5.京都

 

 

    発言番号:333

    発言者  :太田 中

    題名    :京都旅行雑感−その1

    登録日時:98/07/02 09:57

 

毎年恒例の京都(関西)旅行である。

 「Kさんとは絶対に喧嘩しないようにね。もう新しい友達が出来る年齢ではないのですからね」何とも人を子供扱いにした贐の言葉だろう。しかし、妻以外にこんな親身の言葉を懸けてくれる他人はいない。有難く胸にしまい込んで、東京駅9時8分発の「ひかり」に乗り込む。

  K君は50年以上友好を保っている学友であり、仕事や子育てで多忙だった時に少々無沙汰した以外、未だに家族ぐるみの付合いをしている。

  京都駅正午前着、修学旅行生のこれから帰郷する者、到着する者、幾つもの集団が折り重なっているようだ。

  巨大で真っ黒な怪物だと思った新駅も、幾多の交通網の中心で多数の人間を捌く、今の京都駅としては、まあまあなのかなと思えるようになって来た。

  いつまで経っても違和感を与えるのは、京都タワ−であり、相変わらず不格好な姿を駅前に晒している。

4日間の実際見聞場所を一覧に示せば、

6月16日(火)晴暑  午後    銀閣寺

  17日(水)晴暑  朝食前  冷泉家   同志社大学   (小生のみ)

               日中    興福寺    元興寺        (ともに奈良市)

  18日(木)晴暑  朝食前  相国寺(小生のみ)

                日中    仁徳天皇陵   堺市立博物館   (ともに大阪府堺市)

               当麻寺         (奈良県当麻町)

  19日(金)雨涼  日中    智恩院   大西仏具店    京都市立美術館

                京都国立博物館 (以上京都市)

 

  概観してみて、中高生の修学旅行とは大分違うことを了解して戴けるだろう。K君は京都訪問50回以上、私にしても20回は超えている。

  唯、軒から軒へ歩く訳がないし、旅行記もガイドブック丸写しなどする筈がない。

  昨年秋は宿泊場所を大阪、白浜、京都と毎日変えた為に大変忙しい思いをしたので、今度は連泊することにした。京都の真ん中、御所蛤御門の真ん前、私学共済のガ−デンパレスのみである。私は第二の勤めが学校だったので、厚生年金の外に同共済にも加入しており、そこの終身会員だ。(私は身辺雑事をリポ−トすることが多いので、ダイヤネツト・メンバ−の中でプライバシ−露出度が最も高くなってしまつたが、やむを得ない)

  昨年までは東山、南禅寺前の同共済白河院であった。前者は開館したばかりのシテ−ホテル風、後者はリゾ−トホテル風で、共に設備も料理も一流ホテル並み。

  実を言うと、去る5月深沢さんから「京都の同窓会に出かけるから、一緒に行って白河院に泊めろ」と要望されていたが、断っているのが、少々気が引けるところだが、当方にも事情があり仕方なかった。

 

◎銀閣寺

  ホテルはチェックイン時間前なので、荷物をフロントに預けて出かける。蛤御門を潜って御所前を横断する。今日はすっかり晴れ上がって真夏のように暑く、ウイ−クデ−でもあるので、木陰に僅かな人影を見るだけだ。

 明治以前の御所を取り巻く公家達の邸跡が看板に描かれて居た。240余家が犇めいていた中で、筆頭の近衛家が2400余石(物の本に拠ると全体で10万石)と言うから、最小大名はおろか旗本にも及ばない経済状態だった訳だ。

  御所前を抜けて、小さな美術館の地下喫茶店で一息入れてから、銀閣寺へ。

  日本の庭園は箱庭的だとよく言われる中で、同寺はそれを通り越して盆景位と言うのが適当か。

  若い白人を2−3人見掛けたが、日本美術史でも専攻しているのだろう。フランスのベルサイユ宮殿やオ−ストリ−のシェ−ンブルグ宮殿等のように、幾何学的に左右対象形で、先が霞んで見えない程の大庭園と比べて、如何様に理解するのだろうか。

  同寺の庭園は他の石庭とも変わっていて、四方正面の砂を盛上げたもの。乾いて自然に崩れたのか、誰か触って壊れたのか、園丁が砂を張りつけて、板で叩いていた。

  少し上がった所では、別の園丁が苔の上のゴミを摘まむようにして掃除していた。「此処の苔は苔寺に次いで二番目ですよ。苔の為には10日に1度糠のような雨が最高ですね」とか。ザ−ザ−降りでは駄目なのか。嗚呼、何をか言わんや。

  お蔭で国宝の銀閣と東求堂は上の空で過ぎてしまった。

 

 

  発言番号:337333へのコメント)

    発言者  :深澤 龍一

    題名    :京都旅行雑感−その1

    登録日時:98/07/06 10:51

 

 我が故郷「京都」に20〜50回も飽きる事無く訪れて頂ける身近な人に先ずは敬意を表します。

  私は京都には27才迄しか住んでいませんが、神社仏閣に興味を抱く年頃でもなかったので、家の前に立つ「鉾」にまつわる「祇園祭」だけがやけに私の心に幼い日の懐かしい故郷の思い出を偲ばせてくれます。

  「蛤御門」から一つ京都駅寄りの「下立売御門 前を西に一筋入った所に今も愚妹が住いしておりますが、終戦直後茲に移り住んで今回太田さんが廻られた「京都御所」の界隈は言わば私が家の庭のようなものでした。「博物館」は行った記憶が定かではありませんが、多分小学校の高学年の頃に一度位は課外授業で見学したのでしょう。但し、「大西仏具店」は一向に存じ上げません・・・。

  清水坂からスタートして、八坂神社〜智恩院〜平安神宮〜南禅寺〜永観堂の東山山麓は、帰省した時に良く歩く京都の中でも最も京都らしい散策コースですが、それに続く「哲学の道」が尽きると「銀閣寺は知ってるわい」と西に折れてしまいます。銀閣の苔が京の庭では二番目とは初耳ですが、苔寺は観光客で苔が荒らされて現在では厳しく入園を制限していると先日妹の口から聞きました。

  太田さんの旅行記は今回は未だ序幕ですから、今日は「旅の話」でお茶を濁す事に致しましょう。以下は先日町田の「ことぶき大学」で旅行記者クラブの会員から聞いたお話です。

  最近は日本中何処でも駅前にはハンバーガーがあって、観光施設としては「東京ディズニーランド」を真似たテーマパークが多くなり、値段は真似ても地方のはその中身に乏しくて、その点「東京ディズニーランド」は流石に内容があって何回行っても楽しい。

  低迷にあえぐ観光産業は、例えばJR東日本ホテルチェーンに見られる「フォルクローロ」は日本宿でも室料と食事を別にしたり、滞在型の宿やB&B(ベッド&ブラックファースト)も増えている。又、今は中高年にターゲットを向けて色々のサービスを提供しているようである。

 

1.国民休暇村「Qカード」・・60才以上でメンバーになると、土産物も含めた利用金額に応じて「ポイント」が貰える。

 

2.シルバースター制度の宿・・全国に611軒あって、70才以上に割引やプラスワン・サービスがあるという。「宿しらべ」というガイドブック(日経事業出版社刊)も出ているそうだ。(960.)

 

3.日本秘湯を守る会・・全国に120軒あって自然環境が素晴らしく山小屋風から日本風まである。10泊分溜まると行った中から1泊を無料で招待してくれると言う。(ガイド・ブックも出ている。@\750.

 

4.ヨコハマ・グランド・インターコンチネンタル・ホテルの「ペイ・ユア・エイジ(年代割引)・プラン」・・年間を通して日曜から木曜まで60才台では60%、80才台では80%を室料に付いてのみ割引してくれると言うもので、物凄い人気があってホテル側としても止めるに止められない状況のようだ。(但し全ての部屋、誰も彼もかどうかは聞き漏らしたが・・・)

 

5.その他「お得」に泊まるコツとしては・・・

イ.オフ・シーズン(一般には1〜3月、6〜7月と12月)の平日を選ぶ。

 

ロ.新館よりも旧館海側よりも山側、広さなどランクを落す。予約の時に聞いてみる。

 

ハ.一部屋に泊まる人数が多いほど安い。

 

ニ.料理は基本的なものを選ぶ。(12千円と20千円と言っても料理に5千円の差は出せないとは「板場さん」から聞いた話とか。

ホ.旅行会社を通すのと直接交渉では「どっちもどっち」で、直接交渉をすると宿の人と直接話が出来て、電話の応対でその宿の感じも判るし又交渉によっては10千円が8千円になることもある。日本宿はホテル程料金が明確化していないからだ。交渉のタイミングとしては午前10時から正午までの「相手」の暇な時間が良い。

 

  旅をするには情報集めも大切だか、その点八重洲口の「観光情報センター」は県によってはとても親切に旅行のアドバイスをしてくれる。新宿南口の開発に伴って、県の観光センターもこちらに移動しつつあるとか・・・。                                             

  最後に彼女が挙げた「お勧め品」は

A.関東では群馬県の「四万温泉」・・お湯の効能が自慢で連泊すると安い。又、「霧積温泉」は秘湯にも入って宿は「山小屋風」から贅沢なものまであるが、熊も出る山道で車は入らない「秘境」。

 

B.山陰では「松江」・・・お城と堀とお茶の文化が良く調和して、土地の人も殿様のようにセカセカしていなくて親切でやさしい。

 

C.九州は「湯布院」・・・全体で町作りがなされているようで、温泉宿も散在し夫々に特徴がある。

 

D.最後に近畿では「三重県」と彼女の故郷を持ち上げた。曰く。・・

 

 三重県は縦に長くて「桑名」は名古屋圏、伊勢志摩は「海の文化」を主張するのに対して、「伊賀」は「関西」(東海ではないという事)と言いたいらしい。

  伊勢神宮界隈は「赤福」が中心になって、今「内宮」の門前町として「お祓い街」としての古い街並の保存に努めているそうで、歩いて歴史を学ぶ楽しい空間が作られているそうだ。

  「高齢者の皆さん!行動力と好奇心で思い出に残る良い旅を!」と締め括っていた。

 

 

  発言番号:339

    発言者  :太田 中

    題名    :京都旅行雑感−その2

    登録日時:98/07/06 12:58

 

   ホテルのことについて少し話そう。元来、京都には宿泊所「白河院」があり、現在地は会館だけの施設で私学の集会等に使用されていた。

  中世は皇室関係の用地だったが、近世は水戸屋敷に転じた。同志社のある所が薩摩屋敷だったことと「蛤御門の変」等から考え合せて、幕末の騒々しさが如何ばかりだつたか想像されるだろう。今でも「御門」には弾痕が多数残っている。

  2年前改築に当り、宿泊設備と結婚式場、レストラン数軒を加え、シテ−ホテル・スタイルに変更したもの。

  特に今回、端境期を利用して年金受領者のために、1泊2食付1万円のコ−スを設けて呉れたので、早速応じたわけである。

  部屋は新しいし、料理は京懐石、価値の分かる同行のK君は大喜びだった。

 

◎冷泉家、同志社大学

  今回、京都にいる間、朝と夜は毎日独りで散歩した。と言うのは、彼には持病があって、無理はさせられないからである。

  4月のポルトガル旅行で、深沢さんから私の体力の不足を散々こき下ろされたのが嘘のようである。

  朝6時、ホテルを出る。御所と背中合せ、今出川通りの重要文化財冷泉家住宅が今回旅行のお目当ての一つである。とは言っても、今修復中で全体にネットが被さっているだけで、中には人はいないし、勿論物も置いていない。

  周囲は全部同志社の敷地で、この一角だけが取り残されたと言ってよい。

  しかし、このことが大きな貢献をして、日本文化史に燦然と輝く金字塔が打ち立てられたのである。

  明治になると、240余家あった公家は爵位を貰って、年金が入り、生 活が楽になったので、多くが東京に出てしまった。

  和歌の伝習、教授のみの地位も低い貧乏公家の冷泉家が京都に踏みとどまり、恐らく同志社からの再三譲渡申入れも断固拒絶したことが、丸ごと掛け替えのない最高の博物館になつたのである。

  昨年、都美術館で開催された「冷泉家展」の目的はその修復費用の一部をまかなう為だとも言っていた。また、私がその時痛感したのは同家代々の人達は藤原俊成、定家以来の「冷泉家」を維持、発展させることに宗教的使命感を懐いていたのではないかという事である。

  国宝「明月記」を始め幾多の典籍を、災禍の度にその時の当主が大八車で運び出して、八百年を守り通した等は、到底他の日本人に出来ることではない。

  経済的な誘惑もあったことだろう。よく断簡一片を貼付した茶室の掛軸に何千万もの値が付いている。

  若し「明月記」を切売りしたら、何億、何十億か計り知れない。それでも子孫がやる分には誰も文句が言えないのだ。

  大名、公家の末裔が家宝を手放すことは日常茶飯事だし、社寺宝が国外に流出していたり、あれほど厳重な正倉院の御物までが民間に存在する話も聞く世の中で、冷泉家の伝統が殊に賞賛されるところである。

  冷泉家の左右、背後は同志社の校地である。写真を撮り乍ら、通りぬけた。赤煉瓦で統一された端正な建物群、塵一つ無い校庭。まだ7時前、正門は閉ざされていた。守衛外2−3の職員に所々で会ったが、カメラをぶら下げた風采の上がらない老人が、早朝歩いていても、いぶかりもせず、丁寧に頭を下げて行く。その清々しさにすっかり感心して仕舞った。

  見れば、門柱に女子中学・高校、女子大学の表札が掛かっていた。

  烏丸通りとの交差点を右へ曲がった所が大学の正門。学生は未だいない。

  此処で清水の舞台から突き落とされたような衝撃を受けたのである。門柱の横に堂々たる立看板で演劇部公演「失楽園」、場所も学内でなく市内某所、その他くどくど一杯説明が書いてあった。私も自分の目を疑って、何度も見返したが「失楽園」に間違いは無かった。

  昨年、満天下中高年のオジさん、オバさんを興奮させたあの映画と同じものだ。しかし、学生演劇がどんな風に表現するのか考えている中に、興味を通り越して吐気を催して来た。だが、ここでたじろいてはいけない。横門から入って守衛に写真を撮らせてくれと頼んだが、変な顔をしていてなかなか返事をしない。「私はあそこの私学会館に泊っているものだ」と言ったら、漸く納得して「趣味でお撮りになるならどうぞ」と。入り口広場の建物もみな赤煉瓦造りで格調高かったが、それをぶち壊すのが、立看板の林立である。1−2行太字で書いてある所は何とか理解できても、あと小さな字で10行20行と書いてあるのは全く意味不明、労組のアジビラと似ている。

  帰り際、守衛に礼を言った。「大変綺麗な建物が並んでいますね」「そうでしょう。重要文化財もあるのですよ」と胸を張った。

  門を出て顔を上げたら、通りの向いの西陣側にも大学の校舎。巨大なワンブロックのコンクリ−ト造りの玄関上、2階の窓下に、横断幕が長々と延びていた。「学費値上げ粉砕・学長○○○○を学生の前に引きずり出せ」と。迷える学生一人のために涙を流した新島 じょうが今生きていたら、一体何と言うだろうか。

  同志社だけを悪く言うつもりは無い。昨日銀閣寺からの帰途、タクシ−で京大の前を通ったら、立看が門外まで溢れていたから、恐らく門内もどぎつい看板がいっぱいだろう。何年か前、吉田山の時計台の天辺から垂れ幕が滝のように下がっていたのを見たことがある。

  東大の「赤門」だって同じだ。国宝の屋根しか見えないと言ったら、オ−バ−だが、半分から下は満足に見えたためしが無い。

  満艦飾の立看板に囲まれた大学が「大学の自治」を叫び、「学問の自由」訴えるのが、総会屋に監視された総会で会社首脳が好調な経営を声高に誇示するのと相通ずるものがあって、その日本的風景が甚だ面白く感じられた。

  8時近くなつたので、急ぎホテルへ帰ったら、腹へらしのK君が玄関前に立っていた

 

 

  発言番号:340339へのコメント)

    発言者 :深澤 龍一

    題名   :京都旅行雑感−その2

  登録日時:98/07/07 19:31

 

  今回は「同志社界隈」ですね。お腹も立ちましょうが二言三言コメントさせて頂きましょう。

  2日目の朝、太田さんが歩かれた道は学生時代私が毎日通った道、烏丸通りから今出川を右に折れ、或る日は御所の中を通って直ぐ正面に東山を眺めながら鴨川へと歩きました。当時不勉強な私は 冷泉家」などよく知らず、何でも昔の華族で「お茶の先生」程度の認識でした。今出川の角、今は地下鉄の出口になっている辺りは「華族会館」で、これを同志社が買い取って新制の大学院校舎にした時、この家も早く立ち退いてくれれば良いのにと仲間と話した事でした。・・・太田さんご指摘のように、後年「日本文化史に燦然と輝く金字塔を打ち立てる」とは知る由も無く・・・。

  「今出川御門」の向いが丁度「相国寺」への参道で、寺に向って左が男子校舎、右が女子校舎のキャンパスでした。大学の正門は今もこの左手の角にある筈で、門を潜った正面には校祖「新島襄」の碑が立っています。・・・良心の全身に充満せる丈夫の起り来らんことを・・・。

  女子大学の表札のある正門を入った正面の建物は「栄光館」と称して中には東京の三越と並んで日本で最初に設置された「パイプオルガン」があります。又、校舎東北の裏手には「女子寮」があって、当時「男女7才にして席を同じうせず」の教育を受けた我々には将に「垂涎の的」でした。でも悲しいかな彼女らは東の方(京大生)に関心があって、西の方(同大生)には全く無関心でございました。

  そんな事で太田さんが多くの時間を費やしたと想像される「失楽園」の立看板のあった所が烏丸通りに面していたとすれば、それは正門ではなくて 通用門」だと思います。昔はこの辺りは中学のグランドでしたから・・・。

  それにしても1時間半の朝の散策の間、冷泉家と女子大しか見ていないとすると、しかも両方とも工事中であったり門が閉まっていたりしたとすると、「ホテル」からは片道精々1キロ足らずの道程、直ぐ近くの相国寺にも立寄った形跡がないので、誰もいない校内とあって腹を空かせてホテルで待っていた親友のKさんを尻目に、「失楽園」の立看板の前で相当長時間クドクドと一杯書いてあったあった説明を丹念に読んでいたとしか考えらず、それでは吐き気を催すのも当然です。戦後は共学になった「同志社中学」に通ったと言う家内が、太田さんのメッセージを拝見しながら曰く。「太田さんも失楽園の説明書きなど何時までも眺めていないで、せめて校門の中の掲示板(?)にあった新島襄の言葉・・・「諸君ハ尚ホ予ヲ先生ト呼ビ給ウ  然レドモ吾ハ只ダ神ノ意ニ従ウノミ  神意ナラバ何事ヲモ為サント欲ス  吾ハ只ダ日本ヲ愛シテ事ヲ為ス人ト同心ナルノミ」・・・でも読んでくれれば良かったのにと。

  東欧やトルコを共に旅したかの東京の音楽大学ご出身のピアノの先生は、「同志社出身と言うだけで主人と一緒になった」と何処かの国のバスの中で笑いながら話していたが、中年オバサンの彼女が「失楽園」を観たかどうかは聞き漏らした。かく言う私は映画こそ見なかったが、かの「町田おいらく山岳会」の80翁が買い求めた単行本を仲間みんなで回覧をした。そして、一見クソ真面目な太田さんはキット小説も映画もご覧になっていなかったのではなかろうか?

  とこき下ろしはこの程度にして、KさんやO(太田)さんは桂離宮や修学院離宮はもうご覧になりましたか?未だなら「毎日が日曜日」の今こそ是非一度行かれたらとお勧め致します。貴殿の「ホテル」の真向い、烏丸通りを隔てた「御所」の中にある宮内庁京都事務所参観係が見学申込みの窓口になっています。御参考までに住所その他は以下の通り。

  〒602−0881  京都市上京区京都御苑3番(Tel-075-221-1215)

  参観希望日の3ヶ月前の1日から2ヶ月前の末日までが参観申込み期間だそうで、郵送でも受付けてくれるそうです。折角なら両方見るに越した事はありませんが、若し都合で片方だけなら私は「桂」がとても素晴らしかった。それこそ「シーズン・オフ」を狙うのが良いかと思います。

 

 

  発言番号:342339へのコメント)

    発言者  :村瀬敏哉

    題名    :京都旅行雑感−その2

    登録日時:98/07/08 16:47

 

  お二人のやりとり大変楽しく拝見しております。私自身特に京都と関係有りませんが、昔話を1〜2致します。

 

1.20年以上前に哲学の道を歩きました。入り口の処を右に小道を上がりますと大変急な道を約10分程上った処に同志社の共同墓地?が有ります。実は女房の母方の祖父が水崎基一と申しまして新島さん達と一緒に同志社を設立した一人でしてそのお墓がここにありましたのをお参りに行った次第です。その後哲学の道を一寸行った処の左側の喫茶店(名前は覚えてません)でコーヒーを飲み終点のお寺まで小川に沿って女房と歩いたと記憶しております。

 ドイツのハイデルベルグにも哲学者の道なるものが有り二度ほど行きましたが、こちらは丘の上のわりと広い道で住宅もたっており小さな公園が有る以外は林が両側に有るだけで余り風情の無い処です。

 

2.これも昔の話ですが父親の納骨の為京都に行ったときですが、東本願寺と間違えて西本願寺に行ってしまいここではないと言われ慌てて東の方へ戻りました。若干時間が遅れましたが無事受け付けてもらい本堂の裏など拝願して来ました。いかに宗教に興味が無いかを世間様に表明した次第です。

 

3.楽しかった思いでとしては河原の縁台で女性と食事したことですか。

 その晩の夜行で帰京しましたが、駅まで見送りに来てくれましたのには昔からの良い風習が残って居るのを嬉しく感じると同時に若干恥ずかしかった事今でも思い出します。

 先般のお話で早く東海道五十三次を終えられ三条大橋で集まる事楽しみに待って居ります。

 

 

  発言番号:344333へのコメント)

    発言者  :樋口 三男

    題名    :京都追想

    登録日時:98/07/09 21:39

 

  終戦をはさんで、戦前、戦後、京都で学生生活を送つた者として、深沢サンと大田サンとのコメントを通じ、想い出す事など記してみたい。併し、遠い昔のせいか茫々として、繭のようにくるまれているので、当時の人達との会話に身を任せ乍ら、糸を紡ぎだしてゆくと、徐々に、記憶が蠢いて来て、朧げな光があたつてくる程度なので、其の点、お赦し願いたい。 昭和18年10月、私は、深沢サンが言われる「同志社の女子学生が東の方に関心をもつていた学校」に籍を置き、東山山麓の東福寺の親戚に下宿していた。併し、純情可憐な身であつたか、或いは、薩摩からのお上りさんのせいか、そんな光栄も恩典にもあずからなかつたのは、甚だ残念至極です。食料事情も大分くるしくなり、一升瓶に米をいれ、上の口から棒でつついて、手伝いながら、学校に通い、古いしっとりとした京都生活にも慣れ、「オノボリヤシテオクダリヤシテ」という雅かな京都弁にも通じはじめた。併し、学徒出陣で、学業を中断する事となつた。そんな中、法経第4番大教室で、高田保馬経済学部教授が、羽織、袴のいでたちで、教壇でおこなつた格調の高い講義は眼に浮かぶ。又、先輩達が、「お前たちも、戦場に行くのだから、想い出に、祇園に案内してやる」と数人の出陣学徒を引き連れて祇園甲地のさる料亭<一現サンはお断りの所だから、彼は相当な顔であつたのであろう>に席を設けてくれた。その時聴いた歌は何故か記憶にのこつている。

         京ノ三 条ノ−− 下−−−

         松サラバ  −−達 デト−−

            行ク ノモ  鴨川

         アレハナァ  アレハナァ

         小五郎    姿

 この状況は、誰が誰と別れを惜しんでいるかは、歴史に詳しい深沢サンや大田サン ならばお判りの事だと思う。

 かくして、寒風きびしい佐世保の相浦海兵団に海軍二等水兵として、2ヶ月間、手旗、モールス信号、短艇、ハンモックなどの基礎訓練をうけ、鹿児島、宮崎松島航空基地で予備学生の教育を経て台湾へ。終戦。高雄からLSTで大竹復員。

 復学後の京都は、幸いにも戦火を免れていたが、諸都市と同じく、闇市が立ち復員姿の人が集まつていた。北白川にての下宿の頃は「花イランカー」と朝早く大原女の姿の花売り娘の声に起こされ、吉田山の頃は荘厳な山の霊気にうたれて過ごしたが、何といつても食糧難で、滋賀の野洲あたり迄米の買い出し、堺への玉葱のかつぎなど経験した。ややおちついて、人並みに、名所はみたが、歴史にきざまれた古寺、旧跡、史跡など深く探索もできず、折角の学生生活を堪能できなかつたのは、残念でならない。併し、何はともあれ、懐かしい古都京都である。

 

 

  発言番号:347344へのコメント)

    発言者  :深澤 龍一

    題名    :京都追想

    登録日時:98/07/14 17:33

 

  樋口さんの名文で綴られた「旅の記録」を何時も楽しみに拝見している一人です。今回も懐かしい「京言葉」を散りばめた「京都追想」に往時を偲びました。

  戦時中、樋口さんが東福寺に下宿されておられた頃、私は学徒動員の中学生として、「舞鶴海軍工廠」で駆逐艦に搭載する「35M機関砲」を組み立てておりました。折角進水した艦は舞鶴湾を出る手前で機雷に触れて沈没したとよく聞かされましたが・・・。悔しさと寮生活からの脱出を願って海軍兵学校も受験しましたが、当時栄養失調で170cmで40キロしかなかった私は「帝国海軍には貴様に合う軍服は無い!」と最終段階で断られました。

  東福寺といえば紅葉がとても美しいそうですが、当時七条通から南は京都人には「辺鄙な場所」と映って私は未だに訪れた事がありません。

  「辺鄙」といえば「クラーカケヤ  ハシゴ  イランカ〜イナ〜・・・オ花ドォドスエ〜」と我が家にも毎週決まった日に仏壇の花を持ってきてくれた頬被りにもんぺ姿の大原女のオバサンを懐かしく思い出しました。幼い頃は大原と言えば京都では北山の麓の遠い所、今も京都人はそう思っていますが、東京で1時間半の通勤地獄を経験した私には、静か な大原はこんなに近かったのかと太田さんじゃないが第二の人生を過した情報サービス産業の厚生寮が大原に在るのを幸いに、ここ数年は何度か利用しました。大学を卒業する時、「初恋の人」と初めて二人でそぞろ歩いたのも此処 大原の里」でしたから・・・。昨年も朝の散歩で寂光院からの帰り道、大原女姿の若い二人連れにすれ違ってとても懐かしいその姿にすっかり見惚れてしまいした。彼女らは多分近くの土産物屋で働いているのではないかとはその時の家内の意見でしたが・・・。

  終戦後樋口さんは東江州に買い出しですか?私は琵琶湖の反対側の西江州の伯父や親戚を廻って、よく「濱大津」の駅で真っ青になって警官の検問を逃れるのに胸をドキドキさせた日を思い出しました。

  あれから50年、一両年の内に「ダイヤ・ネット」の有志の方が「京の三條の橋の上」に集合するそうですから、その時は樋口さんも是非当時深く探索できなかった「懐かしい古都京都」に我々と一緒に参りましょう。観光バスの行かない本当の京都らしい所を少しはご案内出来ると思います。樋口さんも一緒に「お出でやす!」。