という。片目の魚ありとなん」と書かれている。片目の魚は身代わりとして娘を目の病から救った為との言い伝えがある。

 

7.知立神社多宝塔

  嘉祥3年(850)天台宗僧円仁が神宮寺を創立して多宝塔を建立し、後、知立神社の別当寺となった。現存する多宝塔は永正6年(1509)重原城主山岡忠左衛門が再建。明治の神仏分離令の際には祀られていた愛染明王を近くの総持寺に移し、相輪を除いて瓦葺きに変え「知立文庫」と名も変えて取り壊しの難を逃れ、現在は国の重要文化財に指定されている。

  その総持寺は元和2年(1616)の創建で、神社から道路を隔てた所にあった。明治5年に廃寺となり境内は民間の手に移ったが、今も大銀杏だけが往時の名残を留めていた。(その後総持寺は大正15年に西町に再建されて現在に至っている。)

  此処で11時を廻ったので、そろそろ「知立駅」へと急ぐ。途中、ウォーキング・シューズにリュックを背にした中高年の人達を沢山見掛けたので、信号待ちの間に二人連れの御夫人に「皆さんは一体何処へ行かれるのですか?」と聞いてみたら「知立の弘法巡りです」との答えが返ってきた。「貴方は?」と聞かれて、「旧東海道の宿場巡りをしています」と答えたら、「どちらからですか?・・・結構な御趣味でいいですねぇ〜」と品の良い初老の夫人に褒められて左右に別れた。こういう人達の為にあちこちに地下道が作られていると言う訳だ。