7.山陰、山陽の旅

 

 

  発言番号:057

  発言者 :巌  隆吉

  題名  :出雲、松江紀行

  登録日時:97/06/08  21:14

 

 や雲立つ 出雲八重垣 妻隠(ご)みに

                八重垣作る その八重垣を

 

  この歌は古事記の最初に出てくる歌であるが、今回その出雲を訪ねた。

  去る5月13日から14日にかけて、幼年学校時代のクラス会の二訓会が出雲で開催され、それに出席した。

  13日朝東京から「のぞみ」で岡山乗り継ぎ14時出雲市駅集合、早速出雲大社にお参りする。昭和14年幼年学校2年生の時修学旅行で参拝しているのでこの企画になった次第。このお社はあらゆる面での「縁結びの神」であり、お伊勢さんと違って全く庶民的な神様だ。

  次いで日の岬に行く予定が雨も降っておるので急遽変更、かって大社の巫女で歌舞伎の創始者というお国の墓に参り、「花より団子」とワインセンターとそば苑に行き、ワインを試飲し軽くそばを食べる。

  夜は玉造に泊まったがもう戦後何回も夫婦同伴の二訓会であるので、奥さん連中も気心は知れ、昔の秘話等に花が咲く。特に戦死された方々も多く、その当時の思い出話しは夜遅くまで尽きない。

  明くる14日は足立美術館に直行、ゆっくり大観の絵等飾られた日本画の展示を見る。この庭は雨に濡れて瑞々しく美しく見応えがあった。

  松江城、武家屋敷の塩見縄手を経て、小泉八雲旧居を訪ねる。質素なお家で日本特に松江を愛した帰化された文人を偲ぶ。

  虚子の句、「くわれもす 八雲旧居の 秋の蚊に」が印象に残る。

  有名な「みな美」の鯛めしを食べ、この次の東京地区での再開を約して名残を惜しみつつこの二訓会は解散する。

  これからは、家内と二人の旅となり、松江は何といっても、松平不昧公のお茶のメッカ、お茶室を見ようとタクシーの中から予約して、先ず菅田庵を訪ねる。ここは狩りをした不昧公が風呂(サウナ)に入り、雪ちん(トイレ)をし袴を着替えたところで、今でも山奥のしっとりした長い露地の奥にあるので、眺めも良く昔はさぞやと思う。

  次いで、遥かに松江城を望める明々庵に行き、松平家の菩提寺月照寺へ。

  入り口に大力士雷電の碑があり、7代不昧公の墓所は初代に劣らない程立派で、その廟門のブドウの透かし彫りや、大亀を押さえ込んだ喜蔵碑は珍しかった。それから、普門院の観月庵に行く。八雲の「小豆磨き橋の怪談」に出てくる堀川に望んでいる。不昧公もその堀川でここに通ったという。

  夜は松江の老舗の「みな美本館」に泊まると、たまたま、松江大橋、宍道大橋から、宍道湖の見える藤村の泊まったといわれる昔ながらの部屋に通され、二人とも大喜び。ゆっくり温泉につかり一杯飲んでくつろぐ。

  15日の朝、旧知の庄司さんが訪ねて来られたので、亡くなったお父上の思い出話しをして、松江の南の縁結びの古社八重垣神社にお参りする。ここの宝物殿にある最古の社殿壁画は趣があった。この小さな祠の前には沢山の男根が供えられていた。名古屋の田縣神社のように珍しい風習だ。

  それから、大社より古い神魂(かもす)神社にお参りする。社殿は国宝という。そして風土記の丘に立ち寄り、目下の大河ドラマの尼子の富田城址月山を見て、国分寺跡を通って雲樹寺に向かう。あまり人は訪れない侘しいお寺だがかっては後醍醐天皇の勅願寺だったという。

  最後に念願の清水寺である。このお寺は観光客も多く門前町もある位だ。楽しみにしていた精進料理を食べたが、ウナギの蒲焼きはほんものそっくりで見事なものであった。

  この清水寺の見所は、重文の本堂、三重塔もさることながら、蓮乗院の人を現す庭とお茶室、「巌松軒」と「古門堂」である。

  「巌松軒」の前には巌と看做される崖があり、小さな松が生えているので、「巌松軒」と名付けられており、そこからは三重塔が望まれまた「古門堂」は大門の古材から作られており丸太柱をくり貫いた行灯や、三重塔の柱の根本をくり貫いての丸い炉縁等は素晴らしい。

  不昧公はここにも良く立ち寄ったそうで座敷の掛け軸には不昧公の「瑞光」(瑞光門という門もある)という書が残されている。

  私はこのお寺には、約30年前境港の旧家(司葉子さんの実家)庄司保親さんとご一緒した。その時の和尚さんが焼いた抹茶茶碗を二人で求め、その和尚さんに庄司さんは「瑞光」と私は「巌松」との銘を箱書きをして貰っていて、何時も抹茶を飲む時思い出していた。

  その時、30年位経ったらこの二つの茶碗を持ち寄り、お茶を飲もうと約束していた庄司さんも今はなくなり時の流れをしみじみと痛感した次第。

  昔の思い出話しをしたところ、今の住職はそのお子息であり、そのせいもあってか特に詳しくご案内して貰い、座敷で抹茶を戴きお寺を辞す。

  夕闇の空を米子空港より飛び立ち思い出多き旅を終えた。

 

 

  発言番号:067 (057へのコメント)

    発言者  :大田

    題名    同上

    登録日時: 98/06/16  20:57

 

  出雲の旅、随分楽しかったようですね。

  小生は出雲へは2回観光に行っておりますが、どちらも団体旅行ですから、貴方ご夫妻のような優雅で余裕ある旅行には縁遠く、全行程駆足同様の忙しさでしたが、それでも印象深い所は幾つかありました。そのうちの一つ小泉八雲旧居について申し上げましょう。

  小生も昔文学青年の時があったのです。その頃最も尊敬していた文学者の一人が八雲でした。温和な性格で、松江の自然と人情をこよなく愛したからです。(余談ですが、最も嫌いな文学者は夏目漱石です。八雲が後に旧制五高と東大に勤めたことは周知のことですが、両校とも後から来た漱石に追い出された恰好です。漱石は傲慢で自己中心的な性格、小説でも書かなかったら始末に困る人間て、英文学に対する貢献も殆どありません。この事は色々な本で確かめていますし、小生現地で聞いたのてすが、留学先のロンドンでも評判が悪かったのには大変ショックでした。八雲は全く反対で3歳までしか居なかつたギリシャでも評判は上々だったのを覚えています。以上脱線です。)

  彼の著書は何冊も読んで居りますが、怪談−kAIDAN−等は旧制中学、高校教科書の定番でした。

  簡単に記念館を観た後、旧居に入りました。当時の中学教師が住みそうな何の変哲もない小さな家ですが、明治24年5月から11月の間此処で何を考え、何を書いたのか想像するとなかなか去り難く、他の人達が早々と次の武家屋敷を見物し、バスに戻る迄たたずんでいた記憶があります。

  小泉八雲は日本にとっても、松江にとっても本当の友人でしたね。

 

 

  発言番号:085

    発言者  :秋里隆男

    題名    :厳島神社参拝記

    登録日時:97/08/03 00:00

 

 6月の初旬  墓参のため郷里山口に帰郷した際、1泊2日で広島、山口地区を旅しました。従兄の運転する車で、従兄夫婦と私ども夫婦4人の旅。

 朝  拠点の宇部を出発、泊りの宿も手配しない  本当の  ぶらり   旅で、あちこち見学しながら  これが旅だ  を満喫しました。

  その旅の中で  NHK大河ドラマで改めて有名となった厳島神社に参拝しました。

  厳島は御承知のように、日本三景の一つ、国宝ということでありますが、これに加えて昨年は  世界遺産にも登録されたとのことであります。

  彌山の山の緑、紺碧の海、そして社殿の朱、かつて参拝した往時と変わらぬ美しさに  絵心のない私も  ため息をつくような思いでありました。

  厳島についてしばらく経った頃、丁度の干潮で  朱の大鳥居の全容も拝むことができました。

  この社を創建された推古天皇  そしてこれを完成した平  清盛の気持ちが  おそれながら  わかるような気がしました。

  日本三景という景勝  人々に語りかけてくる歴史と物語、まだの方は  一度是非  この地を訪ねられることをお奨めします。

  ところで今回の厳島詣でに際し、以前から疑問に思っていた次の事を社務所の人に教えてもらいました。御存じの方が多いと思いますが  御参考までに。

 

1 社殿の土台は  潮の干潮で腐りやすいのに何故木造なのか?

  木造ということが国宝指定の条件となっている。木造のため  10年に1回取り替えている由。

  コンクリートづくりなら国宝としてどうか  という気もしますが  例えば天然の御影石ならよいではないか  とも言えます。残念ながらこの点  再質問しませんでした。

 

2  厳島神社は  女の神様なので男女連れでお参りすると神様の御機嫌が悪い  との言い伝えあり。本当だろうか?

  古い年代の人の間には  未だにそういう言い伝えがある由

  厳島の島内にもその昔、伊勢の古市と同じような遊里があった。

  厳島詣での半分の目的が  そこでの遊びにあった当時の男衆にとって女連れはなんとしても避けねばならない。

  そこで前述のような理屈をあみ出した  とのことでありました。

  当日の参拝客は  夫婦連れあり  若い恋人同士ありで厳島の祭神も  苦笑いされていたようでありました。

  私どもも  夫婦づれでありましたが、さすがに拝殿では夫婦別々に  拝礼いたしました。やはり古い年代の人に属するのでしょうか。

(追記)

  厳島では、大河ドラマで毛利元就が恋をした村上水軍の女  加芽に会えるかもと期待しておりましたが、残念ながらそれは実現できませんでした。

 

 

  発言番号:086(085へのコメント)

    発言者  :巖 隆吉 

    題名    :同上

    登録日時: 97/08/03  19:46

 

  秋里さん、厳島神社ご参拝何よりと思います。

  それにしても、美しく若い恋女房をお連れして、「加芽」を求めるとは、秋里さんの昔からの面目躍如たるものがありますね。

  なお、私も厳島は女神ですのでアベックは禁物と思っていましたので、夫婦同伴ではどうかなと、昔からインプットされていましたが、厳島に遊里があったからとは始めて知りました。なるほど道理でと思った次第です。

  その話しを聞いても別々に拝礼されたとか、微笑ましい限り。

 

 

  発言番号:084(085へのコメント)

    発言者  :深澤 龍一

    題名    :同上

    登録日時:97/08/09 07:36

 

 久々の秋里さんの 旅行記」、お人柄が偲ばれて楽しく拝見しました。

  私と違って何時も奥様とご一緒でとても羨ましいですね。

  私も厳島神社は何度か訪れた事があります。昭和30年に広島支店の開設要員として赴任した私は、当時入社満3年を過ぎたばかりの チンピラ社員でした。

  当時の信託は未だ全国に10余りの店舗しか無く、神戸の次は福岡という事でその中間地点に開設したのだと思いますが、初の中国路の店舗とあって時々は本店の役員方も視察にお立ち寄りになり、支店長がご案内する所と言えば 宮島」と決まっていました。私は30才近い独身貴族で「ミノルタ  6」を持っていたので、支店長ご指名の「お抱えカメラ・マン」としてその都度副社長や専務さんとご一緒にあの海を渡りました。

  常識にも欠ける人間でございますので、厳島神社には誰方がお祀りしてあるのかも知らないまま、新入社員同然の私は何時も緊張の面持ちで カメラを肩に御二人の跡をついて歩いておりました。支店には地元出身の若い社員や警備員さんもおりましたが、「男女連れでお参りすると神様のご機嫌が悪い」というお話は、秋里さんや巌さんからお聞きするまで耳にした事はありませんでした。唯あの御社は水の中に浮かんでいる風景が最高と、「お抱えカメラ・マン」は何時も満潮時に参拝するように気を使って、時間が合わない時は「紅葉谷公園」の方を先に廻って時間を稼いだり、その後ロープ・ウェイが出来てからは「弥山」にも登って、山頂から美しい瀬戸内の風景を眺めたりしたものでした。(秋里さんは登られましたか ? このロープ・ウェイは建設に際して、宮島の景観を損なわない様にと、対岸の本州側からロープ が見えない様に設計されたと記憶しています。厳島神社の美しい社殿と共に、この「弥山」も私のお勧め コースです。これが出来た頃、ロープ・ウェイの出口を出た所で一緒に登った幼い甥が、待ち構えていた野生の猿に手に持っていたキャラメル の箱を掻っ攫われて呆然としていた懐かしい思い出もあります。

  当時は毛利元就のお話など全く存じませんでしたが、元成が上陸したという「包ケ浦」は外海で水が綺麗そうだから泳ぎに行こうかと広島出身の若い社員に持ち掛けましたが、当時厳島の外海は波が荒くて行く術が無いのだと聞きました。

  それにしても色々醜聞は耳にしますが、あの「葉月里緒菜」というのはなかなか可愛い女優さんですね !・・・・・・失礼しました!!

 

 

  発言番号:024

    発言者 :掛橋 則夫

    題名    :鎮魂の旅

    登録日時:96/09/18 20:01

 

 私は。今を去ること50年ほど前、即ち、昭和18年9月に学校を卒業後、三菱化成(現三菱化学)に入社、社会人としての第一歩を踏み出したのですが、御多分にもれず、間もなく宮崎県都城連隊に現役入隊致しました。しかし、この部隊は、いわゆる留守部隊でございましたので。即日本隊のありました満州(現中国東北部)ハイラルに送り込まれました。 その後、同地での初年兵教育を経て、幹部候補生試験に合格、幸か不幸か、九州熊本県菊池郡黒石にあった西部軍管区教育隊で幹部候補生としての訓練と教育を受けました。同校卒業後は、もう本土決戦の時期に当たり、本土防衛の任務に就きましたが、配属されたのは、高知県の今は南国市、護土部隊で、終戦はこの地で迎えました。

 軍隊時代の事は、意識的に遠ざかっていたわけでは有りませんが、所謂、蜀業軍人では有りませんから、どちらかといえば疎遠になりがちでした。最近になって世話する方からの連絡で、満州時代から教育隊時代の戦友会が組織されていることが判り、皆さんと連絡が取れるようになりました。その後、伝え聞くところでは、当時の教育隊長が責任観念の強い方でしたが、終戦間もなく、黒石にございました黒石神社の境内で、割腹自害された由伺いました。

 私共生徒は直接、接触できる筈も有りませんが、御世話になった我々と致しましては、何とも痛ましい思いで一杯です。中々恰幅の良い人格高潔な立派な方でした。我々も尊敬おくあたわざるものがありましたが、ここに同隊長の御冥福を祈らせていただきます。

 さて。昨年は、丁度戦後50年の節目に当たりましたので、是非ともこの黒石の地を訪ねたいものと考えておりました。が、昨年は7月に母が97才で亡くなり、なにかと忙しく、今年は、母の1周期と初盆を迎えましたので、この機会に初めて黒石を初めて訪ねることにしました。吾が青春といっても取り立てて、申し上げることなどは有りませんが、学生生活を通じて戦時色一色でしたから、命をすり減らしたこの軍隊時代が、何といっても私の人生経験の唯一の貴重な体験です。その意味で私の言わば原点になっているのかもしれません。

  この旅では取り立ててとくに何かを期待していた訳ではありませんが、偶々、現地で出会った農家の方に当時の様子など御尋ねしたところ、年のころは70に近い方だった為でしょうか、色々と御話しを聞くことができました。わざわざ神社まで案内して頂き、この当り一面真っ赤な血潮が飛び散り誠に凄惨なものがありましたとか、貴方のように遠方からわざわざ、御訪ねいただいて地元の人間として本当に有り難い事です、と目に一杯涙を浮かべ乍ら一時昔話に花が咲いたことでした。

 戦後50年を経て、未だにこのような方が居られる事など考えもしませんでしたから、私もまったく感無量なものがありました。

 以上、私の拙い鎮魂の旅ですが、日頃、我が国の原状何かと目に余ることばかり目につきますが、日本人の心の中には、未だ捨てがたい何かが未だ残っていることを感じましたので、参考までに書きなぐった次第です。

 

 

  発言番号:029(00024へのコメント)

    発言者  :大田 

    題名    同上

    登録日時:96/09/26 15:35

 

  掛橋様の「鎮魂の旅」に感銘いたしました。

  我々の記憶もだんだん遠ざかり、況してや戦後生まれの人達の意識には殆ど無いと思われる敗戦時のことがまざまざと蘇りました。

  昔から日本の指導層が特権ばかりを享受して、義務感や責任感を殆ど持たないのを、小生はいつも嘆かわしいと考えているものです。

  中間指導者とはいえ、あなた方の教育隊長が責任を執って割腹自殺されたと言うことは小生に身の震えるような感動を呼起しました。

  また、貴方も50年振りにその地を訪問してご冥福を祈られた由、「人情薄きこと紙の如き」・・・少し古い表現ですが・・・現代社会に於いて本当に見上げたものと感心いたしま。