6.続京都旅行

 

 

  発言番号:348

    発言者  :太田 中

    題名    :京都旅行雑感−その3

    登録日時:98/07/14 21:57

 

 京都のことを書けば、すぐ反応があるものと期待していたら、御夫妻とも同志社出身の深沢さんから、間髪をいれず詳細な御説明を戴き、驚いた次第である。

  同志社大学の正門だと思っていたのは実は通用門で、私は正門を通っていない訳だから、新島  じょう(漢字が出ないので失礼)の有名な碑文を見ていない筈である。次回は是非正門から訪問することにしよう。

  その後、村瀬さんと樋口さんが若き日の思い出とロマンを語って下され、一段と楽しくなりました。

  第2日は朝食後、9時出発、奈良に向かう。京都市内でぼやぼやしていると、京都育ちの深沢さんの影法師に追いかけられそうで、おちおちしていられない。

 

◎興福寺、元興寺

  今日のお目当ては元興寺(がんごうじ)、相当の通でないと訪れる寺ではない。でも途中に修学旅行向きの興福寺があるので、一応敬意を表することにする。焼け付くように暑い参道を歩いていると、近所のおばさんがパンの切れ端をゴソゴソと5−6ケ所に置いて行く。何処からともなく3−4匹づつの鹿の集団が現れて忽ちに平らげる。

  最近、日本国中の家畜がそうであるように、ここの鹿も太鼓腹になり、眼がトロンとしているから、神鹿の風姿など消え失せてしまった。

  各堂宇を一回りしたら、正午になったので、昼食のため駅近くの商店街に戻ることにした。彼が旨い「釜飯屋」に案内すると言う。釜飯が別に奈良の名物でもないが、彼の以前からの経験に従って、安くて旨い昼飯にありついたことになる。

  午後は暑い盛りの中、元興寺を訪ねる。全く見栄えしない寺だから、修学旅行生等連れて来たってがっかりさせるだけだろう。

  日本最古、飛鳥に建立された飛鳥寺が移って来たもので、奈良七大寺の一つであり、寺領は東大寺4千町歩、元興寺2千町歩、興福寺1千町歩の順だったとか。

  その元興寺で現在の伽藍は極楽堂(国宝)と禅堂(国宝)のみ。要するに僧侶達の教室と宿舎の一部がかろうじて残ったということである。

  日射を避けて、極楽堂即ち現在の本堂で、暫く胡座を掻いて休んでいたら、先程40−50人いた参拝客が一人も居なくなってしまった。

  西小塔院跡(史跡指定)つまり五重塔跡が街角二つ先にあり、その叉先の商家の縁の下に金堂の礎石が見られ、遥か離れて十輪院(元興寺の一院)が残るなど、その間に奈良特有の鰻の寝床式の民家がびっしり建て混んでいるのを見ると、昔の栄華が偲ばれ、つくづくと今の凋落が思われるのである。

  結論から言えば、東大寺が皇室に繋がり、興福寺が藤原氏の氏寺、元興寺が蘇我氏のそれと言うことが、その儘現在の姿に変わったということだろうか。

  毎晩7時に夕食を予約していたので、四条、河原町等は出られず、独りで近所を散歩する程度だつた。

  御所の周囲を廻るだけで、何も報告するようなものはない。御所の中は真っ暗闇だから、怖くて入れたものではない。

 その元興寺で現在の伽藍は極楽堂(国宝)と禅堂(国宝)のみ。要  正しく言えば、宮内庁所管が御所と仙洞御所、その周りの緑地帯は京都御苑と称して環境庁の管理下にある。

  その緑地帯にある樹木のことであるが、皆10米から20米を超えるものが繁る。関東なら欅が巨木の大部を占めるのだが、関西では欅が少ないので、私には何の木か見当がつかない。

  ホテルの人に聞くと「冬でも葉は落ちませんよ」と言うから、大方樫、椎の類だろう。

  権藤さんや松本さんが側に居られれば、正確な名称も分かることだろうが、仕方ない。御所界隈を我が庭のように遊んでいた深沢さんに、序の時に調べて戴こう。

 

◎相国寺

  第3日の朝は同じく独りで散歩、烏丸通りを御所の土手に沿ってまっすぐ北上。昨日の「失楽園」の立看のある同志社通用門を横目に、暫く行くと右手に相国寺のこれも通用門がある。一応自動車交通止めになっているが、アスファルト道路が縦横に走っていて、その街区の中に堂宇が整然と棟を並べている。余りに整い過ぎて味も素っ気も無い。

  「雁の寺」を書いた水上 勉が修行した寺だと立札に掲げてあるのは、その名声を利用して寺を浮上させようという策略か。主客転倒しているような気もするが・・・。 

 

 

  発言番号:349348へのコメント)

    発言者  :深澤 龍一

    題名    :京都旅行雑感−その3

  登録日時:98/07/17 16:29

 

  私の「影法師」に恐れをいだいて、奈良に逃げた太田さん、心配しなくても、そこまでは追いかけませんよ。というのも、實は「奈良は近くでありながら余り存じませんのでコメントできません。只、3年前に法事の帰りに珍しく家内と「二人連れ」で奈良は「斑鳩の一日観光バス」で法隆寺や薬師寺を廻った後、桜井に泊って翌日は「山の辺の道」を自転車を借りて廻りました。翌々日、五條から路線バスで真っ直ぐに南下し、熊野本宮から新宮に出るバスの時間待ちの間、「熊野古道」を小1時間ばかり歩きました。巌さんも歩かれたと何時かお聞きしましたが、此処は是非一度改めてまともに歩いてみたいとその時は思いました・・。

  さて、太田さんの「メッセージ」をこき下ろすとなると、色々な「調査」を必要と致します。

 

1.新島  じょうの漢字の出し方・・・COMPAQの機械に付いていた「ユーザーズ・ガイド」の「附録7・漢字コード表」の148ページの衣偏は「07480」の欄に目指す「襄」の字が有りますから、この字を入れたい位置にカーソルをおいて「07480」と叩いて「f・5」のキーを叩くと出てきた文字列の中にあります。(これは同じコード欄の「E5EE」で叩いても出ます)

 

2.御所の中の「巨木」、これも権藤さんや松本さんに聞かずとも判ったぞ!・・・手許の「山渓カラー名鑑・・京都」の中の「京都御苑」の項に「イチョウ」や「クスノキ」などの大木が林立し、広い芝生、玉砂利を敷き詰めた道が伸びやかな風景を作っているとありました。冬に葉の落ちる銀杏もありましたからホテルの人の話は正確ではなさそうですね。

 木と言えば君の泊まったホテルの前、烏丸通の街路樹の名前は知る訳はないでしょう。私の学んだ小学校は四条烏丸の近くですが、確か3年

生の頃に「理科」が専門の担任の先生から聞きました。「リリー・オブ・デンドロン・チューリップ・フラワー・ツリー」。当時そう教えられてこの名前を覚えるのに皆苦労しましたが、先年「クラス会誌」上に同級生が「その樹名のリリーは百合の花の形に似た花が咲き、葉の格好がチューリップの花の形から、複合して命名されたと後で何かの機会に知った と回顧しておりましたが、これも序でに手許の同じ山渓カラー名鑑「日本の樹木」の中の学名索引欄からそれらしいのを探しましたら、「Liriodendron  tulipifera」というのがあって、「ユリノキ」(百合の木)とありました。「5〜6月にチューリップに似た花が咲く」と説明がありましたが、同級生の回顧と符合しません。これこそは松本さんでは無理でしょうから権藤さんに確認して頂かなければならないと思います。そして今度太田さんがホテルに行かれたら、ホテルの人にも聞いて確かめて見てください。

 

3.相国寺・・矢張り「失楽園」が気になるとみえて同じ道を立看を横目に烏丸通から入ったとみえますね。「朝の散歩」の時は行きと帰りは違う道を歩くようにと海外旅行の時にあれ程教えてある筈ですが・・・。今度行く時は是非「ホテル」〜「御所」〜「同志社正門」〜「相国寺」と歩いて烏丸通を戻って来て下さい。

  最近京都にも地下鉄「東西線」が出来てとても便利になりました。山陰線の「二条駅」から「御池」で在来の「南北線」とクロスして、東山の下を通って「醍醐」まで通じています。ホテルからなら秀吉が「花見の宴」を開いた「醍醐三宝院」まで1時間半もあれば往復できます。

  と少し横道に逸れましたが、この寺は仰せの通り味も素っ気もありません。最近は知りませんが学生の頃は禅寺の殺伐とした風景だけが記憶に残っています。昔は京都五山(禅寺の名門・・北の「大徳寺」、南の「東福寺」、東山の「南禅寺」と「建仁寺」、そして御所に近い「相国寺」)の第二位にあった寺だそうですが、応仁の乱の兵火で堂宇は悉く焼失し、秀頼が再興したものの天明の大火で又も焼失しました。

  桃山時代の古地図では寺領は今出川通に面していますが、その後御所の近くは公家屋敷になり、更に同志社が出来る頃には武家屋敷になっていたようですから、同志社敷地の大部分は元々はこの寺の境内だったという事になりますね。

  「古地図」のことは手許の「京都の歴史」(全十巻)の各時代毎の地図で確認しました。20年前に買ったこの本、積んだままで全然読んでいませんので、これを機会にいい加減太田さんとの「掛け合い漫才」は止めにして、「山麗しく  水清く  花の都の  名に負いて  偲ぶに余る世々の跡  げに懐かしき  我が京都」とその市歌にも詠われた「京都の歴史」でも紐解く事と致しましょう。

 

 

    発言番号:350

    発言者 :太田 中

    題名   :京都旅行雑感−その4

    登録日時:98/07/20 21:44

 

  今日は長旅を覚悟で9時前出発、京都駅から新快速で大阪へ。環状線で天王寺へ出て、阪和線に乗る。ビルが吐出す熱気と人いきれで乗換えが堪え難い。眼前を京都発、関西空港行急行が次々と通過して行く。事前にもっと調べていれば、こんな苦しい乗換えは必要無かったのだが。

 

◎仁徳天皇陵、堺市立博物館

  昨年、白浜へ行く時、同線堺近辺から眺めた木立を「あれが仁徳陵だ。是非来年来たい」と言っていたK君にとつては念願の訪問。百舌鳥駅で降りて数分、炎天下での出合いは私にとってはさほどの感激は湧かない。

  我々の後に来た家族連れも浮かない顔で写真を撮った後、早々に引上 げて行った。

  正面柵の向こうに、10数米の巾で切開き舗装をした広場が、前方後円墳の先端まで百米程延びていて、その間三重の水壕が見通せるそれだけのこと。他の場所では水壕と森だけしか見えない。

 K君は「世界最大の陵墓だ」と繰返すが、成る程周囲3キロはそうかも知れない。しかし、仁徳天皇の御陵だと確証が無く、濠の土を積み上ただけ、日本人も来ない所に、幾ら宣伝しても欧米人は来ないだろう。

 エジプトのピラミッドは王の名は判っているし、畳大の直方体の石を230万個、高さ146米、東西南北へ正確に向き合った正四角錐に築き上げたもの、見物人の大半は欧米人だ。

  隣の堺市立博物館に歩を移す。玄関左に「千利休」の座像、右手に茶室二棟黄梅庵、伸庵があり、電力王「松永安左衛門」の寄贈。彼は堺市と何の関係も無いが、茶道の隆盛地に因んでそうしたのだろう。

 話は横道に逸れるが、彼は自らも「耳庵」と号する大茶人で、「王」に相応しい立派な人間だった。東上線志木駅に近い慶応志木高校の敷地は彼の寄贈せるもの。今は新座市平林寺の質素な墓に眠っている。

  館内は常設展の材料に事欠かない。目玉は「仁徳陵」を始め、近郷近在に散らばる古墳群。それから戦国時代活躍した堺商人達も恰好の展示物だろう。

 特別展は与謝野晶子展である。そう言えば、あの情熱の女流歌人は堺の菓子屋の娘だつたのだ。一般には女流歌人のイメ−ジは薄幸の楚々とした佳人が浮かんでくる。だが彼女は違う。前妻を追い出し、10人の子供を生んで、しかも濃厚な感情を遠慮なく歌い上げるエネルギッシュな歌人。解放された現代女性の中でも、彼女に匹敵する女性は滅多に見られるものではない。

 

◎当麻寺

  午後2時、一旦天王寺まで戻り、近鉄線で奈良市の遥か南、二上山の麓「当麻寺」に行く。国文科のゼミ旅行にはこの山、この寺は定番コ−スのようだ。しかし「仁徳陵」もそうだが、この寺も京都から離れ過ぎているから、我々の年齢では再び来訪することは考え難い。

  天平時代、さる右大臣の娘中将姫が一夜のうちに織り上げた曼茶羅(国宝)が本尊の曼茶羅堂(国宝)が真ん中にある。

  左右の五重塔(国宝)が完全に残るのは、つい先頃亡くなった高田好胤師が薬師寺の左右両塔を復活するまで、日本唯一の例だった。

  全く素朴、我々のいる間、訪れた参詣者は3−4名、大黒(僧の妻)が独りで、本堂の拝観料を受け取り、頼まれれば叉料金を受け取って、金堂と講堂の仏像(国宝、重文多数)を見せに行く。此れを一人でやっているのだから、何処かは留守になる。悪人がうようよいる都会の住人である私としては心配で堪らなかった。

  近鉄で橿原へ出て、奈良盆地を一路京都へ、7時ホテル到着。今日は京都−大阪海岸辺−奈良山辺−京都と大変な大回りしたわけだ。

 第4日は昨夜からの雨で明ける。時々風雨共に強くなり台風もどきの降り方。今夕五時半の京都発切符が買ってあるのだから、駅で落ち合おうと言ったが、彼は私の行動に付き合うと。

 

◎知恩院、大西法衣仏具店

  とても行楽出来る天候ではないので、ホテル前に待つタクシ−で知恩院へ直行したのは、私が菩提寺に対する寄進について相談したかつたからだ。田舎の浄土宗の小さな寺に代々寄進を続け、私も寺の欲するものを3度致し、恐らく今回が最後と思われるから、弟と2人でこちらの意志で境内に銅像を建立しようと考えている。

  「それが是か非か。是なら如何なるものを」それを聴きたかった。

  昨夏、東京の大本山増上寺に尋ねた所、要領を得た答えが無かった。

  果ては仏具屋に相談したらとの返事で、上野から浅草へ続く数十軒の店を廻ってみても、得心が行かなかった。

  今回、本堂の寺務長(事務長とは言わない)らしい僧に伺ったら、「住職に相談したら・・・」やはり末寺は会社で言うなら子会社みたいなもので、そこの社長を立てない訳にはいかないのだろう。

  漸く聞き出した大西法衣仏具店なるものが境内の端に接して営業していた。流石に寺院、僧侶相手の商売人、こちらの質問に的確に応えて、大部の資料まで持たしてくれた。当方の気持ちは2年後父23回忌、母13回忌に合せて、「法然上人」の等身大の立像を境内に建立することに決まったが、果してうまく行くかどうか。

 

◎京都市立博物館、京都国立博物館

  その後、風雨の中、両館へK君に付き合うことにした。彼は素人画家乍ら、今年2月個展を開いている程の美術マニアである。

  前者には常設展示は無く、団体展が3展程開催されていた。後者は京都へ来る度に、その前を通るのだが、今回始めて入館した。場所柄、仏像等は東京よりも充実していた。中には日野の高幡不動の不動明王像(重文)もあって、こんな大きなものを京都まで持って来たのは何故だ、東京は欲しくなかったのかと頭を捻るものまであった。

  4日間、色々充分堪能したし、今日は風雨でこれ以上動け無いので、2時間近く早い電車に切符を代えて貰って帰京した。

 

 

    発言番号:362350へのコメント)

    発言者  :深澤 龍一   

    題名    :京都旅行雑感−その4

    登録日時:98/08/01 10:18

 

  右の人差し指一本での力作「京都旅行雑感」、貴殿の「雑学」の深さに感心しながら楽しく拝見させて頂きました。

  「大西法衣仏具店」、言われてみれば名前を耳にしたことがあると浄土宗の田舎寺の娘だった愚妻が申しておりました。開祖法然上人の「立像寄進」とはご立派な心掛けと、貴殿の信心深さに感心もさせられました。お寺さんの意向も聞かないで・・・というのも太田さんの面目躍如と言った所、都会と違って故郷の広い境内のお寺の事、でも建立する場所くらいは最後に住職さんと相談して下さいね。

 仁徳天皇陵は小学校の頃に遠足で行った記憶があります。暑い夏の日にあの大きなお堀の周りを一回りさせられた事を覚えています「御陵参り」は当時盛んで「ご集印帖」を持ってあちこち色々廻りました。関西は御陵が多いので沢山「印」も集ったと記憶しています。

  「京都市立博物館」と言うのは何処にありましたかね?智恩院からなら或いは 京都市美術館」かなと首を傾げてもいます。この西側には「京都国立近代美術館」というのも私が東京に出てきてから出来ましたが・・・。

  何はともあれ、何時の日にか「故郷京都」で太田さんをあちこち引きづり回したいものと願っております。

  「ふるさとは  遠くにありて  思うもの・・・」  としみじみ感じる今日この頃です。

 

 

    発言番号:369362へのコメント)

    発言者  :巖 隆吉

    題名    :京都旅行雑感−その4

    登録日時:98/08/03 12:48

 

  太田さんはお寺に法然上人の銅像を寄進するご計画があるとのこと感心しました。大変な事業ですね。ご成功をお祈りします。

  大麻寺には平成3年12月に行きましたが中々立派なお寺でその塔頭寺院の一つに入りますと三重の塔の見える庭に水琴窟があり、本当に澄んだ綺麗な音を聞くことが出来たことが強く印象に残っております。

  水滴を水に落として甕に反響させての音の美しさに全く感心しました。このような水琴は色々なところにあるようですが、そこのお寺の人が是非聞くように言ってくれたので聞くことが出来ました。土の中から聞こえる静かな音ですので、シーンとした中で聞かないと聞けませんが..。この時、師走の大麻寺も大変静かでした。

  その小旅行では、室生寺、長谷寺、岩船寺、浄瑠璃寺等を拝観して帰って来ました。色々な仏像を拝観して歴史の重みに身の引き締まる想いをしたもことを併せて思い出させていただきました。

 私の「影法師」に恐れを抱いて奈良に逃げた太田さん、心配しなくて