[6]戸塚

 

 

1.発言番号:432

    発言者  :深澤 龍一

    題名    :東海道五十三次(第五宿「戸塚」)

    登録日時:98/09/27 10:14

 

  鬱陶しいお天気続きの昨今、珍しく爽やかな秋空を眺めて急に途切れている「五十三次」を思い立った。歯抜け状態の「戸塚」の宿である。

  「戸塚」の駅前から「遮断機式の踏切」を越えて国道一号線を少し東に下り、「吉田大橋」に立つ。ここが広重が描いた「戸塚  元町別道」のポイントである。勿論江戸時代の面影は全く無いが橋の欄干に広重の絵が3種と、他に一勇斎国芳筆の「東海道五十三次人物志」の絵が嵌め込まれていた。広重の描いた「かまくら道」の道標が近くの寺に現存するというので拝見する事からこの日の「道行き」が始った。

 

1.身立山  妙秀寺

  街道から少し入ったこの寺は「墓地分譲」の幟が沢山ひらめいて直ぐにそれと判った。山門を入った所の手水鉢の傍にその「石碑」はしょんぼりと立っていた。可成の歳月を経て「かまくら道」の「く」の字の辺りで2つに折れてコンクリートで補修してあったが、上の方は文字が読めないほど朽ちていた。碑の側面に「南無妙法蓮華経」の文字が読めた。この寺は今も日蓮宗である。

 

2.江戸方見付跡

  大橋に戻って少し江戸寄りのレストラン「Volks戸塚東店」の前にあった。

  「江戸時代に戸塚の宿で街並を形成して20町19間を宿円とし、その両端に道を挟んで見付を築きこれを宿場の入口の標識とした。

  貴賓の送迎はこれから行われ大名行列もこれより隊伍を整えたものである。」との説明板。

  今日は天気が良いので次の「藤沢宿」まで歩き通す積りで出てきたので、此処で踵を返して再び「踏切」を越える。

 

3.南向山  清源院(浄土宗)

  駅の傍のこの寺は、建久年間、源頼朝の旧臣安達藤九郎盛長の一族、長林氏の建立、獅子王山長円寺と称したが、元和元年、徳川家康の侍士於万の方四十余才で辞任した後、岡津陳屋の傍で草庵を営んでいた時、家康御不例の由を聞き、急ぎ駿府に行った。

  その折、家康から後白河法王勅願安阿弥作の歯吹阿弥陀如来を賜り、この仏像安置の為長円寺に於て尼となり、小石川伝通院白誉上人を請じて開山とし、於万の方の開基となり寺基を開いた。清源院は於万の方の法号・清源院殿閑誉理崇大禅定尼により寺号としたものである。

  境内には芭蕉の句碑ありて曰く。「栗という文字は西の木と書て西方にたよりありと行基菩薩は一生杖にも柱にもこの木を用給うとかや・・・

  世の人の  見つけぬ花や  軒のくり  はせを

 

4.本陣跡

  戸塚が東海道の宿駅になったのは慶長9年(1604)11月の事であった。澤邊本陣の初祖澤邊宗三は戸塚宿設置の功労者である。

  本陣とは公卿・門跡・大名などの宿泊する公の宿のことをいう。との観光協会の案内板と共に「明治天皇戸塚行在所跡」の石碑が残る。

  ふと気がつくと隣りの羽黒神社への参道脇に「澤邊」の表札あり。広いその敷地は今「貸し駐車場」となっていた。

 

5.郷社  富塚八幡宮

  戸塚町の信号の脇に社があった。「由緒書」に曰く。

    祭神  誉田別命(ホムダワケノミコト・・応神天皇)

          富属彦命(トツボヒコノミコト・・相模国造二世)

 「前九年の役」の平定の為に、源頼義・義家父子が奥州に下る途中、当地に露営した折、夢に応神天皇及び富属彦命の神託を蒙り、その加護により戦功を立てる事が出来たのに感謝して、延久4年(1072)社殿を作り両祭神を勧請した。現在の本殿は天保11年、拝殿は昭和9年に氏子らが奉献したものである。

  山頂の古墳は富属彦命の墳堂と伝えられ、これを富塚と称し戸塚の地名発祥となったと伝承されている。

 

6.上方見付跡

  「大坂下」バス停の傍にひっそりと標識が立っていた。曰く。「横浜市地域史跡・東海道戸塚宿見付跡−上方見付−。広重の画と並んで「みんなで探ろう郷土の歴史実行委員会」の江戸方見付と同じような説明の案内板があった。

  この辺りから「国道1号線」を走る車は数珠繋ぎで、「二酸化炭素」をたっぷり吸わされての「道行き」は正直言って不快である。

 

7.お軽・勘平道行碑

 「西横浜・国際総合病院前」バス停脇の囲いの中にご存知「東海道お軽・勘平戸塚山中道行の場」の碑を見た。傍に碑石の由緒を刻んだ碑も並んで、曰く。

  ~~落人も見るかや野辺の若草の・・・

は、清元の名曲・道行旅路の花聟の語り出しとして江戸以来人口に膾炙されているが、お軽・勘平の道行の場

  ~~ここは戸塚の石高道・・・の旧跡という。

  この曲は天保4年3月、江戸河原崎座の初演以来百四十数星霜を経てなお上演を重ね戸塚の名は墨絵の夜の富士と共に

  ~~ほんの仮寝の仮枕、嬉しい・・・

舞台の華やかな思い出を多くの人の脳裡に深くきざみこんでいるお軽・勘平の道行は、戯曲上の設定であれ忠実にまごうほど戸塚の地名とは離れぬ仲

  ~~かわいかわいの夫婦づれ・・・

のゆかりはつきぬ道行の名勝に建碑の由緒を記す

      昭和46年7月        文学博士  松本亀松 

  道行きを偲びながら暫し石に腰掛けて憩う。

 

8.原宿一里塚跡

  汗を吹きながら国道を歩いていた時、小高い所の夏草の陰に「戸塚区観光協会」の粗末な木の案内板が目に付いた。

  一里塚は慶長9年(1604)12月、江戸幕府が大久保石見守長安を総奉行に任命し、東海道の整備に当たらせた時構築したもので、一里(4キロ)ごとに街道の両側に円形の塚を築き距離を示した。又、塚の上には榎を植えて木陰を作り、旅人の休憩にも便宜を与えた。

  原宿の一里塚は、起点の江戸日本橋から測って十一番目にあたっている。塚の付近は茶屋などがあったので原宿と呼ばれるようになったと言う。戸塚区内には品濃、吉田、原宿の三ヶ所にあったが、品濃町のものは道を隔てて二基、ほぼ原形のまま当時の姿を残しているので神奈川県の史跡に指定されている。当地原宿にあったものは明治9年(1876)10月里程標の杭を建てる時、一里塚は事実上不要となったので取り壊されてしまい現存していないが、一里山の名を残してその位置を示しているのが現在地であるという。

  この辺りから国道沿いの大きな敷地に古い門構えの家が目立つ。昔の「茶屋」の名残かと想像しながら上方見付辺りから続くだらだらした坂道を登ってきたが、立ち止まると秋の風が心地く頬を撫でる。1号線の中央分離帯には大きな木に混って松の幼木も植えられて東海道の松並木を偲ばせてくれる。

  「鉄砲宿」というバス停があった。地名の由来が知りたいなと物思いに耽っていると道が急に手入れの行き届いた「遊歩道」に変わる。藤沢市に入ったからだ。この辺りから道は下り坂で「道場坂」〜「遊行坂」と続いて、やがて遊行寺の横門からあの大銀杏が覗かれた。何か標識が見えたので車の流れの隙を見て1号線を横切る。「一里塚跡」と藤沢市教育委員会の杭があった。石段を登って覗いて見たが何も無し。

  この日は吉田・原宿・藤沢と3ツの一里塚を通過した事になるが、帰宅して見た腰の万歩計の数字は「23,684」。