[28]白須賀〜ニ川〜吉田

 

 

1.発言番号:655

    発言者  :深澤 龍一

    題名  :広重の東海道「白須賀」〜「吉田」を歩く

    登録日時:99/05/28 11:02 

 

(プロローグ)去る5月17〜8日と巌さんの「代参」で「白須賀」〜「吉田」の宿を歩く。今回から一泊という事で、けちん坊な私は皆さんより一足早く1番の「こだま」で浜松で乗り継いで、9時前に「舞阪」に着く。ここは去る3月に巌さんが詳しくメッセージを送られた所。駅前を海に向って松並木に出るとその風景から「旧東海道」と直ぐ判る。この松並木は「静岡県のまちなみ50選」にも選ばれている。巌さんの歩かれた道をその侭に、「北雁木」から浜名湖に架る「弁天橋」〜「中浜名橋」〜「西浜名橋」と車の往来の激しい3ツの橋を渡って、程なく「新居」の宿に入る。ここは4月の巌さんのメッセージに詳しい。

  巌さんが是非見てきなさいと言った「新居関所跡」は、本日休館日と聞いていたが、幸い植木屋が庭の松の手入れをしていて、関所の「門」が開いていたので中に入って建物を一回りする。

 「覚え書」に曰く。

一.関所を出入輩乗物の戸を開かせ笠頭巾をとらせて直すへきこと

一.往来の女つぶさに証文引合わせ直すへきこと

  なほ乗物にて出女は番所之女を差出して相改めるへきこと

一.手負死人等不審なるもの証文なくして通すへからさること

一.相定る証文なき鉄砲は通すへからさること

一.堂上の人々諸大名の往来かねてより其聞にあるは沙

 汰に及はす若不審な事あるにおいては誰人によらず改むへきこと

  右の条々厳に密に可相守者也  仍如件

          正徳元年五月                              奉行

 

  時計を睨みながら「棒鼻跡」から引返し、駅前で「うな重」で腹拵えの後、12時15分駅の改札で皆さんと合流する。

  斑目先生がバスを待つ間、「今日は一番交通の便の良くない所」との事。新居駅前から「豊橋行」のバスに乗り「潮見坂」の手前で下車。

 

1.白須賀宿

  この宿場は静岡(遠江)の外れ愛知(尾張)との国境に接する所で、元々海岸沿いに位置したが、(「須賀」とは砂地の小高い所の意)宝永4年、富士山の爆発による地震・津波の後、この「潮見坂」を登り切った高台に宿場が移転した。

 

(1)潮見坂

 我々は坂の登り口から急斜面を垣間見た後、引返して「潮見観音」で有名な龍谷山蔵法寺の境内に入る。この寺は790年頃の創建で元々真言宗であったが、1598年に曹洞宗として再興されたという。岡山の池田氏の祖先に当る池田綱政公が、参勤交代でここ白須賀宿に泊った時、観音様のご託宣で宝永の大津波から逃れたという事で、今も池田家の信心が厚いそうだ。寺の裏手が潮見坂に通じて、こちらの方が道が緩やかだと斑目先生は至極得意気であった。今日の一行は、先生と私を除く5人は全て女性なので特に配慮されたのであろう。

  坂を登り切った所、小学校の前は潮見坂公園跡、ここから海岸を見下ろす風景は将に広重の画そのままで「眺望絶佳」、街道一の景勝地と言える。京から江戸に下る時、旅人はここで初めて富士の姿と、遠州灘の壮大な海の風景に接して、古くから旅人の詩情をくすぐる場所である。家康が茶室を作って信長をもてなした所でもある。又、ここから細長く続く丘陵は歌枕で有名な高師山で、「十六夜日記」にも「高師山を越えて海を見る  浦風荒れて  松の響きすごく  波高し」とある。

 

 この坂を過ぎると程なく宿場に入る。

 

(2)曲尺手(カネンテ)

 「曲尺手」とは直角に曲げられた道のことで、主君を駕籠から下ろす事は大名行列を指揮する供頭にとって一番の失態とされるので、先ず「斥候」を曲尺手に差し向けて、禄高の多い大名が来た時には主君を近くの寺などに一時待避させたという。

 

(3)本陣跡

 本陣職は代々世襲して本陣経営を続け、名字や帯刀を許されている者もあるが、名誉だけで本陣が用意するものといえば「薪」位のもので、料理や茶碗まで全て大名が持参したから、経済的には大変だったようだ。その点ではまだ脇本陣は、大名行列の合間には一般人を泊めて「金稼ぎ」が出来たらしい。

  同行の女性が「かちわ餅」の看板を見付けた。秀吉の小田原征伐の際に食べたソテツ餡のかしわ餅が気に入って、戦に勝った帰りに再び立寄って「かちわ餅」(勝和餅)と名付けたという。(但し今は作っていないという事だった)・・・広重の絵には次の「ニ川宿」に「かしわ餅」の看板が描かれているが、その辺の事情はつい聞き漏らした・・・。

 

(4)火防樹のマキ

 この宿は1708年に潮見坂上に宿変えしたが、津波に代えて冬西風に晒されて火災が頻発したので、類焼を防ぐ為に宿の所々に間口2間、奥行4.5間に亙って常緑樹で火に強いマキを10本ほど植えて防火樹林とした。今も其の一部が残されて直径50センチ以上もあるマキの大木は見事であった。

  宿場を過ぎると間もなく「境川」、橋を渡ると愛知県に入る。先生が公衆電話を掛けに行った。聞けばここから暫らくは歩いても詰まらないから、今夜の宿の主人に旅館の迎えの車を出して貰うと・・・

 

2.ニ川宿

  30分程で旅館の大きなバスがやってきた。人の良いご主人が「ニ川宿」近くのパチンコ屋の駐車場に車を停めて、「ゆっくり見物して来て下さい」と言ってくれた。時計は既に4時に近く本陣は今日は休館日。

 

(1)妙泉寺

 宿場の名残をと日蓮宗の寺を訪ねる。ここにも芭蕉の句碑があった。「 あじさいや  やぶをお庭の  別座敷」芭蕉の生きた頃から世間一般の生活にゆとりが出て、句などを嗜むようになったので、その才能を鑑賞してくれる人がいたからこそ、芭蕉も西鶴ももてはやされたので、もっと早ければ流石の芭蕉も歴史に名を留める事は無かったであろうとは斑目先生の言。昔は大名が交替する毎に自分の宗旨の寺を建立したから、城下町にはお寺が多いのだそうだ。

 

(2)一里塚跡

 江戸日本橋より72里、京都まで53里20町街道に沿って古い街並が続くが、車を待たしてあるので旧街道の見物もそこそこにして切り上げる。

  今日の宿は豊橋の北の外れ石巻山の中腹に位置し、市街からも建物がとても良く見える。主人が道楽にやっているというこの宿は、座敷から豊橋市街が一望できて夜景がとても奇麗だった。

  翌朝8時半に再び車を出して頂いて昨日見残した本陣へ。途中65才のご主人が、戦後17才の頃の「郭遊び」の話を面白おかしくしてくれて、車中の女性達からヤンヤの喝采を浴びる。

 

(3)ニ川宿本陣

 「東海道」の中で「草津」と、この「ニ川」だけが今も猶「本陣」としての建物が保存されて、一般に公開されている。この本陣は佐藤家〜紅林家〜馬場家と三度変ったが、昭和60年に当時の当主馬場八平三氏が、全国的にも貴重な歴史的建造物であるこの本陣遺構の永久保存と活用を願って、豊橋市に寄贈されたものである。文化年間の間取図によると、525坪の敷地に建坪181坪と勿論宿内随一の建物であった。

  旧東海道は本陣を中心に町屋が続いて、所々家の表には「東海道ニ川宿旅篭XX屋」の古びた木の札が往時の面影を偲ばせる。「木賃宿」は米を持参して薪代を払う宿で、「旅篭屋」は食事付の宿屋である。

  ニ川の駅からJRで次が豊橋。愈々昔の「吉田宿」である。

 

3.吉田宿

  ここ豊橋は戦時中県庁の所在地でもないのに師団司令部が置かれた所から軍事的要衝で、昭和20年6月19〜20日にかけてB29によって徹底的に破壊された。そんな事で「旧東海道」も「史跡」もズタズタになって昔の面影は殆ど無い。

  先ずは「腹拵え」と旧東海道に昔から続く名物「菜めし・でんがく」の店「きく宗」に入る。間口2間程の小じんまりした店で、お値段も結構なのだが、奥が深くて2階まで狭い客席が人で一杯である。豆腐の田楽が7〜8本に味噌汁、そして大根葉を細かく刻んで塩味のご飯に混ぜただけの「菜めし」、漬物が付いて@¥1,700.でございました。

 

(1)吉田城

 戦国時代に「今橋城」として築かれ、市内を流れる「豊川」の畔に位置し、ここは往時海陸の幹線のクロスする所として戦略上重要な地点であった。因みにこの豊川に架るのが市名の由来ともなった「豊橋」で、今は立派なコンクリートの橋になっていた。城跡には現在石垣の一部と戦後再建された角櫓を残すのみで、周囲は公園として美術館や博物館、公会堂等が集められていた。

  公園の外れの市役所の13階にある展望台から市街を一望する。

 

(2)豊橋ハリストス正教会

 小さいけれど異国情緒溢れるこの建物は大正2年の建築で、木造ながら戦火に堪えて今も美しいその姿を留めていた。

  旧東海道を辿って「鍛冶町」を歩きながら同行の女性が一軒の鍛冶屋を覗いていたら、中から品の良い初老の奥さんが出てきて「ご説明しましょうか?」と声を掛けてきた。

  この奥さんの話によると、昔はこの街並に44軒の鍛冶屋が軒を連ねていたが、時代も移り変わってあのお家も蔵を壊したとか、あの家は建て替えて今はお婆さんの一人暮らしとかで、「四ツ目屋」と称するここだけが、今も尚細々と「仕事」を続けていると淋しそうに微笑んだ。今の奥さんで十七代目だそうだ。

  色々と親切に説明してくれたが、新幹線の発車時間の関係で、丁重にお礼を言って彼女と別れ、大手門跡〜問屋場跡〜本陣跡〜曲尺手門跡と石碑を追いながら豊橋駅に向う。

 

(エピローク)帰宅したら1枚の葉書が届いていた。「6月には宮から吉田まで東海道を歩かれると賀状にありましたが、折角のチャンス、若し宜しかったら36年振りに再会が実現するかも・・・」と。広島支店に勤務していた時の女子事務員で、稲沢に嫁いでからも何故か毎年年賀状を呉れていた。巌さんのコースが意外に進んで、先生のお話では6月は一泊して「御油」〜「赤坂」〜「藤川」〜「岡崎」の予定の由。私も6月「悪童の会」で下呂温泉に行った序でに、この彼女と「宮」〜「鳴海」を周れば、ポツンと取り残した「大磯」と、一番最後にとってあった「大津」〜「三条大橋」で、長かったこの旅も「大団円」を迎えると言う事になる。太田さんの「土下座」の舞台も近いと言う訳だ。

 

 

2.発言番号:656(655へのコメント)

    発言者  :巌  隆吉

    題名  :広重の東海道「白須賀」〜「吉田」を歩く

    登録日時:99/05/29 13:05

 

  深沢さんご苦労様でした。私は生憎都合が悪く代りに歩いていただき恐縮しています。

  でもさすがは深沢さん今回斑目先生の旅の他に、舞坂、新居の宿も歩きそれに、予定された白須賀、二川、吉田の宿を加えますと五つの宿を歩く強行軍。後僅かで五十三次も完了。太田さんのお顔を拝める日も近いですね。

  中でも17才の「郭遊び」のお話し、さぞやご夫人連中も驚いたことでしょう。その時の顔を見たいなと思った次第。

  私も白須賀から吉田の間は車では良く行き来していましたが、宿場自身は全く知りませんので楽しく読ませていただきました。

  「潮見坂」は絶景だったでしょう。また有名な「きく宗」の豆腐田楽は如何でしたか?

  なお、今度の6月の日程等は中村幹事に聞き確かめて参加します。