2.賛助会員会社の協力


 

(1)各種イベント・勉強会

 

 

 ?@三菱歴史探訪

 

 

    発言番号:754

    発言者  :樋口 三男   

    題名    :第一回三菱歴史探訪会参加報告

    登録日時:99/08/27 16:59

 

 現在の三菱各社は、戦後、夫々別個の独立した企業として、発足し、所期奉公、処事光明の共通理念のもとに、社会、経済の発展に貢献すべく事業を進めているが、三菱関係ゆかりの場所を探訪し、又そこに収められた当時の公開史料を見学、閲覧し、その時に思いを馳せ、三菱の源流を探る歴史探訪会が立ち上がった。その第一回として、湯島界隈の

    1.岩崎久弥茅町本邸

    2.三菱史料館 (三菱経済研究所付属施設 )

ダイヤ ネットワ-会員17名、財団 2名の19名で、8/25 (WED )PM1.10丸の内線本郷3丁目駅に集合した。30Cを越える暑さだった。

 

                   探訪者一行

                                 撮影:飯沼富夫 さん

 

1.岩崎久弥茅町本邸 (台東区池之端1丁目111-1-3-45 )

 岩崎家の本家筋にあたる弥太郎-久弥邸は、徳川越後高岡榊原藩の藩邸の中屋敷跡。鉄製のスラィド門扉より入ると、覆い被さる樹ゞと往時の面影を留める石垣の間の歩道を登りきると、左手が開け、略中央北寄りに、木造二階建の洋館 (:現在修復中 )17C初のルネッサン様式を基調とし、19Cの米国住宅様式イスラム風装飾も採り入れている−が、その北東側に山小屋風建築様式の撞球室が現れる。その間を洋館を右手に見ながら進むと、サッカ-が出来程の広さの芝生、その先は、鬱蒼とした樹ゞの間からビルの先端が垣間見える。更に、洋館の南側は、エキゾチックを醸し出す吹き抜けの床タイル張りのベランダ。それに続くコの字形に大広間のある和館がある。和館の横には、最高裁判所司法研修所(現在未使用 )建物があるが、これは、周囲の景観にはそぐわない。

 これらの洋館、撞球場、和館は文化庁の所管となり、ともに、重要文化財の指定となっている。

  

            岩崎久弥茅町本邸

 

 明治29年英国人コンドル技師−−日本建築家を育成し鹿鳴館、ニコライ堂、三井クラブの設計作品があり、東京駅を設計した辰野金吾氏はその弟子−−の設計で、吟味された資材を駆使し、当時の大邸宅の構成景観を窺い知る事が出来る。

                 

 洋館内部も修復中で、一階-には、螺旋階段となって、二階へと続き、各所に東洋風のモチ-が加えられている。和館へと続く畳敷きの廊下を通り抜けると畳み敷きの和室があり、その大広間は、床の間、違い棚、岩崎家の家紋の三階菱がはまる欄間があり、その格式の高さをみせられる。

これらの修復には、あと、7-8年を要するとか。

     

2.三菱史料館 (三菱経済研究所付属施設 )

 

?@ ()三菱経済研究所は、大11.3小弥太社長が、三菱合資会社に設置した資料課を社会公共の利用に供するため、昭7.4分離、独立し、()三菱経済研究所としたもので、創業以来、約80年の歴史をもっている。

   三菱史料館は、平成7年三菱金曜会が三菱創業125周年記念事業として、各社に分散、保有されている創業以来の各種文献、史料を一元的に収集、保管する目的で建てられ、所蔵史料36000点のものが、パソコンインプットされている。

       

                             探訪者一行

 

?A  先に、見学した弥太郎−久弥邸の北側の彦弥太邸を子息の寛弥氏の厚意で解体し、その跡地に建てられたもので、館内に彦弥太邸の食堂、応接室が当時の姿で復元され、-ペット-テンも当時のものを特註して複製されている。敷地面積450坪、延床面積850坪、鉄骨鉄筋コンクリ-造り、三階建で、二階(276)、三階(226)が書庫となっている。

  展示室には、創業当時からの写真をパネルとして、明治の炭坑、造船、鉱山、硝子、化成、-ヨン等の現場から、武蔵、零戦そして三菱経営理念の「三綱領」が壁面に、前の展示-には、土佐藩との蔵屋敷、契約書、郵便汽船三菱会社簿記法、長崎造船所借用書、GHQ指令、商事解体指令等の史料が展示されている。

  又、三菱社員の修養、親睦、体育関係掲載の部報が、大3.8 「三菱クラブ」創刊号より、大7.6部報名を改めた「菱華」、更に、昭16.4よりの「養和会誌」が昭22.7解体する迄の128号に到る部報の夫々の部報の一部が展示されている。

  この三菱経済研究所に続いた北側の地所に岩崎寛弥邸がある。

        

                                展示室

 

 「三菱風土抄」に取り組み、一度、訪れなくてはと思っていた事が、今回、実現できて、肩の荷がおりた感じがする。今回参加された三菱各社のOBの方は、何を感じ、何を思っただろうか。 創業の源流の一端に触れ、又、史実を眼の前にして、先人各位がその職掌を通し、社業の発展に努め、三菱29社の基盤造りをされた歴史の深みを痛感した次第である。

    

                              綱 領

(参考 )  岩崎家の家系

 

     弥次郎−弥太郎 −久弥  −彦弥太 −寛弥

                      豊弥    隆弥

                      康弥    恒弥

                      正弥

                     

            弥之助  −小弥太 −忠雄  −正男

                      俊弥   −寿男  −俊男

                      輝弥   −毅太郎

  女子を含めた家系をみると、絢爛豪華な閨閥がみられる。

 

 

    発言番号:756754へのコメント)

    発言者  :巖 隆吉

    題名    :第一回三菱歴史探訪会参加報告

    登録日時:99/08/29 12:29

 

  早速、詳細なご報告深謝します。

     

 

  コンドル設計の旧岩崎邸の洋館が、明治29年からもう103年も経過しているのにもかかわらず、震災にもまたあの東京大空襲の戦災にも遭わず今も立派にしかも文化庁所管となり重要文化財として残っていることは全く喜ばしい限り。

  三菱小史の纏めのような、今回の見学は時宜を得たものと感謝しています。今後とも三菱ゆかりの建物美術品等の見学をしたいものです。

  それにしても、隣に景観にそぐわない無粋な元司法研修所の建物があり、しかも

長い間空き室になっているとは、政府も随分無駄をしているのではないかなと痛感もしました。

  隣接地の三菱経済研究所に併設されている三菱史料館は平成8年の開設で一般公開されているが、さきのご報告にもある通り膨大な資料が耐震耐火設備により永久保存されている。この中にはかっての三菱マンとして関係の深い史料が数多く保管されているので是非とも見学されるようおすすめしたい。私自身も化成とレイヨンとの合併契約書(昭和17年)や始めて入坑した新入炭坑や高島炭坑それに高島や軍艦島と呼ばれた端島(ハシマ)にわたる波止場のあった長崎の炭坑社の古い写真を見て感慨無量であった。まだまだゆっくり見ると数多くの新発見が期待されよう。

 

 

    発言番号:762754へのコメント)

    発言者  :太田 中

    題名    :第一回三菱歴史探訪会参加報告

    登録日時:99/09/04 16:27

 

              −今は昔の物語−

 第一回探訪会は、酷暑の中参加するのも大変な苦労でしたが、得たものはそれを遥かに上回るものがありました。

 「財閥」と言うと、我々戦後入社の者にとっては可成縁遠いのですが、戦前の実力は我々の想像を絶するものがあったようです。

 維新から始まって敗戦まで、僅か80年とは言うものの、三菱、三井、住友、安田、古河、渋沢等日本を牛耳っていたのです。

 それゆえに、その「光」と「影」の織り成す色模様は、国民大衆にとって時には畏敬、時には憎悪の対象ともなりました。

 その中にあって、三菱の釜の飯を食った我々としては、創始者岩崎家が「光」の部分が多く「影」の部分が少ないことを誇りにしてよいと思います。

 岩崎家は土佐藩士の出自、渋沢家も同様武家出身、武士の矜持があったのでしょう。

 他の財閥が卑しい育ちから身を起し、両替商、山師等を足場にして発展したのとは、少々趣を異にします。

 以下、私の個人的経験で、今回の探訪会の外延を少々述べてみましょう。

 

?@池の端界隈

 昭和40年の前後、私は信託上野支店に在勤していたし、又実弟が同じ池の端1丁目に居住しているにも拘らず、深い森の中にあるとは言え、目と鼻の先にある岩崎邸を今日まで訪れたことのなかった不明を恥じるばかりです。

 樋口さんのご報告は詳細、正確を極めて、理解し易く、岩崎家の方々の人柄が偲ばれて、その規模の雄大さと重厚さには驚嘆するほかありません。

 

?A安田講堂

 先日所用があり、湯島から東大構内を通り、本郷通りへ抜けました。途中、同講堂の前に立って、50歳代の同行者にその由来を問いましたが、ご存じなかったようです。 

 安田財閥の始祖・安田善次郎が大正末期から昭和初期にかけて横行したテロを怖れ、多少でも世論の軟化を期待して、寄贈したものの、その甲斐もなく、凶刃に襲われるところとなり、84歳強欲一筋の生涯を閉じることになりました。

 時は移り、昭和44年、学園騒動が頂点に達し、同講堂の上と下の記憶に新しいところです。

 暫くの間、廃墟の侭に放置されていましたが、漸く富士銀行始め安田系諸会社の拠出によって、修復されました。

 

?B六義園と旧古河庭園

 この二つの公園程、岩崎家と古河家の生き方の違いを如実に示しているものは他にありません。

 私は昭和42年まで、飛鳥山近傍に住んでいましたので、未だ学齢前の子供を連れて、度々歩いて行けるこの二つを訪れています。

 六義園はその土地が徳川綱吉から側用人の柳沢吉保に下渡され、吉保が7年の歳月をかけて造営した上、何度か綱吉の御成を仰いでご機嫌をとったことまでは誰でも知っている話です。しかし、その後岩崎家が所有するに至り、戦前既に東京市に寄贈していることを知る人が少ないのは残念ですね。

 旧古河庭園は古河市兵衛が武蔵野台地の一角、土地の高低差を生かして造った和洋折衷の庭園。勿論商売のために官民の賓客を接待した所でもあります。戦後財産税の物納に当てたのも肯けますが、その後が問題でいかにも「古河」らしいところです。

 激しいインフレが収まった昭和30年代になって、「前の財産税を金銭で納付するから、物納した不動産を返してくれ」と運動を始めたのです。

 流石に、多くの新聞でその自分勝手、狡猾さを叩かれたことは言うまでもありませんし、敢え無く計画は失敗に帰して、物笑いの種を後世までも残しました。

 何せ、渡良瀬川の鉱毒事件を起し、多くの流域住民に塗炭の苦しみを与えた張本人ですから。

 近くに旧渋沢邸もありますが、こちらは渋沢栄一の遺徳と言いますか、至極評判はよろしいようです。

 

?C三菱製紙中川工場

 戦後、下町の大工場は公害防止と住宅難解消のために、殆ど移転或いは廃止されました。

 それにも拘らず、同工場が今でも完全操業しているのは、大変珍しいことですが、それにはちゃんとした理由があるのです。

 私の現住居から数分の所にありながら、数年前区主催の見学会に参加するまで、内部を見たことはありませんでした。

 冒頭、案内人が言うには、この土地は元湿地帯で二束三文、岩崎夫人が「買って置けば、魚釣り位は出来るだろう」とご主人に促され、小使銭で10万坪程購入したのだそうです。

 そのうちに、「三菱で未だ手を付けていない仕事は製紙だが、損得は考えずにやってみたら・・・」と夫人の内職が始まったとのこと。

 工場内は大規模な製菓工場と見れば間違いなく、運ばれて来た粗製パルプ(パルプ製造に伴う廃液は過去公害の親玉だった)が加熱塗布、圧縮、延伸、切断等の工程を繰返し、印画紙等の高級紙に生まれ変わるのです。

 現在10万坪の敷地は製紙、瓦斯化学、社宅、レジャ−(プ−ルボ−リング、ブックセンタ−等)地域等に区分され、相当の余裕を以って立地されているので、追い出される理由は一つも無いのです。

 

 三菱探訪会の何れかの回にマイクロバスでも仕立て、三菱製紙中川工場からキリンビ−ル取手工場を経て、ワインシャト−(牛久、我が国初のワイン工場、元神谷酒造、現在のメルシャンワイン)でバ−ベキュ−の一杯は如何でしょうか。

 

 

    発言番号:822

    発言者  :樋口 三男

    題名    :第2回三菱歴史探訪会参加報告

    登録日時:99/12/02 18:27

 

 第2回の三菱歴史探訪は、熱海の陽和洞(旧岩崎別邸 )−熱海市林ガ1-1−を訪ねることとなり、事前の了承をとり、ダイヤネット会員 (松沢、藤本()、深沢、樋口、松本、東、飯沼、鬼木、五島、望月 )10名と財団(井出、藤倉 )2名の計12名は、1126PM3 JR熱海駅に集結した。快晴に恵まれ、汗ばむ程の天候。

 陽和洞は、敷地17千坪−当初は37千坪−、三菱第4代岩崎小弥太社長の冬の山荘として、中条精一郎氏の設計、()竹中工務店の施工により、昭和10年完成、これを「陽和洞」と名づけられた。昭和20年小弥太社長逝去後、孝子未亡人が昭和50年逝去される迄の30年間居住され、小弥太社長の記念館として、永く保存する趣旨で、同53年三菱各社の共有の形で、岩崎家より譲受け、維持管理に当たっている。

 駅前から約500m歩き、右折して、急な坂道を登り、新幹線のガ-ドをくぐると道は一本道。その道も鬱蒼とした竹林の間にあり、まるで絵にかかれた様な竹林で、小弥太社長が竹を愛し、京都から移植されたもので、13千平方米の広さに孟宗竹7千本が群落をなしている。その群落地をすぎ、隧道に入る入り口には、珍しい「洞 陽」の命名板が掲げられていた。

    

                 隧道入り口  銘板「陽和洞」

 

それを過ぎると左手に、急勾配の青緑色の大きな瀬戸瓦葺きの屋根外壁の裾回りは真鶴産の六ヶ村石の野石積、木目を浮きたたせた型枠コンクリ-造りの化粧構造材、桧模様をみる様な鉄筋コンクリ-造り二階建 (420)洋館が現れる。

    

                  陽和洞(玄関側)

 玄関より、エントランスホ--ビと続き、一階には、ベランダラウンジサンル-、配膳室、厨房がある。小弥太社長の書斎には、「天 必與正義  竹浦」の掛け軸、愛用の硯箱−其の中に各種の筆−文箱、諸橋漢和大辞典のある書棚、木肌そっくりの模様をつけた鉄製の防災戸、方々に置かれた干支の兎の置物がある。

           

  二階に上がると、表千家より室名を「残月の間」と贈られた茶室があり壁の曹洞宗永平寺管長熊沢禅師の「心山の如し」の掛け軸と一輪の花は幽玄の世界を漂わせ、眼を外に転じれば、相模湾を眼下に見下ろし、遠く初島が浮かんで見える。

           

                            ロビー

  浴室は二ヶ所に有り、夫々敷地内源泉からくみ上げ、客用浴室には、イタリヤ産紅花崗岩の一枚岩を刳りぬいたもので 、深さ77cm、長径200cmの楕円形浴槽。客室寝室に小弥太社長の俳句のかかれたものが、さりげなく置かれてあった。

 館内随所に大小の絵画、置物が配置され、食器類には、家紋や四季折々の花弁があしらわれ、美術、工芸の種々の名品が数多く収蔵されている。

                      

 一歩ベランダより、京都小川治兵衛氏の設計、施工による庭園にでると、手入れのとどいた1500平方米の高麗芝、2000平方米の梅林−−岩崎家鎌倉別邸より移植され−−紅、白、青磁、しだれ紅梅等色とりどりの早、遅、中咲きの 90本の老木、その背後には、8400平方米の松林、と楠、楓、欅の大木が自然林をなしている。

    

           名刹安養寺の礎石を前に探訪の一行

 

 芝生の中央に塔真台石ー滋賀県野洲 名刹安養寺の旧堂の礎石、西寄りに元禄年間の井筒、畠山重忠刻の観世音菩薩、地蔵尊その他石碑、石人石獣、石灯篭 、東寄りには蘇我馬子の創立した川原寺の伽藍石塔等がその所を得て、巧みに配置されている。

 チュ-ダ様式をとりいれた洋風建築、幽玄の薫りを漂わせる茶室、高温水をくみ上げた浴室、家具、備品、什器に至るまで心配りのとどいたこの陽和洞の格調の高さに感嘆するとともに三菱各社の共有の形で、歴史的遺物として維持管理にあたっているのは岩崎家四代の社長により、創かれた三菱系各社の結束の靭帯の強さを現しているものと言えよう。

 その夜は、明治生命熱海寮に一泊、翌日希望者は熱海MOA美術館を見学

した。