[21]島田

 

 

1.発言番号:463

    発言者  :巌  隆吉

    題名:広重東海道五十三次(島田〜金谷宿)を歩く

    登録日時:98/10/22 17:38

 

 「箱根八里は馬でも越すが越すに越されぬ大井川」と名高い大井川をいよいよ渡る日が来た。

  この大井川は箱根の険とともに江戸幕府の大事な防衛線であった。舟の使用も禁止されており、ひどい川留めの時は28日間も島田の宿や金谷の宿に逗留せざるを得ない江戸時代きっての難所であった。

  今回は、その大井川を挟んで島田の宿と金谷の宿を訪ねる旅である。

  既に去る7月に藤枝の宿まで来ており、8月は夏休みで休んだが9月にいよいよ大井川を渡るのだなと楽しみにしていた。ところが生憎台風7号の襲来により取り止め、1ケ月遅れの10月20日、挙行することとなった。

  当日11時半までに新幹線を乗り継ぎ、JR島田駅改札口に集合。

  島田の町は大井川の渡し場を擁しているので、江戸時代は極めて裕福で今はその名残りの三年に一度の盛大な「帯祭り」が残っている位。25人の大奴の左右2本の大刀に錦の丸帯をかけ、身振り豊かに歌舞伎役者然と歩くその祭りは日本の三大奇祭りの一つとされている。

  江戸時代島田はその富のせいで宣伝力は凄く、その一つに島田髷という女のファッションまで生み出しており、また、城下町でもないのに祭列まで繰り出している。

 

  史跡宗長庵跡

 島田駅の真ん前に丸子の吐月峰に住んでいた宗長の庵の跡が残っている。宗長はもともと刀鍛冶屋に生まれたが連歌師になり今川の家来になっている。

 斑目先生の説明によれば、連歌師は諸国を漫遊するので、全国の情報を探る為には貴重な存在なので今川としても彼を活用したのだという。

 その傍には芭蕉の句碑も立てられている。

    芭蕉の句  (さみだれの大井川)

        さみだれの  空吹きおとせ   大井川

 

  清水屋の「小饅頭」

 東海道傍の清水屋という菓子屋に立ち寄る。この清水屋にお茶で有名な松江藩主松平不昧公がこの饅頭は大変旨いが一口で食べられるようにするとなお良いとアドバイスしたという。

  さすがお茶の大家であったので、お茶にも使えるようにしたのだと思われるが、その後この小饅頭が大層な評判となりその店は今でも殷賑を極めている。食べると酒の麹のにおいが微かに残っていて評判のとうりだ。別に「大奴」という島田に因んだ菓子も売っていた。

 

  蓬莱橋

 明治2年最後の将軍慶喜についてきた幕臣達が大井川右岸の牧の原を開拓してお茶を作り始めた。この開墾事業は困難を極めたが、そことの連絡橋として明治12年完成の木橋である。

  島田駅の近くにある。この「蓬莱橋」も「牧の原大茶園」の歴史の一齣になろうか。

 

  大井神社

 大井川は河口近くになると川は数条にわかれ絶えず流れが変わり洪水の危険に晒されていた。この大井神社は当時の中州にあり水に対しての神だのみからこのような壮大な神社が建てられたという。

  そもそも島田という名の由来であるが、中州が島となりその中に田が出来たということである。

  前述したとおりこの大井神社の祭りは極めて盛大で今年の10月10〜11日の祭りが102回目であるので3年に1回の開催で既に306年を経過している。帯祭りという由来はもともと昔は嫁いで来た花嫁は晴れ着で大井神社にお参りしてその後宿の中をくまなく廻っていたがそれはあまりにも可哀相だと大奴の太刀に帯をかけることに切り換えたのだという。

 

  大井川の川越え遺跡

 大井川は軍事上舟を使わず人足の徒歩による渡しである。人足島田650人金谷650人により支えられていて、それぞれ10組に分かれ常時2組の当番制を敷いており、極めて組織的に運営されていたようだ。なお、この川越制度は元禄9年に制定されている。

  川留め川明けは近くの大善寺の時の鐘で合図することになっていたが、収入増を計るために中々川留めを解かないこともしばしばのようであった。

  川越しの方法は肩車越し、蓮台越し、馬越し、棒渡しで、川札の値段は水嵩により水の少ない股通しで48文(約700円)深い脇通しで94文(約1500円)で平蓮台の場合でも6枚を要するので、米1升40文の時代に相当高い渡し賃である。

 川越え遺跡には、1番宿から10番宿までと、案内の口取り宿、荷を直す荷縄屋にOB人足のいる仲間の宿、人足が川札をお金にかえる札場、人足頭が相談する立合宿、すべての司令をする川会所と見事に揃っている。

 

  せぎ跡

 昔の堤防を出てから、大井川が増水して川越の建物を水から守るためのせぎ跡が残っている。丁度地下鉄の入り口の防水壁のようなものだ。

 

  東海パルプ

 島田は大井川上流の木と大井川の水の町でもある。そのため、製紙業が発達している。東海パルプの大きな煙突が目立った。

 

  朝顔の松

 歌舞伎の物語によると、芸州家老の娘深雪が恋人に会わんと家出したが放浪の末盲目となり朝顔というようになり、島田に来たが川留めで恋人とすれ違いになり自殺しかけるが助けられた。その時、奇跡的に目が見えるようになった。最初の視界に飛び込んだのが、この朝顔の松で現在、2代目という。

 その他、この島田には曽我十郎の恋人虎御前や八百屋お七の恋人吉三の墓もあるようだ。

 

  島田市博物館

 大井川の新しい堤防の傍に建っており、島田の「川越文化」を知るには格好なところだ。

 

 大井川

 島田側の左岸の堤防を歩く。大きな川だ。しかし今の水嵩は少ないので、川留めにはならないだろう。歩きつつ急いで広重が描いたであろう金谷側をスケッチしておく。

 広重は同じこの大井川を島田側からと金谷側から同じような構図で描いているが当時の人々にとってもまた広重にとっても、大きなウエイトを占める川であったであろう。現在は約1キロメートルの鉄橋がかかっており便利なものだ。

 

○ 金谷宿

 川越の関係の遺跡は殆ど無いようだ。一里塚の表示と佐塚屋、柏屋の2本陣跡の広さが昔を偲ばせてくれる。天下の大泥棒・日本左衛門は義賊のハシリ、反権力の庶民の人気を得ていたようだ。生まれは浜松、金谷で育ったという。京都で処刑されたがその恋人のお万がそのさらし首を盗み金谷の宅円庵に葬ったという。色男の錦絵に飾られた横にその首塚があった。

  吉左衛門の辞世

    押取りの  人の思いは  重なりて  身に青綱の かかる悲しさ

  夕暮れ迫る頃。長光寺に行く。一同疲れ気味に短い坂道を登る。ここには芭蕉の銅像と馬上吟の句碑があった。

    芭蕉の句

    道のべの  木槿(むくげ)の馬に   喰はれけり

近くの金谷駅からはSLが走っているので有名。その金谷駅より鈍行に乗り、乗り継いで東京に向う。