[23]日坂

 

 

  発言番号:528

    発言者  :深澤 龍一

    題名    :東海道五十三次(第二十五宿「日坂」)

    登録日時:98/12/27 20:37

 

  アルプスを行く「山男」もこの青木坂を上った時は12月というのに汗が滲んできた。

 

 青木坂を登り切ると道は平坦になる。この辺りが西行法師の「命なりけり小夜の中山」歌で有名な小夜の中山。程なく右手に枯れた山門が見える。

 

1.久延寺

 「高野山  真言宗  佐夜之中山  久延寺」と掲げた山門の向いに立派な句碑が一つ。

  「旅寝する  さよの中山  さよ中に  鹿ぞ鳴くなり  妻や恋しき  橘為仲朝臣」

 

  山門を潜ると正面の本堂脇に直径1M近くはあろうかという大きな丸い石あり。傍に「伝説 小夜の中山 夜泣石」と題する説明書があった。

  「その昔、小夜の中山に住むお石という女が菊川の里へ働きに行っての帰り、中山の丸石の松の根元でお腹が痛くなり苦しんでいる所へ、轟業右衛門という者が通りかかり介抱していたが、お石が金を持っている事を知り、殺して金を奪い逃げ去った。

  その時お石は懐妊していたので、傷口より子供が生まれ、お石の魂魄が傍にあった丸石に乗り移り夜毎泣いた。里人はおそれて誰言うとなくその石を「夜泣石」と呼んだ。

  傷口から生まれた子供は音八と名付けられ、立派な若者となり大和の国の刃研師の弟子となった。

  そこへ業右衛門が刃研ぎに来た折、刃にこぼれがあるので聞いた所、<<去る十数年前、小夜の中山の丸石の付近で妊婦を切捨てた時に石に当ったのだ>>と言ったので、母の仇とわかり名乗を上げ恨みを晴らしたという事である。

  その後弘法大師がこの話を聞き、お石に同情して石に仏号を刻み立ち去ったという。文化三年  滝沢馬琴の「石言遺響」より」と。

 

2.茶亭跡

 境内の奥まった所にあった。慶長5年(1600)徳川家康が関ヶ原で西軍の石田三成と戦う為、東海道を西進した折、掛川城主山内一豊がここに茶亭を建て煎茶によるもてなしをした。

  関ヶ原合戦の後、一豊は功績を認められ土佐二十四万石に栄転した。

 

3.接待茶屋跡

 寺の向いの崖の上にあつた。鎌倉時代、永仁年間(1300年頃)から旅人の求めに応じて茶等を接待し旅人の憩いの場となっていたと言われる。芭蕉の「馬にねて  残夢月遠し  茶のけむり」の句もこの辺りで詠まれたものであろう。

 

4.あふぎや(扇屋)

 峠の茶屋に毎晩飴を買いに来る僧侶(実は久延寺の本尊「子育て観音」の化身)がいて、先程の「音八」を飴で育てたという伝説で今も残るたった一軒の茶屋だが、この日は固く門を閉じて商っている気配は無く、唯「あふぎや  名物子育飴、旧東海道佐夜中山」の色褪せた看板だけが師走の風に淋しく揺れていた。

 

5.小夜の中山公園

 小夜の中山の丁度真ん中の辺りにこの公園があった。「年たけて  また越ゆべしと  思いきや  命なりけり  小夜の中山」の西行法師の句碑の前には、

  「二十三才で出家し、自由な漂泊者としての人生を送りながら、自然とのかかわりの中で人生の味わいを歌い続けた西行の最も円熟味をました晩年69才の作。この歌は文治3年(1186)の秋、源重上人の依頼を受けて奈良東大寺の砂金勧進の為に奥州の藤原秀衡を訪ねる途中、生涯二度目の中山越えで、人生の感慨をしみじみと歌ったものである。

  当時京都の人々にとって鈴鹿山を越える事すら相当の旅であったという。ましてや奥州までの旅は大変なものであった。古代からの交通路であった東海道も、本格的な発展を遂げたのはこの歌が詠まれてから6年後の鎌倉幕府開設以降である」と。

  遊歩道に沿って公園の中に入る。展望の利く小高い丘の上に又一つ大きな句碑が建っていた。

  「風になびく  富士の煙の  空に消えて  ゆくえも知らぬ  わが思いかな    西行法師」

  この辺りの地名は「小夜鹿」と言い「小夜鹿一里塚跡」には「江戸日本橋より五十四里の地点」とあった。街道から少し入った所に「小夜鹿神明神社」の朽ちた社殿だけが残っていた。

 

6.鎧塚

 道端の木立の中にあった。建武2年(1335)北条時行の一族、名越太郎邦時が世に言う「中先代の乱」の折、京へ上ろうとしてこの地に於いて足利一族の今川頼国と戦い壮絶な討死をした。頼国は名越邦時の武勇を讚えて此処に塚を作り葬ったと言われる。

 

  この辺りから道はだらだらした下り坂になり、道端の所々に句碑が建っていた。

  「あづまじの  さやの中山  なかなかに

        なにしか人を  思いそめけり       友則 

  「ふるさとに  聞きしあらしの  声もにず  忘れね人を  さやの中山  藤原家隆朝臣」

  「道のへの  むくげは馬に  くはれけり    芭蕉  

  「あづまじや  さやの中山  さやかにも  見えぬ雲居に  世をや尽くさん  壬生忠岑

 

7.馬頭観世音

 佐夜の中山峠には多くの伝説が残されているが、その一つに蛇身鳥退治の物語りが言い伝えられている。

  この馬頭観世音は蛇身鳥退治に京の都より下向してきた三位良政郷が乗って来た愛馬を葬った所とされている。

 

8.涼み松

 小夜の中山夜泣石のあった駅路の北側に大きな松があり、松尾芭蕉がこの松の下で

 「命なり  わずかの笠の  下涼み」と詠んだという。

  それよりこの松を「涼み松」と呼び、この周辺の地名も涼み松と称されるようになった。

  この句は延宝4年の「江戸広小路」に表題下涼み夏に記されており、帰京の途次の作と記されている。

 

9.夜泣石跡

 広重の時代に道の真ん中にあった「夜泣石」は移されて今は先程の「久延寺」の境内にあるが、道の脇には別の大きな丸い石が置かれている。ここが将に広重の画のポイントである。「東海道五十三次  日坂  浮世絵版画  小夜の中山」とありて曰く。

  「広重は天保3年(1832)幕府の行列に随行して東海道を旅したが、その体験や印象を描いた保永堂版東海道五十三次は大変な好評を得て、次々に多くの「東海道もの」を発表した。その中で特に優れていると思われるものは、天保13年(1842)頃の「行書東海道」、「狂歌入東海道」、「隷書東海道」、人物東海道」などで、これらの続絵の中の日坂・掛川を見ると、日坂は殆ど小夜の中山と夜泣石が描かれており、掛川は大池の秋葉山の鳥居と常夜燈が描かれいている。 

  広重が掛川を旅して一番印象的で絵になる風景だったのだろう。

  ここからふと今来た道を振り返ると、驚いた事に真っ直ぐな上り坂が何処までも続いて、将に広重の絵とそっくりの風景が今でも広がっていた。

  やがて道は傾斜をきつくしていく。少し下った所に又句碑が一つ、

  「甲斐がねを  さやにも見しが  けけれなく  横はりふせる  さやの中山  読人不知 

  やがてその道は九十九曲りとなって急下降する。滑らないように両足を踏ん張りながらこの坂を下りたが、この道を逆に京から江戸へと上って来た私と同年配の西行法師に思いを馳せずにはいられなかった。逆コースを取った事で巌さんの「資料」に心から感謝した次第。

  この坂が終る所に「<<この曲り>><<沓掛>>」と題する真新しい説明板があって曰く。

  <<古駅路ハ下町ヨリ南ノ清水ト云所ヲ経テ、コノ曲リト云下ヘ出シナリ(掛川誌稿)>>に見られる<<この曲り>>とは日坂の町を過ぎて東へ向う沓掛へ至るこの急カーブを指しています。

  <<沓掛>>の地名は峠の急な坂道にさしかかった所で沓(くつ)を履き替え、古い沓を木に掛けて旅の安全を祈願するという古い慣習によると言われている。                  日坂地蔵振興会  宿おこし部会」

 この坂の登り口にも又一つ版画があった。

  「東海道五十三次   日坂  狂歌入り東海道  倭園琴桜  あたらしく  今朝にこにこと  わらび餅をかしな春の  立場なるらん

  江戸時代末期になると、江戸を中心として諸国への街道が整備されて物見遊山の旅が盛んに行われ、庶民の関心がそれまでの享楽の場から戸外へ移るにつれて風景画が多く描かれる様になった。

  この浮世絵は広重が天保3年(1832)の保永堂版に続き天保13年(1842)頃に視点を変えて風景を捉えた<<狂歌入り東海道>>の日坂である。

 国道からこの坂への登り口の両側に往時を偲ばせる日坂宿の旅篭の看板が並んでいた。手前から「備中屋」、「日坂屋」、「梅屋」、「足袋屋」、「越前屋」、「土佐屋」、「新信濃屋」、「千歳屋」、「うどん屋」、「大坂屋」、「伊勢屋」、そして「浜口屋」と。

  車の往来の激しい国道を辛うじて横切るとそこはもう今までとは全く風情の違った変哲も無い小さな町の中心街に入る。

 

9.本陣  扇屋跡

 日坂は東海道三大難所の一つ「小夜の中山峠」西の麓に位置し、西坂、入坂、新坂とも書かれていた。「日坂宿」の初見は室町末期の文明12年(1480)の「平安紀行」と言われているが、今本陣跡は「日坂幼稚園」になって、門の外に大きな案内板が立っているだけであった。

 ここの商店街を突き切って再び国道と接した所は宿場の外れ、国道に面して坂上田村麻呂ゆかりの古社「事任八幡宮」があった。

  お宮の前にバス停があってステッキを持った老婆が独り道端に腰を下してバスを待っていた。幸いにも直ぐに2時間に1本しか来ない路線バスを捕まえて、次の宿場「掛川」へと急行する。