[17]興津

 

 

1.発言番号:267

    発言者  :巌  隆吉

    題名  :広重東海道五十三次(由比〜興津)を歩く

    登録日時:98/04/21 19:00

 

  昨4月20日、予定とうりNHKの講座東海道五十三次由比から興津までを汗ばむ程の晴天の中を歩いた。 

  今まで何回も深沢さんに代理出席をお願いしており、前回も蒲原から由比まではチェコと東独旅行で出席出来ず深沢さんにお願いした次第。この際再び、深沢さんの会議室への投稿を読み、少なくとも蒲原の宿だけは是非詳しく見たいと思うようになった。そこで、出発時間を二時間早め、新蒲原駅に途中下車した。

  先ず、深沢さんの記載しているその宿場町を蒲原の宿本陣跡から、西木戸跡まで歩いて見た。それからせめて、家康の休憩所のあったという御殿山か北条氏の滅びた蒲原城址か何れかに登って見ようと種々思案の結果、城址は相当高いので無理と判断、椙守稲荷から御殿山に登った。その山も意外に階段が多く少々苦労したが、東から西にかけての駿河湾の眺望は抜群。そこから急いで、八幡神社まで降りて、広重が描いたであろうところでスケッチしていると、古老が出て来て、この方向に向って描くべきだとの忠告があったが最早時間が無くなった。そこを離れようとすると種々の資料を持って来て、色々と詳しく説明してくれた。その地元の親切さには全く感銘した次第。

  それから本命の由比駅に集合。その駅周辺で、会参加のあるご婦人と腹拵えをしたいと思ったがどうすることも出来なかった。全く食べるお店がないのだ。そこで大学いもとか有り合わせのものでやっと腹拵えをして薩タ(土偏に垂)峠に向う。

  そもそも、糸魚川から富士川のかけては有名な断層地帯で、この薩タ峠は北アルプスからの山塊の流れが海まで突き出ていると考えて良いとのことだ。それ程高くはないが、海の底から見ると相当高いというわけだ。ここには国道、東名高速、東海道本線等すべてが本当に狭いところにひしめいている。

  昔は海よりに道があって「親知らず子知らず」の難所だったが、江戸時代、朝鮮通信使の来日で急遽、薩タ峠を越える「中の道」を造成したという。さらにその北には、商人たちの歩く人家の多い「上の道」がある。今では薩タ峠の下の海岸も安政の大地震で土地が隆起しているがその昔は道を潮が洗う大変なところのようだった。この地区は地震、津波、山津波と天災が相次いでいた。

  また、この薩タ峠は大変な隘路なので、軍事上も大事な場所であったろう。足利尊氏と直義との戦い、さらに下っては今川と武田の戦いの場所にもなっているという。 

  その薩タ峠の入り口に望嶽亭がある。この望嶽亭は明治維新の西軍方の西郷と会談して、江戸を戦火から守ろうと山岡鉄舟がここまで来たが、この薩タ峠を越えるには西軍に見つかり危険だと密かにこの土蔵にかくれて次郎長に手紙を出してその斡旋を依頼した。この望嶽亭の主人と次郎長はかねて面識があったようで、早速舟の手配が出来てこの階下の舟の乗り口より清水に向って船出し、江戸城無血開城の素地を作っているのだという。このように歴史に残る名高いところで感慨深い。年配の奥さんの説明を聞いたが、山岡鉄舟が残したという革製ケースのあるフランス製10連発のピストルもあり、その歴史の重みをつくづくと感じた。

  薩タ峠の名前の由来は鎌倉時代に海から漁夫の網で地蔵菩薩が引き揚げられて山上に置いたが、その菩薩を菩提薩タというので薩タ峠と名づけられたといわれている。この峠からの眺望は広重の絵にそっくりだ。そこで広重にあやかり下手なスケッチをしたことはいうまでもないが ....。そこまで汗を流し大分苦労して登ったが、その甲斐あり、しばしその見事な眺望を堪能することが出来た。

  この眺望絶佳の薩タ峠には、面白い歌が詠まれている。

  「山の神  さつた峠の  風景は  三下り半に  かきもつくさじ」

           菩薩峠

  その、峠までの途中、先生から小川の流れているクボミをこの峠より東は「沢」といい、西は「谷」という話を聞いた。確かに東の方は急流だが西の方は谷間が広く「沢」と「谷」との表現は実に面白い。またかっての静岡県令がこの倉沢を愛し郷里鹿児島よりこの地に「びわ」の種を移植したところ、薩タ峠で厳しい西風が遮られ現在のような「びわ」の産地になったという。また、この倉沢は間(アイ)の宿といい、宿場と宿場との中間にあった休憩所であった。明治天皇も明治元年と11年にともに休憩された柏屋も残っていた。

  峠を下ると途中大掛かりな土地造成中でしばらく道を迷う。蒲原や由比の道案内はしっかりしているが、清水側の案内は全く不親切だ。折角の旧東海道だから多少の予算を出してでも整備して貰いたいなとつくづく思った。

  暫くすると旧東海道も国道1号線と一緒になり、黒い排ガスの中をひたすら歩いた。途中は東と西の本陣跡、一里塚跡等の石碑があるのみ。

  最後は清見寺。まことに見事な寺だ。参道と境内が鉄道に分断されているのは痛ましい。家康が人質でいたとか、秀吉が北条攻めにその梵鐘を使ったとかいうが、山上に向っての苔むした五百羅漢に歴史の重みを感じた。

  この家康ゆかりの寺には家康の植えた臥龍梅が残っている。また、榎本武揚が薩長を揶揄した句の「食人之食者死  人之事」という碑も建っているが、彼が北海道まで徳川方で戦い、後に日本海軍創建時、明治政府に仕えた彼の心情を深く察することも出来よう。歴史はまさに万物流転だ。

  また、この近くに西園寺公望公の坐漁荘があったが今は明治村に移設されている。西園寺公は最後の元勲として、その時代の総理を決めていた実力者で、われわれ戦中派にとっては忘れがたい人だったが...。

  17時前、興津から乗り三島から新幹線にて帰る。脱水症状の私にとって、車中のビールの旨さは格別だった。

 

 

2.発言番号:270(267へのコメント)

    発言者  :深澤 龍一

    題名    :広重東海道五十三次(由比〜興津)を歩く

    登録日時:98/4/22  

 

  20日は確か夏日に近い暑さでしたね。今期もNHKの企画にご挑戦された巌さんに先ずは心からの敬意を表します。でもやってみると「東海道五十三次」も結構楽しいですよね。それに天下の名勝「薩タ峠」を超えられた由、私も東海道をやって是非此処は一度行って見たいと思っています。この分では巌さんは京は「三条大橋 まで完歩される事になりますね。これから暑さに向かいますが、是非頑張って下さい。

  そして今回はその前に「蒲原」の宿にも立ち寄られたそうで、こちらは街を挙げての「東海道」という感じでしたでしょう。ご熱心なのに感心させられると共に、「メッセージ」を拝見しながら良く保存された宿場跡とその界隈の風景や、広重がシリーズ中の傑作「夜の雪」を描いた「御殿山」の見えるあの景色を思い浮かべておりました。

  これで巌さんは又確実に毎月一つ一つこなしていかれますから、私も負けずに消化に励みましょう。東の方は「戸塚」、「平塚」そして「大磯」を残していますが、その内西の方からも攻め上りましょう。

  例によってお粗末な「コメント」で済みません。実は先程「オートパイロット」での「会議室参入」が完全でありませんでしたので、「東海道」に便乗して再度挑戦に及んだ次第です。失礼しました。