[7]藤沢

 

 

1.発言番号:179

    発言者  :深澤 龍一

    題名    :東海道五十三次(その4)第六宿「藤沢」

    登録日時:97/12/04 09:13

 

  先月30日の朝7時、「風邪を引いて出られないから態々行かなくてもいい・・・」と、その昔、今話題の山一證券で熱烈な恋愛結婚したという奥様からの電話が入った。昨年「東欧の旅」でご一緒したご夫妻である。先日のトルコ旅行の写真交換会の席で、彼女が出演(コーラス)する音楽会の当日「主人はゴルフで聞きに来てくれないから」と切符を頂いたので、実はその序でに「藤沢」宿をと「ダイヤ・ネット」の皆さんに公言した手前、天気晴朗とあって出掛けない訳にはいかなかった。

  私の歩く「宿場巡り」の道しるべは、巌さんお薦めの「広重五十三次を歩く」(日本放送出版協会刊行)であるが、写真も豊富で良く纏められているので助かっている。但し、独りで見知らぬ土地を歩くのには載っている五万分の一の地図の写しが少々見づらいので、昭文社の「区分地図」と突き合わせながら歩いている。

  この日は藤沢駅から国道467号線を少し北へ、境川に架る「遊行寺橋」を渡って旧東海道に入る。ここが広重の画に出てくる「地点」で、バス道路に架る「藤沢橋」の一本北の真っ赤に化粧した橋だ。

  程なく正面に門が見え「時宗総本山清浄光寺」とある。藤沢には何度も降り立ったがこのお寺は初めてだ。正式には「藤沢山無量光院清浄光寺」といい、正中2年(1596)の創立、開山は呑海と言い時宗の創始者一遍上人の孫弟子に当る。創祖一遍上人が信仰の喜びを「踊り念仏」で表わす念仏修行によって往生安楽の境地に至ると説いて諸国を廻ったのに倣って後継者も念仏踊りで全国を遊行したので、歴代の管長を「遊行上人」と呼び寺の名前も「遊行寺」として親しまれた。その昔、藤沢の宿はこの寺の門前町として栄えたという。

  入口には「黒門といろは坂」とあった。この総門は「日本三大黒門の一」だそうで、参道の非常に低い段差の石段が48段続くことから「いろは坂」と名付けられたという。

  広い境内に入ると中央に黄色く色付いた大銀杏が聳えていた。清浄光寺の象徴として以前は樹高31Mに及ぶ雄大な姿を誇っていたそうだが、昭和57年の台風で上部が折損して、今は高さ16M、幹廻り6.8M。伝えられる樹齢は300〜700年と幅があるが、この辺りでは鎌倉鶴岡八幡宮の大銀杏と共に屈指のものである。

 

   藤沢山無量光院清浄光寺

  境内に「藤沢宿遊行寺コース(ハイキング・コース)」の案内板があったので私もそれに従って歩くことにする。寺を出て手洗い拝借と「公民館」に立ち寄ったが、偶然建物の角に「藤沢御殿跡」の案内板があった。江戸時代の初めには宿に「本陣」が無いので、慶長元年(1596)6000坪の広さを持つ将軍御殿宿舎が建てられて、家康を始め秀忠、家光も泊ったという。やがて「本陣」「脇本陣」ができて天和2年(1682)頃には廃止されたが、今もこの辺り「陣屋小路」の名が残っている。

  次は「白旗神社 だ。国道467号線が国道1号線と交差する近くに社が見えた。御祭神は寒川比古命と「源義経公」というので興味を覚えた。その由緒記に曰く。「往昔一ノ宮寒川神社を勧請し、建久9年荘厳寺住僧覚憲別当となる。文治5年源義経奥州にて敗死し、その首を黒漆櫃に入れ美酒に浸して持ち来り、腰越の里にて和田太郎義盛、梶原平三景時、甲直垂を着け甲冑の郎従二十数騎を相具して首実検をなしこの地に埋めたり。斯る実事に基きて宝治3年丁丑9月義経を合せ祀る。社前領家町に首塚首洗い井戸あり。・・・」と。境内には「弁慶力石」も置かれていた。

  次に訪れたのが道路から少し入った「永勝寺」。往時、飯盛り女のいる旅篭は繁盛し、藤沢宿の旅篭49軒の内、飯盛り女を抱えたのは29軒あり。1軒に2人づつ置かれたというが、墓地の中に飯盛旅篭を営んだ小松屋源蔵の墓がある。飯盛り女の墓はこの源蔵が建てたもので、当時この様に供養された者は少く、借金の形(かた)など苦界の中で身を沈めた者の多い中、小松屋の温情が偲ばれる。(39基中の38基は宝暦11年(1761)から享和元年(1801)迄の間に小松屋の墓域に建てられている)。

  宿場の域を出て更にバス道(国道44号線)を西に歩く。ここは今までの「品川」や「川崎」と違って、「旧東海道」の文字に全くお目に掛からないので歩きながら段々不安になってきたが、歩いているうちに道路の向い側に「らーめん  街道や」の看板が見えた。街道沿いの蕎麦屋に入って女将さんにも確かめる。道端の「おしゃれ地蔵」に藤沢市教育委員会の案内板はあっても、「旧東海道」の文字は全く見掛けない。

 「国道一号線」にぶつかった所で漸く「四谷不動(大山道標)」の案内板にお目に掛かる。東海道と大山道が交差する四谷辻に建てられていた道標で、大山不動尊の下、正面に「大山道」、両側面に「これより大山みち」とある。延宝4年(1676)に江戸横山町の講中が建てたもので、初代のものは万治4年(1661)に、江戸浅草蔵前の講中によって建てられた。江戸時代を通じて江戸町人の大山参詣が盛んだったようで、四谷辻には多くの茶屋が建ち並び参詣客を誘ったそうだ。この道標は破損して修理の跡が痛々しかったが、確かに「延宝四丙辰歳六月廿八日  武州横山町  宿坊順学院仁兵衛」と読めた。

  道標の脇道を10M程奥に入った所に大きなコンクリート製の鳥居があって、向って右の柱には「万治四年辛丑年正月建之  御師  佐野清太夫  御府内石工  見世持中  八町堀世話人中  佐久間町山元新五郎」、左の柱には「天保十一庚子歳六月建之  御師  村山八太夫  御府内石工若者中  当所世話人  藤屋平左衛門」と刻まれ、昭和三十四巳亥歳五月復元とあった。これらは全て町の有志の方達が復元・管理しているようだ。

  音楽会の開演時刻が近づいたので、ここからJR辻堂駅に出て茅ヶ崎へ向う。駅前は工事でごった返していたが、一里塚の矢印に救われた。国道一号線の南側に「茅ヶ崎一里塚跡」があったが、今は道路整備の為南側の一角にだけにその面影を留めていた。

  茅ヶ崎市民会館で久しぶりに生音楽に接した後、未だ明るかったので旧東海道を更に西へと足を伸ばす。市民会館の近くには街道に沿って松の木も4〜5本見られたが、それから先は国道一号線に沿って若木の銀杏並木が何処までも続いていた。お目当ての「弁慶塚」も「南湖の左富士碑」も大きい道路が交差し、マンションも建って目指す辺りに見当たらなかったので、道路の反対側を茅ヶ崎駅へと引き返す。途中茶屋町の辺りここにも偶然「はつ花そば」の看板を見掛け、去る日の楽しかった「箱根路」が思い出されたが店は生憎閉っていた。

  夕暮れの中に村社「第六天神社」の石柱が見えたので覗いてみる。祭神は「淤母陀琉神(おもだる・かみ)・妹阿夜訶志古泥神(いもあかしこね・かみ)」で、創立は不詳なれど新田義貞鎌倉攻め(元弘3年)の際、その兵火の祝融にあったと伝承されていると「由緒記」に記されていた。

  辺りが暗くなる頃、漸くにして歩道の脇に「?@日本橋まで59K」と書かれた鉄製の杭を見付けた。

 

 

2.発言番号:188

    発言者  :太田  

    題名   :東海道五十三次(その4)第六宿「藤沢」

    登録日時:97/12/28 22:06

 

  幾つかの忘年会が終り、年賀状を出し、大掃除も済んだので、後は〆飾りをすればよいだけになった。

  一寸暇になったので貴君の五十三次を覗いてみようと思った次第。

  第1回の「日本橋」で、小生が「無謀なことを」とコメントつけた後「品川」「川崎」の報告があったが、そちらは黙って見過ごしたら、第4回の「藤沢」が出てきた。

  少し遅くなったが、それについて少々コメントを述べてみたい。

  同地に「遊行寺」があり、それが時宗の総本山であることは前から知っていた。そして一度訪ねてみたいと思っていながら延引して今日になってしまった。

  仏教宗派の総本山が奈良、平安時代に多く開かれ、奈良、京都に置かれたのは当然であろう。

  しかし鎌倉時代になると様相は一変する。

  道元が曹洞宗の永平寺を越前に、日蓮が日蓮宗の久遠寺を身延山に、それに時宗の清浄光寺つまり遊行寺と、みな政治の中心から離れた場所に、しかも強烈な教義と戒律を以って開創したのだ。

  小生は前二者は相当昔に訪ねていたが、最も手近な藤沢に行かなかつた。これこそ「灯台元暗し」と言うのだろう。

  丁度、来月熱海に1泊旅行の予定があるから、その帰途是非寄ってみたい。貴君のルポが確かならばきつと素晴らしい感銘を受けるだろう。

  小生の生家から4−5分の所に菩提寺があり、子供の頃墓参の度に山門を眺めては「時宗一向寺」の山号が眼に入り、何と単純明快で良い名前だと思った。  当時、住職は県立高校の教師を兼職していたので、檀家にも学校にも低姿勢だったが、定年になって僧侶専業になつたら急にハッスルして、時宗から浄土宗に改宗してしまった。

  世の中一般にあるように、「寄らば大樹のもと」小から大に鞍替えして、何等かの利得があつたのかも知れないが残念なことだつた。

  事の序に可成の物知りでも知らないと思われる同時代開創のもう一つの宗派について話そう。

  小生は若い頃、客に薦められて尺八を習ったことがある。結局ものにならず、今は空しく2030冊の譜本と高価?な尺八数本(先生が尺八の製作も兼ねて居り自称日本一の名人)が眠っているだけ。

  その先生が「松戸市在に普化(ふけ)宗の総本山一月寺があるから行ってみなさい」と。禅宗の一派で中国唐代の普化禅師が開祖。

  我々の年齢だつたら記憶が有る筈。天蓋を被り「明暗箱」を胸に、尺八を吹きながら托鉢して歩いた虚無僧が普化宗の僧侶だつたのだ。

  小生はそれと思しき所を尋ねてみた。総本山と言うからには広大な敷地に荘厳な伽藍を想像していたのだが、あに計らんや街中の民家に挟まったありきたりの小さな寺。

  それも「一月寺」の寺号はそのままでも「日蓮正宗」(創価学会の宗派名)に身売りしていた。

  有為転変は生身の身体ばかりでないことをつくづく感じた。

  鎌倉時代は以上のように新宗派の開創があつたが(その他同時代に浄土宗、浄土真宗、臨済宗は京都に起った)室町時代以後は新興仏教を除けば新宗派は開かれていない。

  そしてその頃から仏教全体が活力を失って行った、更に厳しい見方をすれば堕落が始まったと言ってよいだろう。

  現在の仏教は観光宗と法事宗の2宗派のみが存在していると言っても過言では無かろう。

  話は五十三次の今後のことだが、深沢さんはダイヤネット一番の健脚と強固な意志の持主だから京都の三条大橋まで歩き続けるだろう。小生も参加を度々促されているが、やはり「無謀なこと」に変りないので全面参加は二の足を踏む。

  そこで提案がある。貴君の今のペ−スでは恐らく早くても数年はかかるだろうから、春、秋の陽気の良い時に五十三次の順序にかかわらず、名所、旧跡、景観、名物料理等を勘案してスポット観光を貴君が計画してみたら如何だろう。

  それならば、多少足の弱い人でもその都度何人か参加すると思われるが・・・。

  これが今小生が示し得る妥協案である。

 

 

3.発言番号:190188へのコメント

    発言者  :巌  隆吉

    題名   :東海道五十三次(その4)第六宿「藤沢」

    登録日時:97/12/29 12:02 

 

  太田さんのご提案の春か秋、五十三次の適当なところを歩くことも面白いと思います。

  深澤さんの健脚で、偵察されたところでここはと思われるところを歩く計画も良いのではないかと思っております。

  深澤さんの企画を楽しみにしています。

  なお遊行寺が話題になっていますが、その「小栗判官」のことです。

  私自身その話に詳しいわけではないのですが、かって熊野古道を歩いた時、その判官が蘇生した熊野の湯の前にある「あずま屋」という旅館に泊り判官の湯をゆっくり見たことがあります。

  その点では、藤沢と熊野も深い関係があるのですね。

  私も深澤さんの歩いたところについては、それぞれの1ケ所を訪ね下手なスケッチをしたいと思っているところです。

  来年もボチボチ歩きましょう。

 

 

4.発言番号:192(190へのコメント)

    発言者  :深澤 龍一

    題名   :東海道五十三次(その4)第六宿「藤沢」

    登録日時:97/12/31 10:38 

 

  太田さんに続いて巌さんからも同様に「一緒に歩こう」と有難いコメントを頂き嬉しく存じます。

  巌さんお薦めの「ガイド・ブック」を繰りながら、「府中」(静岡)〜「丸子」〜「岡部」〜「藤枝」(総行程20.1キロ)辺りは食べ物屋や宿泊施設にも乏しく歩き通さねばならないので、何方かとご一緒なら有難いと思いました。そしてもう一個所西の難所が「石薬師」〜「庄野」〜「亀山」〜「関」〜「坂下」と続く鈴鹿峠の周辺で、こちらの方も22.9キロの間に5つの宿場を数えると言う事は、昔からここは難所だったのでしょう。是非御両人の同道をと期待しています。

  それとは別に今私の一番気にしている事は、目指す「宿場」がどんどん遠くなって、時間とお金がかかる事。太田さん仰せの通り早くて数年かかるので御両人は「喜寿」を越え、目標達成が出来るかどうかと言う事です。だから例え「無謀な事 ではあっても、皆さんが旅の序でに足の便の良い宿場を訪ねて「目標消化」に協力して欲しいとお願いしている訳です。

  昨年は 奥州街道」を踏破した健脚の太田さんが「遊行寺」に行かれるのなら、熱海の帰りと言わずに「行き」に「戸塚」の宿を訪ねて、旧東海道を藤沢まで歩き、宿場の入口の「遊行寺」に行かれた後に熱海に来て、帰りは丸の内に直行してダイヤ・ネットの「新年碁会」にも出て欲しいなと願っています。

  さて「小栗判官」、私は芝居や浄瑠璃の世界は誠に不得手なので、改めて手元の古い「百科事典」を見ましたが見当たらず、諦めかけていたら「広辞苑」に「毒に当てられた判官が、遊女照姫に車で温泉に挽かれた」と載っていました。「熊野」とは書いてありませんでしたが、東海道を下って「遊行寺」から「熊野」までを歩いたのですね。

  先年「熊野」を訪れた時に、「熊野本宮大社」の前で路線バスを待つ間、時間潰しに熊野古道に足を踏み入れ、苔生した鬱蒼とした樹林の中に何処までも続くこの道を約1キロばかり奥まで歩いてみましたが、巌さんはどの辺りを歩かれましたか? その時是非、「改めて」この路をもう一度歩き通したいなと願ったものでした。

  最後に巌さんお尋ねの「スケッチ箇所」の件ですが、私のこれまで歩いた宿場跡や街道では、何時かご一緒したの箱根路のような絵になる所は殆どありません。(巌さんの手に掛かれば何処でも絵になるのでしょうけれど・・・)唯、強いて挙げれば川崎宿の「六郷橋」の付近と、藤沢宿の「遊行寺 の境内、それに小田原宿の「酒匂川」のほとりでしようか?  そして、「品川」と「吉原」にはお勧めする箇所は無い様に思いますが・・・。

  今年の「井戸端会議」はこれでおしまい。来年は少しおとなしくしていようと思います。皆さんどうぞ佳いお年を!。

 

 

5.発言番号:193(192へのコメント)

    発言者  :巌  隆吉

    題名 :東海道五十三次(その4)第六宿「藤沢」

    登録日時:97/12/31  18:23

 

  深澤さんの今年最後のコメントを読みました。

  もう既に年末のご挨拶も終えましたが、ご質問もありましたのでお答えしたいと思います。

  私は平成7年の6月熊野古道の雰囲気が判る程度に一寸歩いただけですので、大きなことはいえませんが簡単に報告します。何れ詳しくは機会があれば載せましょう。

  初日は田辺からバスで瀧尻王子にて途中下車、その王子を訪ねました。この付近に暫くいまして次ぎのバスでそのまま、湯の峰温泉まで行きました。そのバスの中で聞きましたところ、皇太子さんはこの滝尻王子から山の中の古道を牛馬童子あたりまで歩き、その後私が翌日歩いたところの古道を歩かれたと聞きましたが...。

  湯の峰温泉では、照手姫が連れて来た小栗判官の湯治した「壷の湯」を見て、直ぐ近くの湯の峰王子を訪ね「あずまや」という古い旅館に泊まりました。この旅館は中々の風情があり熊野の山奥らしさを堪能させてくれました。

  明くる日8時、そこからタクシーで逆コースで猪鼻王子まで登りました。その猪鼻王子から、発心門王子、水呑み王子、伏拝王子、祓戸王子を経て、12時に熊野大社にいたり参拝しました。

  そこから明治22年まで社殿があったという熊野川の中州にある旧社地大斎原に行き、熊野の役場で完歩証明書(宿で聞きましたので王子のスタンプをすべて押しておきました)とささやかな記念品を貰って、14時前発のバスで新宮に向いました。

  深澤さんが1時間位歩かれたのなら、或いは伏拝王子位まで登られたのでしょうね。この伏拝王子からは遥かに大社が望まれました。

  この熊野古道は非常に古くから多くの人が「熊野詣で」で歩いていますので、色々なところで古い歴史が偲ばれます。健脚の深澤さんが挑戦されるには甚だ良い古道だと信じております。

  また、スケッチの情報や新企画について感謝します。日程さえあえば、是非ご一緒しましょう。

  では、皆さんも良いお年をお迎えください。

 

 

6.発言番号:205( 179へのコメント)

    発言者  :太田 

    題名 :東海道五十三次(その4)第六宿「藤沢」

    発言日時:98/01/28  23:56

 

 12月28日のコメントで予告したように昨27日(火)藤沢市の遊行寺を訪ねた。

  前日26日、久し振りに広島の友人と深沢さんと3人で熱海に落ち合い、旧交を温めた。一別後の身辺談義は結構弾んだが、温泉や食事は程々に切り上げ、お互い実力が似たり寄ったりの囲碁に終始した。

  その翌日だから予期せぬ大敗と寝不足のため、少々頭が重かったが、藤沢駅を降り立った頃から心身ともにすっきりして来たのも仏恩のお蔭と感じた位だ。

  駅から20分程、相当往来の激しい道路を殆ど迷うこと無く到着した。

  厳寒の候とあって、参拝客は疎らで、残雪が所々にあり寂寥然としている。僅かに初詣の構えを節分の豆まき舞台に模様替えする職人達が槌音を響かせている程度だ。

  本堂も境内も東京の護国寺に似ている。一番近縁の浄土宗総本山知恩院の賑やかさとは比ぶべくもない。しかし、諸国を遊行した一遍上人を開祖とする時宗の総本山に相応しく、落着いた雰囲気だ。

  本堂をお参りした後、裏手の坂を少し登った所にある歴代上人の墓にも詣でた。

  境内を一周。木々の下に有名、無名の歌碑、句碑が建っていた。今頃だから、東京の神社、寺院には合格祈願の絵馬が身動き出来ない程にぶら下がっているものだが、此処ではそれもちらほら、全く超然とした恰好だ。

  幾つか建物を眺めた後、寺務所の前に立ったら、硝子戸が開いて、中から小僧が出て来て、膝をつき丁寧に頭を下げた。「中に入ってお休み下さい」と。一頻り時宗と遊行寺を褒め上げた上、「先を急ぐから・・・」と固辞したら、「遊行寺由来記」等3冊を包んでくれた。

  相前後する参拝客に声を懸けないところをみると、何かみすぼらしい老爺を見て一遍上人の再来と間違えたのだろうか。

  帰途は下校する同寺付属高校生の後をついていったら、行きの半分の時間だった。

  深沢さんが以前に述べられた様子と小生の感想とは若干異なる所もあるが、却ってそれが2時間半の訪問を一層意義あるものにして、望外の収穫であった。

 

 

7.発言番号:207(205へのコメント)

    発言者  :巌  隆吉

    題名   :東海道五十三次(その4)第六宿「藤沢」

    登録日時:98/01/31  11:17

 

  太田さんもわざわざ遊行寺にお参りになったとの記事を楽しく拝見しました。私はまだ行っていませんので、何れ行きたいなと思っているところです。

  小栗伝説のある有名な寺ですし、このダイヤネットワークでも色々とコメントされていますので、遊行寺というお寺の名を脳裏にしっかりとどめておくことが出来ました。

  只今、深澤さんの神奈川の宿の記事を見ました。この五十三次も段々と埋まって来ますね。私もこの2月16日に富士川から吉原あたりを歩くのだと思っていますが、まだ案内状が来ていません。何れ歩きましたらコメントを入れます。