[16]由比(付  蒲原)

 

 

1.発言番号:237

    発言者  :深澤 龍一

    題名  :広重の東海道五十三次(蒲原〜由比)を歩く

    登録日時:98/03/23 15:22

 

  去る3月17日、我々の「自主研修会」の日に巌さんの「代参」で旧東海道を歩く事になった。

  小田原から乗ったJRの「箱根路石畳ハイキング・・江戸時代へタイム・スリップしてみませんか?」の中吊り広告を眺めながら車中で持参の弁当を広げる。東海道歩きは流行のようだ。12時45分「新蒲原」駅改札口集合である。集合時間に間があったので駅舎の外に出る。何時もお世話頂いているNHKの橋本さんが、駅前の舗装路に埋め込まれたタイルを指差しながら、「日本橋」、「品川」・・・と辿り始めた。何と「三條大橋」まで55枚のカラー・フルなモザイクタイルが適当な間隔で並んだ中で、ここ蒲原のそれだけが他のものより3倍以上の大きさだ。先ずこの町の「旧東海道」への熱の入れ方が最初に感じ取れた。

  前回の巌さんのレポートにあった浄瑠璃姫の墓はアルミ工場の水力発電所向うで六本の松が植えられていて、この辺りは又武田信玄の本陣のあった所でもあるとは斑目先生の説明である。

  蒲原宿「東木戸」跡が今日のスタート地点、「距離が短いから今日はゆっくりとっくり見て歩きましょう。」と先生がおっしゃった。この木戸跡はとても美しく整備され、文政13年当時の苔生した常夜燈も少し上部が壊れてはいたがしっかりと立っていた。近くには「諏訪神社」、「八幡神社」、「八坂神社」と全国の有名な社が続く。

  傍らの公園の芝生に腰を下ろして、早春の暖かい日差しを浴びながら皆で先生の「概要説明」を聞く。

  宿場の仕事は、1.公文書をリレーする(駅伝)事と、2.参勤交代の折の宿泊場所の提供である。宿場の端に位置する木戸の辺りは、茶店が多く、真ん中の辺りには「問屋場」があって、助郷から馬や人足を集める仕事を司ったと言う。ここの宿場460軒の商売を調べてみると、「往来稼業」69軒、「宿」48軒、「塩売り」33軒(宿場を出ると左は海で塩を作っていた)、他に船乗りや漁師も多く、「湯屋」が9軒もあったそうだ。

  「本陣」というのは宿を貸すのみ(大名行列には板場から女中まで皆連れてくるので)、「木賃宿」は薪だけを買ってお米持ち込みの宿だ。そういう事で此処「蒲原」は宿場と魚と塩の町だったと言える。

  街道筋を歩いて感じた事は、教育委員会の懇切な「案内板」が沢山並んでいて、今まで歩いた宿場の中では史跡の表示が一番懇切丁寧な宿場跡だった。曰く、

 

◎「木屋の土蔵」・・・3階建で「四方具」の工法。

◎「塗り家造り」と蔀戸のある家。

 

◎なまこ壁と「塗り家造り」の家。

 

◎「開放感のある塗り家造り」。・・・此処はもと和菓子屋「遷菓堂」(今は別の場所で営業中)のあった所で、街道筋から家の中が良く見えて、色々と当時の道具類も置かれ「箱階段」も覗き見る事が出来た。

 

◎「問屋場跡」・・・問屋場は宿の略中央に設置されて、毎日15日交代で宿の経営に当り問屋職、年寄、帖付、迎番、馬指、人足方、下働、継飛脚、御触状持参の人々が、大名の参勤交代の馬や人足の世話を初め旅人の宿泊や荷物の運搬の手配をした所。

 

◎旅篭「和泉屋」(現鈴木たばこ店)・・・2階の櫛形手摺や看板掛け柱から出た腕木など、江戸時代の上旅篭の面影を今に残していた。感心させられたのは、今は細々とタバコ屋を営みながらもこの店の土間が史跡を訪ね歩く人達に開放され、御主人が色々と建物の特徴や置かれた当時の道具の類を説明してくれた事、又、面白かったのは土間に司馬江漢と広重の「蒲原」と「由 比」の絵のコピーが比較して並べてあった。奥様が「こんなにブームになるとは思わなかった!」と呟きながら、自転車で裏の果樹園から採れた「甲州ミカン」の配達に出掛けて行った。

 

◎蒲原夜の雪記念碑・・・街道から少し元の東海道に入った所に立派な石碑が立って、街道巡りの人が記念写真を撮っていた。広重の写生した場所と言う訳だが、先生のおっしゃるのには、広重は元々江戸・東京は丸の内、今の明治生命の辺りで生まれた「火消し役」で、当時の慣習で幕府が朝廷に馬を献上する「八朔御馬献の儀」に同行した時に「五十三次」の絵を描いたという。その中でこの「蒲原夜の雪」の図は最高傑作と言われながら、土地の人の話では「蒲原は滅多に雪は降らないし、こんな場所もない」そうだ。それを聞きながら私は何時かの「元絵は司馬江漢」の説を脳裏に思い浮かべていた。

 

◎本陣跡(現佐藤家)・・・当時は「西本陣」を平岡本陣、「東本陣」を多芸本陣と称したそうだ。ここには外からは見えなかったが、土蔵や大名が駕籠を置いた「御駕籠石」が今も残っているそうだ。

 

  この機会に「東海道中膝栗毛」を読み返してみた。弥二さん北八は江戸を出て最初「戸塚」に泊り、二日目は「小田原」宿、「箱根」を越えた三日目の「三島」の宿で、ゴマのハエに銭を取られて、四日目、この「蒲原」の宿では北八がここ本陣にお着きのお大名のお供の膳を狙ってまんまと飯を5〜6杯平らげて、おまけに弥二さんの分まで汚れた手拭いに包んで外れの木賃宿に持ち帰ったとあった。

 

◎高札場跡・・・立札を立てる所で、正徳元年(1711)に出された五高札に曰く、

  1.天馬に関する定。

  2.忠孝を奨励する定。

  3.毒薬、賃金銀売買禁止の定。

  4.切支丹宗門禁制の定。

  5.火付重罪の定。

 

◎御殿道跡・・・昔、武田を攻めて帰る織田信長を慰労する為に「蒲原御殿」を作ったが、そこに通ずる道でその向うの山を「御殿山」と名付けた。

  他に少しどうかとは思うが、

○「70年前のガラス」(磯部氏宅)・・・「「二階の波打った手作りのガラス戸を見てね!」?!?)

○「大正時代の洋館」(旧五十嵐歯科医院・・・今は別荘として夏だけ使われているとか)・・・や

○「美しい格子戸の家」(増田氏宅)・・・毎日丁寧に拭き掃除をしてぬくもりのある昔懐かしい格子戸だ)

  などにも「案内板」を立てているのは余り頂けなかった・・・。

 

  宿場の外れにも良く整備された「西木戸」があった。東木戸から西木戸までは約1キロ、蒲原宿のメイン・ストリートはここでおしまいだ。

  ここ蒲原の宿も洪水(高潮)の為に元の場所から山手へと移されたので、「街道」も東西の木戸の所で「鍵の手」に折れ曲がっていた。

  元の街道に戻って暫く行くと役場の手前に「和歌宮神社」があった。昔家康がここに御殿を造って信長を迎えたと先生の説明があった。この街道筋の家並みにも昔の面影を残す建物が多く、タイム・スリップしたような感を抱きながら、国道一号線を次の「由比」の宿へと目指す。

  蒲原は「甲斐」と繋がって米と海産物の交易で栄えたが、ここ由比は「神沢川」と「由比川」に挟まれた「海」だけの小さな宿場で、慶長6年(1601)に宿駅が開設された。宿場の入口(東木戸)の辺りには「十王堂」があって「閻魔大王」も祀られていたが、明治初年の廃仏毀釈で延命寺の本堂に移されたとかで、今は代りにお地蔵さんが祀ってあった。ここは又江戸から39番目の一里塚のあった所でもある。

  街道の右側に立派な邸宅があった。その前に立てられた「御七里役所之跡」の案内板に曰く、「紀州藩の七里飛脚の役所跡、江戸〜和歌山間に七里毎に宿場に中継所を置く」と。先生の説明によると元紀州藩は浅野家が広島に追いやられた後、沼津から紀州に移封されたそうで、江戸との情報交換を早くする為に「七里飛脚」の看板を設けて、江戸を5の日、和歌山を10の日に発って片道8日間で往復したと言う。江戸寄りには「沼津」、和歌山寄りには次ぎは「丸子」に七里飛脚の中継所を置いた。(序でに言うと、当時一般には江戸〜京都間は13泊前後、正徳年間で旅篭屋は108300文、木賃宿が 32108文で、大井川の渡しは水嵩によって異なり4294文が相場だったとのお話である。) 

  由比の本陣は「由比本陣公園」として美しく整備され、園内の「東海道広重美術館」では「東海道名所風景図展」が開かれていた。我々も見学した後で、当時の建築様式のままに復元された本陣記念館「御幸亭」でお抹茶をご馳走になった。

  この真向かいに「正雪紺屋」と染め抜いた紺の暖簾が人目を引いた。「由比正雪の生家」だと言う。

  脇本陣は「羽根の屋」と「徳田屋」と称し、更に行くと由比川の畔が西木戸で「文化丙寅」と刻した常夜灯が残されていた。

  既に時計の針は4時半近くを指していたので駅へと急ぐ。同道の女性達が買い求めるままに私も「たまごもち」とやらを買った。

 「おはいりなさいやァせ。名物さとうもちよ あがりやァせ。」と茶屋女に声を掛けられた弥二さん北さん・・・、

 呼びたつる  女の声はかみそりや  さてこそここは  髪由比の宿 (「東海道中膝栗毛」より)

  名物「さくらエビ」の幟に誘われて海産物屋にも飛び込んだが、姿を見失った先生は駅近くの店で「生しらす」を沢山買い込んでおられた。ご存知先生の事、この店のが余程美味しいのだろう。残念至極!!

  かくて17時20分の電車で一同帰路に就く。

  車中、先生がおっしゃるのに「次回歩く名勝”薩垂()峠”の名はサンスクリット語から来ている」と。

  ふと眺めた車窓からの富士山がとても近くに大きく見えたのが大変印象的であった。

  最後に、今回の実り多い街道歩きを体験する機会を与えて頂いた巌さんに心から感謝しながら、冗長なお話もこの辺で幕を閉じましょう。