[19]府中

 

 

1.発言番号:326

    発言者  :巌  隆吉

    題名:広重東海道五十三次(府中)を歩くーその1

    登録日時:98/06/24 12:34

 

  去る6月16日、梅雨にしては珍しくも晴れた日に府中の宿を歩いた。この府中は今の静岡であるがこの街は徳川にとって先ず大御所の家康は将軍を引いてから10年、最後の将軍慶喜は大政奉還後30年を過ごしており、非常に縁の深いところである。特に慶喜は30年もここで悠々自適の生活をしており、一般庶民からも「ケイキさん」と親しみを持って呼ばれる位、この地に溶け込んでいたようだ。

  当日若干余裕を持って静岡駅新幹線口に降りた。何か記念にスケッチするところはないかなと駅前に出ると大きな久能山東照宮という石碑が建っているではないか。それによると従是弐里拾壱町、大正4年4月17日建立とある。さすが徳川の街だなと記念に急いでスケッチをしておく。

  集合後の斑目先生によるコースの説明では、旧東海道を東に向って歩いて、華陽院に寄り、そこから引き返して駿府城に行き、出来れば県警ビルの21階の展望台から静岡周辺を眺めて、慶喜の隠居邸の現在の浮月楼にも立ち寄り、急いで安倍川たもとの石部屋に行き、そこでなければ食べられないという安倍川餅を食べ、浅間神社に参拝して静岡駅で解散という、概ね静岡の中心地を一回りするような道順になっている。

  昔、江戸時代はこの駅前周辺は町の外れで寺も多い。今でも法伝寺などは大きなビルの中に入っている位で異様な感じがした。程なく旧東海道に出て「府中の宿散歩道」というタイルの入った道を東に進む。途中ももぐさやの「艾」の看板や「紺文」という暖簾を見て多少昔の名残も残っているのかなと、歩いていると「鋳物師町(いもじまち)」という説明板に、ここは駿府96ケ町の一つと書かれている。今は新しい町名になっているが昔は鋳物の町だったようだ。

  少しその街道を離れて華陽院という寺の門をくぐる。

 

  華陽院

 ここは、家康の外祖母源応尼の菩提寺。その由緒書きによれば、家康の幼名は竹千代といい、7才から19才まで駿府にいた。人質の竹千代は幼少の頃病弱であった、この児は肉親でなければ到底育たないというので、刈谷の生家に出戻っていたその外祖母を招き、竹千代を愛育した。その寓居とこの華陽院(当時は知恩院という)は近く竹千代は畦道づたい遊びに来た。生母に生き別れ、頼むは源応尼の親身の愛情であった。

  家康19才で桶狭間の戦いの年、今川義元の先陣となり浜松の軍中にある時、源応尼の訃を聞いた。この訃報を駿府からはるばる知らせたのは、この寺の弟子文豪であった。文豪は竹千代と同じ年で日々の遊び友達だったという。

  家康は痛く源応尼の死を悲しみ「私は軍陣にあり、行くことが出来ぬ。代りに三河松の苗木を植えておいてくれ」とたのまれた。その三河松は今も、昭和15年の静岡大火で代変わりしているものの、源応尼の墓所の墓印として植わっている。華陽院というのは源応尼の戒名であり、寺を華陽院としたのは、家康が駿府に隠退してその50年法要の際に名づけたという。

 

 

2.発言番号:327

    発言者  :巌  隆吉

    題名:広重東海道五十三次(府中)を歩くーその2

    登録日時:98/06/24 16:22

 

  華陽院の記事を充分記載したため、少し長くなったが次に進もう。

  華陽院から引き返して西に向う。

 

  西郷山岡会見の地

  大政奉還、王政復古、戊辰戦争と幕府の倒壊と天皇新政権の誕生など世の中は刻々と変化して行く。

  慶応4年(1868)3月9日、勝海舟の一書を持った幕臣山岡鉄太郎は駿府伝馬町の松崎屋源兵衛宅で、東征軍参謀西郷隆盛と会見し江戸を戦火から救い無血開城となった。

  でも、ここは今「宇を鉄」いう鮨屋になっている。それから、呉服町、駿府城の外堀、札の辻、七間町等を歩いて浮月楼を訪ねる。府中の呉服町といえば、大泥棒日本左衛門が店の品をごっそり盗んだ唐金屋のあった所で、後に「白波五人男」に脚色された所である。

 

  浮月楼

  現在は高級料亭になっているが、慶喜は明治元年8月から暫くこの屋敷で謹慎していた。池のある中庭は町中とは思えないような静かな美しい景色であり、この庭の奥には慶喜の手植え、(宝台院からの移植)という台湾の孟宗竹がある。その竹をわざわざ眺めにも行った。

  たが大政奉還後暫くいたここでどのような思いをして過ごしていたのだろうか。その後城内の代官屋敷(駿府城には城主はいない)に移って、ケイキさんとして庶民に親しまれながら書を書き、絵を描き写真に釣りや猟をして30年間を中々ハイカラな人としての世を送っている。

  この近くに秀忠の母西郷の局の菩提を弔った宝台院がある。その後、昔ながらの「ぼうや」という店に昔を偲びつつ、由比正雪自刃の梅屋町を横にしながら駿府城址に向う。

 

  教導石

 お濠の傍に碑の上部三面にこの地からの里程が刻まれている。例えば東京日本橋四拾六里拾町余、沼津拾五里拾町余とかいう具合で旅人へ親切な案内板だ。右に「尋ル方」左に「教ル方」とありここに紙を貼りつけての情報交換板の役目もしている。雄渾な「教導石」という文字は山岡鉄舟の筆で明治19年の建立。私は始めて教導石を見たが全く珍しいものだ。

 

  駿府城址

 家康が僅か3年で作ったというこの城の石垣はさすがに整然としている。城内に入って県警ビルの展望室に上がる。静岡全市が良く見える。東に清水、久能山、その北よりに富士山がうっすらと浮かんでいる。北の方真下は城址公園で堀ややぐらが復元されていた。この公園一帯は陸軍歩兵第34聯隊の跡地で、「遼陽城頭夜は闌けて」或いは「ああ悲惨の極」の軍歌でも有名な橘中佐の勤務した場所だ。そう思うと戦中派は感慨ひとしおであった。

 西の方には、竹千代も学んだ臨済寺を抱く賤機山(しずはた山)更にその先に安倍川、その向うに丸子の山々。先生より広重は安倍川の渡しから丸子の山を描いたと説明を受ける。あわててスケッチしておく。

 

  安倍川

 先ず、名物の餅を食べねばと安倍川に向いバスに乗る。天文3年創業300年の伝統を誇る石部屋を訪ねる。勿論普通の安倍川餅もあるが、目指すのはワサビをつけて食べる餅だ。別な名前もついている。

  もう思い出せないがともかく辛党にとっては大変うまい。もう少し遅かったら売り切れていたという店主の声に良かったなと思う。

  近くに安倍川義夫の碑や由比正雪の墓があった。義夫の話は正直な川越え人夫の話として有名だ。

 

  山田長政生誕の地

 馬場町に本名津の国屋九左衛門というタイで活躍した長政の生家がある。タイのアユタヤ日本人町の彼の墓所にも訪ねたことがあるが、この静岡に長政の遺跡があることに大変驚いた。

 

  浅間神社

 その神社の上に賤機山古墳があるが、6世紀代の最有力豪族の墓のようだ。昔から、この突き出た賤機山の南端は交通上、軍事上の要点であったので何時の時代もこの地方の中心地になったとの先生の説明になるほどと思う。

 また文化財資料館の中には、長政が奉納した戦艦図写しや家康の初腹巻、古墳からの出土品等が展示されていた。

 浅間神社は徳川の信仰も厚かったようで、明治以後も格の高い中々見事な神社であった。

  夕暮れ近く静岡駅に向い、急いでチクワとビールを買い占め、新幹線に飛び乗った。

 

 

3.発言番号:328326へのコメント)

    発言者  :深澤 龍一

    題名    :広重東海道五十三次(府中)を歩くーその1ー

    登録日時:98/06/26 08:58

 

  巌さんの「府中を歩く」の力作を拝見して、色々勉強させて頂きました。東海地方は何時も通過して車窓から富士の勇姿を仰ぎ、浜名湖の風景を眺めるだけで全く不案内ですが、さすがに徳川のお膝元だけあって徳川家にまつわる史跡も沢山残っているようですね。何時かのコメントで、参加されているNHKの 企画」に巌さんの「顔」でスポット参加も出来るやに聞いておりますので、面白そうな所があればお願いしたいなと思っております。

  府中は日本橋から数えて19番目の宿場、私が先般歩いた「草津」〜「桑名」間には11の宿場がありましたから、途中多少の「歯抜け」を残してはいますが、双方合わすと「30宿」、53次の内で既に6割近くを消化した事になりますね。私が巌さんに煽られて「日本橋」の袂に立ったのが確か去年の8月20日ですから、10ヶ月で此処まで来ました。誰からも誉めては頂けませんがお互い良くやりましたよね。

  昨日も学生時代の仲間と横浜駅で昼食を共にしましたが、別れた後、前に行った神奈川宿の広重の絵のポイント「台町の急坂」が懐かしくなって、「宿場跡」に憑かれたようにもう一度 田中屋」界隈から「本覚寺」の辺り迄、何時か樋口さんも廻られたと記憶する「神奈川宿歴史の道」を、案内図に沿って坂の多い駅の近辺を上り下りしながら1時間余り歩いておりました。お陰で何時も手にしている我等のテキスト「広重五十三次を歩く」の本屋の紙カバーも、昨日ですっかり擦り切れてしまいました。でも、歩くのはいいですよね。

  私はこの後、先ず「歯抜けになって残っている「戸塚、「平塚」、「大磯」をこなしたら、機会を捉えて先日の続きで「宮」から「江戸」に向って歩きましょう。途中で巌さんとぶつかっても、この調子では巌さんはすっかり街道歩きに魅せられて、キット鈴鹿峠を越えて斑目先生と一緒に三条大橋迄歩き続けられるでしょうね。

 

 

4.発言番号:331327へのコメント

    発言者  :太田 

    題名    :広重東海道五十三次(府中)を歩くーその2

    登録日時:98/06/29 17:41

 

  毎度の五十三次、ご苦労様です。とうとう静岡まで来ましたね。

  NHKも意義のあることを企画しましたし、リ−ダ−の斑目先生も懇切丁寧なようで大変結構です。先生は確か80歳代も後半ではないでしょうか。お元気ですね。

  静岡と言えば、お茶に蜜柑に清水次郎長は誰でも頭に浮かんでくるところですが、私には気候温暖も是非挙げたい項目です。

  地震の心配さえ無ければ、日本で最も住み良い所ですよ。

  私は静岡市始め、県内各所を数えきれない程、訪ねていますが、今までその期待を裏切られたことがありません。厳寒に行っても耐えられない寒さを感じたことは一度もありませんでしたから。

  その影響か、住民の性格が穏やかですね。

  江戸時代の家康も狸爺などと言われる位ですから、腹の中は解りませんが、戦国の武将にしては、血を流した量は少ないし、300年の平和の基礎を築いた人間ですから、まあまあの性格でしょう。

  信長、秀吉はひどかったですよ。

  最後の15代慶喜だって、なりたくて将軍になったわけではなし、あのどさくさの中では名誉も権力も捨てて、早く自由になりたかったと言うのが本音でしょう。大政奉還してほっとしたのではないですか。

  その後、静岡で趣味三昧の生活を30年も続けたようですね。

  巌さんは我々の中で最も活動的で、人生を楽しんで居られる方ですね。

  どうぞ、今後も健康に気を付けられ、つつがなく京の三条大橋に到達されますことをお祈り致します。

  その節は、我々も京都まで駆けつけ、皆で大いにお祝して飲みましょう。

  西の方から江戸に向かっておられる深沢さんと何時、何処で遭遇するのでしょうか。それも一つの楽しみですね。