[11]箱根

 

 

1.発言番号:174

    発言者  :太田  

    題名    :箱根道中記

    登録日時:97/12/01 10:28

 

  東さんのご好意により、明治生命寮に伺ったDDD会員9名は前夜のご馳走と囲碁、麻雀を思い出に1118日(火)朝9時、それぞれの目的に向かって別れて行った。

  我々巌、深沢、太田の3名は元箱根から箱根湯本までのハイキングを選んだ。写真器財を一杯積んだ藤本さんのRV車に便乗して箱根神社迄送って貰う。神前に道中無事(交通安全とは違う)を祈り歩き始めたのは9時半。前日来の雨が上がり、風は多少あるものの絶好の道中日和。

  昨日から紅葉真っ盛りの中、雨の富士、暁の富士、湖の富士と刻々と変わる富士を堪能して来たが、何時までも眺めてばかりいられない。前途20キロ近くの行程が待っているからだ。

  大波の立つ湖岸に別れを告げ、暫くの間上り坂に挑む。間もなく、中年女性3人連れに追い付いた。「三島から来て甘酒茶屋迄行く」のだそうだ。それにしても深沢さんは京都の呉服問屋の息子だから、誰とでも直仲良くなって不思議ではないが、元戦車隊長の巌さんの人懐こさも大変なものだ。この3人組とすっかり打ち解け、三島の話(前日、彼はNHKのハイキングで三島−沼津を歩いている)をしたり、写真を撮ったり撮られたりして楽しんでいた。そのうちに我々の足が速く、甘酒茶屋に着く頃には遥か後に彼女達を見失ってしまった。

 甘酒一杯が400円だなんて人を馬鹿にするにも程がある。今にも倒れそうな小屋で設備費零、原価\2030円からして200円位がいいところ。しかし、なんと群がる人の多さよ。これが江戸時代以来の-ムバリュウと言うものだろうか。

  いっそのこと近所に鉄筋3階を建て、衛生的甘酒を 100円で売り出したらどうかと考えてみた。

  茶屋を発って、途切れそうな石畳を探し探し歩いて行くと、会う人は3人連、5人連果ては10人組等女性が大部分、男性は家族の中の一員、夫婦連れ、独り歩き等で男性2人以上の集団は全く無かった。一体日本はどうなつてしまったのだろう。

  30歳前後独りで歩いて来た外人女性にも行き合った。日本語が大変上手だ。何の為に在日しているのか。既婚か、未婚か等美人で教養がありそうなだけに想像は尽きなかつた。

  真鍮で「誠」と飾った鉢巻をした勇ましそうな御仁が来た。思わず身を避けようとすると、笑いながら話しかけて来た。その大要をまとめると、新選組中でも土方歳三に傾倒している。その足跡を追って敗走の日順通り奥州街道を歩き、五稜郭まで行って来た。今回は歳三が上洛した日順に従い、一昨日東京を発ち京都まで歩いて行く。今日は三島経由沼津迄、今、正午近くだが道程表ではこれから28キロ歩かなければならない。実際に行けるのかどうか。世の中には変わった人がいるものだ。

  写真を撮り合い、名刺を貰って別れる。名刺には「新選組」他6冊の著書が印刷してあつた。

  深沢さんは自分の名刺も渡しているところを見ると、これからも交際するつもりなのだろうか。

  巌さんの写生は素人離れしている。甘酒茶屋を出てから一度も休んでいないので、畑宿で元本陣の見事な庭園を眺めた後、程よい紅葉の下で小休止した。二人が菓子をつまみながら、ぼんやりしている間に往復葉書大のスケツチブツクを取り出して10分位で描き上げ、色鉛筆で彩色までした。堂に入っている。

  須雲川べりを歩いて奥湯本に到着したのは2時、蕎麦屋「はつ花」で漸く昼食にありついた。私にはさ程旨いとも思えぬ蕎麦に、こんな時間に押すな押すなの客とは恐れ入った。

  裏手の早雲寺に寄った。本堂の戸が閉まったまま、杉、樫等薄暗い木立が風に鳴っている中、北条家の墓に詣でると、何か恨みに取り付かれたようで、気味が悪かった。

  駅までの途中、巌さん旧知の「丸太坊」喫茶店に立寄る。名前も面白いが、店内に落書、ガラクタが溢れ結構楽しかった。

  私の万歩計が2万6千歩を指していたから、4時間、1516キロ歩いたことになる。皆まだ余力がありそうだった。

  4時の電車で帰京。

 

 

2.発言番号:177(174へのコメント)

    発言者  :深澤 龍一

    題名    :箱根道中記( 5) 

    登録日時:97/12/02 09:23 

 

 今回の「箱根旧街道」に、この「宿場巡り」を思い立った当時、「何とも無謀な事を・・・」とご忠告を頂いた太田さんが、あの箱根の「難所」を歩いてくれた事は大いに意義がありと感謝しています。願わくばこれを機会に「旅好き」の太田さんが行く先々で機会があれば「宿場」めぐりを消化して欲しいという事であります。

  さて、楽しかった「箱根路」を振り返ってみますと、おっしゃる通り巌さんが会う人毎に馴れ馴れしく声を掛けておられたのには感心しました。恐らく往時の東海道でも旅行く人はあのようにして言葉を交わしてお互い旅の安全を願ったのでしよう。それに比べると太田さんは貴方が誉め契った日本語の堪能な一人歩きの外人女性を始め、何方にも声を掛けなかったのは矢張りプライドが許さなかったのですか?「旅の恥は掻き捨て!」とは参らないのでしょうね。

  「甘酒茶屋」はおっしゃる通りですが、あれだけ人が入っている事を見ると 価格は需要と供給によって決まる」そうだから、高いと思う人は飲むなと茶屋の主人は申しているのかもしれません。あれだけ流行れば笑いが止まらないでしょうね。

  あの日男性の姿が少なかったのは、我が国の大半の男性は私らの様に「毎日が日曜日」では無かったのでしょう。けれど、これからは女性がこの国をリードする時代になるのかも知れません。「戦争を知らない男達」は腰が入っていませんから・・・。

  巌さんのスケッチ、私も感心致しました。寮の部屋からも湖の向うに高く聳える富士山の姿を描いておられましたが、サラサラとものの10分足らずで見事な富士を描かれたのには「驚き」と共に、とても「羨ましく」さえ思いました。

  あの「とろろ蕎麦」、私には大変美味しかったです。太田さんはとても口が肥えていらっしゃるようですね。あの翌日の研修会で五島さんも「あれは有名だ」と誉めていらっしゃいました。注文した蕎麦が出てくるまでの間、巌さんから「各人俳句を作れ!」との御命令である。全く素人の私ですら「戦線離脱」は許して頂けない。短時間に以下の3作が出来た。

   「石だたみ  歩き疲れて  紅葉かな」      雁峰

   「老いらくや  東海道の  深紅葉」        中葉

   「箱根路や  五十三次  紅葉狩り」        龍峰

  そして最後の「丸太棒」、なかなか情緒があるお店で巌さんに抹茶をご馳走して頂いた。そしてこの店には訪れる人の「句集」も置いてあった。「我々のも置いていこう!」とは隊長殿の言。巌さんも人が悪い。

  最後に我々の歩いた行程は15〜6キロとは、少しオーバー気味で、精々12〜3キロではなかったろうか?

 

 

3.発言番号:180(174へのコメント)

    発言者  :巌  隆吉

    題名    :箱根道中記

    登録日時:97/12/06 14:24 

 

  太田さんの箱根道中記と深澤さんのコメントを楽しく拝見しました。私も皆さんのお陰で楽しく、元箱根から湯本まで歩くことが出来まして大変喜んでいます。

  途中でお会いしました、新選組土方歳三に傾倒されている御仁は、歳三と同じく一日で小田原から沼津まで歩くと言っていましたが、私は3日間でやっとその間を途中飛ばしながら、しかも箱根の嶮は逆に下って漸くその行程を果たすことが出来た次第。

  その点、昔の人の健脚は凄いなと痛感しております。この度は、五十三次を歩くことについて、批判されていた太田さんも参加されて、あの有名な箱根の嶮を踏破されたことに、大変な意義を感じているところです。感謝しています。

  また、深澤さんは今度、藤沢宿を歩かれてその記事を載せておられますが、もう皆で既に七つの宿場を歩いたことになりますね。果たして全部を歩けるかどうか、いささか疑問ですが折りに触れて、少しづつ実行しましょう。

  皆さんが既に詳しく記述されていますが、私も畑宿本陣茗荷屋の裏庭は一見の価値ありと思います。甘酒茶屋から下って暫くすると寄せ木細工で有名な、畑宿があるがその本陣の茗荷屋の裏庭の庭園は、かって下田から江戸に登ったハリスが大変喜んだといいます。現在は多少荒れ気味で昔の風情はないのかも知れないが、三つの小さな滝といい、歩く途中一寸立ち寄って見ると良いと思います。

  また、早雲寺の北条5代のお墓には恨みが残っているような感じがすると太田さんが述べていますが、全くそのような感じでしたね。特に私は、前回箱根から三島への途中、一日で滅んだ北条の山中城址の悲劇を目の辺りり見ましたので、盛者必衰とはいえ世の無常をひしひしと感じました。

  なお、皆さんからスケッチのことを、誉めて戴きまして恐縮です。目下、下手なりにその土地を訪問した記念にスケッチしようと心がけています。もう少し上達しないとお見せ出来ないのですが、70才からの手習いとしてご勘弁下さい。

  また、機会があれば皆さんと歩きましょう。

 

 

4.発言番号:152

    発言者  :巌  隆吉

    題名    :東海道五十三次[箱根から三島]を歩いて

    登録日時:97/10/21 14:48

 

  広重の五十三次のことは、会議室上で種々話題になりましたが、私もこの10月からNHK文化センター主催の「広重名所東海道五十三次」を歩くに入会して、毎月第三月曜日に参加することとしました。日取りによっては、参加出来ない時もありましょうが、健康の許す限

り実行したいと思っているところです。

  この会の講師は前大妻女子大教授斑目文彦先生で参加人員は、15名程度のこじんまりした会で、どの会でもそうでしょうが大多数は中高年女性に占められております。その点、男性は希少価値でしょう。

  既に、この会は日本橋から歩いておりまして、箱根まで到達しており今回途中加入した私は、箱根からの参加になりまして10月20日の午後からの箱根から三島までのコースに挑戦しました。

  どうせ箱根まで行くのならと、朝早く出発して集合場所の箱根町バス停に着きまして、箱根の関所やその付近の一寸黄色かかった紅葉をスケッチして皆と落ち合いました。集合時間の12時半近くになっても、私は初参加で皆さんの顔を知らずイライラしていたところを幹事が見つけてくれて一安心した次第。

  三島までは、約15キロメートル、下りだから全部歩いても大したことはあるまいが大分長いなと思っていましたが、先生は16時半解散でせいぜい山中城址まで、1万歩程度となろうとの話があったので、楽なコースだなと先ず安心した。ところが外輪山への山道での石畳といっても石のゴロゴロした道は意外に苦労して登ったので、後の疲れ具合から見てもこの程度が丁度良いのかなと痛感した次第で、簡単に五十三次を歩くと言っても、中々線では難しく点線になるのだと思った。この箱根からの西坂の道も時々1号線と交差しつつ、途中では道路工事もあり道の途切れたところもあって、その点では全く太田さんのご指摘どうりでした。

  先ず箱根町から箱根峠に向う。先生は箱根の宿は全く力のない宿場町だったと北の方を指差し、街道筋の大きな楓の木の生えているところが、「はこや」という本陣の場所だと説明された。

  近くの台座が214.7センチメートル (駅伝コースの10万分の1の高さ)の駅伝選手の像を見て湖畔を歩いて芦川(昔芦が生えておりこの川から芦ノ湖の名称が出た)を渡り芦川の宿(鎌倉時代の宿場)の中の旧東海道をとおる。この宿はかって修験道者の町でもあり、頼朝も石橋山で敗れた後、この修験者の応援を得て、浮かび上がったという。

  途中江戸時代さながらの面影を残した駒形神社に参拝して文化、天保、享保時代の灯篭に昔を偲んだ。なお、この駒形は駒ケ岳から名をとっている由。

  また、珍しいことに神奈川県にある芦ノ湖の水利権は、現在静岡県にあるという。これは江戸時代今残っている深良水門からトンネルを掘って延べ33万人、工事費9700万両で駿河側に箱根用水を作ったからだというが、昔の土木技術もさすがだなと感心する。

  いよいよ、石畳の石のゴロゴロの坂道を登る。この坂の中におそらく色々な物語を秘めた石仏もあり右側の半島は「箱根やすらぎの森」といい、自然がそのまま、残った良いところのようだ。最後に石段のある急坂を登り、漸く「挟石坂」を出ると一同ホットする。

  しばらくコンクリートの道を迂回して、相模と伊豆の国境、箱根峠(846メートル)を経てまた、東海道旧道西坂に入る。この旧道は杉並木でなく、ハコネダケのヤブが道の両側に茂っている。その昔このハコネダケがたばこのキセルに重宝されたとのことだ。 

  途中、昔の東西の道、足柄道、鎌倉時代の湯坂道そしてこの江戸時代の東海道の話を聞く。この東海道も文久2年(1862年)徳川慶喜上洛で更に補修された等、先生の路傍の講義を承りつつ、ひたすら坂道を下がって行く。

  一里塚のある付近に接待茶屋跡がある。昔ここで、江戸の豪商のお金の金利で無償で旅人にお粥やまぐさを提供していた由で、昔のボランテイアというか社会還元に感心する。近くに徳川有徳公(吉宗)の碑が立っており、ここのお茶やの主人の接待ぶりに感心した吉宗は、その後紀州藩にその主人を召し抱えたとのこと。また近くに秀吉が兜を載せたという兜石がある。

  兜石

 

また、明治天皇もこの道を2回通っておられてその碑や、この伊豆で育った井上靖の「北斗蘭干」(北極星が夜空に燦然と輝くとの意)の碑等も立っている。

  いよいよ三島側に入る。三島市は道をキチンと整備している。ハイキングの道としては歩き良いが、いささか今様でもの足りない。小さな杉木立の中を雲助(当時は蔑称ではない由)の墓を見て山中城址にたどり着いた。

  山中城址は約8万坪、まことに立派な城址だ。しかし秀吉の大軍7万に対するに守備する北条方僅か4千、秀吉の物量戦によって僅かに半日で落城した全く悲劇の城だ。

  駒形諏訪神社のある本丸付近を見る。樹齢600年の大カシの木や武士が矢立てに使ったという樹齢500年の矢立ての杉もこの城の盛衰や特に落城の状況をつぶさに見ていただろう。

  北条丸付近からは、はるかに出城も見えるし、深い空堀と鉄砲弾を防ぐ土塁を見ると昔のことが偲ばれ感無量。

  城を下りて、宗閑寺を訪ねる。ここは秀吉方の先鋒で戦死した一柳伊豆守(昔の国主の位は大、上、中、下の4段階あって、伊豆守は下の位で河野水軍の末裔という)の墓と敵方の北条家臣の戦死者の墓が並べて建てられている。

  また、珍しいものでは、キリシタンらしき墓もあり、こんな辺鄙なところまでの取り締まりは無理だったのかと思う。昔は、この山中新田のような新しい土地には、得体の判らない人々が多く入っていたようだとの説明も聞いて、この寺を辞す。

  漸く到着した16時過ぎのバスに乗って街道筋の松並木と西に傾きつつある真っ赤な太陽を見ながら三島駅に向う。

  途中先生推奨のうなぎを食べようと一部の人と本町で降りて、からっと焼いたうなぎを肴に生ビールで乾杯。一杯機嫌で珍しい二人っ子の自動水揚げポンプ(娘の人形の前に立つと反応して動く)を見て、新幹線に飛び乗り帰京した。

  これからも、箱根からのこの東海道五十三次の旅を続けたい。

 

 

5.発言番号:154(152へのコメント)

    発言者  :深澤 龍一

    題名    :広重東海道五十三次を歩く

    登録日時:97/10/22 09:42

 

  巌さんの「箱根から三島」を興味深く拝見しました。

  街中と違って緑深い自然に恵まれて快適な 街道歩き」を楽しまれた事と羨ましく拝見した次第です。

  箱根から西の方はまだ歩いた事がありませんが、石畳の道を歩くのは気分が出るのでしょうね。私の歩いた 品川」は商店街の中自家用車を避けながら狭い道を排気ガスを吸っていましたから、歩いていてもだいぶ気分が違いますよね。巌さんの方が「点線」を2キロ程沢山歩かれたようです。

  諏訪神社と言うのは品川にもありましたが、全国に分社が散らばっているそうですね。お恥ずかしいながら、今回歩いてその事を始めて知りました。農耕の神、狩猟の神、として武人の神だそうですね。

  やり始めたので私も続けます。次回は 川崎」で「神奈川」、「保土ヶ谷」と上って参りますが、どうやら当分は街中ばかりが続いて些かうんざりさせられます。でも、「土下座」して皆さんに謝らなくてもいい様に頑張ります。

  来月18日の箱根「東坂」を今からとても楽しみにしています。秋晴れだといいですね。 東海道五十三次談義」でも聞きながら、太田さんにも是非一緒に歩いて欲しいものと願っています。

  目標を頂いた巌さんに感謝しながらのお粗末なコメントでした。

 

 

6.発言番号:156(152へのコメント)

    発言者  :太田 

    題名    :広重東海道五十三次を歩く

    登録日時:97/10/24 11:26  

 

  NHK文化センタ−の「東海道五十三次を歩く会」に入って歩き始められた由敬服しました。

  シリ−ズの途中からそれも箱根から参加するのは、並みの人にはなかなか出来ないことです。貴殿が単なる口舌の徒でなく、実行力に溢れておられるのには益々感心致しました。

  また、深沢竜一氏の「五十三次」を陰に陽に支援されていることもよく存じております。

  願わくはご両人が無事三条大橋に到着して祝杯を挙げられんことをお祈り致します。

  余談ですが昔、斑目文雄と言う地理学者が居られましたが講師の斑目文彦氏はその方のご子息ではありませんか。

  一行15名の大部分が中高年女性と言うことですが、私の経験でもハイキング、登山、観劇、展覧会、音楽会、俳句会、勉強会等文化、健康に関するものは皆この傾向ですね。

  男性優位のものはゴルフ、マ−ジャン、競輪、競馬、釣り、囲碁、将棋等勝つた負けたそして酒、煙草の渦の中、これでは平均寿命の差6ポイント5歳はやむを得ないと思います。

  序に申しますと、私は明日からトルコへ参りますので10日間程失礼致します。深沢氏も一緒です。

  では暫くのお別れを。

 

 

7.発言番号:203(152へのコメント)

    発言者  :深澤 龍一

    題名    :広重東海道五十三次を歩く

    登録日時:98/01/21 12:00

 

  私は巌さんから頂いた広重の立派な図録に従って「東海道」を歩いていますが、「広重の元絵は司馬江漢」という広告の見出しに釣られて、去る1月の初旬に町田の小田急百貨店に「司馬江漢・東海道五十三次画帖展」を見てきました。5年程前に江漢の画帳「春波楼画譜」と思われる55枚の続き絵が発見されて、これが広重の「元絵」だと言う訳です。作者は広重より50歳年上で広重は東海道を歩いていないと主張しています。定説では広重は天保3年の7月に幕府の命により「八朔御馬進献の儀」にご用絵師として同行して京へ上り、その旅の途中で各宿場の風景をスケッチしたという事になっていますが、広重は天保3年の春までは「定火消同心」 (今で言う消防士)という幕府の下級職人で、そんな儀式に同行を命ぜられる身分ではなく、又暇も無いと言う訳です。

  広重の歩いた道と、スケッチしたポイントを訪ねて歩き始めた私にとっては事は重大とばかり激しい雨の中を出掛けて行きました。会場には江漢と広重の絵が対比して展示され、広重は江漢の絵を見ながら五十三次の版画を書いたのだと盛んに主張していました。成る程55枚の中で3枚を除いて構図は殆どそっくりで、異る3枚とは「赤阪 、「宮」そして「京都」です。 先ず赤阪は江漢は宿場の風景なのに広重のは宿屋の中を描き、宮では前者は熱田神宮を描いていますが、こんな神々しいものを描くのは当時御法度で、広重等の身分では描け無かったと言います。そして京都も江漢は「京都御所」を描き、広重は宮と同じ理由から「都名所図絵」からの借画だと言う訳です。(その点江漢は格式高い士族の出身で数多くの大名とも接見している身分でこんな絵を描くのも平気だったと理由付けしています)二人の絵を並べながら比較した解説を眺めていると「成る程」と肯ける点が非常に多くありました。

  例えば巌さんが訪ねられた三島にある「三島大社」(巌さんが行かれたかどうか定かではありませんが)の絵は、広重のそれでは鳥居の前に灯篭が描かれていますが、江漢のそれは灯篭は鳥居の後ろにあります。巌さんのメッセージでは「三島大社」には触れておられませんが、大正時代に撮られた写真では確かに広重と同じく灯篭は鳥居の手前にありますが、彼等が東海道を旅した当時に発刊された「東海道名所図会」では鳥居の位置は江漢と同じで、それから100年近く経った安政の大地震で灯篭が崩壊して、今度は手前に立て替えられたと言う訳だそうです。

  もう一つの面白い例は「掛川」です。成る程言われてみれば広重の絵には「凧上げ」と「田植え」が一緒に描かれています。この構図は季節外れもいい所で、江漢のそれには凧上げも田植えもなく、ただ霊山として知られた「秋葉山」が大きく描かれていました。

  勿論だからと言って決して広重の値打ちが下がるものではないとも主張しています。彼は 浮世絵師」であり、二つの「五十三次」を見比べても色彩の多彩さ、鮮やかさについては広重の方が遥かに魅力的です。更に、描かれた人物や風俗の面白さ、見るものを画面に引付けるユーモラスな雰囲気、見るものを楽しませるサービス精神(先程の凧と田植えや本陣の家紋に自分の本家の物を描く等)等も広重のアレンジの巧さでその「オリジナリティー」を高く評価しています。

  江漢は京から江戸へ少なくとも3回は東海道を実際に旅したという記録があるそうですが、例え広重は歩いていなくても、私はこれからも広重を求めて東海道を歩く事に変りはありません。何故ならばこれまでも行く先々で無学な私に色々の事を教えてくれたのですから・・・

 

備考:江漢の画帳「春波楼画譜」は「伊豆高原美術館」にある。会場で求めたこの美術館の館長の書いた「広重”東海道五十三次”の秘密」〜新発見、その元絵は司馬江漢だった〜  も大変面白く読んだ。(興味のあるお方にはお貸出し致しましょう・・・二人の絵が対比して掲載されています)

 

 

8.発言番号:204(203へのコメント)

    発言者  :巌  隆吉

    題名    :広重東海道五十三次を歩く

    登録日時:98/01/24 14:41 

 

  久しぶりのコメントを拝見して私からもコメントしたいと思います。

  広重の絵は江漢のコピーの面ありとの見解は良く聞きますね。確かにその説の信憑性も高い面もありましょう。

  その点で伊豆高原美術館もかねがね訪ねて見たいなとも考えていました。館長の書いた本があるとは是非この次の第2火曜日の2月10日にお貸ししてください。

  なお、三島大社は私も既に訪ねていますがその鳥居と灯篭がどのようになっていたとは全く覚えていません。その大社そのものは、かって伊豆の東海岸にあったものを移したとのこと何れにしましても、昔の官幣大社であり、大きなお宮ですね。

 

 

9.発言番号:212(203へのコメント)

    発言者  :巌  隆吉

    題名    :広重東海道五十三次を歩く

    登録日時:98/02/07 15:58

 

  深澤さんからお借りした伊豆高原美術館館長対中如雲著「広重ー東海道五十三次ーの秘密」を楽しく興味を持って拝見しました。二三私が感じたことを率直に述べます。

 

@  深澤さんのコメントと概ね同感です。

 この絵の対比表を見る限り、広重の元絵はこの江漢の絵だろうと思いますね。仮に明治の洋画家が贋作したとすると著者のいうとうり辻褄が合わないでしょうからうなずけます。まだ今後とも論争がありましょうが面白いテーマだと思っています。

 

A  それにしても、美術や文化の面からも花の江戸時代を再認識する必要があるなと痛感しました。

 今の日本も明治維新の成果だとのみ思うのは誤りで、江戸時代の文化の継承の上にも立っているのだとの認識を改めて感じました。

 

B  オランダ商館商館医のツユンベリーが「日本という国は科学においては西洋に一歩譲るが、他の点においてわれわれより優れている」と江戸時代の日本を評価しているが、当時の外人にもそのように評価さ  れていたとは大いに自信を持って良いのだなと思った次第。

 

C  絵の写実性という面では江漢の絵が優れていると思う。

 著者もいうように江漢は、優れた科学者でもあり、絵も遠近法を採用する等写実的であり、現在の絵とも極めて類似性があろう。しかし著者もいうとうり、広重の絵の面白さ特にグラフィックデザイナー的才能については格別の才能を発揮しており、これが西洋画家の関心を呼んだことは疑いないところで、静かに両者の絵を見ていると、広重の絵が江戸時代からこれだけ世の中で騒がれたことが本当にうなずけた。

 

D  さらに両者の絵を比べると中々面白いし、絵の勉強の面でも大変参考になろう。

 江漢はオーソドックスに絵を学んだ人で、広重は理論的ではなくタタキ上げの絵師という感じのする人で、その点では広重こそある面での天才ではないかなと思った。

  またあの時代、山をモザイク風に描くなんて随分進んでいたのだなともつくづく思った。

  このように、この本は美術とは何か、文化とは何かということについて考えさせてくれた。

  これから東海道を歩くに当たって、江漢の描いた絵で現地を確認、広重の絵でそのアレンジやユーモアを感じ取れば、より良い楽しみも生まれると思う。

 

E  また、伊豆高原美術館を訪ねるテーマも増えました。

  この本を借用したお礼をかねて、まことに拙い感想を掲載しました。ご笑覧ください。