[24]掛川〜袋井

 

 

1.発言番号:534

    発言者  :深澤 龍一

    題名    :東海道五十三次(掛川〜袋井を歩く)

    登録日時:98/12/31 08:27

 

 バスは昼下がりの東海道を西に走る。乗客は一緒に乗った老婆を含めて5人。窓外の景色と地図とを見比べながら一里塚跡と思しき地点の直前でブザーを押す。下りる時運転手が怪訝な顔で私を見上げていた。

 

1.葛川一里塚跡

 宿場の手前馬喰橋の袂、土饅頭に小さい木を植えて「東海道葛川一里塚跡」の標識があって、「京都より69里17余・江戸より56里31余」とあった。ここからはすっかり整備された「新道」が伸びて、掛川の宿場に向って歩き出す。

  宿場近くになって、見当を付けて新道から別れて曲がりくねった道に入る。常夜燈や番所跡が在るので「旧街道」と確認する。何処でも宿場の手前ではこうして道が鍵の手に折れ曲がっている。「刃物研ぎ」の看板を見付けてふと夜泣石の「音八」を思い浮かべる。

 

2.天然寺

 整備された新道に沿って「浄土宗 泉洞山 天然寺」の山門を潜る。本堂が真新しい鉄筋コンクリートの冷たい感じの寺。門前に「和蘭使節  ケースベルトヘムミ先生古墳」の石碑が立っていた。幕末に使節として来日したヘムミはこの地で没し「戒名」まで受けてこの寺に眠っている。

 

3.掛川城大手門番所

 昔、城の正面に位置して大手門の内側に建てられ、城内を出入りする者の監視や警備をする役人の詰所で、嘉永7年(1854)の大地震で倒壊後、安政6年(1859)に再建されたものが今に残されている。

  都市整備と共に最近此処に再建された大手門からは、矢張り再建された天守閣が左前方遥かに眺められて美しい風景を描いていた。往時の掛川城は可成の規模と推測された。

 

4.掛川城天守閣

 掛川には余り史跡が無いので天守閣に上る。この城は戦国時代の文明年間(1469〜86年)駿河守護大名今川義忠が遠江支配の拠点として創築。桶狭間の戦(1560)で今川義元が織田信長に倒されると、永禄12年(1569)徳川家康に攻められて開城。

  天正18年(1590)全国を平定した豊臣秀吉は家康を関東に移して家康の旧領地には秀吉配下の大名を配して、この城には山内一豊が入った。一豊は多くの戦乱でいたんだ城の改築・整備を行うと共に、この時初めて作ったのがこの天守閣である。

  以後この城は「東海の名城」謳われ、明治2年に廃城となる迄11家26代の居城として栄えた。

 

5.掛川城御殿

 文久元年(1861)に再建されて7棟から成る書院造で約20室を有する。現存する城郭内御殿としては京都二条城など数ヶ所しかないそうだ。

 

6.蕗の門(富貴門)

 この門は掛川城の門で城の内堀(蓮池)の畔にあって、城外侍町より本丸・二の丸・三の丸に通じる要所にあった。廃城とともに西町の円満寺に移築された。(移されたこの門は寺とのバランスを取る為に門柱の下部を切捨てて低くしてあった)

 

7.十九首塚

 桓武天皇より五代の後裔平将門が、自らを平親王と称して日本六十余州を手中にしようとしていた事が朝廷に聞こえ、藤原秀郷らに征討の軍を下向させ、天慶3年(940)2月将門は滅ぼされた。(天慶の乱)秀郷は将門始め一門の家臣19人の首級を持って京に上る途中、掛川の宿まで来た所、京よりは賊臣を禁裏に近付けてはならぬと検視の勅使が派遣されて偶々この地で両者が出合い、近くの血洗川で首を洗って曲橋の欄干に十九人の首を並べて検視を享けた。首実検の後さらし首にしてそれらは無残にも路傍に捨てる事にした。これを聞いた秀郷は、「将門は逆臣であり、そしてその罪は重しといえども今や滅びて亡し、その屍に鞭打つは非道なり」と里人達と十九人の首を別々に埋葬し、懇ろに供養した。

  当時19ヶ所あった首塚も、長い年月の流れと土地開発の為年々少なくなり、現在では将門のものと思われる大きい塚1ヶ所のみとなった。

  此処の地名は十九の首塚があった所から、「十九首(じゅうくしょ)町」と呼ぶようになって町民の守り神として今日まで供養祭が営まれている。

  (所が御承知の通り大手町の三井物産ビルの谷間にも「平将門首塚」あり。手許の「東京日曜散歩」の説明では「天慶の乱に敗れた平将門の首は京都で晒されたが、持ち去られ武蔵国柴崎<<現在地>>に埋められ首塚が築かれたと伝えられている。塚の脇には社があってそれが「神田明神」の由緒とされている。将門が京都に反攻した事績は東国人の心を捉えたようで、此処の他にも関東各地に将門伝説が伝えられている」とある。真偽のほどは太田センセイのお出ましを待たねばなるまい。)

  ここで時刻は2時過、欲が出て次の宿場も訪ねようと此処で踵を返したのが誤りの元。この先にある広重の画のポイント「大池橋と秋葉道」を失念した。駅に向う途中、大手門の近くに地元清水銀行の支店のユニークな建物が目に付いた。角地の平屋建で馬に乗った山内一豊と傍に千代夫人が立っている大きな浮彫刻、軒先には「札差」と「両替」の看板がぶら下がった漆喰の白さが眩しい建物に思わず中に足を踏み入れた。カウンターも格子状でなかなか面白く、関宿の三重銀行の支店が思い出された。

  少し腹も空いてきたので途中の店で菓子パンを買い求め、2時40分発の電車の中で急いで頬張る。次の駅が「袋井」である。

 

 

2.発言番号:535(534へのコメント)

    発言者  :太田 

    題名    :東海道五十三次(掛川〜袋井を歩く)−十九首塚

    登録日時:99/01/02 23:04 

 

  東海道五十三次もここまで来ると、小生は行ったことも見たこともないから、全く手が出ないので、コメントはずっと失礼したままで、唯井戸端会議室をフンフンと見ているだけだ。しかし、見ている証拠に、今回「太田センセイのお出ましを待たねばなるまい」とあるのを見て、小生も平将門と藤原秀郷について一席語る積もりになった。

  小生は関東の人間として、平将門と田中正造を最も尊敬している。二人とも悲壮な正義感で中央権力に立ち向かい、一敗地に塗れたものの、庶民の間で絶大な人気がある点が共通している。

  正造は近代の人間であるし、小生故郷市内の出身で生家が今も残っているので総てが明白であるから、又いつでも採り上げることにして、今回は将門のみに集中しょう。

  将門を亡ぼした秀郷を祭る元別格官幣社(栃木県には東照宮と二つだけ)の唐沢山神社は隣町にある。小中学時代に何度も登らされた苦しい思い出からか、将門を殺したからか、祭神の秀郷にあまり良い印象を持っていない。だが 十九首塚」の話では実に筋の通った武将と聞いて、今後は多少評価を変えねばならないだろう。

  将門については、素朴な坂東武者と言う感じがするし、正義感の非常に強かった男であろうと思われる。死後、彼は神に祭られて、関東地方の至る所で尊崇されて約千年、明治の初めに至る。

  彼を逆臣、大悪臣にしたのは「大日本史」に始まる。つまり水戸史学の所為である。関東で「明神」いう神号をもった神社は神田明神を筆頭に殆どが将門を祭っている。

  将門の首については、いろんな説があり、京都に運ばれたと言う説明もあれば、運んで行く途中から飛び返った説もあり、死に場所もいろいろで、兎に角庶民は自分なりに英雄を解釈するものである。

  小野小町、源義経の死に場所が方々にあるのと同じだ。然し、関東から離れた掛川でそんな話があるとは将門人気の強さが窺われる。

  余談だが、今から20年以上前、NHK大河ドラマ将門を主人公にした「風と雲と虹と」を毎日曜身を乗り出して見たものである。彼の活動舞台だった茨城県南部の岩井市は、放映中観光客が押すな押すなで大変なブ−ムになった。

  小生の住所からさほど遠くないので、翌年妻と自動車でゆかりの場所数ヶ所廻ってみた。日曜日にも拘わらず、人っ子一人居ないばかりか、急造バラック土産物屋の戸板が風に揺れていて、言い様のない寂しさに襲われた。日本人の野次馬根性を見せ付けられた思いだ。

  「徳川慶喜」の水戸市も大体そんな経過を辿るのではないだろうか。

 

 

3.発言番号:810534へのコメント

  発言者  :巌  隆吉

    題名    :東海道五十三次(掛川〜袋井を歩く)

    登録日時:99/10/24 22:22

 

  金谷ー日坂ー掛川の宿については深沢さんにお願いして私としては抜けた宿場になっていたが去る10月20日と21日に、機甲会(かっての戦車仲間)が掛川から御前崎で開催されたので、せめて掛川城にも登ってその穴を埋めたいものだとこの会に参加することにした。

  行く前に深沢さんのリポートを精読したが、そのリポートをカバーするような発見は皆無だった。でも折角なので若干感想を述べたい。

  宿泊地は御前崎灯台の下のサンホテルで、珍しかったのは、21日の朝綺麗なご来光が拝めたことと前夜3人の若衆が30キロのマグロをその場ですばやくさばいて刺し身にする位のことだったが、浜岡の原発を見学して現在の問題点を多少知ることも出来参考になった。日本の原発のコストは9円/キロで意外に高いなと思ったし若し空からのロケット攻撃には極めて弱い弱点を持っているとのことだ。

  北上すると牧の原の一面の茶畑。昔幕臣が開いたというお茶畑の中に、お茶工場を展示している「グリンピア牧の原」に立ち寄りお茶の製法とその試飲をして、広重が描いた日坂佐夜の中山付近に出て東海道の石畳を見る。また、武田勝頼がその南の高天神城を攻めるための前線基地として築城した諏訪原城址の鬱蒼とした森を見て掛川城に行く。

  掛川城については再建されたこじんまりした城だが高台にある城の天守閣最上階からの眺めは抜群であった。山内一豊の居城だったので移封された高知城と何となく似ているようだ。深沢さんのリポートのように御殿は昔のまま残っているので一見の価値ありと思った。

  今回始めて東海道からは大分離れるが高天神城のことを知った。今川の城として重きを置いていたが武田勝頼に西の丸を奪取されて降伏、武田方となり、その後勝頼大敗により徳川家康に兵糧攻めによって城兵700騎が一斉に打って出て落城したという悲しい歴史を残している。徳川になって廃城となったという。

  前日20日の夕方、この城の西の丸まで登ったが、滅んだつわものどものことを思い何となくうら寂しい思いにかられた。現在、その場所に山の上にしては立派な高天神神社が建っていた。

  この町のキャッチフレーズは「東海道どまん中」。日本橋から数えても三条大橋から数えても27番目の宿場である。駅前からタクシーを飛ばして先ずは宿場の外れ「妙日寺」からのスタートだ。

 

1.妙日寺

 寺の境内の奥まった所に「妙日導儀・妙蓮導儀供養塔」があった。

  伝承によると日蓮宗の開祖日蓮聖人の両親の供養塔で、正保3年 (1646)に柳生但馬守宗矩(大和柳生藩主)が寄進した五輪塔。

  日蓮聖人の父は貫名重忠(戒名「妙日導儀」)といい、源平の争乱に於いて平家に組していたと伝えられる。平家滅亡後、所領を追われて安房国に移り、日蓮聖人はそこで生まれた。供養塔の建つ妙日寺は袋井市内では数少ない日蓮宗の寺院で、歴代の貫名氏の館跡に正慶元年(1332)に久遠寺の日善上人が開いた。供養塔の隣には初代貫名政直、二代行直、三代重実の宝篋印塔も祀られていた。

  此処から旧東海道を西に歩く。タクシーの運転手が指差していた「松並木」を眺めながら歩いていると、特に松の木の多い所に社があった。

 

2.七ッ森神社

 七ッ森は田圃の真ん中に残る七つの塚として、尾張藩士高力猿喉庵が天明6年(1716)東海道を自ら旅して記した「東街便覧図略」に描かれている。

  その中で一番大きな塚の上に描かれているのが現在の七ッ森神社。

  この七つの塚(森)には悲しい伝説が伝わっていて、桓武天皇の頃、日坂宿に出没していた怪鳥を退治する為に朝廷から派遣された七人の武士は退治できずに返り討ちにあい命を落した。哀れんだ村人が墓を作り彼等を葬った。その墓が七ッ森だと伝えられている。

  神社には古墳時代にこの地方を治めていたと考えられる久努国造が祭神として祀られ、周辺に久努、久野、久能そして国本等の地名が見られる。

  境内の奥まった所に直径2Mもあろうかと言う大木があった。

 「袋井の名木古木・七ッ森久努神社のシイノ木」。

  暫く歩いていると石碑あり。「従是油山道」と。ここ袋井には「遠州三山」と呼ばれる「可睡斎」・「油山寺」・「法多山」の三つの名刹が集中している。袋井最大の見所だそうだが何れも東海道から可成り外れていて時間も無くて立寄れなかったのは誠に残念であった。

  更に西に行った「袋井市綜合センター」の脇に「従より袋井宿」の新しい石碑があって、大きな案内板が添えられていた。

 

3.袋井宿と天橋

 袋井宿は天和2年(1616)に設置されたいわゆる「東海道五十三次」で言えば品川宿から数えて27番目の宿駅に当る。天橋(阿麻橋)は袋井宿の東の入口に架っていた土橋で、有名な広重の版画「出茶屋の図」にその姿が描かれている。天保14年(1843)の調査によれば、宿内の街並は西端の中川まで五町十五間 人口は843人 家数は本陣3軒、旅篭屋の50軒を含めて95軒であったという。江戸時代後期の袋井宿の見取図も添えられて 「無高  遠州山名郡袋井宿  見付宿へ一里半  掛川宿へ二里十六町  当所うなぎ・スッポン名物」とあった

 

4.白髯神社本殿

 立川流の特徴の向拝の鶴に載る翁、宝の小槌や脇障子の鯉に乗る翁、亀に乗る翁等の多くの彫刻を載せた一間社流造の本殿は、京都御所の建礼門等を手掛けた立川和四郎富昌の娘婿・宮坂昌敬の手によって建立されたもので、華やかな幕末の建築様式を今に伝えているとあったが、その割には寂れていた。

 

5.観福寺

 新道の突き当りに派手な看板を掲げた寺があった。曰く。「へそ寺。袋井山  観福寺  東海道どまん中  袋井宿」。

  「当山は山号を袋井山(ていせいざん)寺号を観福寺といい、延暦12年(793)桓武天皇代、天台宗寺院としてこの地に建立され、袋井地名発祥の寺である。

  現在の東海道袋井宿の基となった鎌倉街道六十二宿「袋井駅次」が設けられた・・・。」

  効能書の割には寺は貧相であった。

  既に4時近くにもなって薄暗かったが、近くの「袋井宿場公園」に立ち寄った。沢山の掲示の中に、「東海道400年祭(2001年1月〜12月)」のポスターとともに「東海道五十三次繁盛記」の番付表が目に付いた。面白かったのでここに羅列するが、何故か「ど真ん中」の袋井で「遠州浜松を以って分岐とする」とあり怪訝であった。(  )内は西方(にしがた)。・・・欄外に資料  「文化年間  京都叶屋板  東海道五十三次名物合」、「天保年間  東海道宿場大概帳」などとあった。

 

横綱  小田原・・・初カツオ・外郎・ちょうちん・油(熱田・・・大根・七里の渡し)、大関  浜松・・・紙鳶・納豆・・(桑名・・・しぐれ蛤・白魚)

関脇  品川・・・乾海苔・かれい(岡崎・・・焼まんじゅう・三河万歳)、

小結  戸塚・・・うどん・豆腐(四日市・・・しぐれ蛤・四日市海苔)、

前頭  三島・・・三島暦・三島せり(大津・・・米問屋・四季祭)、

同  箱根・・・山越え・木地細工(草津・・・姥ヶ餅・青花紙)、

    府中・・・塗物細工・茄子・茶、(赤坂・・・麻の網袋・大橋屋)、

    川崎・・・梨・万年茶漬、(御油・・・甘ざけ・良香散)、

    沼津・・・千本松原・鰹節、(吉田・・・花火・このわた)、

    程ヶ谷・・・浦賀みち(鳴海・・・しぼり)、

    吉原・・・左富士・肥後ずいき(坂之下・・・筆捨山)、

    大磯・・・鴫立庵・五色の小石(関・・・野老すし・地蔵堂・火なわ)、

   金谷・・・川越え・金谷坂(水口・・・藤細工・かんぴょう・どじょう汁)、

    見付・・・富士山遠望・すっぽん(土山・・・飴・茶)、

    江尻・・・豊心丹・駿河半紙(新井・・・うなぎ・鰹節)、

    袋井・・・うなぎ・すっぽん(二川・・・たまり・梅)、

同  島田・・・川越え・島田まげ(藤川・・・赤味噌)、

同  平塚・・・馬入川甘藷・西瓜(石部・・・和中散)、

同  蒲原・・・七難坂の名水(舞阪・・・今切の渡し)、

同  藤沢・・・遊行寺(池鯉鮒・・・馬市・三河木綿)、興津・・・膏薬・興津鯛(白   須賀・・・柏餅)、

  藤枝・・・鞆さめ・染飯(亀山・・・亀山の仇討)

同  掛川・・・葛布・花ござ(石薬師・・・うなぎ)、

同  岡部・・・うつのや峠(庄野・・・焼き米)、

同  白坂・・・わらび餅・碁石    由比・・・貝焼・さった峠、同  丸子・・・とろ   ろ汁同  原・・・そば・富士山近望。

 

  今回の街道歩きは締めて32,300歩。ピッチを上げたので2〜3日足が痛かった。そして今年も暮れる。

  皆さんにはこの一年、下らぬレポートにお付き合い頂きましたが、残るは後「16宿」となりました。来年秋の完結を目指して巌さんと二人で又頑張ります。そして「三条大橋」に着いたら、今度こそ高山彦九郎の銅像と並んで、太田さんにだけは東の方に向ってそれこそ「土下座」して頂かなければなりますまい。

  皆さんどうぞ佳いお年を!

 

 

4.発言番号:557

    発言者  :巌  隆吉

    題名    :東海道五十三次のど真ん中袋井宿を歩く

    登録日時:99/01/31  15:20

 

  既に健脚の深沢さんが袋井宿まで歩き、その32,300歩に及ぶ行程の詳細な紀行文を投稿されているので、今更袋井宿についてリポートする内容も少ないが今般久しぶりにNHKの会に出席したので、敢えてその概要を報告したい。

  私は11月と12月所用のため欠席、深沢さんにその補完をお願いしたところ、深沢さんは早速昔の旅人とほぼ同じ旅程をこなし、しかもその間現地の状況も詳しく観察されており、その並々ならぬエネルギーには感服、感謝した次第。

  一方このNHKの斑目先生の会はご婦人方が多くあまり無理をせず、ゆっくり見て歩くので、その点では1日に一つの宿場か精々二つの宿場位を見るのが精一杯というところで深沢さんの効率には到底及ばないでしょう。

  今回の袋井の宿は深沢さんとダブるなと思っていたが、幸いにも深沢さんが不便なので訪ねられなかった遠州三山「可睡斎」「油山寺」「法多山」の内、特に不便な「油山寺」を除く他の二つのお寺を訪ねることが出来たので、ある面では深沢さんのリポートを一部補完することも出来たと思う。

 

  東海道ど真ん中「袋井宿」

 江戸からも京都からも27番目のまさにど真ん中の宿場だ。でも、距離的にいうと真ん中はもう少し浜松寄りになるとのこと。

  もともと当初(1601年)は掛川宿と見付宿だけだったのだが、余りにも離れ過ぎているので中間休憩所的なものだったのが後(1616年)から遅れて宿場になっただけあって本当に小さいこじんまりした宿場町だ。

 それでも市当局は宿場公園を作ったり、旧東海道の道筋に一番のご本陣「東本陣跡」(288坪)等の表示をして懸命にPRしている。

 広重の描いた「広重袋井出茶屋の図」のあたりは一応新しい建物になっているものの道筋のみは昔のままなので昔を偲ぶことが出来た。急いでスケッチ頭の中にインプットしておく。

 袋井という地名の由来だが、東から西に向けて春野谷川が流れ東、北、南が山で、西に開けた盆地が丁度袋のようなのでつけられている由。

 

  可睡斎(萬松山)

 遠いのでバスを利用する。この寺は曹洞宗の非常に大きな見事なお寺だ。本殿には明治19年の二品熾仁親王の書がかかっている程の名刺である。

 十一代住職等膳は三河湾の小島篠島(現在海水浴場であり一度訪ねたことがある)の出身で、父は商人。かってその等膳は人質の家康を清水港より篠島経由救ったことがある。その恩義を感じていた家康は後に浜松城に招いたがその席上、コクリコクリと眠ったので、「眠るべし」との意味で「可睡斎」と名づけ丁重に扱ったという。

 家康は織田と今川の狭間で人質として苦労しているので、この等膳には大変感謝、お陰で今のような大きなお寺となったようだ。

  しかし今では火事を防ぐ「秋葉三尺坊大権現」として有名になっている。この三尺坊はもともと1300年前から信州戸隠山にあったとのことだ。それを移したお寺で超能力で火難を防ぐお寺がその傍に建っている。一同真剣な気持ちでお参りする。皆火事は恐いのだ。

  私は時間が取れず昼食を抜いていたので、門前町で名物の柚団子で辛くも腹を満たすことが出来た。

 

  法多山尊永寺

 ここも随分東海道より離れているのでバスを利用する。「ほったさん」と親しまれており数多くのお店が並んでいる。堂々たる山門と杉並木、大寺院の風格あり。このような大寺院がこの山里にあるのを不思議に思う。昔はこのあたりが袋井の湿地を避けて古道があったのかなとの先生の説明に一応納得した。

  725年行基開山の全く古い真言宗のお寺だ。このあたりから江戸にかけては新しいお寺が多いが、ここから京都にかけては古いお寺が多いと先生の説明であった。

  この寺には名物の厄除けの団子がある。12代将軍家定の時代、寺侍の八衛門が創案した団子。厄除けを願って二包み求め、降り出した小雨を避けて帰路を急いだ。

 

  その他

 油山寺、白髭神社、久野城址、妙日寺、海蔵寺等は話を聞くのみで時間の都合で訪ねられなかった。

  今回の五十三次は遠州三山の「可睡斎」「法多山」を訪ねることが出来たので良かったと思う。漸くこのように補完のメッセージも入れられた次第。

  次回は2月16日、袋井から見付にかけて歩く予定。

 

 

5.発言番号:558(557へのコメント)

    発言者  :深澤 龍一

    題名:東海道五十三次のど真ん中袋井宿を歩く

    登録日時:99/02/01 15:44 

 

  寒い1月の東海道行脚、ご苦労様でした。巌さんのメッセージを拝見しながら「東海道どまん中」のあの静かな佇まいの中に、「旧東海道」の面影を偲ぼうとした袋井の町の人の心意気が蘇って参りました。

  昨年の12月半ばの頃でしたか、私が袋井まで足を延ばした時、話には聞いていましたが「遠州三山」は時間がなくて行けずに、駅にある看板を眺めながら何時か又の機会を捉えて是非この駅にもう一度降り立とうと思ったものでした。

  こんな所にどうしてこんな立派なお寺が3ツもあるのだろうと訝しく思っていましたが、巌さんのお話で「家康」とも大いに関係ある事が良く判りました。矢張り遠州は徳川家なのですね。

  その遠州から尾張にかけて、そろそろ残る16宿の消化計画を立てないといけませんね。NHKさんの計画では2〜4月迄で「見付」、「浜松」、「舞阪」そして「新居」までと聞いています。6月には天候にもよりますが、「健脚」の深澤さんが西の方から「宮〜鳴海〜池鯉鮒〜岡崎〜藤川〜」とどの辺まで溯ればよいのか?何分のご指示下さい。隊長殿!!! 紅葉の頃の「大津〜三条大橋」が楽しみです。