[3]川崎

 

 

1.発言番号:169

    発言者  :深澤 龍一

    題名    :東海道五十三次(その3)第二宿「川崎」

    登録日時:97/11/24 09:18

 

  その前の日の「箱根路」が少し歩き足りなかったので、翌日の自主研修会の朝、京浜急行の「六郷土手」に降り立った。丁度午前9時。

  地図を頼りに「六郷橋」に向う。土手の下に 六郷の渡し」の古ぼけた木製の柱あり。「日本橋へ四里半」とあった。往時の八幡塚村と川崎宿間の渡しで、江戸の玄関の渡し場として交通上極めて重要な役割を果たしていた。  この橋は架橋記録によると永録年間(155869)と慶長年間(15961614)に架けられたとある。その後、貞享5年(1688年)の洪水によって流出してからは、橋を架けずに渡船によって交通が行われたという。現在の橋は昭和59年(1984年)の架橋である。

  橋の袂に「止め天神」の石碑と「北野天神」の鳥居とその奥に粗末な拝殿を見た。その由来記には、「この近くの土地の古老達が”柳生様”と呼ぶ所有り。将軍指南役柳生家の留守居役、馬別当の家敷と馬屋があった跡で、八代将軍吉宗公の御乗馬が暴走してあわやと言う時に、将軍の落馬を止めた北野天神のご加護にあやかったものという。しかし、近郷の村人や町人は敢えて落馬と言う呼び名を省いて"止め天神"と呼ぶようになった」と言う。人の身に降りかかる悪い事一切を「止め」て下さる天神様として昔から多くの人に崇敬されているそうだ。

  境内には注連縄を張った「力石」あり。江戸時代、天神様の祭りの時に、村人が一生達者で働ける様にと願って、力自慢の為に抱えた石で、「千年石」を鶴さん、「万年石」を亀さんと名付けて老若男女に親しまれたという。「ボケないで健やかな生涯を長寿で全うしたい人は、鶴さん亀さんの力石に優しく手を触れて下さい」とあった。万年石には「湯島天神前  品川八百屋  三治郎、元飯田町  万屋金蔵」と読めた。

  さて、例によって前置きが長くなったが、欄干に「渡し船」を象った飾りのある「六郷橋」を渡って直ぐ右に折れると「旧東海道」の石碑がある。川崎宿」の始まりでもあってここから約1.4キロが宿場町で、歩道も「石畳」を模した舗装がしてあって、前日巌さんや太田さんと箱根旧街道の石畳を歩いただけに、川崎市のこの心配りが気に入った。街道沿いには「案内板」も多く見られ品川に比べると親切な計らいであった。

(以下の記述は主としてその「案内板」からの丸写しである)

 

1.田中本陣と田中休愚

 寛永5年(1628)に設けられた宿内最古の本陣。ここ出身の休愚は宿の財政再建に尽力した人物で、当時の農政を論じた「民間省要」の著者として知られる。

 

2.宝暦11(1761)の大火

 川崎宿 200年で最大の大火、小土呂から六郷渡し場まで町並みは略全焼。宗三寺、一行寺も焼けた。再三の火災から立ち直った川崎宿だが、宝暦以前の歴史文献は見当たらない。

 

3.物郷会所(省略)

 

4.問屋場(省略)

 

5.浄土宗 専修山 一行寺

 江戸時代、川崎宿の整備が進む頃に開創され閻魔信仰で大いに賑わう。又、非常の際は田中本陣の避難所にも当てられた。

 

6.曹洞宗 瑞龍山 宗三寺

 中世の河崎庄において信仰を集めた勝福寺の後身と見られる宿内一の古刹。寺内には、かつて宿の賑わいの中で働いた飯盛女を供養する石造物が今に残る。

  この辺りは「砂子(いさご)」と呼ばれる所で、1400Mに亙って旅篭や商家が350軒も軒を連ねて賑わった所であるが、もともとこの通りは砂浜の低地で多摩川(昔は六郷川と呼んだ)の氾濫時には冠水の被害に見舞われる地域だったので、旧東海道は砂洲の微高地を通るように配慮されたと言う。だからこの辺りは今でも浜の辺りに比べて少し高くなっている。

 

7.中の本陣

 この付近にあった惣兵衛本陣は、佐藤・田中両本陣の間に位置する事から、通称「中の本陣 とも呼ばれが、江戸後期に至り廃業した。

  小土呂橋の交差点で「石畳」は終っていたので、元の宿場は此処までだったと想像した。交差点を渡った所に次の「案内板」があった。

 

8.川崎宿の入口

 宿場の入口には切石を積んだ土居があり、これを出ると謂ゆる八丁畷の一本道、土居は832間、この中に小土呂・砂子・新宿・久根崎の宿を構成する4つの街があったという。

  江戸時代後期における人口は770戸3100人余で、傳馬役を負担する農民の他に、旅篭、大工、傘職、仏師、左官、樋職、経師、指物師など様々な職人が住んでいた。

  文久2年(1862)外国人遊歩区域となった当宿は、この土居付近に外人警備の為の第一関門が設けられ、以下保土ヶ谷宿まで19ヶ所に設けられた関門番所には宿役人、道案内人が詰めて警戒に当ったという。

  京浜急行「八丁畷 駅の傍に「芭蕉の句碑」がひっそり立っていた。俳聖松尾芭蕉は元禄7年(1694)5月、江戸深川の庵を発ち郷里伊賀への帰途川崎宿に立ち寄り、門弟達との惜別の想いをこの句碑にある

 「麦の穂を  たよりにつかむ  別れかな」  の句に託した。

  芭蕉は「さび」、「しおり 、「ほそみ」、「かろみ」の句風、即ち

「蕉風」を確立して同じ年の10月、大阪で

    「旅に病んで  夢は枯野を  かけめぐる」  の辞世を残して51才の生涯を閉じた。

  それから130年の後、文政13(1830)8月、俳人一種(いっしゅ)は俳聖の道跡を偲び、天保の三大俳人の一人に数えられた師の桜井梅室に筆を染めてもらいこの句碑を建てたという。(但し、石に刻まれた句の文字は朽ちて良くは読み取れなかった)

 

9.八丁畷の由来

 江戸日本橋を出発点とする東海道は、川崎宿を過ぎてから隣の市場村(現在の鶴見区尻手・元宮・市場の辺り)へ至るが、この区間は八丁あり、畷といって道が田畑の中を真っ直ぐに伸びていたので、この地を「八丁畷」と呼ぶようになったという。(成る程、今も真っ直ぐな道が伸びていた)

 

10.市場一里塚跡

 街道筋に「武州・橘樹郡  市場村一里塚」の碑(但し昭和8年6月建立)があった。慶長9年(1604)徳川幕府は江戸から京都までの街道を整備し、併せて宿場を設けて交通の円滑を図ったが、里程の目標と人馬の休憩の為の目安として日本橋から1里毎に街道の両側に五間四方 (9M四方)の塚を築造して塚の上には榎を植えたという。ここは江戸から五里目の塚に当る。

  私の歩いた道は「六郷橋」(国道16号線)を越えた所から、ずーっと路線バスの通る道をJR鶴見駅まで歩いた。ものの本によると、途中鶴見川に架かる「鶴見川橋」の袂に前出の「鶴見橋関門跡」がある筈であったが、工事中の為その存在は確認できなかった。

  こうして「街道歩き」をしていると色々勉強にもなって興味が湧いて来る。特に「宿場跡」に史跡が多く残っている事も解ってきた。

  次は少し飛ばして「藤沢宿」を予定している。「神奈川宿の辺りで両手をついて勘弁して貰え!」とのさきの太田さんの勧告を「無視」する為にも・・・。

  「神奈川宿」、 戸塚宿 は次の次ぎに必ず参りますから・・・。

 

 

2.発言番号:171

    発言者  :巌  隆吉

    題名    RE:東海道五十三次 (その3)第二宿「川崎」

  登録日時:

 

 日本橋、品川、川崎と次々と53次を順序通り歩いていますね。今度は飛ばして、藤沢の宿に行く由。藤沢から平塚、大磯辺りは相当史跡も残っていることでしょう。楽しみにしています。

  私も、貴兄の紀行文を見て、その1ケ所か2ケ所をスケッチしておきたいと思っているところで、大分宿題が増えました。

  先日の箱根東坂は、53次について無理だと批判されていました、太田さんともご一緒で大変楽しかったですね。天気も良く紅葉も美しく、絶好のハイキングになりました。

  太田さんの箱根から湯本までの所謂「箱根東坂」の感想を聞きたいと思っております。