[5]保土ヶ谷

 

 

1.発言番号:226

    発言者  :樋口 三男

    題名   :東海道53次 第4宿場保土ヶ谷宿から金沢八景へ

    登録日時:98/03/05 17:39

 

東海道53次第4宿場保土ヶ谷宿から金沢八景へ

  −−安藤広重の関連にて−−

 

 巌サン深沢サンそれに太田サンも加わつて、東海道53次の古道を尋ね、今巌サンの筆になる蒲原宿までついている。川の流れに本流と支流が、大木にも小枝があるように、途中の宿場より枝わかれした支流を加えるならば、正しく豪華絢爛たる今様「東海道53次街道をゆく」ができあがる。更に、所謂安藤広重の存在が介在するならば、尚更放ってはおけない。金沢八景の近くに住み、この土地の歴史を探って行くうち、緑豊かな自然と由緒ある歴史、史蹟が都市化の波に消されかかっているが、尚、調和を保ちながら衣替えしているのが判る。

  そこで本論に入りますが、この土地が書物の上に初めて出たのは、720年日本書紀に武蔵国倉き( クラキ)−久良岐となり、現在、久良岐橋、久良岐公園の名が残る−下って925年和名類しゅう抄に「ふくら」−布久良、現在の六浦(ムツラ)の前名で、平潟湾を挟み野島、室ノ木、瀬戸、瀬ヶ崎のある金沢一帯の地を指し、風光明媚な桃源郷であったと伝えられている。

  昔の多くの旅人は、見通しの良い平坦な海岸か山の尾根伝いの道−所謂「ケモノ路」で野獣が長く通つて自然に道となる−を利用したようで、この金沢地区には保土ヶ谷宿から井土ヶ谷、弘明寺を経て、笹下(ササゲ)氷取沢(ヒトリザワ)から、今の六国峠のハイキング -の尾根伝いを通り、谷津に入ってきたと。平安の頃、巨勢金岡(当時の宮廷画家、)が能見台に来た時、その眺望は眼下に静かな内海と平潟湾が広がり、幾つもの小島が散在し、各所に岬も見え、東に遠く房総が霞み、西のかた朝比奈峠のあたりの山並みの上に遥かに富士山を望み、太陽の運行と潮の干満により、時々刻々変わる美観にうたれ、絵筆を松の根元に擲ったと。この地に擲筆山地蔵院(芝増上寺の分院)が建立され、この寺は能見堂といわれている。

  江戸時代の元禄の頃、この能見堂を中心として、ショウ湘八景--中国ドウ庭湖の湘水とショウ 水をめぐる美しい風景−−を模し、心越禅師(明の亡命僧、徳川光圀に招かれ、水戸に寿昌山祇園寺を開山)が金沢の地名を配し、詩を吟んじて金沢八景としたが、江戸末期内海の干拓(泥亀、谷津、赤井、瀬ヶ崎)の進むにつれ金沢八景の中心は、次第に瀬戸橋のほうの南方に変わつて行った。風景版画家の歌川豊広の門人安藤広重の描いた金沢八景は、前述の場所とは其の意味で少し異なっている。それを対比してみると次の通り。

 

      ショウ湘八景                    金沢八景

ショウ湘夜雨               小泉の夜雨

(小泉手子神社付近)    (海が迫り、海際の小島に繁る大きな松から落ちる夜露の音)

ドウ庭秋月               瀬戸の秋月

(寺前、柴付近)       (平潟湾に写る金波銀波の上の秋の夕月)

漁村夕照                野島夕照

(野島、瀬戸)          (夕照橋からの夕景)

江天暮雪                内川暮雪

(野島、瀬ヶ崎)        (平潟湾を隔てて雪化粧した内川、鷹取山)

山市晴嵐                須崎晴嵐

(朝比奈峠            (須崎の市人が仕事を始める朝の活気溢れる姿)

平沙落雁                平潟落雁

(平潟湾上の雁)         

遠浦帰帆(室木)       トモ帰帆

                        (一日の漁を終え、満帆に風をはらんで岸辺に急ぐ漁船)

遠寺晩鐘(称名寺)      称名晩鐘

                        (夕靄の中に幽かに響く鐘の音)

 

  広重の関連で記してきたが、源平、北条4代の歴史上の旧跡、伝承は数多く、特に、称名寺、金沢文庫等は機会があれば綴る事として、風光明媚な海岸にはモノレ-が走り、人工島の八景島が出来、海辺はヨットと海水浴で賑わう海の公園となっている。

−−文中固有名詞の所がカナ文字になつているのは当該漢字がありませんでした。不悪。−−

 

 

2.発言番号:230(226へのコメント)

    発言者  :深澤 龍一

    題名    :東海道53次 第4宿場保土ヶ谷宿から金沢八景へ

    登録日時:98/03/11 10:57

 

  例によって格調高い樋口さんの「名文」が登場して、観光案内板の文字を丸写しした私の「紀行文」など誠にお恥ずかしい限りですが、「東海道五十三次」への強力なスポンサーの出現に心から喝采を送ります。

  さて、その「名文」へのコメントを綴る為に、只今不案内な横浜市の地図を広げながらキーを叩いています。金沢八景とは古い歴史を背負っているのですね。

  2〜3年前に孫に引かれて「八景島シーパラダイス」とやらに行きましたが、「名文」を拝見しているとぜひ今一度「金沢八景」を探訪する必要がありそうです。おっしゃる所の「六国峠」ハイキングコースというのは「市民の森」を通って「鎌倉」に通ずるあの道ですか?

  それなら昨年の暮に「十二所神社」の横から「番場ヶ谷」を経て、横浜市が整備したハイキング・コースを辿ってJ.Rの「港南台」の駅まで歩いた記憶がありますが・・・。あの街道が「保土ヶ谷」宿まで続いていると言う訳ですね。

  そして、樋口さんの御自宅はご住所から察するに、「海の公園」に近い風光明媚な「桃源郷」に位置していますね。

  「支線」のお話が先に出ましたから、私も急いで「保土ヶ谷」宿を訪ねねばなりません。

 

 

3.発言番号:234

    発言者  :樋口 三男

    題名    :金沢地区への道しるべ

    登録日時:98/03/14 18:12

 

  拙文に対し、深沢サンから過分なお褒めの言葉を戴き、何だかむずがゆい気持ちです。広重が描いたかどうかは別にして、往時の東海道53次街道を走破しようという大仕事は大変な事と思います。それにしても、江戸時代の街道は、東西の物資の輸送、参勤交代のせいか、江戸を中心にして五街道が東北西に良く整備され、主要街道は道中奉行の支配下にあり、各宿駅、宿場の旅篭は40軒から多いところで120軒以上も軒を連ねていたとかいわれ、宿駅から分かれていた所謂「脇街道」は、その地の領主が管轄していたとか文献に出ていますね。

  さて、お指摘のありました事について、金沢地区より、横浜、戸塚、保土ヶ谷方面の北方に向かう道を、現在の交通路との関連でそれなりに調べてみますと

 

1.東側の海岸に沿い、国道357線が金沢地区、海の公園、並木を経て、新杉田、本牧方面へ至る道ーー現在湾岸高速道路が建設されているーー

 

2.横須賀から国道16号線が金沢八景、文庫を過ぎ、新杉田から、根岸森林公園を右にみて、掘割川に沿い、北上し横浜に至る道

 

3.その西側を金沢文庫、釜利谷、能見台、氷取沢より、金沢自然公園、磯子カントリ-クラブを左に見て、栗木、笹下、上大岡に至る道

 

4.其の西側を横浜・横須賀道路−横横自動車道路−

 

5.更に、其の西側を鎌倉から、「十ニ所神社」の横の道を通り、朝比奈にて、環状4号線に合体し、鎌倉、横浜霊園を左にみ、横浜自然観察の森、上郷を経て、JR港南台に至る道

  この能見堂緑地、釜利谷市民の森、金沢自然公園、氷取沢市民の森、金沢市民の森、横浜自然観察の森一帯は、大丸山(159m)円海山(153m)を頂点とする緑地丘陵地帯で無数の尾根道によつて、むすばれた散策道のルートとなつている。能見堂緑地より釜利谷市民の森に至るルートが六国峠ハイキングコースといわれている。

  従つて、往時の保土ヶ谷宿への道は、第3の -を経て、上大岡の西にて鎌倉街道に入り、弘明寺、井土ヶ谷、より保土ヶ谷に至ったと思います。

 ダイヤ神奈川交流会は、其の活動の一つとして、古都の史跡とロマンを求めて「歩く会」を発足しようとしていますので、是非参加してみたいと思っている次第です。

 

 

4.発言番号:235(234へのコメント)

    発言者  :深澤 龍一

    題名    :金沢地区への道しるべ

    登録日時:98/03/16 15:13

 

東海道五十三次・・・第四宿「保土ヶ谷

 

  樋口さんからご丁寧な「金沢地区への道しるべ」がメッセージされました。ご本家の「旧東海道」を歩いているのはこの私ですが、この所の樋口さんの煽りを受けて、早速昨日「保土ヶ谷宿」を覗いてきました。大先輩に敬意を表して、「金沢地区への道しるべ」への「コメント」としてご披露致しましょう。

  今年は誠に天候が不順で家を出る時は曇り空、横浜線の車中では雨に霰が混じってどうなる事かと懸念致しましたが、相鉄線の「天王町」駅に降り立った時は青空が覗いて、同道の「相棒」と共に顔を見合わせてニッコリ笑みを交したした次第です。

  さて、ここを起点にしたのはそもそも広重の絵のポイントが、ここから少し先の「帷子橋」の袂という事でその地点に立って見たが、勿論今や往時の面影は全く無くて、小さなビルが立ち並んだ何の変哲も無い街中の風景に過ぎなかった。その少し先「旧街道沿い」の「橘樹神社」に立ち寄ったが、ここも本殿を工事中で殆ど見るものはなかった。

  ここから引き返して旧東海道を西に歩く。幹線道路沿いだが「旧東海道」の表示は全く見当たらない。唯、法然上人の小さな立像のある「大挙山浄土宗見光寺」、「曹洞宗天徳院 、「真言宗遍照寺」等の寺々が並んでいる所から、往時の「街道」に間違いナシと歩を進めた。

  車の行き交う狭い通りで相棒が「あれは何だ」と指差した。十字路の角に「通称金沢横町道標4基」とあって、古ぼけた石塔が4本整然と並んでいた。「金沢、浦賀への往還の出入り口・・・」に始まる粗末な説明書に、この石碑に刻まれた文字が並べられた石碑の順に再現されていた。曰く、

@  円海山道(天明3年・・1783年建立)

A  かなざわ・かまくら道(元和2年・・1682年建立)

B  杉田道(文化11年・・1814年建立)

C  富岡山芋大明神社の道(弘化2年・・1845年建立)

  とあったので、樋口さんの「道しるべ」が頭に浮かぶと共に、歩いて来た道が「旧東海道」に間違いナシと確認した次第。(但し、帰ってから樋口さんの「道しるべ」に書かれた現在の交通路とは、どれがどれに当るのか良く確認はできなかった)

  更に少し行くと、東海道線の踏み切りの手前で相棒が指差す袖看板にも「東海道保土ヶ谷宿  大嶋屋酒店」とあった。歴史の古い店なのだろう。

  やがて道は「国道一号線」にぶつかるが其処が「本陣跡」、「・・保土ヶ谷宿本陣跡・・(16011870 江戸時代に幕府が諸大名に参観交代をさせる為、東海道五十三次の宿場毎に本陣を置いたもの。横浜開港、東京遷都の頃までありました。1965  横浜市長  飛鳥田一雄  記」のコンクリート製の粗末な案内板が懸っていた。その「軽部家」の門の中に入ってみたが、塀の内側に朽ちた昔の門扉が置かれ、「ご希望の方にはご案内致します」とあって、「本陣  軽部吉久事務所」の杭が立っていたものの、少々荒れている感じがしたので特に案内を請う事無く先を急ぐこととした。

  程なく「保土ヶ谷橋」バス停の前、「オーベル保土ヶ谷」とあるマンションの塀にも「銅板」があって、「東海道五十三次保土ヶ谷宿」と題して、「本陣」・「脇本陣」・「苅部家」などと往時の宿場の家並みを写し出していた。

  「国道」を少し歩くと今井川の辺に建つマンションの近くにも「この付近に上方見付跡一里塚あり」と真新しい板に書いてあったが、それらしいものは見当たらなかった。気が付くと道端に「旧東海道はこの先の右の道」と新しい杭があって、石碑や首の落ちたお地蔵さんが纏まって並んで立っていた。その石柱の一つに曰く、「月山、羽黒山・・湯殿山供養塔」と刻まれていたが、何故湯殿山なのかは不詳。

  案内の右の道を少し行くと「妙義山  日蓮宗樹源寺」がある。山門をくぐると、最近造ったばかりの美しい山水の庭があって、立派な池には緋鯉が沢山泳いでいた。

  やがて「本町橋」、再び相棒が橋の袂の説明書を見付けてくれた。元の保土ヶ谷宿はこの辺りにあったが、慶安年間になって移されたので、ここを「元町」と名付けたそうな。

  昔から旅人泣かせで有名な「権太坂」への入口が少し判りにくかったが、「横浜・横須賀道路」に架る「権太坂陸橋」の袂に「旧東海道改修記念碑」が建って横浜市長・平沼亮三とあった。碑の足元に古びた木の杖が一本横たわっていたのが何ともユーモラスであった。正月恒例の箱根駅伝は国道一号線を走るので、これから我々が越えようとする「権太坂」よりは登りは緩やかだ。

  かなり急な登り坂が2キロ近く続いた所が頂きで、ここが武蔵と相模の国境、そこに「一心山良翁院境木延命地蔵尊」があった。このお地蔵さんは、昔、とある海岸に流れ着いたものを江戸まで運んで欲しいと頼まれてここまで来たが、この坂の頂上まで来て力尽きこの地に祭られたという伝説がある。祀られている地蔵尊は石造りで、高さは優に6尺はあった。

  又、この辺りは昔旅人が休憩する立て場で、殊に富士山を眺めながら食べる「ぼた餅」は名産だったようだ。腹減った二人で少し探して見たが近くに「牡丹餅」屋は見当たらなかった。唯、この地蔵尊の隣にある派手な邸宅「若林家」は、もと境木の「ぼた餅茶屋」の一軒であったそうだ。

  ここを境に道は下り坂になる。両側に木立が茂り旧道の面影を残す辺りで、前に若いアベックが楽しそうに仲良く歩いていた。聞けば矢張り「横浜近辺の東海道巡り」と題する「案内書」を手に歩いているのだと言う。近頃こうした「同好の士」に時々はお目に掛かる。

  「品濃一里塚」は道の両側に今も築山が残って近頃これは珍しい。通称「品濃坂」の緩いスロープを左右のナシ畑や今を盛りの梅林を眺めながら心地良く下る。この辺りは開発で広い道が縦横に走り「旧東海道」が寸断されて判らなくなりそうである。我々は早春の日差しを受けて快適に歩き、「戸塚」まで行ってみようと言う事になったが、既に時刻は2時を過ぎて途中食べる所も無い侭に坂を下ったので、お腹が減ったと「東戸塚」の駅へとUターンした。

  駅界隈も再開発されて立派なビルが林立していたが、日曜日の昼下がりとあってか、一向に「たべもの屋」が見当たらず、駅のガードをくぐって1キロ以上歩いた所で漸く「ファミリー・レストラン」にありついて、生ビールで乾杯!

  樋口さん、「コメント」で「補足」をお願い致します!!

  明日は巌さんの代参で「蒲原」〜「由比」を歩きます!!!

 

 

5.発言番号:239(235へのコメント)

    発言者  :樋口 三男

    題名    :保土ヶ谷宿を探る

    登録日時:98/03/23 22:36

 

  深沢サン、いやー!!全く煽った筈の球が、跳ね返され、煽り返えされ、コメントで「補足」しろとのお達し。昔、漫然と歩いて通つた道を「記憶という頭の歩き」で答えていたので、古老の言、文献でもって補足する事に致します。

  先ず、地勢的に保土ヶ谷地区は権太坂、桜が丘台地、元のゴルフ場のあった峰の台地の丘陵地帯に帷子川、今井川がその低地を流れていた。「橘樹神社」の北にある「星川」の西側の「明神台」にある「神明社」ー 970年建立ーは、伊勢神宮の領地、御厨ー神宮に貢ぎ物を提供する荘園ーとして現在「御厨神社」がある。それらの丘陵地帯の麓、山裾に道が出来、集落ができた訳で、帷子ー山が片方にあって、片方が平らになつているーの郷といわれていたのが、天王町、宮田町で、天王町、星川あたりまで、ダルマ舟を使って物資が運ばれていた。従つて東海道も、旧東海道は、所謂、丘陵地帯の低い尾根道を通っていたものが、江戸幕府の開府前後の頃の東海道で、今の「古町」という山の際を通っていた街道で、それが旧街道といわれる6m巾の宿場筋に変わり、関東大震災以後の都市計画により、国道1号線の姿となった。

  次に、保土ヶ谷宿の範囲として、文献によれば、宮田町、西区の境からーその当時「村追分」と呼称ー「境木」迄の5キロ位で、「追分」から北は「神奈川宿」、「境木」から南は「戸塚宿」で、「見付」という塚をつくり、これから宿場という目印としていたと。

  宿場の構成として、「本陣」「脇本陣」「問屋場」「高札場」「助郷会所」ー「定助郷」「代助郷」ーがあつたといわれている。

 「本陣」は、大名、幕府の役人、公家が泊り

 「脇本陣」は、「本陣」に泊れない者

 「問屋場」は、人・馬を調達し、次の宿場迄安全な保  証をする「役所」的機能を持つ。

 「高札場」は、道路の交差する所に、立て札で、法度、  掟書、人相書、

  その他の所謂情報を通知する

 「助郷会所」は、人・馬を実際に調達するところ

 

大小の差はあれ、これが東海道53次の宿場制度ではないでしょうか。

  所で、保土ヶ谷宿では、「軽部本陣」に「脇本陣」が三個所で、「軽部本陣」に、少し、ふれてみると、初代は「刈部清兵衛」現在の当主は16代の「軽部吉久」ー軽部吉久事務所ー初代が、その姓をさる大名から「軽部」の姓を戴き、改姓し、七代目には、紀の国屋文左衛門の二男がその婿養子となつている。更に初代の兄弟の一人は、円海山の麓に旧家として、"峰のお灸の刈部"として名高い。又、「軽部本陣」は門だけ残し、当時の「本陣」の面影はないが、所有する蔵にあつた古文書を解読しょうとする「古文書研究」グループがある事を付記しておく。

  又、「問屋場」跡、「高札場」跡は、天王町の商店街にある。

  次に、深沢サンと「相棒」の方が、指摘された「通称、金沢横丁道標」は、年代順にみて1862(元和2年は天和2年のミス)かなざわ・かまくらの道は、1192年鎌倉幕府開府以来の道で旧東海道より古く、鎌倉下りの道と言われ、武蔵、上州、奥羽の方からもこの道を通り鎌倉に至り、途中「北向き地蔵」「北条政子の井戸」などがある。1783年円海山 ルートが開け、1814年−45年の杉田・富岡明神道は、江戸湾沿岸警備、浦賀との頻繁な往来となり、「道」として認知された道標と考えられる。

  「境木」の「若林家」は長屋門をもつ格式のある家柄で、明治天皇の行幸の折、休憩所となつた由緒ある家。

  安藤広重の保土ヶ谷宿の「帷子橋」の版画は昔の「帷子橋」で、天王町の駅前の公園の所にあつて天王町の駅前を川がながれていたわけで、又「江戸名所図絵」に出てくる保土ヶ谷宿には、一番下に旧東海道、その上に今井川ー今の川は嘉永の頃付け替えーその上に「神明社」更にその社の川の上にある道は、旧々東海道といわれている。

  以上深沢サンの歩いた保土ヶ谷宿一帯について、ある程度漏れや思い違いもあると思いますが、「補足」したつもりです。

  最後に、10年前より「保土ヶ谷歴史研究会」、「保土ヶ谷宿と 400倶楽部」をつくり、53次諸都市との交流、情報交換を行つている有志もいる事を付記します。