[15]蒲原

 

 

1.発言番号:215

    発言者  :巌  隆吉

    題名  :広重東海道五十三次(富士〜蒲原)を歩く

    登録日時:98/02/18 20:47

 

 去る2月16日、予定とうりNHK講座の五十三次を歩く会に参加した。

  斑目先生は先ず「今回のテーマは富士川である」と告げられた。配布されたパンプレットによると、東海道名所記の中で「富士川は吉原と蒲原の真ん中なり。大河にして水、甚だ早し。この川は海道第一のはや川なり。こぎ行く舟の中にある人は、目まい肝きゆる心地して」とあり、ツユンベリーの江戸参府随行記には、「富士川は非常に危険な川で、われわれが渡った場所以外では、誰も渡ることが許されないということであった」と述べている。当時は水量も多く現在から見ると想像を絶する危険な川であり、この難所を渡し舟によって行き来していた。

  当日、東海道線の富士駅に降りて、富士の繁華街を抜けて旧東海道をたどってその富士川の昔の渡し場に向かう。

  富士市の、湧水を利用した本州製紙、大東製紙等大工場が林立しているのを眺めつつ、街道筋の平垣(ヘイガキ)公園内の芭蕉の句碑、

   ひと尾根に  しぐるる雲か  不二の雪

 貞享4年(1687年)に昔を偲び、途中の道祖神や札の辻跡を見て多少なりとも江戸の旅人の気持ちを味わう。また、800年の昔この1里4方に49院と500の僧坊があって多くの修行僧がいた実相寺があったという。この実相寺はその後津波で崩壊して、現在は北の岩本山に移転している。この地方は富士川の洪水や津波で何回も流された吉原の宿場に象徴されるように大変な水害地帯であった。

  そのため、この地には富士川との格闘の歴史が秘められている。富士川は前にも述べたとおり、まさに「八岐のオロチ」で豪雨の度に水路を変えて多くの人々を苦しめていたようだ。それをここの代官、古郡重高、重政、重年の3代の、50年間の大工事で漸く延宝2年(1674年)雁堤を完成した。この雁堤は現地を見て全く驚いたのだが、雁がはばたくような形のW字形で上流から流れる洪水を受け止める。と同時に、極めて大きな遊水池となっており、それが雁の飛行形に似てにているので、その名を「雁堤」といわれている。

  この遊水池構想は、現在の治水工学面でも極めて優れているのではないかとも思われる。私が現在住んでいる三鷹を流れる野川の上流にも水害に懲りたために、極めて大きな遊水池を設けているが、江戸時代の昔の人も偉いなとつくづくと思った次第だ。

  その一辺7〜800メートルの堤の上を歩いたが、機械化された現在でも相当な工事量と思われる位の大工事だ。そのカナメのところに護所神社が建っているが、その下には人柱が埋まっている。当時難工事のため人柱をとの話になり、富士川を渡ってくる千人目の旅人に頼むこととなった。その千人目の人は巡礼の老人であったが、その希望を受け入れて快くその犠牲となったという。巡礼が埋められて50日間は巡礼の鳴らす鐘の音が聞こえたという悲しい話だ。その人柱の上に現在の護所神社が建っている。何となく、身の引き締まる想いをして拝んだ。それから、この雁堤によってその下流加島新田5000石の農地の水害は今にいたるまでないという。

  その人柱を詠んだ歌碑に、

    人の世に  命ささげし  人柱  今に伝えて

   富士のかりがね

とあるが、涙なくしては読むことが出来ないだろう。

  この堤の上を西に向かって歩いて行くと、富士川の左岸の絶壁の上に水神社が祭られている。そこでの先生からの説明によって、江戸時代の川の渡り方には渡船、橋、徒渉、人足の4方法があったと聞いた。この急流の富士川は渡船によるが、先に昔の手記を抜粋で記載しているとうり、随分と苦労して渡っていたと伝えられている。

  ここから、旧東海道にかかった昭和に建造された鉄の橋を渡って対岸の岩淵に行く。この岩淵はその昔、東海道の渡し場と甲州との富士川舟運で随分と栄えたことのことだ。角倉了以の開発した富士川舟運は上りの荷物は塩で4、5日かけて溯り、下りは米を数時間で運んだといわれており、この渡し場は当時交通の要衝であったという。

  なお、この富士川の橋の上からは、右手に岩本山そして東名高速の鉄橋さらに左手岩淵の向こうには河岸段丘を経て、日本の中央断層といわれる高い山々が望まれた。現在渇水期だが富士川の水量は意外に多かった。

  岩淵から、その段丘を登り昔ながらの旧東海道を歩く。途中修理された常夜燈が建ちまた、この道には大きな木の繁る一里塚も残っており、充分昔を偲ばせてくれる。先生の松の廊下事件の急を知らせる飛脚もここを通った筈との説明に成る程と納得する。また、昔の東海道は蒲原まで富士川の横を通っていたが津波で安全なこの段丘を通るようになったという。

  途中、名物の栗粉餅があったので、早速求めてその一つをほおばりながら歩いて行く。この地区は西風が強く火事が多いので常夜燈に火除けの「秋葉山」と書かれているのを多く見かけたのも興味深い。

  一同まだ体力も残っているようなので蒲原宿まで行くこととなった。

  そこで、旧東海道は新幹線の下をくぐり、さらに坂を登ると東名高速の横に出た。そして東名の上を跨いで渡っている。今は橋が架かっているのでそこを渡ることになるのだが実際は、その東名の上の空の中に旧東海道があったのだとの説明を聞いて、時代に流れとはいえ不思議な感じがした。今度、東名で富士川を渡りこの場所をと通ると、おそらくこの旧東海道のことを思い出すだろう。このように旧東海道もこの東名の中に一部埋没消化されているとは、感無量であった。

  程なくして蒲原の宿場に着く。ここには、安政の大地震で残った土蔵があった。当時の耐震建築という「四方具」という工法で建てられている貴重な遺産だ。率直にいうと、もう少し市当局も保存をすべきではないかなと思ったのは私だけではないだろう。

  その蒲原には奥州に向かう途中、病に倒れた義経を看病に来た浄瑠璃姫の話が残っている。その蒲原、木之内家硯水菩提所を訪ねて、今では地名でも残ったその恋の物語を思う。

  なお、それが「浄瑠璃」の始まりだといわれている。この蒲原の宿場は良く保存されており、その東方には水力による自家発電でアルミを年3万トン生産する日本軽金属の工場が建っている。かって、私もアルミ事業にかかわっていたので懐かしく、旧東海道とアルミ精錬を絡み合わせて面白い取り合わせだなとしばし昔のことをともに回顧した。

  新蒲原駅発17時頃の列車に乗車。三島で新幹線に乗り換え帰途に着いた。車中では先生を始め同行のかたがたとビールで乾杯、程良い疲れを癒しつつ色々と話し合い親睦の実を挙げたことはいうまでもない。

 

 

2.発言番号:223(215へのコメント)

    発言者  :深澤 龍一

    題名  :広重東海道五十三次(富士〜蒲原)を歩く

    登録日時:98/02/24 07:55 

 

  私が前回歩いた「吉原〜富士」を思い出しながら、何時もながらの巌さんの名文の「メッセージ」を 楽しく拝見しました。

  「塵も積もれば・・・」で、巌さんと歩き繋いだ「旧東海道」も今回で振出しの「日本橋」から数えて150キロになりましたね。お互いにご苦労様でした。でもこれからは段々遠くなります。機会を捉えながら頑張って歩きましょう。

  富士川は吉原の辺りでも「暴れ川」で川筋が何度も変って、沼地のような所だったとあの時聞いておりました。

  静岡県は何故か私には縁が無くて、一昨年小学校のクラス会で「浜名湖」に泊った以外は、先般の巌さんの代参のお陰で色々「見物」させて頂きました。今、改めて地図を広げて眺めますと、「三島」から「白須賀」までと、東海道五十三の宿場の内、指折り数えて実に二十二の宿場がこの県に集中しているのですね。富士川のような難所が多いのか、或いは徳川のお膝元「府中(静岡)」が近いからなのでしようか?  はた又、唯単に東西が長いと言う事なのでしょうかねぇ。

  この次は「蒲原」の宿から「由比」の宿場辺りまででしょうか?「薩タ峠」を越えていくのを楽しみにしているのですが・・・。

  でもそれより先に歯抜けになっている「保土ヶ谷」、「戸塚」、「平塚」、「大磯」を埋めなければいけませんね。太田さんは知らん振りで協力してくれそうにありませんから、その内私が埋める事と致しましょう。

  誠にお粗末なコメントで済みません。