[29]御油〜赤坂〜藤川

 

 

1.発言番号:683

    発言者  :巌  隆吉

    題名    :東海道五十三次 御油、赤坂、藤川の宿を歩く(その1)

    登録日時:99/06/30 19:07

 

  われわれの月1回の五十三次の旅も、前回からはJRから離れての名鉄沿線を歩くことになったので、いよいよ一泊二日の行程とせざるを得ない。

  去る5月21日、新幹線で豊橋から名鉄に乗り継いで国府駅に降りる。

 

  大社神社

  この神社は田舎にしては立派な神社。そもそもここ国府は音羽川の舟便もあり、かって三河の政庁のあった由緒あるところだ。

  三河という名は本居宣長説によると豊川、矢作川、音羽川の三つの川に由来するというが、昔は三河の国でなくて宝飫の国だったという。その国の中で一番京に近いところにこの国府があったと思えばそれなりにうなづけよう。

  その境内に「戦死者玉島好彦のために」と書かれた立派な新しい句碑が立っていた。それに「子を思う 親の心の 悲しさよ 孫なき吾子の 名をば止めん 常治」 と書かれていた。今朝新幹線の中で同行の士とかっての激戦地硫黄島のことを話していただけに、特にこの父上の心情に思いをいたし感無量。この御両親は父90才母88才と記載されているがさぞやご無念だっただろう。

 

  御油橋より松並木資料館

  途中東海道と姫街道の合流する三叉路(現在は四叉路)があり、砥鹿神社道秋葉山三尺坊大権現への道等の明治16年の道標が建っていた。

  御油橋からは、西に小高い山「宮路山」が見える。鎌倉時代の道はこの山の上を通っていたようで、頼朝や持統天皇もその山の上で休まれたという。近くに「御油松並木資料館」があるので一寸立ち寄った。中には休館で入れなかったが、樹齢380年の松の木が飾られていた。松の表面はすべて亀甲型に割れていた。この「亀甲型」がこの地方の松の特徴という。

 

  御油の宿

  御油と隣の赤坂の宿は始めは一緒だったと思われる位近いところにあり、客の奪い合いで熾烈な戦いをしていた。留め女に象徴されるように何れも花町として大変な賑わいを見せていたようだ。今でもその宿場としての面影をかすかに残している。高札場跡、人馬継所跡、昔の弥次喜多の人形を飾って旅人を楽しませている伊賀屋支店(尤も明治以後の店)や本陣跡を見て、東林寺にいたる。

 

  招賢山、東林寺

  ここには、義経との縁のあった浄瑠璃姫の念持仏がまつられている。安政5年、遊女4人が自殺した事件がありその墓があるというので探したがそれらしい墓はあったもののはっきりしなかった。家康は2回、芝増上寺の管長祐天大僧正もこの寺に立ち寄っている。

 

  松並木

  立派な三河黒松の松並木が約600メートル続いている。亀甲型のひび割れが目立つ。戦時の昭和19年天然記念物に指定されたので、松根油のための伐採を免れたため、このような美しい松並木が残ったのだという。

  慶長6年(1601)35番目の宿場として御油の宿が生まれたが、慶長9年(1604)この松並木を整備した模様。

  喜多八がキツネにばかされたという有名な話しはこの松並木のことである。

 

  赤坂の宿

  先ず関川神社には芭蕉の句碑「夏の月 御油より出でて 赤坂や」がある。御油と赤坂の道の短さを夏の月にかけて歌ったものでさもありなんと思う。この境内に「樹齢800年」といわれる大きな楠の木がある。周囲7.29m高さ25.7mで凄く大きな木で木の根本には大火で焼けた跡が残っている不死身の木だ。

  江戸の赤坂の名はこの赤坂の賑わいをと願ってつけられたという程かっては大変賑わっていたようだ。

 

  三頭山、長福寺

  歴史は約1000年さかのぼる。道長の時代三河の国司大江定基はこの赤坂の長者の娘力寿姫と契ったが任期が満ちて帰任することとなったため、姫は自殺。定基はこれを聞いてその亡骸を7日間も抱きしめ葬った。その後定基は出家、宗の国に渡って宗より仏像をこの寺に寄進した。(999年)その仏像がこのお寺の本尊。その純な恋物語にしばし打たれる。

  階段を上って観音堂に参る。ここからは古道のあった宮地山が見える。ここにも昭和の大戦の戦死者を葬う句碑があった。

  大君に ささげし命 長らえて 今なおつづく 巡礼の旅   百日翁   80才」

 

  江戸時代そのままの旅篭「大橋屋」

  大橋屋は本陣、脇本陣ではないがそれに次ぐ大きな旅篭で、現在も東海道に面したところはそのまま残っている。

              旅篭「大橋屋」

  享保18年(1733年)赤坂には戸数400軒内83軒が旅篭だったという。大橋屋は元鯉屋といい、間口9間、奥行き23間の大きな旅篭で広重が描いている旅篭の中庭のソテツの絵はこの大橋屋だという。

  黒光りした天井の大きな横木、さらにまた古い籠やちょうちんにも古い歴史を感じる。高い天井の横木に古い米俵が四つ積まれている。中には旅人のくれたお守りが入っていたためか、かっての大火もそこで食止められていた。

  急な階段を上った昔ながらの、6畳の3つの間に先生とともに泊まることになった。細い格子戸から東海道を眺めると、かっての旅人の気分が味わえた。夜中トイレに行くのに階段から転び落ちない かと大変心配だった。

  その2階には古い書や茶室も残っており、東海道街道筋の貴重な旅篭だと思われた。明治天皇もかって休まれたという。保護してででも残したい旅篭だ。

  明日のため、早めに眠りにつく。

 

 

2.発言番号:690

    発言者  :巌  隆吉

    題名    :東海道五十三次 御油赤坂藤川を歩くーその2)

    登録日時:99/07/03 19:23

 

  明くる6月22日、旅篭「大橋屋」で朝早く目覚めた。早速外に出てこの江戸時代から続く旅篭を急いでスケッチする。またこの旅篭の中庭のソテツを広重が2階から描いたのだともいわれている。そのソテツは近くの玉清山浄泉寺に移されているのだが、非常に大きな根を張って逞しく大きくなっていた。

  この旅篭からの出発にあたり宿屋の主人が斑目先生に色紙を持ってきた。先生は、折角だからと芭蕉の句と赤坂の大きな寺にかけて次ぎの句を記念として認められた。

    夏の月   木立にかかる   大伽藍

  赤坂の宿の陣屋跡や300年の有楽椿や400年のイヌマキのある太子山正法寺を見て廻った。赤坂陣屋跡は三河が天領のために設けられている由。

  電車に乗り山中駅に降りる。本当に山の中だ。中世に見晴らしの良いところに山中城があったそうだ。

 

  山中八幡

  参道に大きな灯篭が目立っている。また鳥居の傍には岡崎で2番目に大きいという楠の木(根の周り10.8m、高さ21m)が聳えている。

  この境内に家康が百姓一揆で逃れてここの岩屋に隠れて危機を脱したという伝説の「鳩ケ窟」がある。門徒から追われてここに隠れたがその窟から鳩が飛出したので追手はもうここにはいないと諦めたとのことだ。

  昔の主食は、元来栽培しやすい「さといも」だった。米の時代になると土木技術を要する灌漑工事が必要となり、施政者は土地の川の流れ等を見て工事をしてそれを百姓に与えて半分を年貢として取りたてた。その釣り合いの取れる間は、両者納得していたが戦乱時代軍費として過酷な年貢を課した。そこで一向宗の門徒が反乱して一揆がたびたび起ったという。しかも信仰の裏付けがあるので各地とも頑強執拗な反乱となっていた。

 

藤川の宿

  「ここは三河  むらさき麦の  かきつばた」という芭蕉の句が残っている。

  そのむらさき麦は穂が美しい紫色の麦である。小学校前に栽培していたのだがもう時期を逸していて見られなかった。

  東の棒鼻跡は復元して残されている。この藤川は行政も随分と手を入れており整備されているようだ。もともと八朔の日は幕府の創立記念日で大事な日。

  馬を献上していた。広重の藤川宿の絵はそれを描いたものだ。広重の絵の左側に棒鼻の石垣が見える。

 

本陣跡と脇本陣跡

  藤川の宿は昔の面影を比較的良く残している。銭屋、紅屋跡を見て本陣の前に行くが木造部分は全く残っていない。しかし裏に廻るとその石垣が綺麗に保存されていた。その西の脇本陣跡は「藤川宿資料館」となっており無人だが説明用模型を置いていてテープを聞くことが出来る。大変参考になった。

  西の棒鼻の前に十王堂所謂閻魔堂が祭られていた。この十王堂はどの宿場にも多いが宿場の厄除けとして設置されているわけだ。ここに芭蕉のむらさき麦の句碑が建っている。寛永5年の建立だ。

 

大岡越前守旧邸跡

  この付近からだんだん雨足が強くなった。越前守が伊勢にいた時吉宗の紀州との揉め事に越前は毅然として自己の主張を貫いた。その越前守の気骨に感心した吉宗は将軍になると抜擢し、その後越前守は大変重用されることとなった。

  その邸宅跡を訪ねたが立派な門は復元されているものの旧邸跡は空き地のまま残っている。何れ整備されることだろうが....。

  その近くに一里塚が「史蹟大平一里塚」として大切に保存されていた。

  そこからバスで東岡崎、次いで名鉄特急で豊橋に出て新幹線で帰京した。

  三島からは、日本大学国際関係学部の3人娘と一緒になった。聞くと埼玉から三島まで新幹線を利用して通学するという。一同、学生さんまで新幹線通学かと大層驚く。と同時に親の御苦労も想像される。その一人とメール交換の約束をしたところその晩遅く、課題をこなしながらも約束通りメールをよこしてくれたのでさすがだなと感心した次第。暫くはこのメール交換も続くだろう。

  シルバーと女子学生との話題は尽きず、あっという間に東京に着いた。

  このような交流も面白い。

 

 

3.発言番号:692(690へのコメント)

    発言者  :深澤 龍一

    題名    :東海道五十三次 御油赤坂藤川を歩くーその2)

    登録日時:99/07/06 11:02

 

  今私は「データーライブラリー」で「東海道五十三次」を編集していますが、積り積って膨大な量になった事を我ながら改めて読み返して、「よくぞここまでやった!」と独り悦に入っています。

  それと矢張り「コメント」が入っていると余計賑やかで楽しい記録になるなとしみじみ感じました。

  但し、「コメント」とは申しましても、行った事のない方にはなかなか無理なお話で、ここは巌さんの一週間前に多分同じ道を歩いたこの私めが何か入れない訳には参りますまい。と、前口上はこのくらいにして、只ボケーッと歩いているのと、「旧街道」を見てやろうと意識して歩くのとでは、こんなにも見る目や印象が違うものかと、正直言って痛感し改めて反省させられました。

  今回このコースを巌さんが歩かれる事は承知していましたが、我々の案内書「広重東海道を歩く」には、この辺りが街道筋でも江戸時代の面影を色濃く残しているという印象がありましたので、私も先日名古屋に行った序でに絶対に歩いてみようと計画しました。

  あの時は偶々元の「部下」と36年振りに再会して古い思い出話をしながら歩いたので、昔話に花が咲いて結局は「御油」も「赤坂」も碌に見ずに素通りした感は否めません。(勿論巌さんは「1泊2日」をかけてじっくりと、そして私はたった「半日」で駆け抜けてしまいました)

  でも、宿場の中心だった「御油」の町並みを過ぎて、西の外れから始まるあの松並木だけはなかなか見事でした。

  「旅篭・大橋屋」は表も特に手入れされていない古ぼけた「田舎宿」と言うのが、前を通っただけの我々の正直な印象で、特に泊まってみたいという気にはなりませんでしたが、宿泊体験者の巌さんが誉めちぎっておられるのだから、江戸時代を再体験するだけの価値は十分にあるのでしょうね。それにしても、街道を歩いていて「歴史保存物」という札が掛った建物をよく見かけますが、維持する方々も大変な努力を必要とするのでしょうね。

  私も巌さんと同じに、「名鉄赤坂」から「名鉄山中」迄を電車に乗りました。駅を見付けるのに少し手間取った事、共に無人駅だった事、そして名鉄の料金が案外高かった事だけがやけに印象に残りました。

  「藤川宿資料館」では、私の場合はボランティアの案内人がいて、色々説明してくれました。日暮れ近くで先を急ぐ我々としては、もう勘弁して欲しいなというのが正直な心境でしたが、その時出会った例の東海道を「線」で歩いているというご婦人方は、「今日はこの先の<<美合>>に宿を取ってある」と疲れた足を引き摺りなから歩いて行きました。平均して一日25K歩くという彼女らが、「旧東海道」を歩くのに「大変便利に利用している」と盛んに勧めてくれた「道しるべ」(リーフレット)は、私も今回この資料館の人から一部を頂きましたが、 赤坂・藤川」(副題「旧東海道赤坂から美合まで」)と題するこのリーフレットは、イラストながら非常に克明に描かれており、迷い易い所にははっきり地図も示されていました。

  思い出して、今改めて先日の松川さんの情報を見てみますと、松川さんの紹介された「宿場マップ」は「関東編」、そして今回彼女が教えてくれたのは、言わばその「中部編」に当る物かもしれません。

  私は未だ請求していませんが、次の所に電話すれば「無料」で送ってくれるそうです。

    名古屋市中区丸の内3−5−10

                   社団法人  中部建設協会

                 TEL:052−962−2210

  今手許にある同協会が企画・編集し、愛知県東海道ルネッサンス推進協議会が監修したこのリーフレットの最後に曰く。

  「この<<東海道散策マップ>>は、[東海道ルネッサンス]推進事業の一環として社団法人  中部建設協会が公益事業活動で作成しました。体験記・ご意見等をお寄せ下さい」と。私も急いで請求して、巌さんの「メッセージ」を「体験記」として「盗用」させて頂く事と致しましょう。