[2]品川

 

 

1.発言番号:151

    発言者  :深澤 龍一

    題名    :東海道五十三次(その2)第一宿「品川」

    登録日時:97/10/19 08:29

 

  太田さんから「何とも無謀な事を・・・」とお叱りを受けた「東海道五十三次」だったが、「捨てる神あれば拾う神あり の諺通りで、9月の自主研修会の席上、巌さんから東海道歩きの格好の参考書をご紹介頂いた。何しろ国土地理院の50000分の1の地図上にコースが描かれている代物だけに、太田さんの懸念したコース調べの問題は完全に解消した。しかも広重の絵の 地点」までが現在のその地点の風景写真と対比して掲載されているのだから、将に「鬼に金棒」とはこの事である。

  所が先日の研修会の席上で、件の巌さんから「今月から三島を基点に5回に分けて興津まで歩くが、君の計画はどうなっている?」と詰問された私は、何かの序でにとのんびり構えていただけに内心少し慌てた。しかも巌さんはどうやら「点」でなく「線」を歩くらしい。そんな事があって、言い出しっぺの私は巌さんの第一回の「挑戦」より少しでも先に 唾」を付けなければ、又太田さんから何を言われるやらたまったものではないと、 日本橋 以来60日振りに重い腰を上げざるを得なかった。

  幸いにも「同行の士」を得て品川の駅頭に降り立ったのが17日も既に11時近く、国道一号線を少し西に 八ツ山橋」を渡ると桜並木の先に商店街が伸びている。これが「旧東海道」で街の入口には「八ツ山コミュニティー道路」と銘打ち200mに亘って「日本橋」から「三条大橋」まで、東海道の景観を配した散策路まであった。この辺りが広重の絵にある「品川宿」の入口だそうだが、何時の頃からか遠くまで埋め立てられて絵にあるような海岸からの「日之出」の図は望むべくもない。道幅6mの商店街には食べ物屋が目立ったが、程なく相棒が「問答河岸跡」の碑を指差してくれた。将軍家光が東海寺参詣の帰りに沢庵和尚に問答を試みた所と伝えられ、その傍らには、「寛永の昔  徳川三代家光将軍勇壮活達の名君也  宗彭沢庵禅師に帰依して品川に萬松山東海寺を建つ・・・」に始まる宇都宮徳馬議員の筆になる「問答河岸由来記」が朽ち果てた厚い木板に彫られていた。

  今は公園になっている「品川本陣跡」には大きなトラックが首を突込んで、裏のビル建設の器材を搬入していたのは興醒めであったが、道に面して「街道松」と名付けた 若木」が植えられて、49番宿場のある滋賀県土山町から贈られたと説明が添えてあった。(尚この「街道松」は更に南にも2ヶ所あって、夫々29番宿場のあった浜松市、と11番宿場の三島市からの贈り物とあった)

  程なく「品川橋」を渡る。江戸時代この橋は「北品川宿」と 南品川宿」の境を流れる目黒川に架かる橋と言う事で「境橋」と呼ばれたが、又の名を宿場の客が行き交うから「行合橋」とも言ったとか・・・。相棒は「この方がいいや!」と嘯いていたが、ここで振り返ると「北品川商店街 、そして川の向うは「南品川商店街」のアーチが目に付いた。

  旧街道筋とてお寺や神社が多いが、江戸時代左側は直ぐ海が迫っていたので当然ながら神社仏閣はない。品川寺(ほんせんじ)には街道の方に向いて江戸六地蔵のうちの「第一番」の地蔵菩薩が鎮座していた。地蔵さんと言えば普通は小さい石造りで、赤い涎掛けをした姿を思い浮かべるが、ここのは高さ3メートルはあろうかと言う半跏趺座の青銅のお地蔵さんで鎌倉大仏を彷彿させた。その傍には古びた「溺死者慰霊碑」もあって当時ここが海際であった事が偲ばれた。我々は地蔵菩薩の前のベンチに腰を下ろして、暫し休憩方々宗教談義に花を咲かせた。

  再び歩き始めて少し行くと、何故か心を惹きつけるお寺があった。その名は「海雲寺」、「品川の荒神さま」と親しまれる火と水の神、千躰荒神が祀られ、この街道筋で一番大きな敷地ながら手入れも行き届いていた。境内には「平蔵地蔵」も祭られて、往時正直な心で生きた貧乏人平蔵の物語と共に、傍らの石碑には最近の時勢に人の心の荒んだのを諌める文字も刻まれて、二人とも久しぶりに心が和む想いに駆られた。

  暫く歩いて立会川に架る 涙橋」を渡る。その昔、この向う 鈴ヶ森刑場」に曳かれて行った囚人が、付き添いの家族らとこの橋の手前で陰ながら別れ惜しんで涙したと言う。

  鈴ヶ森を目指して歩いているとき、相棒が「浜川神社」の石碑を指差した。神社と言えば普通は社があって、木立の中の手洗水をイメージするが、ここはマンションに接した駐車場の屋根の上に 社殿」の屋根だけが見えた。傍にいた幼稚園の職員さんに聞くと、「日本列島改造」で世の流れに沿ってここの境内もこのようにマンションと駐車場に変ったが、この社は今も尚「海の守護神」として崇められて、祭礼の日には近くの川崎は勿論、遠く千葉や横浜の漁師さん達がマイクロバスを連ねて大勢お参りに来て海の安全と大漁を祈るという。但し神主さんは常駐せず先刻詣でた荏原神社の神主さんが3神社を兼務している由であった。

  ここから更に少し足を延ばすと其処は 鈴ヶ森刑場跡 である。当時は間口40間、奥行9間の広さがあったと言うが、今はその一角に「八百屋お七」が処刑された 火炙台」には丸い石に丸い穴、「丸橋忠弥」が磔にされた「磔台」には四角い石に四角い穴を夫々磔棒を立てる為に開けた二つの石が並んでいた。又、ここにも海辺を偲ばせる水難者供養塔が建って「海辺」を主張していた。

  我々は「鈴ヶ森」で終点にしようかと話していたが、先程の幼稚園の職員さんが親切に「この向うに磐井神社があって、そこがこの街道沿いの「東海七福神」の最後だ」と教えてくれたので更に足を伸ばす事にした。

  旧東海道は刑場の先で再び「国道1号線」と合流し、車の行き来の激しい道路沿いの社に詣でた。境内にはその昔街道を行く人の渇きを癒したという磐井の井戸が残されていたが、この社は手入れも行き届かずにとても荒れ果てた感じがして全く頂けなかった。

  既に2時を廻ってお腹もだいぶ空いていた我々は、国道沿いのファミリー・レストランで ご沈没」である。時間外れで空席が目立ったのでランチとコーヒーで4時過ぎまで人生談義に花を咲かせてJR大森駅で別れた。

  以上「点」に一部は「線」を加えた今回の膝栗毛のお粗末な一席でした。

(註)「東海七福神めぐり」は、品川神社(大黒天)〜法禅寺(布袋)〜一心寺(寿老人)〜荏原神社(恵比寿)〜品川寺(毘沙門天)〜天祖諏訪神社(福緑寿)〜磐井神社(弁財天)です。

 

 

2.発言番号:153(151へのコメント)

  発言者  :巌  隆吉

    題名   :東海道五十三次(その2)第一宿「品川」

    登録日時:97/10/21 15:00

 

 深澤さんの品川の宿の記事を読みました。

  私も記事に書かれたところを訪ねてスケッチもしたいと思っております。

  昨20日は予定通り箱根の西坂を下りました。記事を載せましたが箱根の西と東をそれぞれ、点ないしは点線で歩いてつなぎたいと思っております。

  また、どなたでも関心のあるお方は1ケ所でも2ケ所で結構ですので記事を載せて戴ければと思いつつコメントを入れます。