[27]新居

 

 

1.発言番号:629

    発言者  :巌  隆吉

    題名    :東海道五十三次新居宿(新居関)を歩く

    登録日時:99/04/24 16:51

 

  去る4月20日JR新居町駅に降りる。

  明治21年東海道線が出来た時は線路は浜名湖の中の造成された堤防の上を走っており、この新居町駅付近は湖の中。その後当時5万円という大金を投じて南側を埋め立て大正4年に建設されている。従って丁度84才の駅だ。明治21年の地図を見るとまだ湖というか海の真ん中だということが良く判った。

  湖上1里、舞坂を出た今切の渡し舟が着く所が新居関所(今切関所)だ。

 

  新居関所

  この関所はかっては今より海側にあったがその後地震や津波のため現在地は3度目の場所である。それは吉原宿の移転や富士川右岸の山道への移転と同じ理由からであった。

                新居関所

  現在の建物は安政2年(1855年)建て替えられたものだが、現在では唯一現存する貴重な関所建物である。最近史料館の南側を発掘したところ、当時桟橋にしていたところの林立した松杭が出てきたようでその上に立って関所建物を眺めるとその当時のことがおぼろげながらも偲ばれてくる。

  特にこの関所の「女改め」は厳しくそのため女人は恐れて北の「姫街道」を良く利用していたようだ。

  手形の不備で江戸時代の女流歌人井上通女はこの関所で足止めされている。

  その歌に

    旅衣  あらいの関を  越えかねて  袖によるなみ うらみつつ

が残っているが手形は「女」とあるが当時振り袖を着ており「小女」と書いてないので通れず、国元まで使者を送り新しい手形を貰いやっと通れたという程女性に厳しかったようだ。

  また、関所破りは磔で長崎からの帰り道、女を関所破りさせた男与七の仕業が露見江戸で囚われ、牢死したその死骸まで塩漬けにして新居の関までわざわざ送り返してまで磔にしたという。昔の関所のしっこさが特に印象に残った。

  このような関所は江戸時代53ケ所あるが、新居の関は、関ケ原の1600年から明治2年の1809年まで207年間厳然として江戸徳川を守っていた。

 

  新居宿

  新居関を出ると直ぐに宿場になっている。この宿場は冬場の空っ風による火事を恐れて南北に連なっており、しかも横道や裏町もあり良く整っている。

  本陣は三つもあり、疋田弥之助本陣(建坪188坪、対馬、宇和島、今治等70家担当)飯田武兵衛本陣(建坪196坪、小浜、桑名、岸和田等70家担当)疋田八郎本陣(建坪195坪、吉田、御三家等120家担当)が軒を連ねている。中でも疋田八郎本陣は薩長が泊ま    っていたので名高いようだ。

  この宿場の西には高師山が眺められ、東の源氏ゆかりの源氏山は殆ど昔の埋め立てで使われ昔を僅か偲ばれる位しか残っていない。

  途中「一里塚跡」が残っており、宿場の出口には「棒鼻跡」がある。

  この棒鼻とは棒先の意味でこの地区は桝形になっていて参勤交代の諸大名はここの宿場のこの入り口で陣容を整えて宿場入りした由で泊まる本陣からの出迎えもあったという。

 

  浜名橋と橋本宿

  浜名湖に切れ目が出来る前は湖の南から1本の川、浜名川が流れて新居宿の南西あたりから海に注いでいた。その川のかかっていたのが「浜名橋」。当時168mの木の橋がかかり、平安時代に貴族はこの橋を東日本と西日本の境界のように意識していたようだ。

  阿佛尼の十六夜日記にも、「はまなの橋より見渡せば  かもめ飛ぶ鳥  いと多く  飛び違いて  水の底にも参る岩の上にも」とあるようだが、また上総介菅原隆標(タカスミ)の娘の書いた紀行文の更級日記にも「はまな橋下りし時は  くろ木を流したりし この度は  あとだに見えねば  舟にて渡る」と綴っているおり、また「外の海は悪しく波高し」とも述べているようだ。

  現在は川は涸れ、僅かに小さな橋がかかっているのみ。

この橋の麓を橋本といい昔色町として栄えていたのだという。今は寂れていて昔の面影は全くない。

  この橋本を頼朝も2回通っており、その時に使った井戸が「風炉の井」として残っている。その時長者の娘(妙相)と結ばれたがその時下賜された団扇扇子陣太鼓等が応賀寺に残っているともいう。

  また、この橋本には足利時代義教将軍が関東管領に対しての示威のため、富士見物と称してここを通っているがその際紅葉寺に泊まっている。おそらく太平洋が見えただろう。

    

  東福寺

  浜名の橋より再びJR新居町駅に向う。途中小さな上下神社を通って東福寺に入る。この山門には木造の金剛力士立像があり、ア形ウン形の表情が見事で安永8年(1771)の作という。

  また、昔は真言宗だって現在は臨済宗で目通り3.2mと3.6mの大きなマキの木が見事であった。

  源氏山を崩して造った立派な小学校前を通り良く整備された道を通って駅に向った。江戸時代は関所のお陰で繁栄したのであろうが現在の新居町も随分裕福だなと感じながら駅に着いた。浜松で乗り継ぎ酒で疲れを癒しつつ帰京した。