[13]原

 

 

  発言番号:784

    発言者  :深澤 龍一

    題名    :東海道五十三次(第十三宿「原」)

    登録日時:99/09/23 10:03

 

  「原」の宿は当初巌隊長殿から「東海道の宿場を回れ!」との命を受けた時、富士登山の故にこの宿場は終った事になっていたが、こうして宿場巡りが大団円を迎えると此処だけ省く事は「画竜点睛を欠く」様な気がして、大磯の序でに更に足を伸ばして訪ねる事にした。駅前の通りをものの150M程北に歩くとそこに「旧東海道」が走っていた。

  元の宿場は此処から東の方にあって、果てしない一本道の只中にチョコンと位置する小さい宿場であったそうだ。

  間もなく目に付いたのが

 

1.浅間神社

 御由来記に曰く。「甲斐武田氏に仕えし植松平次右衛門出雲守源季重なる者、天正10年(1582年)3月、武田勝頼陣没するや、去ってここ原町に至り居住す。季重敬神の念篤く慶長14年(1609年)8月当浅間神社を創建、氏神として敬崇。季重の弟、宗吾掃部初代の神賦となる。

  季重の子孫は連綿として当宮の前に居住する植松本家なり。

  明治8年村社に列せらる。

        主祭神  木花咲耶姫命

          殿  瓊瓊杵命尊

  この社の向いは道路を隔てて静岡銀行と三島信金だったが・・・。

 

2.臨済宗  松蔭寺

 ギョロリと目をむいた「達磨像」をイメージする白陰禅師が晩年住職を勤めたお寺として名高く、この寺に来る道の途中に「白陰禅師誕生之地」の石碑や「白陰正宗」なる地酒の醸造元の看板も見られた。なかなか立派なお寺で、ここは沼津市の町外れながら境内には大きな禅道場もあった。

 

3.白陰禅師墓(静岡県指定史跡)

 白陰禅師は貞享2年(1685)12月25日、駿河国原宿に長沢家の三男として生まれた。幼少の頃から聡明で6才の時、お寺にお参りして法華経の講義を聴き、帰ってから人々にその話を語って聞かせたという。

  15才の時松蔭寺で出家し慧鶴と名付けられた。19才の時、諸国行脚の旅に出て各地で修行を重ねて500年に一人の名僧と言われ、臨済宗中興の祖と仰がれた。享保2年(1717)に松蔭寺に入り住持となり、その翌年白陰と号した。白陰の名は全国に知れ渡り、「駿河には過ぎたるものが二つあり、富士のお山に原の白陰」と謳われた。

  白陰はまた禅画にも堪能で、釈迦、達磨。観音などを好んで描いた。明和5年12月84才で入寂、後桜町天皇より神機獨妙禅師の諡号を、又、明治天皇よりは正宗国師の諡号を贈られている。

  此処松蔭寺は宿の東の端、踵を返して果てしない一本道を西に引き返した。街道に沿って平成に建てられたという真新しい小さな社はプラスチックの屋根で覆われ、矢張り「浅間神社」とあって某氏三代が富士に詣でて云々と立派な漢文の由来記が添えられていた。

  街道の南側少し入った所に「時宗 西念寺」・「日蓮宗 龍守山  昌原寺」・「臨済宗 妙心寺派 徳源寺」と寺院が続き、やがて産土神浅間神社があって、流石に鈍くて無知蒙昧なで私も漸くここに来て初めて気が付いた。どうして此処は「浅間神社」ばかりあるのだろうかと。

  偶々境内に小学校高学年らしい女の子が2人遊んでいたので聞いて見た。「<<あさまじんじゃ>>ですか?<<せんげんじんじゃ>>ですか?」。彼女らの一人が答えた。「せんげんじんじゃ」。そこで「どうしてここには浅間神社ばかりあるのですか?」と聞いたが首を傾げていた。

  由来記に書かれた祭神は矢張り何れも最初のと同じ「木花咲耶姫命」とあって、何処も必ず「鎮座地」が番地まで克明に記されている。此処は天文2年(1533年)8月の創建。

  更に西に歩くとお隣り富士市との県境に「村社  三社宮」の石碑の側に矢張り「浅間神社」の由来記も添えてあった。勿論祭神は「木花咲耶姫命」。これで4ッ目である。唯「相殿」は各社夫々異なった神様が祀られていたが・・・。

 

4.要石(カナメ イシ)神社

 今日は「これでおしまい」と海岸沿いの松原に小さな祠を探し当てた。寛永年間に創建されたもので、水郷鹿島香取両神宮の要石と同じ物で、この社に一部が露出する火山岩の大塊は、ここから300M先まで続くと言われ、この為に安政の大地震にもこの地方のみは害憂がなく、又聾疾者はこの社に祈願して穴明石を賽すれば平癒すると口碑あり、境内には多数の穴明石が奉納されていた。

  陽射しがぶり返す田圃道を抜けて、大急ぎで駅に戻る。

  帰宅して気になって仕方が無いので早速百科事典を紐解いて見た。

 

◎浅間神社

 「木花咲耶姫命」を祭った神社。初めは富士山(強力な活火山)そのものを直ちに神として崇拝していたが後にはその山の神を木花咲耶姫命と設定するに至ったという。富士は四方から望拝される山なので山麓の四周はもとより、東海道、東山道はじめ各地にも望拝所、遥祭社などが建てられて、浅間神社の数は1316社に及ぶという。そう言えば富士山の頂上近くにも浅間神社の鳥居があった事を想い出した。そして、当初巌さんから「原」を免除して頂いたのも、これが理由だったのかと今初めて納得した。

  東海道を歩いたお陰で、また一つ勉強させて頂いた次第。

 

追記:

1.今回は初めて「デジカメ」を携えての街道歩き、何時もはメモを取る街道沿いの史跡の案内板も、今回からは「デジカメ」に収めて帰ってからパソコンで覗けるので、現場ではゆっくり見物が出来た。

  街道筋や史跡の風景も2〜3カメラに収めてデーターライブラリーの「写真館」に入れましたので、お序でがあればご覧ください。

 

2.これで巌さんと二人で歩いた東海道も、「大津〜三条大橋」を残すだけとなった。先日のご案内で3人の方が遠路態々我々の最後を「見届け」て一緒に頂ける事になっています。有難い事です。この最終コースを除いた「日本橋」から「草津」までの記録は、近日中に一纏めにしてデーターライブラリーの「旅・登山・散策」に流しましょう。