[10]小田原

 

 

1.発言番号:187

    発言者  :深澤 龍一

    題名    :東海道五十三次・・第九宿「小田原」

    登録日時:97/12/28 20:55

 

  先日「吉原宿」を訪ねた同じ日に、吉原の集合時間が午後だったので午前は道すがら「小田原宿」を歩く事にした。

  小田急で小田原に出て東海道線で一駅江戸寄りの「鴨宮」が起点である。駅の歩道橋から右手に富士山が7合目まで雪を被って真っ青な空をバックに朝日を受けて美しい顔を覗かせていた。

  「小田原大橋」の手前を酒匂川に沿って川下に歩く。時刻は8時過ぎだが冬至が近いので南からの太陽がとても眩しい。やがて「酒匂橋」の袂、ここが広重の「小田原  酒匂川」の地点である。私の宿場巡りは必ず広重の描いた「地点」と「宿場跡」は訪ねる事にしている。絵では富士は遥か遠くにそれらしいのが描かれているが、此処から見る富士は鷹取山の直ぐ向うにとても近くて良く見える。

  橋を渡るにつれて富士の姿は小さくなって、やがて渡り終えた時にはもう山の端に隠れて全く見えなくなったが、橋の真下、川の中州には白鷺が4〜5羽舞い下りて何かを啄ばんでいた。

  小田原寄りの元の「渡し」の辺り、街道沿いにこんもりとした森を訪ねた。

 

1.網一色八幡神社

 後三年の役の強者・鎌倉権五郎景政の霊を祀る。境内には大人が3人寄らねば抱えきれない程の大きな松(小田原市指定保存樹)が往時を偲ばせる。

  北条氏康が西国より漁師を招いて「地獄網」と言えるを用いて海底の魚介を採らせて民利を計り、網を一色の海岸まで干したので「網一色」の称起ると説明されていた。

 やがて東海道は「国道1号線」に入る。通りから少し入った所に

 

2.新田義貞公の墓

 新田義貞転戦中、延元3年(1338)越前は藤島で戦死し、足利尊氏にその首級を晒された。義貞の家臣宇都宮泰藤(小田原城主大久保氏の先祖)が晒首を奪い返して、領国三河に行き、妻子に暇を告げて主君義貞の本国上野国に首級を葬る為東海道を下った。しかし酒匂川のほとりここ網一色村に達した時、病に罹り再起できず、やむなく義貞の首をこの地に埋め自らもここで没したと言う。(但し、今この地には鶏舎が建って案内板しか見当らなかったが・・・)

  国道に戻って北側を歩いていると軒並みにお寺が並んでいた。「常籾寺」に始まり臨済宗大徳寺派「春海禅寺」、日蓮宗「弘経寺」、「昌福禅院」、東町に入って浄土宗月宗山「心光寺」、「道場院」と続く。どの寺も立派で境内には八幡神社と同じ大きな松の「保存樹」があって、旧東海道が偲ばれた。

 

3.山王神社(星月夜の社)

 ご祭神は「大山祇命」と「少彦名命」。明応4年(1495)2月、北条早雲小田原城を手中に納め相模の国を平定した頃、この社は北条家の郭内で山王曲輪と称え、海辺なる袖ヶ薮にありしが、暴浪の為その頃崩潰せしかば、慶長18年(1613)この地に移したとある。「星月夜の井戸」の向いには「男根石 あり。昔はこの隣に「女陰石」が並べられ、生殖信仰の道祖神として多くの人に崇められていたという。

 

4.見附跡(史跡小田原城跡)

 小田原北条氏時代の小田原城は全国屈指の雄大な規模をもった城郭として知られ、内郭(本丸、二の丸、三の丸)や城下町の周囲に大外郭を設けて、内郭の外側に長大な防禦線を構えて、これを「総構」(そうかまえ)「総曲輪」(そうくるわ)と呼んだ。ここの山王口は東海道の東側(江戸口)の城下への入口という訳だ。

  ここから東海道は国道から一本海側に折れる。「吉原宿」の入口で指導の斑目先生の解説を聞いたが、当時宿場に入る時は街道筋から宿場の中が直接見えない様に入口の近くで「街道」は必ず鍵の手に曲っているのだそうだ。吉原も此処と同じく「街道」は左に折れていた。

  この辺りは小田原の中心街で、旧東海道は現在「かまぼこ屋」さんや「海産物屋」さんが軒を連ねて、私は寧ろそちらの方に興味があった。

  ここから私は地元の「ライオンズ・クラブ」の皆さんが建てたかつての宿場の町名が細かく表示されている「石碑」を追って歩く事にした。

 

○「新宿町」(しんじゅくちょう)

 江戸時代前期、この町は城の大手口の変更によって東海道の北寄りに付け替えられた時に出来た新町で、藩主帰城の折の出迎え場であった外、郷宿の茶屋があり、小田原提灯作りの家などもあった。

 

○「鍋町」(なべちょう)

 小田原北条氏時代から町に鍋 などを作る鋳物師が多く住んでいたのでこの名がある。

 

○「万町」(よろっちょう)

 町名は古くからあって七里役所と言う紀州藩の飛脚継立所(ひきゃくつぎたてじょ)があった。江戸末期には旅篭5軒あり、小田原提灯作りの家もあった。

 

○「高梨町」(たかなしちょう)

 東海道から北に向う甲州街道の起点に当り、古くから商家・旅篭が並んでいた。町の中央南寄りには下(しも)の問屋場(人足の馬による輸送の取次ぎ所)が置かれて、中宿町の上(かみ)の問屋場と十日交代で勤めていた。

  この辺りに「本陣跡」があって「明治天皇聖跡」と記されて一角が保存されていた。この手前に「旧本陣古清水旅館」の看板が架って、「明治天皇宮の前御在所跡」と書かれていた。先の「聖跡」の敷地の中に、「本陣を建てたのは清水金左ヱ門」とあったが、紛らわしい事である。

 

○「宮前町」(みやまえちょう)

 小田原北条氏時代には上町・下町に分れていた。町の中央に城主専用の入口浜平門と高札場(幕府の法令などを掲示する場所)があり、江戸時代末期町内には本陣1、脇本陣2、旅篭23軒があって本町と共に宿場の中心であった。

  日本武尊を祀る「松原神社」に詣でる。代々小田原宿の「総鎮守」であったらしい。

 

○「本町」(ほんちょう)

 小田原北条氏時代この町は通小路(とおりこうじ)と呼ばれ、江戸時代前期に、この町を基準にして城下の町人町を左右に町割りした時に本町と改められた。宮前町と共に小田原宿の中心で、江戸時代末期には本陣2、脇本陣2に旅篭が26軒ほどあった。

 

○「欄干橋町」(らんかんばしちょう)

 町名はこの町から城内に架けられていた橋の名前によりついたと言われており、町内には小田原北条氏時代からの旧家「外郎(ういろう)家」あって(今も残っている)、江戸時代末期には本陣1、旅篭10軒ほどあり。

 

○「筋違橋町」(すじかいばしちょう)

 橋の名が町名になっているが橋についての資料は見当たらない。町内の東海道筋を西から諸白小路、狩野殿小路、安斎小路(何れも武家屋敷が並ぶ)が南に伸びている。

 

○「山角町」(やまかくちょう)

小田原北条氏の家臣山角貞吉の屋敷があったのでこの町名が付いたと言われている。町内には小田原北条氏時代からの畳職人、屋根職人の頭(かしら)などが住んでいた。東海道筋の西から御厩小路、天神小路(何れも武家屋敷が並ぶ)が南に伸びていた。

  この辺りで「箱根口」の信号を越えたが、そろそろ吉原に行く電車の時間が迫ってきたので、これが最後と訪れた所は

 

5.大久寺(たいきゅうじ)

 正式には宝衆山髄心院(旧日蓮宗)、小田原城初代藩主大久保忠世の開祖で、広い境内には初代以下7基の墓地が並んでいた。

  帰り道小田原城址公園の脇を通った。

 

○「御用所」

 地名の由来はこの地に藩の御用所があったのでこの名が付いた。御用所とは藩士の執務所で始め元禄の頃箱根口門の東隣にあったが、文政の頃この地に移された。幕末には母屋を囲んで敷地内に6棟の建物があったというが、今はこの辺りに公共職業安定所や消防署が建ち並んでいた。       

 

  今年はこれが最後になった。8月か始めた広重の東海道五十三次も、途中で「歯抜け」はあったが、「日本橋」からスタートして「品川」〜「川崎」と続き更に「藤沢」、「小田原」と飛んで、巌さんの「箱根」〜「三島」〜「沼津」〜「原」に「吉原」加えて、短期間に10個所と

は我ながら上出来であったと満足している。