[26]浜松〜舞阪

 

 

1.発言番号:612

    発言者  :巌  隆吉

    題名    :東海道浜松宿から舞坂宿を歩く

    登録日時:99/03/23 19:04

 

  去る3月16日朝11時過ぎ新幹線浜松駅に降りる。今日は浜松宿と舞坂宿を歩く日、前日までの雨が嘘のように晴れ最高の天気に恵まれた。浜松は、端午の節句に浜松の砂丘で上げられる勇壮な大凧合戦に見られるように、何事にも前向きな「何くそ」という気風に満ちた産業都市であり、オートバイ、自動車、楽器と世界をリードする工業都市である。戦争中は飛行場や航空機工場もあったため、空爆に艦砲射撃と米軍にたたかれたが、戦後ホンダのオートバイに見られるように逸早く復興している逞しい街だ。

 

  浜松宿

  この浜松は、あまりにも近代化されて古いものが殆ど残っていない。旧東海道は田町から神明町、連尺交差点を南下して伝馬町、旅篭町にいたる道であるが、この連尺交差点の南が昔栄えた宿場町で数多くの宿場跡の掲示がされているので、その昔の面影を僅かに偲ぶことが出来る。

  この宿場には本陣が川口本陣、杉浦本陣等6軒もあり、中でも杉浦本陣(272坪)は国学の大家、加茂真淵の婿養子先として有名である。加茂真淵は本陣に妻子を残して上京古典を研究した。その出生地はここから約1km西にある。

  この付近にあった旅篭は明治28年の地図によると色町の貸屋敷として栄えており、米久もその名残の由で、旧東海道の東は今でも色町として栄えている。

  この宿場の屋号で残っているのは、谷島屋(書店)と柳川屋(うなぎ、どじょう)位だろうという。尤も昔の場所より道の反対側になっている。高札場跡や番所跡も見る。梅屋本陣は西武デパートの位置にあった模様。

 

  浜松城

  歩いて立派な市庁舎の前を通って浜松城に行く。このあたりは静かな雰囲気。

  大手門は8間×4間で見事だがその石垣は家康が晩年築いた城の整然とした石垣と違って雑然としている。戦国の最中急いで築城したので、「のづら積み」という貧弱な石垣であり、家康は三方が原の敗戦後この城に命からがら逃げ帰っているし家康のいた17年間は全く苦労の連続だった。

  でもこの城は掛川城とともに出世城として有名。現在、この城はコンクリートで昔の形で再建されており、若い時の家康の像もある城の前で前方駿河の国の方を眺めながら、家康の1代記を聞く。特に、幼くして今川・織田の人質になり、特に築山殿と信康(自害)の殺害は彼の忍の人生を強いられたと思う。また、家康は多くの側室を抱え子福者でもあり、それがそれぞれ徳川の基礎を築いている。

 

  浜松復興記念館

  浜松は戦時中27回も砲爆撃を受け、12万人の内約5千人が死傷、羅災率は92%に及ぶ大きな戦災を受けている。特に20年6月18日の大空襲と艦砲射撃は凄かったようだ。

  昭和32年の昭和天皇の歌

    いくさの跡  いたましかりし  この市も  火影あかるく  にぎはえる見ゆ

とあるが、浜松の人の復興への情熱には、今でも頭の下がる想いだ。

 

  柳川亭

  前述したように江戸時代からあった店。ここの主人小池裕二郎さんは考証江戸歌舞伎の小池章太郎が兄であるが、目下家業どじょう屋のかたわら、笛の製作と「篠音会」を主宰している笛の演奏の大家でもある。

  たまたま修理のおわった「甲斐の江」という笛を直接吹いて貰う。この笛は、もともと風流人の信玄より拝領したものの由。かって女郎衆を邪魔者だとして川に落として皆殺しにしたが後になっても、そのうめきが聞こえるので供養に使ったこともある歴史的な笛のようだ。吹いて貰うと心なしか、今でもそのような不気味さが残っている。

  それから篠笛も吹いて貰ったが、その音色は何となくさわやかであった。

  義経の「うす墨の笛」等の話しも聞いたが笛は日本の昔からの美しい音色の楽器だなとつくづく思う。

  また、小池さんから浜松に残っている数々の伝説を聞いた。たとえば「小豆餅」を三方が原から逃げ帰る途中食ったが、追手に追われて代金を払わず逃げ、後に借金取りが来た「ぜにとり」の話しや武田勢を落とした「布橋」その供養の「遠州大念仏」や、虚勢を張った「酒井の陣太鼓」大八幡宮の大楠の洞穴に家康が隠れて逃れた話し等面白かった。

 

  五所神社諏訪神社(合祀)

  家康浜松城に入って城内にて天正7年4月7日秀忠出生のため、その産土神としてこの地に遷座建立された。江戸時代、石高両社併せて600石。

  現社殿は昭和57年竣工の美しい社殿だ。         

 

舞坂宿

  舞坂駅から旧東海道を暫く歩くと見事な昔通りの松並木が残っている。松食い虫の被害もなく全く見事だ。歩いて気持ちが落ち着く。

  もともと浜名湖と海とは離れていたが約500年前の1498年大地震で「今切り口」という裂け目が出来て渡船に頼るようになった。現代は大きな橋で結ばれているが江戸時代は渡船であり西には改めの厳しかった新居の関がある。

  元来、弁天島を含め砂地の州なので、「雁木」という木の棒を打ち砂の流れを止めて航路の確保をしていたという。

  松並木の中の大きな「舞坂宿」の碑を見ながら歩くと「日本橋」から「京都市」までの五十三次の広重の絵が次々と銅板に刻まれている。一同これで五十三次踏破完了と笑いながら、広重の絵を見る。

  「見付石坂」という宿場の入り口が昔のまま残っている。ここには、6尺棒を持った番人が立っていた筈。途中一里塚と新町常夜燈が慶長9年(1643年)に建てられており、江戸より67里1町とまた、火事を恐れて秋葉山も刻まれている。それでも文化6年(1809年)には大火事があり宿場の大半を焼失している。

  この宿場には、その火事の後文化10年と文化12年に建てられた二つの秋葉大権現が刻まれた常夜燈が残っている。唐っ風の強いこの宿場の火事を恐れてのことだろう。

 

  岐佐神社

  この神社は小高いところに建っているが大地震で津波が襲った時ここに逃れて来た人のみが助かったところだという。

  まさに、古事記の世界の「きさがいひめ」と「うむがいひめ」の話しによっている神社である。それは大国主が赤猪を獲れと命じられ、代りに焼けた赤石を落とされて大火傷した。この火傷に「きさ」(赤貝)の汁を「うむがい」(蛤)で受けて塗ると元どおりに麗しき壮夫となった話しである。ギリシャ神話のようだと先生から説明あり。

  この方法は古代火傷の療法かな?

  また、その神社に傍のその赤石にもしめ縄を掛けられて祭られている。

 

  脇本陣

  本陣跡を見て、元の場所に元の木材を一部使用して脇本陣を復元して、町当局が管理している。書院棟の上段の間には大名が泊まるのだがその近くには畳敷きに黒と朱塗りのトイレや黒漆塗りの湯殿の風呂等も目を引く。

  脇本陣の玄関も素晴らしい。記念写真を撮る。

 

  北雁木

  今は漁港になっているが北雁木常夜燈を復元して昔の面影を僅かに残している。ここから渡船で新居の関まで渡ったのだという。雁木跡は3ケ所あり。

  西の方を見れば一寸した船旅も想像出来るし、更に南を見ると最近造られた凄く大きな近代的な橋が見える。

 

  那須田又七顕彰碑

  又七は天明4年(1784年)生まれ嘉永3年(1850年)没しているが、この間、のり養殖にたずさわり大成功したので、時の代官が立派な顕彰碑を建てている。当時「袱刀爺爺」(ふくさかたなじじ)と敬愛されており産業貢献者を当時の武士が顕彰したのは本当に珍しいことだ。

  この遠州には昔から伝統的に優秀な技術者が育つ素地があるのだろう。

 

  弁天神社

  もともと祭神は厳島と同じなのだが、この神社は川越から持って来たものだという。近くに伝説の「天女の松」があり、この松に人妻が触ると子宝に恵まれるとの言い伝えがあるようだ。

  直ぐ傍に子規の句碑がある。

    天の川  浜名の松の  十文字

  澄んだ空、ここに来た子規は夜空を見て「十文字」と詠んだのだろうか。

  夕方遅くなったので近くの弁天島駅から、浜松駅経由新幹線で帰った。途中小さなヤマサのチクワを酒の肴に先生たちと乾杯、疲れを癒した。帰宅すると今回も約2万歩となっていた。

  舞坂の宿は丁度30番目の宿場だ。来月20日には新居宿を訪ねる予定。