[25]見付

 

 

1.発言番号:584

    発言者  :巌  隆吉

    題名:広重東海道五十三次袋井から見付の宿を歩く

    登録日時:99/02/28 18:06

 

  去る2月16日、東海道のど真ん中袋井の宿より見付の宿(磐田)に向って歩いた。太田川を越え磐田原台地に残る旧東海道を経て見付の宿国分寺跡まで約1万4千歩、前後を合わせると約2万歩となり、久しぶりに歩いた実感が残った。

  まずは、太田川の右岸より丘陵地帯、所謂磐田原台地であるが、この台地は天竜川の扇状地が隆起したところでその中央のくぼんだところに見付の宿があり天平時代には国分寺があった。このように昔から政治的にも文化的にも大変進んだ土地のようだ。歩いて見てその名残を随所に見ることが出来る。

 

  七つ辻

  太田川から立派な松並木を抜けて丘陵に取り掛かると旧東海道も坂道になるが、その付近は昔からの交通の要衝であり旧東海道(江戸古道)の外、鎌倉の古道、大正明治の道さらに昭和のバイパスと数多く各時代の道が残っており大変面白い。

  その登り詰めたところに大日堂がある。そこから東を望むと太田川から袋井の周辺が一望される。文字通りの軍事面での要点であり、元亀3年(1572年)家康の四天王の一人本多平八郎が信玄に対しての物見の陣を置いていたといい、その何代目かの小さな「物見の松」が今も残っている。

 

  桶ケ谷沼

  この大日堂の北、バイパスの近くに潅漑用の沼がある。この沼が現在「トンボの天国」として有名になっている。トンボの最盛期訪ねると良いだろう。

 

  遠州鈴が森

  暫く人通りの少ない道を歩くと昔日本左衛門のさらし首のあった処刑場の薄暗い気味の悪い森が右手に見える。現在でも妖気がただよっているようだ。

  さらに歩くとバイパスで削られた道の傍の急な階段の上にそこでの処刑者を慰霊する念仏の碑が建っている。多くの無縁仏の魂が未だに救われない思いをしていることであろう。しばしただずむ。

  三本松の地名も残っているがこの松を別名「なみだ松」ともいうようだ。

  富士見町という地名もあるが、そもそも昔京からの旅人がここで始めて富士山を見ることが出来た。これが「見付」の名の由来という。

 

  見付天神

  菅原道真公のタタリをおそれて京都をはじめ数多くの天神が祭られているがここにも天神様があった。中央を追われて太宰府権の卒として飛ばされ3年で亡くなった道真のタタリを恐れた朝廷は、道真が右大臣になってから70年後の993年に太政大臣の官位を贈っているが、没後この地にまで大きな影響を残している。

  そのタタリとは、その没後将門の乱に見られる大乱とか京都のポックリ死等が頻発したためという。

 

  阿多古山

  見付の宿の入り口に小高い阿多古山がありその麓に一里塚、その山上に小さな祠が祭られている。

  ここからは、東から西にかけての見付の宿が一望出来る。その近くの木戸跡には江戸から 62里(約240?`)とある。

  山の上から眺めると旧東海道の道幅を広げているが、道筋はそのまま残っており、天保13年(1842年明治維新の26年前)の手元の地図を見つめると昔の様子が想像出来る。

  また、山から眺めると大変お寺が目立つ。祠の前で一遍上人や日蓮の話しを聞く。袋井には日蓮両親の供養塔のある妙日寺があるが、私はさらに去る2月24日と25日に日蓮ゆかりの房州の誕生寺、鏡忍寺、清澄寺を訪ねて、日蓮の苦脳やその業績をさらに重ねて知ることが出来たのは幸いだった。

 

  見付の宿

  古地図を見ながら町を歩く。間口等は昔通りで昔の町並みを想像出来る。この宿場町には百姓も多かったようだが、現在の商家を見て同じ酒屋が今も同じ商売をやっていると昔からの流れかなと思ったりして大層ロマンがあった。

  先覚者岡山の鳥人幸吉は、何処でも追放され流れ流れてこの見付で死んでいる。その墓は大見寺にある。

  道幅拡張のため土蔵がむき出しになっているが、その壁に火事の際の水むしろ掛けの釘も見られて面白い。今までそのことは全く知らなかった。

  宿場なので、当然のことだが本陣跡や問屋場跡等も残っている。

 

  旧見付学校と磐田文庫

  見付は中世以前は遠江の中心地で文化も高かった。その流れもあり既に明治8年、洋式の立派な見付学校を建設している。今も現存しており、昔小学校で使っていた石版や教科書、「ハトハナマメ」「サクラサクラサクラガサイタ」等の資料を展示していて懐かしかった。

  日本で現存する最古の洋式小学校である由。この建物は当時有名だった宮大工伊藤平左衛門が建てているが材料は惜しみなく使って見事なものだ。

 見付学校

 

  展示物の中に三方ケ原で敗れ浜松城に家康は逃れたがその時酒井忠治が打ち鳴らしたという浜松城にあった太鼓が飾られているのは珍しい。

  また、この学校の中に「邑に不孝の戸なく家に不学の戸なからしめん事を期す」と書かれていたのが印象に残った。     

  磐田文庫は大久保忠尚が創設、今での図書館のはしりで甚だ頑丈な建物である。その一族の大久保春野は当時薩長以外はなれなかった陸軍大将に維新での大久保家の功績を認められなっているが、徳川の膝元のこの地元には終生馴染めなかったようだ。

 

  曹洞宗宣光寺

  この寺には天正5年霜天、源家康と銘記された貴重な古鐘が残っている。また、この鐘は戦時中も由緒ある鐘だとして供出を免れている。

  隣に毘沙門天像をおいた「身代わり地蔵」がある。この地蔵は家康が元亀3年三方ケ原から逃れ、敵の目をくらますため放火したがその火を消してくれたといわれている。 

 

  国分寺跡

  見付の町筋を西に向うと真っ直ぐ行けば「姫街道」にぶちあたるが東海道はそこから南に折れている。

  南に暫く歩いて広い国分寺跡に行く。この国分寺は天正9年から13年(741年)頃建てられ近くの府八幡にある句碑に聖武天皇と国司桜井王の歌が残っている。聖武天皇の侍従をしていて天皇と親しかった桜井王の「...はつかりの使いにも思う心には...」の歌に対して天皇の「大の浦の その長浜に  よせる波   ゆたけききみを   思うこの頃」という返歌が刻まれている。

  この国分寺跡の七重の塔跡を見たが、その規模は15メートル×15メートルで高さは66メートルその壮大さは想像に絶する程だ。この七重の塔は惜しくもその後、弘仁10年(819年)に焼失したという。

  この七重の塔に象徴されるようにその当時遠江の国は重要なところで、またこの見付もその中心地として栄えていたのだろう。

 

  府八幡宮   

  丁度紅白の梅が満開の国分寺跡を歩いて、直ぐ近くの先にも述べた府八幡宮に行く。創立は国分寺と同じ頃の天平年間、国府の守護神として建てられている。特に江戸時代に建てられた桜門は大変見事だった。

  夕暮れになり、この府八幡を後にして東海道を南に歩き磐田駅に着いた。掛川からの新幹線の中では、斑目先生とビールとお酒で乾杯。

  深沢さんの強行軍には到底及ばないが今日は相当疲れた。でも車中、漸くその疲れも癒すことが出来た次第。