[4]神奈川

 

 

1.発言番号:206

    発言者  :深澤 龍一

    題名    :東海道五十三次・・・第三宿「神奈川」

    登録日時:98/01/31 10:09

 

 月に1度は「東海道」をと決めていたので、今年一番の寒波の近づいた去る1月24日の午前11時にJRの「東神奈川」駅に降り立つ。

  現在の 第一京浜」が旧東海道だそうだが、開発が進んで大分道が変っているような気がする。今日の予定のコースは比較的短くて、旧街道から少し外れた辺りの元の宿場に点在する寺社訪問が中心となる。安政年間の開国当時、寺の多くが諸外国の「在日公館」となったそうで、結果的には既に1年余り前に、樋口さんがこの会議室に「横浜散策」と題したメッセージを流されているのでその2番煎じになるが、樋口さんの「ハ.小机城址と神奈川宿」の項に紹介されたコースの一部を辿った事

になる。

 

1.慶運寺(曹洞宗)

  門前に樋口さんご指摘の「神奈川宿歴史の道」の案内板を見付けた。こんなのがあると今日の街道歩きは道に迷うことがなさそうである。

  此処慶運寺は芝増上寺第三世谷誉聖観によって開かれた小机藩の観音寺で、京の連歌師谷宗牧は「東国紀行」の天文14年(1544)3月3日の条に  「ほどなくかな川に着きたり。ここにもこづくえ(小机)の城主にいいつけられ旅宿慶運寺にかまえたり」と書いている。開港当初はフランス領事館に使われた。

  又、浦島寺とも呼ばれていて、浦島太郎が竜宮城から持ち帰ったと言う観音像など浦島伝説に因む遺品が伝わっていると言う。

  境内には」「天明元年」(1781)と刻した「龍宮伝来浦島観世音浦島寺」の石碑と、「父  浦島太夫  廟所・子  浦島太良  齢塚  当山不一」と刻した碑が建っていた。

  このお寺にアルバイトに来ていると言うお嬢さんに聞いたら、12年に1度「ねずみ年」の4〜5月の頃に、この辺りの小机城下の寺々が宗派を問わず一斉に開帳され、その時にはこの寺の「浦島観音堂」も開かれると言う。堂の中には亀の背に乗った観音様の両脇に、「浦島太郎」と「乙姫様」がいらっしゃるそうだ。「お寺の住職さんも12年に一度しか入らないの?」と聞いたら、彼女曰く。「ご住職さんは毎日お線香を上げでお参りされますよ」と。浦島太郎が竜宮城から帰った時に、余りのこの辺りの風景の変化に、腰を掛けて涙したと言う石が隣のお寺にあるとの彼女の話に早速その寺に足を延ばした。

 

2.成仏寺(浄土宗)

  お嬢さんに教えられた「涙石」を探したが、見当たらず、偶々墓参りに来ていた檀家のご夫人二人にも聞いてはみたが「話は聞くが何処にあるのか知らない。」との事であった。

  この寺は鎌倉時代の創建と伝えられ、3代将軍徳川家光の上洛に際し宿泊所の神奈川御殿造営の為、寺地が現在地に移されたと言う。

  安政6年(1859)の開港当初はアメリカ人宣教師の宿舎に使われ、ヘボンは本堂に、ブラウンは庫裏に住んだと言う。ヘボンは言うまでもなくヘボン式ローマ字で知られ、日本最初の和英辞典を完成し、ブラウンは聖書や讃美歌の邦訳に尽力した。

 

3.浄瀧寺(日蓮宗)

  妙湖山と号し文応元年(1260)、妙湖尼は当時の政治の中心地鎌倉に向う途中に当地に立ち寄った日蓮聖人と遇った。法尼は聖人の人格に打たれ、法華経の話を聞いて忽ち弟子となり、自分の庵を法華経の道場としたと言う。聖人が「立正安国論」を著作して鎌倉幕府に献上した年である。

  又、開港当時はイギリス領事館に充てられた。

 

4.宗興寺(曹洞宗)

  「神奈川駅中図会」では、権現山の麓に描かれている。開港当時アメリカ人宣教師で医者でもあったヘボンが、此処に施療所を開いた。(これを記念する石碑が境内にあるそうだが、偶々葬儀が行われていたので確認できなかった)ヘボンは後に明治学院を創設するなど、我が国の教育に尽力した。

 

5.権現山合戦跡

  永正7年(1510)北条早雲が当時の関東の支配者上杉氏の家臣上田蔵人を味方にしてここに砦を築かせた。上杉朝良ら2万の大軍が砦を囲み合戦が10日間も行われた後、上杉勢が敗れた古戦場で又安政年間のお台場作りの埋立用土に山が削られて低くなったと言う。

 

6.州崎大神

  建久2年(1191)源頼朝が安房国一宮の安房神社の霊を移して祀ったことに始まると伝えられている。「江戸名所図会」の様子は今も石鳥居や周囲の地形に偲ぶ事が出来る。

  神社前から海に向って伸びる参道が第一京浜に突き当たる辺りがかつての船着き場で、横浜が開港されるとこの船着場は開港場と神奈川宿とを結ぶ渡船場となり、付近には「宮ノ下河岸渡船場」と呼ばれる海陸の警護に当る陣屋も作られたと言う。

 

7.甚行寺(浄土真宗高田派)

  安政元年(1854)神奈川条約の舞台となってからは、神奈川宿の多くの寺と同様にこの寺も「フランス公使館」に充てられた。

 

  地図を辿って「神奈川宿」の中心部を此処まで訪ねてきたら、東海道本線を跨ぐ「青木橋」に出た。橋の袂に件の「神奈川宿歴史の道」の案内地図があってコースも明示されていた。京浜急行の「神奈川駅」の直ぐ傍である。(若しも訪れたいというお方があれば、先ずこの地図を頭に入れてから廻られる事をお勧めする)

  橋の向うの小高い所が次に目指す「本覚寺」である。今はこの橋の下を東海道線が走っているが、地形から見て昔はさきの権現山として一つの山塊であった事が偲ばれる。

 

8.本覚寺(曹洞宗)

  天文元年(1532)臨済宗の開祖栄西によって鎌倉時代に創建された。ハリスが山の上から湾内を見渡せるのでアメリカ領事館に決めたと言う。

 

  これらが昔の「神奈川宿」の中心である。更に広重の描いた地点を求めてここから「台町」の急坂を登る。広重の絵にある往時の「台の景」の気分が出てくる。道端で見付けた「神奈川の台と茶屋」と書いた案内板に曰く。「神奈川湊を見下ろす景勝の地で、かの弥次さん喜多さんが活躍した東海道中膝栗毛にも茶屋の女に呼び込まれた所」とあった。坂の途中の料亭「田中屋」が広重描く当時の「さくらや」だそうだ。

  そろそろ2時を廻って腹も空いたので「田中屋」の脇の道を下るとバス通りに出た。傍の信号を横切って真っ直ぐ歩いたら間もなく横浜駅西口の東急ホテルの前で、駅の向うに「そごう百貨店」、その向うから水上バスが出ているから、今迄「品川」〜「川崎」と歩いた私にはこの辺りは開発の割には昔の様に海が近いのだなと思いながら中華街の「ラーメン」を目指した。

 

 

2.発言番号:330

    発言者  :深澤 龍一

    題名   :東海道五十三次・・・第三宿「神奈川」

    登録日時:98/06/27 18:14

 

 6月25日、所用があって横浜に出た序でに「神奈川宿」が懐かしくなって、横浜駅西口から広重描く「台之景」のポイントへ直行した。

 

1.神奈川の台と茶屋

 ここ台町辺りはかつて「神奈川の台」と呼ばれ、神奈川湊を見下ろす景勝の地であった。

 弥次さん喜多さんが活躍する「東海道中膝栗毛」にも此処は片側は茶店軒を並べ、何れも座敷二階建造、欄干付きの廊下、桟(かけはし)などを渡して波打ち際の景色至って良しとある。

 「おやすみなさいやぁせ」茶屋女の声に引かれ二人はぶらりと立寄り、鯵をさかなに一杯引っかけている。

 広重の絵にも出てくる「さくらや」が現在の料亭「田中屋」の辺りと言われている。

 

2.神奈川台の関門跡(袖ヶ浦海見晴所)

 坂の頂上辺りに今ある標識より稍西寄りに神奈川台の関門があった。開港後外国人が何人も殺傷され、イギリス総領事オールコックを始めとする各国の領事達は幕府を激しく非難した。幕府は安政6年(1859)横浜周辺の主要地点に関門や番所を設け警備体制を強化した。この時、神奈川宿の東西にも関門が作られた。その内の西側の門が「神奈川台の門」である。明治4年に他の関門・番所と共に廃止された。

  此処が一番の高台で道は再び下降する。坂を下り切った橋の袂に「青木橋」にあったのと同じ「神奈川宿歴史の道」の案内板あり。曰く・・・

  東海道五十三次の日本橋から数えて三番目が神奈川宿である。この地名が県名や区名の由来であり、又、ここが近代都市横浜の母体でもあった。上図は、江戸後期に幕府の道中奉行が作った「東海道分間延絵図」(ぶんけんのべえず)である。図中央に「滝ノ橋」、この橋の右側に神奈川本陣、左側に青木本陣が描かれている。右端は江戸側からの入口で長延寺が描かれ、左寄りの折れ曲がった辺りがここ台町である。そしてこの「上台橋」は図の左端に当る。台町の崖下には神奈川湊が広がっている。かってこの上台橋の辺りは、潮騒の聞こえる海辺の道であった。切り通しの道路が出来ると共に、此処に陸橋が架けられた。

  この神奈川が一躍有名になったのは安政元年(1854)の神奈川条約締結の舞台となってからである。その4年後に結ばれた日米通商条約では、神奈川が開港場と決められた 開港当時、この図に見られる多くの寺が諸外国の領事館などに当てられた。

  神奈川宿歴史の道はほぼこの図の範囲を対象とし、上台橋から神奈川東公園に至る凡そ4キロの道程となっている。

  この案内図を見て之より更に西に歩くのは止めて、元の道を引き返し案内図に従って先の神奈川台の関門跡から東海道を逸れて左折して更なる高台を歩く。

 

3.望欣台の碑と弁玉の歌碑

 この丘は高島山と呼ばれている。高島嘉右衛門が別邸を営んだ為にこう呼ばれるようになった。

  鉄道用地埋立てなどの事業の後、嘉右衛門がこの丘に閑室を設け、港内の繁栄と事業の功績を望み、欣然として心を慰したことから望欣台と名付けられた。

  現在の高島山公園には、明治10年に建てられた嘉右衛門を顕彰する「望欣台の碑」が今も残っている。

  又、「弁玉の歌碑」もある。三宝寺の住職であった大熊弁玉は長歌をよくし、横浜の幕末から明治初期の文明開化に歌を残している。

 

4.三宝寺

 ここから程近いこの寺は、瑠璃光山と号し浄土宗に属す。慶長2年(1597)寂した嘆誉和尚の草創で、弘法大師の作と伝えられる薬師如来像を本尊としていたが、関東大震災で被害を受け第二次大戦で焼失した。現在の本尊はその後芝の増上寺より遷座したものである。

  当寺で忘れてならない人物が第21世住職弁玉和尚で、和歌を橘守部岡部東平に学んで江戸末期から明治初期に掛けて活躍した歌人である。

 

  以上先日再び訪ねた「神奈川宿」のお粗末な追記であります。

 尚、例の「案内図」にはこの近くに「高島易断の碑」もあった。この辺りの町名が「高島台」で先程の話で、この丘陵を「高島山」と称し、「高島嘉右衛門の別邸」もあったからには、「高島易断」もこれらと関係があるのかと興味が湧いてきて起伏の多いこの辺りを捜したが、大きなマンションも建築中で目指す「碑」はとうとう見当らなかった。

  不勉強なので樋口さん、その辺の所を教えて頂けませんか?

 

 

3.発言番号:799

  発言者  :青野 敦美

    題名    :東海道五十三次「神奈川宿」を往く

    登録日時:99/09/30 18:57

 

 9月29日(水)「第70回三菱化学OB歩こう会」は、お江戸日本橋を出て三番目の宿場町「神奈川宿」を総勢68名で歩きました。前日「東海道五十三次」の元締めである巌隊長から都合で参加できないので、代わって「神奈川宿」を記事にするよう依頼がありましたので、横浜市神奈川区が発行する「神奈川宿歴史の道」案内を頼りに 次の通り投稿申し上げます。

  まず、東海道400年の”時”の歩みを確かめよう!宿場マップに掲げられたスローガンのご紹介。「徳川家康が1601年に宿駅.伝馬制度を定めて以来、2001年には制定400年という節目を迎える東海道。これを機に、今一度日本の人,物,文化の交流に大きな役割を果たした東海道。その面影や文化そして現在の姿を見つめ直してみませんか」とある。 

  景勝地「袖ヶ浦」を臨み、行楽地としても栄えた宿「神奈川宿」は、現在の横浜市神奈川区台町(上台橋)から同神奈川新町(旧長延寺.土居跡)まで略京浜急行本線に沿って約4.3Kmの道程に在り、県名や区名にある通り、近代都市横浜の母体でありました。しかし、関東大震災や第二次世界大戦によって、宿場町当時のものを殆ど失い 今から165年ほどの昔 広重が描いた「神奈川宿」の面影を今は見ることが出来ません。

  神奈川宿街道は、昭和60年から平成4年にかけて魅力ある歴史の道として整備されました。主要ルートの歩道は、こげ茶色の煉瓦タイルが敷かれ、この道に沿って行くと自然にガイドパネル(33か所)が立つ歴史的な場所に行きつくことが出来ます。名所付近には樹木が多く、歩道や街路灯には東海道に因んだ”青海波”がデザインされ、歩道の車止めには、浦島伝説の”可愛い亀”を沢山見ることが出来ます。また神奈川宿の様子を示す壁画もあり、随所に歴史の道に相応しい雰囲気と景観を呈しています。

  JR横浜駅を12時30分に出発、「神奈川台の関門跡」を振り出しに「笠のぎ稲荷」まで約4Kmの道のりを三々五々ゆっくりと見物しながら2時間かけて歩く。主だった参観の名所をガイドパネルに従い西から東へ順次記載すると次の通りであります。

 

かえもん公園

  神奈川台の関門跡を通って小高い丘に上り詰めた所が「かえもん公園」かっては目の前に帆掛け舟や釣り舟で賑わう袖ヶ浦が眺められたであろう展望台からは、ランドマークタワー、クイーンズスクエアーが真正面に見え、みなとみらい21地区などが一望できました。

 

本覚寺

  右手に海を見ながら坂道を下ると本覚寺の山門に出る。開港当時、アメリカ領事館にあてられたのが、この本覚寺。神奈川領事であったドーアは、庭の松の枝を払い落とし、この木の上に星条旗を掲げたと言います。さらに、この寺の本尊を板囲いで覆い、山門を白ペンキで塗り、日本人の立ち入りを禁じた そのペンキの跡が薄く残って見ることが出来ました。ここには、日米通商条約全権委員「岩瀬忠震」の記念石碑が建っています。境内で記念写真を撮る。

 

慶運寺

  開港当時フランス領事館に当てられた寺。浦島丘にあった観福寿寺が慶応年間の大火で焼失した為、浦島伝説に関わる記念物(乙姫から貰った菩薩像など)がこの寺にもたらされた。それ以来、浦島寺とも呼ばれている。境内に大きな亀の形をした水飲み場があるのが珍しい。次いでながらイギリス領事館の在った寺は、滝の川のほとりにある淨瀧寺。

 

成仏寺

  慶運寺のすぐ近くに成仏寺がある。この寺は、アメリカ人宣教師の宿舎で、ヘボン文字のヘボンは本堂に、聖書や讃美歌の翻訳に尽力したブラウンは庫裏に住んでいたという。ヘボンの友人に宛てた手紙に「広い本堂を襖で仕切り、大小八つばかりの部屋を作った。広い庭も美しく気に入っている。」とある。

 

神奈川地区センター

  神奈川宿街道の略中央に神奈川地区センターがある。神奈川宿に関する資料が揃えられているが、なかでも江戸後期、幕府の道中奉行所が作った「東海道分間延絵図」を基にして作られたミニチュアは、当時の神奈川宿を彷彿させるに充分の価値がある。

 

能満寺と神明宮

  能満寺は、鎌倉時代の創立とされ、その由来は、この地の漁師が海中から虚空蔵菩薩を拾い上げ、これを祠ったと伝えられる。江戸時代の神明宮は、能満寺に所属していたが、明治初めの神仏分離令により独立した。

 

旧長延寺.土居跡

  京浜急行.神奈川新町駅の近くに神奈川通東公園があり、ここに旧長延寺と土居跡があった。ここが「神奈川宿歴史の道」の終点(江戸、川崎を通って神奈川宿の入り口)となる。

  昭和40年に移転するまで、ここに長延寺があり開港当時、オランダ領事館のあったところである。神奈川本陣.石井家に伝わる土居は、街道両脇に土盛りがされ、その高さは約2.5メートル、その上には竹で編んだ垣根が設けられていたという。

  神奈川宿巡りを終えた後は、歩いて40分「キリン横浜ビアビレッジ」へ工場見学で、製造過程の若ビール、濾過前ビールなど珍しい味を体験し、テイステングコーナーの特別席で、出来上がったばかりの<ラガー>に<一番搾り>で乾杯。そしてそのあとは、例によって場所を変えての2次会で盛り上がり、19時過ぎやっと幕となる。

  この記事を書くのに丸1日を費やしましたが、2年半に及び東海道を駆け巡り、それを成文化されている巌、深沢両先輩のご苦労が 如何ばかりであったか! そしてその成果が如何に大きいものであるかを!十二分に思い知らされた次第であります。

 

 

4.発言番号:800(799へのコメント)

    発言者  :巌  隆吉

    題名    :東海道五十三次「神奈川宿」を歩く

    登録日時:99/09/30 18:57

 

  青野さんの「神奈川宿」の三菱化学歩こう会の記事拝見しました。私はこの「神奈川宿」については樋口さんや深沢さんの投稿もあり是非歩きたいと思っていたのですが突然の友人のご不幸もあり、今回は果たすことが出来ませんでした。

  改めて今日この青野さんと深沢さんの2回(98.1.3198.6.27)にわたる記事を読み直しまして一度は是非訪ねたいと痛感しています。

  特に広重描く「神奈川台の景」はもう昔の面影は全くないといいますが、せめて「さくらや」ならぬ「田中屋」位は見ておきたいとも思いました。

  次に面白いと思ったのは浦島太郎伝説の慶運寺と蓮法寺です。慶運寺のことはご両人とも記載されていますが浦島親子の供養塔のある蓮法寺とは大分宿場より離れているようですがどのようなお寺なのか興味を引き、また、本覚寺はハリスが気にいった位ですのでさぞや立派なお寺なのだろうと思いました。

  色々読んでいますと深沢さんは東より青野さんは西より歩いたのだなと漸く気がつきました。このように種々想像しながら読むのも面白いものです。でも何といっ

ても「百聞は一見にしかず」といいますが、行って見ないと実感が湧きません。