8.九州

 

 

    発言番号:767

    発言者  :藤本 正夫

    題名    :南九州旅日記(霧島神宮、桜島、知覧)

    登録日時:99/09/07 20:33

 

南九州旅日記(霧島神宮、桜島、知覧)

 平成11年3月阪急交通主催の「たっぷり南九州3日間ツアー」に夫婦で参加しました。南九州の旅を記録し、感じたことを書いて見たいと思います。

 3/11、羽田発11時15分、宮崎着13時着。羽田での情報は「宮崎:雨」であったが、宮崎に着いたら雨が上がり晴れていた。

 観光バス3台で日南海岸を巡る。青島で下車、縁結びで有名な青島神社に参拝。島を取り巻く波状岩の形がとても面白く飽きずに眺めた。ここより南、日南海岸の終わり迄この波状岩がずっと見られた。

 島には海幸彦、山幸彦の伝説が伝わり、海幸彦から借りた釣り針を無くした山幸彦が海の中の海神国で、その釣り針を見付けワニに送られて上陸したのが青島だといわれている。

 次に参拝したのが鵜戸神宮で、ここは花嫁が馬(シャンシャン馬)に乗り、花婿が手綱を取って参拝道中を続けたので有名である。うがやふきあえずの尊が祭神である。海側に亀の形をした亀石と名前がつけられた岩があり、これに向かって参道から土の練り玉を投げ(男は左手、女は右手で、)見事に亀石のシメナワ内に入れば、幸運が訪れるとされている。私は自信が無かったのでパス。この神宮の洞窟にはお乳の形をした岩があり、うがやふきあえずの尊はこの滴を飲んで育ったという。ここのお土産は乳飴である。

 神武天皇は宮崎神社に祀ってあるが、東征に出発した地が日向で、日向の字は太陽に向かうの意である。和歌山県の那智の瀧をかって見たことがあるが、あの近くに神武天皇上陸地の看板があったのを思い出し、いい勉強になった。

 霧島国際ホテルまで、約2時間ひたすらバスは走った。雲にそびゆる高千穂が雪をかぶっていたが、3月に雪があるのは珍しいとの事であった。

 3/12、8時ホテルを出発、すぐ近くの霧島神宮を参拝した。「さざれ石」が奉納されていた。鎌倉の鶴岡八幡宮に奉納されているのより小さかった。今まで見た千鳥が淵の戦没者墓園、鎌倉の鶴岡八幡宮や新聞に載っていた文部省中庭にあるのと同じように岐阜産で、岐阜の発見者小林宗一氏の嗣子小林文治氏の奉納によるものだった。

          

            霧島神宮の「さざれ石」

  碑文によれば、国歌に詠まれている「さざれ石」で学名を「石灰質角礫岩」という。石灰石が雨水に溶解して、その石灰分を含んだ水が時には粘着力の強力に乳状体となり、地下において小石を集結して次第に大きくなる。この石は岐阜県の山中で発見された。昭和62年奉納、小林文治他。

 

 霧島神宮は格式が高く天照大神の孫に当たる瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が祭神である。境内には神木の杉(樹齢750年以上、樹高35m、周囲3.5m)や断面が四角な四角竹(この地の特産)があった。

 大隅半島を経由して桜島へ渡る。途中海上自衛隊鹿屋基地で潜水艦が遠望された。桜島は10時頃と11時頃の2回真っ黒な噴煙を上げていた。大変珍しいことだとのガイドさんの説明であった。火山灰のことを当地では「へ」というのだそうだ。桜島は大正3年の大噴火で東側が陸と繋がった由。島には噴火に備えてあちこちにシェルタが設置されていた。フェリーでバス毎鹿児島へ渡る。

 城山公園で鹿児島市を展望、大山巌、西郷隆盛、大久保利通、東郷平八郎等明治の先覚者が育った「加治屋郷中(かじやごじゅう)」は今は賑やかな街となっていた。 乃木大将の静子夫人の生誕地は甲突川の近くである。「大島紬の里」で昼食(当地独特の鶏飯料理)、立派な庭園を拝観、さつま庵(かるかん、さつま揚げの工場)で買い物。尾久杉工芸品店に立ち寄り、眼の保養をする。池田湖を見て、九州最南端の長崎鼻で開聞岳をバックに記念撮影。指宿温泉の指宿いわさきホテルに泊まる。

 夜天然砂蒸し風呂に入る。40度〜45度の砂の上に浴衣で寝て熱い砂を寄せて掛けて貰うのだが、低温やけどどころか高温やけどになりそうな感じで手や足は動かして熱さを凌ぐことが出来たがお尻は無理で5分で出ようとしたが、1000円も払い、回りの人は気持ち良さそうにしているのを見て少し我慢し、10分で飛び出した。夕食は洋中、朝食は和洋のバイキング方式で大いにくつろぐことが出来た。

 3/13最終日、朝の中は小雨。ホテルからバスで知覧の武家屋敷と庭園の見学に行く。

 知覧の武家屋敷は薩摩の小京都といわれるだけあって、枯山水や生け垣の刈り込みは借景も含め素晴らしい物であった。

 知覧特攻平和会館の見学をする。陸軍特攻隊員の写真、遺書、遺品を見ると胸がキュンと締め付けられる思いがした。館長さんの説明によれば、隊員は飛行機に乗る時に足が地上を離れる時が先ず大地との別れ、開聞岳が見えなくなった時に、開聞岳に敬礼をして故国日本と最後に別れた。その心情を生き残りの隊員達が、記念館を作るなら飛行機の背景に大きく開聞岳を是非描いて欲しいと強く要望されて、描いたとのことだった。

 屋内展示の飛行機(疾風)は日本で敵B29爆撃機に2回体当たりをして奇跡的に生還した2機のうちの1機で山口から運んできたものだが、パイロットの方はご存命中とのこと。占領軍のGHQが「この勇敢な2機は残しなさい」と特別な許可を与えたもので、知覧に残っていた約50機の飛行機はことごとく破壊を命ぜられた由。

 尚、陸軍1035柱の灯籠が全国から寄進されて道路の左右に建設中であった。海軍の鹿屋基地では904柱が特攻戦死者とのこと。

 三角兵舎や当時を偲ぶ展示物が多く、見る時間がやや不足したのは残念であった。西海岸にある「ゴールドパーク串木野」で昼食、金箔入り竹ずくし膳(コンニャクに金粉、おすましに金粉)、トロッコで地下に5分入ると観光用に10分位の探鉱見学コースが設置され、大型のドリルの機械、マネキンやテープで金の採掘現場を再現していて作業の様子が理解出来た。 現在も金鉱山として堀続けているが、隣の住友鉱山の方が 三井鉱山より発掘量が多い由。

 次に案内された「曾木の瀧」は日本のナイヤガラだとの説明であったが、雨の後だというのに水量が少なく、ナイヤガラの呼称は一寸オーバーな感じであった。

 次の蒲生八幡神社は神宮皇后が祭神で庭に日本一大きな楠があり、樹齢1600年で(根回り約34m)数年前に枯れてもう駄目かと思われたが樹医達が熱心に治療して無事生き返った由。素晴らしい木の生命力と木を愛する人達の感動の物語であった。夜遅く羽田に帰ってきたが色々と思い出に残る有意義な旅でした。

 

 

    発言番号:783767へのコメント)

    発言者  :樋口 三男

    題名    :南九州旅日記(霧島神宮、桜島、知覧)

    登録日時:99/09/22 21:10

 

 藤本サンの南九州の旅日記拝見しました。宮崎経由鹿屋、桜島、の-で鹿児島にはいられ、指宿、知覧、串木野へと。私事で恐縮ですが、戦前2年半の鹿児島にての学生生活、鴨池海軍飛行基地での予備学生の訓練、その後学校の77,90,95周年記念日には必ず訪つ゛れている第2ハイマ-とも言える鹿児島の各地を3日間の旅で、詳細にレポ-され、懐かしく、更に、郷愁の念を深くした次第です。この機会に、旅日記に掲載されなかった或るいはもつと深く突っ込みたい鹿児島の名所、旧跡を戦前の姿を思い浮かべながらコメントさせてください。

 

1.三太郎越え

  薩摩と肥後の境界にある曲がりくねった三太郎越えの峠を越えると、鹿児島本線の車内は、カゴマ弁の声が一斉に大きく聞こえてくる。「オマンサ-−−-ンニ−−ゲンキデ−−オジャツタカ 」このイントネ-ションは難しい。「オマンサァ-」は、「お前様」といって、京都の雅び言葉で、相手の人を敬う言葉であり、又  カゴマ弁自体江戸幕府の密偵対策として、執られた薩摩藩の政策の一つで あった。  

 

 

2.大口

 肥後側から、大口盆地に向かってなだらかな傾斜となっている。この風景は、起伏のない段丘で、その両側には、樹林の濃淡が重なりあって見事な景観を見せている。「口」とは、肥後からの勢力の侵入を防ぐ地理的要衝の場所を指し、西南の役のおりの古戦場となった。現在、そこに、商事の豚舎の棟が幾十棟となく並んでいる。

 

3.曾木の滝

 大口より、南に約6キロ、川内川の上流にある。パンフレットには、「滝巾110m、高さ12mの大滝」と書いてあるわりには、「水は少なく、-バ−な言い方」と旅日記に述べているが、戦前には、滝は静かな佇まいで、千丈岩、赤松の緑、そして、春、秋の桜、躑躅、紅葉と眼を楽しませ、又、その水の美味さは格別であった。時が移り、地勢の変化によるものか、これに人工的なケバケバしい食堂、土産物屋の立ち並ぶ何処にでもある観光地風景となったのであらぅか。

 

4.白薩摩焼きの沈寿官邸

 川内から東市来、苗代川に入り、士族屋敷の僅かに残る沈寿官邸、そして 14代の存在をアピ-したい。朝鮮全羅北道南原(ナモン)城にいた李氏を秀吉 の朝鮮の役のおり、薩摩に連れて来られ、土地を与えられ、士分の礼遇を受けて、窯をおこし、藩の財政の一部を支えた。司馬遼太郎の「故郷忘じ難く候」にあるので、割愛するが、昨年が丁度薩摩焼き400周年を迎え、沈寿官サンが日韓両国に働きかけて、陶工先祖の故郷韓国南原市から東市来町に海路輸送された「窯の火」の記念式典が挙行され、過去に思いを馳せ、未来を考える絆となり、両国友好の機運を盛り上げられた事を附記する。

 

5.蒲生(カモ) の龍ヶ城

 島津氏の城山麓にある鶴丸城よりも古く一山をもって巨大な山塞のよぅな 素朴な城で、険路な山路を樹の枝や幹をつかみ、落ち葉を踏みしめ、辛うじて登りつめたところの巨大な岩の上に城館がたてられていた。

 その巨大な岩肌に無数の梵字 (古代インド文字)ガ、その中に、1281年の蒙古襲来の折の「敵国調伏」の梵字もある。これが「蒲生城磨崖梵字」といわれており、伝承もなく、神秘的な謎を遺している。

 又、明治維新後、士農工商の階級制度の消滅後、蒲生の士族が集まり、「子弟の東京遊学の学資にあてる」という名目で、薩摩藩から、藩有林、牧場の払下げを受け、「共有社」という不動産会社的なものをつくり、得たところのものを分配したという歴史がある。

 

6.人吉

 鹿児島に入る前に、八代から球磨川の渓谷を溯った盆地に、相良22千石の居城のある人吉は忘れてはならない。人吉城址は球磨川の南岸にあって、天然の山を造作した程度のもので、鎌倉期の館の形式。

 相良家は、江戸期の大名の家系では、最も古く、「時に四方を攻略し、勢い不可なれば、即ち、入りてこれを守る」という家訓が670年の治乱の世を生きぬかせてきたものといえよう。山間僻地の盆地のなかに、弥生式農耕の適地として、多くの「隠し田」をもち、禄高以上の裕福な所である。「五木の子守り唄」で有名な五っ木村は、その奥にあるが、桃源境のような秘境でもある。

 人吉から日本三大急流の一つである「球磨川下り」の遊覧船に乗り、真近かに迫る渓谷を縫って流れる急流に身を任せていると

   とん−で  ゆ−きたゃ  九州  さぁ−がぁ−ら

   あゆ−のよさ−  ひとよし  仲良し  こころ

  よしよし  わ−すれともない  水のお−と

と川の瀬音とともに船頭の唄う錆びた声が聞こえてくる。

 

7.古里温泉

 世界有数の活火山、桜島は、現在も1117mの南岳から噴煙を上げており、中腹の湯平展望台からは、広大な溶岩原を一望出来る。その火山灰地に育った桜島デコンの大きさは特異なもので、又、びわ、みかんの樹ゝが山裾に緑を添えている。                                戦前、鹿児島からの船がつくと、両側に並んだ宿屋の客引きの女中が朝まで付き合ってくれ、翌日の別れの際、腰の赤い布を振りながら別れを惜しんでくれたとか先輩は言う。森 光子が東京芸術座で1400回も続けている「花の命は短くて−」の「放浪記」の作者林 芙美子は、ここで生れ、この地より彼女の人生が始まった訳で、近くに、その碑が建てられている。

 

8.薩摩藩と島津家

 (1.)薩摩藩

 日本書記、古事記でいう熊襲の「ヤソタケル」は、「クマ国」と「ソ国」にわけ、「クマ」は地形が山襞ばかりの球磨川流域、「ソ国」は大隅の隼人の事といわれており、未開野蛮な種族を想起するが、敵に対して優しい「ヨカ男として」薩摩独特の美意識の源流となっている。藩の耕地面積に比し、士族の数が多すぎ、藩財政上百姓は酷使され、従って富農、富商は存在せず、又維新後残った士族も西南の役で、優秀な人材を失った。

  薩摩士族の言葉は優美で、抑揚も音楽的で、人に対する優しさをもって表現とし、これが薩摩気風の特徴であった。私の下宿の「オバサン」も士族を先祖にもち、折り目正しく、慎み深く、気の毒な位男尊女卑の姿勢を崩されなかった。これらが、今となっても忘れ難い第二の故郷としているのかもしれない。

 

(2)島津家

  歴代藩主の中で、薩摩、大隅、日向の三州を統一した15代貴久、関ヶ原の敵中横断した17代義弘、産業奨励、文武両道の25代重豪、お由羅騒動の久光、そして幕末第一の名君といわれた28代斎彬は有名で、殊に斉彬公は、西欧文化の吸収に努め、反射炉、大砲、火薬、アルコ-メッキ、製紙、ガラスパンガス灯等にも現れ、島津家の遺品として、磯の尚古集成館に展示されている。

 

9.鹿児島

  蒲生をでて、錦江湾ぞいの海岸道路を南に走ると鹿児島市内に入る。左手には、紺碧の水を湛えた錦江湾、そして指呼の間の桜島が淡い白煙を出し、歴史を越えて悠然とした姿がある。

 

(1)ハワイ沖急襲の訓練飛行

  昭和16年の始めの頃、教室の窓ガラスを振動させて、北の霧島連峰方面から幾十機の飛行機が南下し、桜島南端から左に急角度で向きを変え、垂水海岸前の標的に突入する訓練が行われていた。これが大戦緒戦のハワイ沖空襲の訓練飛行であったと後できかされた。

 

(2)磯浜

  磯山を背に錦江湾に臨み、5万坪有余の広さの庭園が磯にある。磯庭園という。代々の藩主の別邸としたもので、風雅な書院造りの屋形、竹林や曲水の庭そして七色に変わる桜島が築山となって眺められる。学生の頃、艇庫よりボ-を出し、尻の皮が擦り切れる程練習の後、近くの茶亭で味わう両棒 (ジャンボウ)の味の美味さは格別であった。

 

(3)市内

  「明治の先覚者」「加治屋郷中」「城山」等は旅行記で述べられているので、割愛するが、城山下の照国神社より続く鹿児島市の-ンストリ-である「天文館通り」は有名。鶴丸城址にある黎明館には郷土の歴史、民族、文化遺産などの展示、又市立美術館には郷土出身の画家、黒田清輝、藤島武二、海老原喜之助、東郷青児等作品、薩摩焼、薩摩切子の名品がある。その他県立博物館、文化センタ-、も一見の価値がある。

   

(4)フランシスコザビエル

  日本に最初にキリスト教を伝導したフランシスコザビエル10ヶ月程滞在、布教したが、これを記念し、明治の頃、石造りのザビエル教会がたてられたが、爆撃で焼失、戦後、-法王の寄付のもと近代ゴチック建築の教会が建設 され、南国の空に白い十字架を高々とかがげるザビエル像がある。

 

5)五大石橋

  鹿児島の中央を流れる甲突川には、玉江、新上、西田、高麗、武の橋の五つの橋があるが、江戸時代の石工岩永氏の作で、四連、五連の-は、日本の眼鏡橋の頂点に位置し、氾濫を防ぐだけでなく、ある石をとるだけで完全に崩れるという薩摩藩の戦略的なものが秘められているとか。

 

(6)鴨池

  戦前の海軍航空基地があり、七つボタンの予科練の基礎訓練を行った所でもあり、又南方方面への中継基地であった。私はここで海軍予備学生の基礎 教程をうけた懐かしい所。今は、旧滑走路はニユ-タウン-ンストリ-と変わり、76万平方米の敷地はホワィトベ-ジュの美しい街と変わっている。

 

10.指宿

  西鹿児島駅から指宿・枕崎線に乗り、指宿駅に降りると馬の後ろに幌を着けた六人乗りの幌馬車がまっている。馬車が進むと、紐で車の後ろにつけた鈴が馬の足並みにあわせシャンシャンと鳴ってくる。

  戦前にあった情緒豊かな想い出の旅の一齣である。宿舎に着いて、浴衣に着替え、天然砂風呂へ行くと、砂浜を体に合わせた位の大きさに掘り下げられた所に体を沈め、首まで砂をかけて、波の音に暫く耳を傾けていると、摂氏80度程の地熱が伝わって来て一時間位経つと汗でびっしょりとなる。

 又近くの噴火口湖の鰻池、鄙びた里の鰻温泉、池田湖、開門岳、更に足を伸ばすと南国-ドタップリの長崎鼻がある。「知覧城下町」「串木野」は紀行文にあるので省略するが、時間が許せば 屋久島探訪で、根まわり32mの株、樹齢7200年の縄文杉をみられるのも面白い。

 兎に角、南国の空、紺碧の錦江湾、白煙棚引く桜島の織り成す自然の風物に接し、そこに多くの歴史の跡を抱えた鹿児島への旅は是非お薦めしたい。