[14]吉原

 

 

1.発言番号:185

    発言者  :深澤 龍一

    題名:広重東海道五十三次「吉原から富士」を歩く

    登録日時:97/12/23 11:02

 

  去る12月15日、巌さんが都合が悪いからと「広重名所東海道五十三次」を歩く会に私が「代理出席」をする事になりました。これはその「記録」です。

  12時45分にJR「吉原」駅に集まった。ご指導頂く先生は先ず駅の歩道橋から、丁度真下に到着した私鉄「岳南鉄道」を指差して、「全長9.5キロの短い鉄道だが、ここから街の中心街に通じている」との事。そして西の方は「此処は紙の町、製紙工場の煙突が沢山見え、田子の浦は製品を積み出す為の人工に掘った港です」との説明があった。そしてここ吉原の宿場のキーワードは遠州灘の「津波」ですと・・・。

 

1.「元吉原宿」

  町の南の外れ、駅の辺りに1601年に作られたが、寛永16年(1639)に津波をもろに被った。そこで一旦東海道の北側に移し変えた所、延宝8年(1680)に再び津波の被害を受けたので、1682年に更に北の方に再建された。そこは小高くて富士川が作った自然の堤防に恵まれたという。

 

2.「香久山妙法寺」

 この寺は「毘沙門さん」の愛称で土地の人に親しまれているが、家康の愛人「荻の方」が崇拝していたという。境内も広く中国風の唐門を擁した立派なお寺が「砂丘」の上に立っていた。庭園が美しい。富士の裾野から湧き出る水が多くて遠州灘に土砂を流し、それが潮の満ち干に乗って自然に砂が線状に溜まって小高い砂丘を形成したのだという。この砂丘は「千本松原 まで続いているそうだが、先程の「津波」はこれを乗り越えて押し寄せ宿場を襲ったという。

 

3.「木之元神社」

 水の神様として霊亀5年( 715)に創建された。富士山頂より連なる地下水がこんこんと湧き出る「聖地」として、ご本体は「井戸」で砂丘に「御神水」とあった。・・・これは気を付けていないとつい見落としそうな所・・・。水が豊富で製紙会社が集まった。

  東海道は駅の辺りで略直角に北に向う。これは津波による宿場の移転で 迂回路」としたもので、現在の南北に走る沖田大通りは「東海道」で今工場群が建ち並ぶ。水の多かった昔の沼が乾いて川下の方が通れるようになったのだとは先生の説明である。二度目の「宿場」はこの辺りにあったそうだ。昔の富士川は川幅が広くてとても歩いては越えられず船で渡る人が多かったそうである。

 

4.「名勝左富士」

 北に向って歩いている時に生け垣で囲った松の傍にこの碑があった。直ぐ隣が日清紡績富士工場、バス停の名前まで「左富士」。東海道を下る(西行き)時は何時も富士は右、路が北に折れているから広重はここで珍しい「吉原  左富士」を描いたという訳だ。

 

5.「平家越え橋」

  例の鳥の羽音に平家が驚いたという所と伝えられる。今の富士川はここから約6キロ西を流れているから当時はこの辺りは沼のようだったのだろうという。治承4年、黄瀬川からやって来る義経を平家方が、こんな川を背にした場所で待ち受けてさえいなかったら 源平盛衰記」は異なったストーリーになっていたかも知れない。

 

6.「吉原天神社」

  日古番能瓊瓊杵命と菅原道真を祭るこの社は、往時吉原宿の「見付」跡。往時は源頼朝(1193)や豊臣秀吉(1591)も詣でたというが、2度目の宿場移転(1682)でこの地に追われ、今は市街地の子供遊園地程の広さしかない。今の吉原市の中心街「吉原1丁目」(宿場の中心)の近くで東海道線からはかなり北に入っているので、成る程最早津波の心配はないが、製紙工場と自動車工場、そしてそこに働く人達の住宅が建ち並ぶこの街には、歴史に残る古いものの面影は殆ど何も無い。「そんなものを維持保存しても何のお金にもならない」という事なのだろうか?

  宿場を過ぎると迂回の為「コ」の字形に曲った東海道は再び南に下ってお寺が並んで、元の東海道に繋がる曲がり角には小さな橋が架かっていた。

 

7.「富安橋」(江戸時代は三度橋と呼んだ)

 朝鮮の使節が江戸に向う時、時の大名が江戸と大坂の間を三度も往復して嘆願し、壊れていた橋を作らせたという。

  程なく道端に大きな石柱がポッンと建っていた。日蓮上人も修行したという元「実相寺」跡だそうだが、高さ2m以上もある大きな花崗岩の石柱だけで何の説明書きもなかった。

  総じてこの街は「旧東海道」に対して極めて冷淡であったが、「本市場」という立場(たちば?)のあった辺りに「鶴芝の碑」だけは大事に維持されていた。石に刻まれた江戸の学者の詩文には「雪の頃ここから見る富士の中腹に見える芝草が恰も鶴が舞っているように見えた」とあった。文政3年(1820)の事である。

  富士駅への道すがら「祝創立120周年」と飾られた建物を見た。富士第一小学校で、矢張りここは歴史の古い街だと感じた。 

  それは兎も角、こんな近くに大きな姿の富士山を正面から見たのは、「お上りさん」の私には初体験であった。商店街を歩いてふと振り返ると、狭い通りの向うにも雪を被った富士が聳えているのにはたまげた。今回の 五十三次巡り」を始める時に、巌さんが「君は富士山に登ったから原と吉原は免責してやる」とおっしゃっていたのに、今回「又行けとは・・・」と思ったが、こんな見事な富士山が眺められて、来て見て本当に良かったというのが実感である。

  「田子の浦  うちいでて見れば  真白にぞ

              富士の高嶺に  雪は降りける」

  富士山はヤッパリ下から仰ぎ見る山と痛感した次第。

 

 

2.発言番号:186(185へのコメント)

    発言者  :巌  隆吉

    題名    :広重東海道五十三次「吉原から富士」を歩く

    登録日時:97/12/24 11:33 

 

 早速ご丁寧な会議室へのご掲載有り難く拝見しました。私が行くより詳細な記述で大変感謝しつつ、喜んでいます。

  吉原から富士あたりは、新幹線や旧東海道線、東名高速を通って見る位で全く知らないところですが、「左富士」というのは珍しいと思います。

  何れ行くでしょうが、由比から東の方を見ますと右側に富士山が見えるのも珍しい景色だと思っています。昔上京して入試を受ける学生が、旧東海道線の列車の窓から、通常は富士山は左に見えるのだが、もし右に富士山を見れば、落ちるというジンクスがあったといいます。このように通常のことより逆の事象は、何時の時代でも話題性があるのだと改めて思いました。

  これから、ダイヤネットワークの有志でこの五十三次を何処まで踏破出来るか判りませんが、ともかく来年もゆっくり歩いて行きましょう。