[8]平塚

 

 

1.発言番号:449

    発言者  :深澤 龍一

    題名    :東海道五十三次(第7宿「平塚」)

    登録日時:98/10/16 10:42

 

  「体育の日」、天気が良いので町田に出た序でに急に思い立って「平塚」の宿を目指す

  JR「平塚」に降りて少し北に歩くと「東海道通り」に出る この近くに「一枚だぁ〜、二枚だぁ〜」の「お菊」の塚があるというがなかなか見付からない 駅に近い商店街に戻ると「第8回湘南ひらつか囲碁祭り」の横断幕が目に付いて、道路一杯の人だかり。近付いて見ると道路に机が並べられて大勢の人が「碁盤」と対峙し横通りまで延びている。100面位並んでいる。お馴染みのプロ棋士が一人20面位受け持っているのか、お客の方も真剣そのものである。大竹英雄、小林  覚、石田芳夫、マイケル・レドモンド、それに女流棋士の本田幸子の顔も見えて賑やかな事である。

  嫌いな道でないので「本業」そこのけで大分見入っていた。気が付いたら3時をとっくに廻ってコリャ大変と「お菊」を探す。

 

1.「番町皿屋敷  お菊塚」

 伝承によると、お菊は平塚宿役人真壁源右衛門の娘で、行儀作法見習いのため江戸の旗本青山主膳方へ奉公中、主人が怨むことあって菊女を斬り殺したという

  一説によると、旗本青山主膳の家来が菊女を見染めたが 菊女が言うことを聞かないので、その家来は憎しみの余り家宝の皿を隠し、主人に菊女が紛失したと告げたので、菊女は手討ちにされてしまったが後日皿は発見されたという。

  この事件は元文5年(1740)2月の出来事であってといい、のちに怪談「番長皿屋敷」の素材となったという。また他の話によると菊女は器量が良く小町と呼ばれていたが、24才の時江戸で殺されたといわれている。死骸は長持詰めとなって馬入(今の相模川)の渡し場で父親に引き渡された。この時父親真壁源右衛門は「あるほどの花投げ入れよすみれ草」と言って絶句したという。源右衛門は刑死人の例に倣い墓を造らずセンダンの木を植えて墓標とした。

  東海道に戻って西に歩く。

 

2.「平塚宿見附の蹟」

  慶長6年(1601)江戸幕府は、東海道に宿駅の制を布いた。平塚宿はその当時からの宿駅で、宿の入口に見附と称する塚を築き、城門に擬して石垣を積み、うえに芝を張った縦2米、横2.5米、高さ1.5米ほどで、東海道を挟み北側と南側にあった。ここは平塚宿の東端であったため江戸方見附と言った。又見附の外を棒端といい、「従是西  江川太郎左衛門  御代官所  東海道平塚宿」と書いた標柱など建っていたということである。

  歩いていても開発が進んで全く昔の面影はないが、行く手に一つだけ白壁作りの古風な建物があった。今消防署になっているその場所は、

 

3.平塚宿問屋場跡」

  慶長6年(1602)、東海道の交通を円滑にするため天馬の制度がしかれた。この天馬の継立する所を問屋場といい、問屋場には問屋主人、名主年寄、年寄見習、問屋代迎番、人足指、馬指等の宿役人等が10余人以上勤務していた。

  平塚宿では初め、ここに問屋場が置かれたが、寛永3年(1635)参勤交代が行われるようになってから、東海道の交通量は激増した。伝馬負担に堪えかねた平塚宿は、隣接の八幡新宿の平塚宿への加宿を願い出で、慶安4年(1651)その目的を達した。

  八幡新宿は平塚宿の加宿となり、新たに平塚宿に問屋場を新設した。これにより従来からの問屋場を「西組問屋場」といい、八幡新宿の経営する問屋場を「東組問屋場」といった。この両問屋場は10日目交替で執務したという。

  広重はこの辺りから「平塚  縄手道」を描いたという。饅頭を置いたようなこんもりとした独特の姿をした「高麗山」が行手に見える。「花水橋」を渡ってこの山を右手に見ると牛が寝そべっているように横に長くなる。「化粧坂」のバス停から大磯駅の近く「山王町」バス停迄が旧道で大きな松ノ木も並んで往時を偲ばせる今日のコース唯一の道。「平塚」から次の宿場「大磯」までは2.9キロと短い。町田を出る時は一気に大磯迄をと思っていたのに、出だしの「囲碁祭り」ですっかり道草を食ってしまった。

  大磯を終えるとこの「東海道」も巌さんの歩かれた「藤枝」まで繋がることになる。

 

 

2.発言番号:455

    発言者  :巌  隆吉

    題名    :東海道五十三次(第7宿「平塚」)

    登録日時:98/10/17 12:40 

 

  もう大磯の宿が終われば二人を通算すると日本橋から藤枝まで東海道を歩いたことになるのですね。この20日には島田から大井川を渡り金谷の宿に行きますので、残りは日坂から宮(熱田)を歩き通すと西から歩かれた深沢さんとあわせて五十三次を歩くの終盤を迎えることになりましょう。

  大井川を渡る島田〜金谷の旅は前回の台風7号のため1ケ月遅れてやっと20日になる等、多少遅れ気味になっていますが....。

  平塚の高麗山には昭和19年に登ったことがあります。山頂は一寸窪地になっておりまして、木々が茂っていたように思います。木の間越しに相模の海が少し見えたように思っておりますが、良くは思い出せません。その時は、この海岸に米軍が上陸する可能性ありと考えておりました。広重の描いた絵ほど厳しい山ではありませんが、平塚の平地の西にある目立つ山で、何時も旧東海道線で通る度に眺めて色々と昔のことを偲んだものです。

  谷川岳に続いての平塚の旅、随分体力がありますね。今度は21日より英国の田舎の旅とか、全くその体力と財力に敬意を表します。また、面白い紀行文を期待しております。