[22]金谷

 

 

1.発言番号:522

    発言者  :深澤 龍一

    題名    :東海道五十三次(第二十四宿「金谷」)

    登録日時:98/12/23 19:28

 

  町田「おいらく」の連中と碁会を催した当日、家内が「明日は友達を4〜5人呼んでいるから何処かへ出て行って!」とのご宣託。気象条件良しと予てから巌さんの「厳命」を受けていた「金谷〜掛川」迄の東海道に挑む事とする。

  12月17日、午前4時起床。5時過ぎ出立。南の空には未だ赤い新月が浮ぶ。小田急の一番電車で小田原で「こだま」の一番列車を捕らえる。急な事で当初は「掛川」から戻る事を考えていたが、車中で巌さんから拝借したプリント(以下「資料」という)に目を通しているうちに気が変って「金谷」からの順路を歩く事にした。

  8時半金谷着。駅前広場の「金谷宿巡り」のイラストはどうも気に食わないので「資料」通りの道を選ぶ。程なく「金谷一里塚跡」の標識ありて曰く。「延享3年(1746)<<東海道巡覧記>>によれば<<金谷一里塚榎木>>とある。里程江戸へ五十三里、嶋田へ一里、日坂へ一里廿四町」と。こういう標識のある所は道標もしっかりしているので、以前太田さんが心配してくれた東海道の道に迷う事とはないと一安心である。

  此処は「牧の原ハイキングコース」の起点、程なく「日蓮宗本遠山長興寺」の緩やかな石段を登って、巌さんの前回のメッセージにあった芭蕉句碑、「道のべの  木槿の馬に  喰はれけり」を確認し、しっかりとバトンを引

き継ぐ。

 

1.金谷坂石畳

 国道を横切ると「石畳茶屋」の看板の脇に「旧東海道道石畳入口」の大きな標識が目に入る。

                  金谷坂石畳

「石畳茶屋」は早朝とて門を閉じていたが、傍の高台に「望岳の段」とあり、登って遥かに遠く真白い富士山を眺める。やがて棒杭が二本、一本は「東海道金谷坂」、もう一本に「石畳登り口」。「この石畳は江戸時代、幕府が近郷集落の助郷に命じて東海道金谷宿と日坂宿の間にある金谷峠の坂道を、旅人達が歩き易いように山石を敷き並べたものであると言われている。近年は僅か30Mを残す以外はコンクリートなどで舗装されていたが、平成3年町民約600名の参加を得て実施された<<平成の道普請>>で、延長430Mが復元された。今街道の石畳で往時を偲ぶ事が出来るのはこの金谷坂の他、箱根峠、中山道の十曲峠の三ヶ所だけになった」と。

 

2.庚申塚

 茶屋の横にひっそりと「庚申塚」が立つていた。旧東海道の上り下りの旅人達が道中の無難息災・家内安全を祈願して街道筋に点在する効験あらたかな庚申堂に立寄り、誠意を込め願望の成就する事を祈念して旅立ったもので、堂宇に猿田彦命及びその主従を合祀して暦年4月「カノエ・サル」の日に追善を行っている由。

  巌さんのメッセージにあった「日本左衛門」が身支度した場所とも伝えられている。

 

3.鶏頭塚

 傍に「あけぼのも  夕ぐれもなし  鶏頭華    六々庵巴静」と刻んだ自然石の碑があった。旧東海道の石畳の途中にある塚の名のいわれとなった。巴静というのは蕉風を広めた江戸時代の俳人でその教えを受けた金谷の門人達が師の徳を慕って金谷坂の入口にこの句碑を建てたそうだ。

 

4.石畳六角堂地蔵尊(長寿・すべらず地蔵尊)

 このお地蔵様六角堂・鞘堂は町民の手により据えられたもので、すべらず地蔵のいわれは、この石畳は「すべらない」という特徴から受験や商売など何事も願いが叶うと言う事から来ているらしい。

 

  この石畳は箱根と違って同じような大きさの揃った丸い石が整然と並べられて如何にも「作られた」という感じである。コンクリート道に慣れている私には却って歩きにくかったが、立派な杉木立の中に長く続くこの道はなかなかに風情があった。

  坂を上り詰めた所に芭蕉の句碑、「馬に寝て  残夢月遠し 茶の烟」(野ざらし紀行より)と並んで、明治天皇御駐輦跡の大きな碑か建っていた。明治元年十月五日、都を京都から東京に移された時、ご休憩になり霊峰富士と金谷原茶園の開墾土地を望見された所と言う。

  ここから道は下りに入る。「東海道菊川坂」と「石畳下り口」の標識から少し石畳があって、やがて簡易舗装の道になったが所々に昔の石畳の名残が顔を出し、人工のものよりもこの方が遥かに実感がある。

  この日の遠州路は文字通り雲一つ無い「日本晴れ」、大根を両手にぶら下げた老婆が「お早いですね、気を付けて行ってらっしゃい!」と声を掛けてくれる。

 

5.間の宿「菊川」

 間の宿は本宿と本宿の間にあって人足の休憩所や旅人の休憩に便宜を図って作られた。普通二宿間の距離は3〜4里に及ぶ時に間の宿を置くが、「金谷宿」と「日坂宿」の間のように1里24町でも急所難所の続く場合は特別に間の宿「菊川」が置かれた。間の宿では旅人の宿泊は厳禁されていて、川止めの場合でも菊川では金谷宿の許可が無いと旅人を泊める事は出来なかった。又、間の宿では尾頭付きの本格的な料理を出す事も禁じられていたので、そこで生まれたのが菊川名物の「菜飯田楽」。大井川の激流を渡り、金谷坂を登り切った旅人には鄙びた里の味でもさぞかし美味しかった事であろう。

 

  尚、下菊川おもだか屋宇兵衛の茶屋の菜飯田楽は格別美味しかったと言われ、この店には御殿と呼ばれた上段の間があり尾州家からの下賜品もあったという。

  ここに「間の宿  菊川の里会館」という立派な地域活性化施設があった。この縁側で私も一休みして持参の「手毬寿司」を頬張る。冬の暖かい陽射しが心地よい。

  会館の入口に二つの碑が並んで立っていた。

 

6.宗行卿詩碑・日野俊基歌碑

 源頼朝の死後、鎌倉幕府の力が弱まり、公卿と幕府の対立が表面化して承久3年(1221)後鳥羽上皇は幕府追悼の院宣を出し軍事行動を起したが、京都方は敢え無く破れ計画に加わった中御門中納言藤原宗行は捕らえられ、鎌倉へ送られる途中の7月4日、菊川の宿に泊り死期を悟って宿の柱に次の詩を書き残した。

  「昔南陽県菊水  汲下流而延齢  今東海道菊河  宿西岸而失命」(昔は南陽県の菊水下流を汲みて齢を延ぶ。今は東海道の菊川西岸に宿りて命を失う)

  承久の変から約百年後の正中の変で日野俊基は捕えられ、鎌倉への護送の途次、菊川の宿で宗行の往時を追懐して一首の歌を詠んだ。

  「いにしえも  かかるためしを 菊川の  おなじ流れに  身をやしづめん」

 

  間の宿「菊川」は史跡とロマンの里である。

 

  「青木坂」と「至小夜の中山」の棒杭の間を通って道は又急登する。左右に茶畑が美しく広がっている。この辺りは丘陵地帯であるが、南斜面にも北斜面にも茶畑が続く。日の陰った北側のお茶の味はどうなんだろうとふと思う。坂の途中にこんな立札が立っていて思わず微笑まずにはいられなかった。

  「あと700M、登り坂!!がんばれ・・・仲田」。仲田さんは立派なお家だった。「通学路」の標識もあってこの坂を行く子供達はきっと逞しくなるぞと思う。私こと「平成の旅人」も又ご苦労な事である。

  道端に歌碑あり。「雲かかる  さやの中山越えぬとは  都に告げよ有明の月  阿仏尼」。