10.スペィンポルトガル

 

 

  発言番号:

  発言者  :  深沢 龍一

    題名    :  サンティゴ巡礼の旅

  登録日時:

 

 3月の初めにスペインの巡礼路を歩いてきました。観光案内等に「二度目のスペ

イン旅行」ということで紹介されているコースで、この巡礼路は遠くフランス領から続いてピレネー山脈を越えてスペイン領に入ってからも目的地の「サンティアゴ・デ・コンポーステラ」迄実に延々800キロに及ぶ道程ですが、我々は「寝袋」と「予備の靴」に「レイン・コート」必携のリュック姿で成田を発ち、そのコースのうち「サモス」からの最後の部分122キロを歩き続けてゴールの「サンティアゴ・デ・コンポステーラ」を目指すというわけです。今年の3月3日の朝8時、四谷の聖イグナチオ教会での出発ミサの後、教会の鐘の音に送られての旅立ちでありました。

  このチームは上智大学「東洋宗教研究所」の主任教授が主宰する「座禅会」のメンバーが主体で、教授を団長に現地に7年滞在する写真家で新聞社の特派員が実際の企画を担当し、23年滞在の画家と共に現地参加して頂いて宿泊の手配とかタクシーを拾うとか、道を尋ねるとか夫々にその場その場で臨機に適切な処置をとってくれましたので道中大変助かりました。

  私達の辿った道は、先ずマドリードから特急列車でレオンに行き、駅頭まで出迎えて下さった現地の神父さんの案内で市内見学の後、ここから往時の巡礼路を辿りながらアストルガ−ポンフェラーダを経てサモス迄の160キロをチャーターバスで走りましたが、途中標高1337メートルのセルブレイロ峠では粉雪が舞っていてどうなることかと心配が過りました。最初の宿泊地「サモス」では当初修道院に泊まる予定でしたが、近年は宿泊者が少ないので暖房をしていないことが到着して初めて判明し急遽筋向いのホステルに交渉して泊めて頂くことになり、お陰で一行24名補助ベッドのお世話にはなりましたが、ここから始まる4泊5日の長途の巡礼を前にお蔭様でその夜はゆっくり眠ることができました。

  我々が目指す「サンティアゴ・デ・コンポーステラ」は、「ローマ」「イスラエル」と並ぶキリスト教の世界三大聖地の一つに数えられて、中世には年間50万人の人々が我々と同じ道を通ってこの地を訪れたと言うだけあって、途中巡礼路に沿ってあちこちに暖房設備は勿論、二段ベッドや自炊施設にシャワーまで整った公営の無料宿泊施設が完備し、巡礼中は持参した「寝袋」に入って二段ベッドで睡眠をとりました。計画での行程は初日「サモス」〜「ポルトマリン」(27.5キロ)、2日目「ポルトマリン」〜「パラスデレイ」(23キロ)、3日目「パラスデレイ」〜「アルスア」(28キロ)、4日目「アルスア」〜「アルカ」(17キロ)、そして最終日は「アルカ」〜「サンティアゴ」(17.5キロ)を歩き通す予定でした。文字通り村を過ぎて丘を越え野を越えて町に至る巡礼路でしたが、通り過ぎたガルシア地方の貧しく小さな村々に今も残る不似合いな程立派なロマネスク様式の教会や、巡礼路沿いの石作りの古びた農家のたたずまいにもつくづくこの国の歴史の重みを感じました。とても詳細な現地発刊の「巡礼路案内」を頼りにコースを計画し歩いたわけですが、初日の行程でこの案内書に印刷ミスがあって予定より10キロオーバーの37キロに伸びたのには多少足には自信のあった私も、「巡礼の宿」に着いたのが夜の10時近くでそれからの夕食ではさすがに少し疲れ果てました。

  道中は石の標識も完備し、石には「後何キロ」とサンティアゴ迄の距離が刻まれていて大変励みになりましたし、通り過ぎる小川には苔蒸した石造りの小さな「アーチ橋」も架けられて往時が偲ばれました。巡礼道そのものは幅員1メートル足らずの所も多くて、村の細い分かれ道など迷い易い所には登山道でよく見かけるあの黄色いペンキで書いた矢印がありましたが、日が暮れて街路灯一つ無い夜の道を懐中電灯でこの矢印を見落とさないように歩くのも大変スリルがありましたし、道中スーパーで買ったパンやハムや果物でみんなと原っぱにへたりこんで昼食をとるのもまた楽しいハイキング気分でした。

  チームの半数以上はカソリック教徒なので道中適当な場所を探し求めて毎日ミサが立てられましたし、又途中には巡礼者の為にと休憩所の施設や水飲み場もあって所によっては暖かいスープ付きの昼食を提供して呉れる所もありました。そして、こうした巡礼施設では立ち寄った証拠にと所定の用紙にその場所夫々の「記念スタンプ」が押されて、最後のサンティアゴでは巡礼路を歩き通したということで司祭さん直筆のサインが入った「巡礼証明書」まで頂いてきました。

  スペインの北部は雨の多い地方だそうですが幸い私達は好天に恵まれたものの、さすがに巡礼の最終日は朝から激しい雨となりましたが、その雨の中をゴール目指して歩き続けて夕方早くには全員無事聖地サンティアゴに到着しました。市内に入るとカメラを肩にした男女ペアーの新聞記者が私達に盛んにシャッターを切っておりました。

  当日の夜7時半から始った大聖堂での「荘厳ミサ」に参列しましたが、「日本から巡礼団がやって来た」と司祭の方の紹介があって聖堂内の最前列に私等の席まで用意して頂いたのには感激しました。堂内では高さ2メートル近くもある大香炉がドームの天井から吊るされて、それに香が炊かれると5人の修道僧によって何度も翼廊いっぱいに揺すられた時は感激も最高潮に達しました。香の煙で巡礼者の埃や汗の匂いを消す意味があるのだと後で聞きました。

  翌日の地方紙には「仏教徒がキリスト教徒に改宗・日本から巡礼団到着」との見出しで、雨の中を聖地に向かうカラー写真と共に大聖堂内で祈る私達の紹介記事が出ていたのには驚きました。このコースを個人で歩いた日本人はあったでしょうがこうして「巡礼団」として訪問したのは我々が初めてということだそうです。

  サンティアゴではやっとホステルに泊まることを得て、5日目にして漸く着のみ着のままの旅の垢を洗い流す事が出来ました。

  ここで我々の「グループ」はマドリードに直行して帰国する組と、観光しながらマドリードに戻る組の二手に別れましたが、私はこの機会にと「サモラ」〜「アビラ」を経て「マドリード」迄を特急列車と定期バスで移動しました。これらの旅は今回の主題から外れますが、「サマランカ」では同行の「写真家」が過去に学んだサマランカ大学の教授が一日半をかけて市内とその郊外を案内してくれましたし、又、最後のマドリードでは同行した「画家」が我々を宿舎のロビーに出迎えてくれて「プラド美術館」や「考古学博物館」などをガイドしてくれました。

  シベーレス広場で別れる時、「画家」にスリに気を付けるようにと注意されたその3分の後に、見事¥1,000.入りの財布を擦られたのが私の今回の旅の「フィナーレ」とはなりました。

  帰国の日、マドリード国際空港の礼拝堂で無事に今回の旅を終えたことに感謝して、しめ括りのミサが立てられました。空港内にこうした立派な「礼拝堂」が存在するのも初めて目の当たりに致しました。

 

 

  発言番号:260

    発言者  :深澤 龍一

    題名    :「憂愁のポルトガル」周遊の記

    登録日時:98/04/19 14:55

 

*プロローグ

  十数年来銀座の囲碁サロンでご指導頂いているオーミケンシの会長に、先年スペイン巡礼の話をした時に、「ポルトガルは良いですよ!」と言われたのが気になって何時か訪ねてみたいと思っていたら、この2月の始めに太田さんから話があって是非にと乗る事にした。例によっての「男同士の珍道中」である。

  今回の旅は何時もの「近ツリ」ではなくて「日本旅行」である。この会社はとても不親切で、出発の1週間前までは代金を受け取ったとも、旅行が成立したとも一向に音沙汰が無くてサービス不良を予感した。

  出発の1週間前になって、漸く太田さんの所に集合時間や現地の気候などの案内があって、然もこの旨を相棒の私に伝えよとの由。頭に来た彼は、「他にご質問は?」との添乗員の問いに、言わずもがなの「旅慣れているから質問事項など無い!」と一発かましてやったと言う。(私が居なければ独りでは一歩もホテルの外に出られない彼がである。)

  そんな事があって3月30日の9時に成田に集まった。ベテランのその添乗員に促がされて、流石に「旅慣れた」太田さんもその場で「海外傷害保険」を申し込んでいた。その合間に私は、かの添乗員に「旅慣れているなどと失礼な事を申し上げたそうで済みませんね」と謝っておいた。事実彼女は皆さんへの最初の挨拶の中で何度も「皆さんは旅慣れておられるでしょうけれど・・・」を繰り返していたから・・・。

  さて、英国航空の席は一番窓際が「旅慣れた」太田さん、その横が私で隣の席は同じ旅行の独り旅の「女性」である。離陸後私はやおら彼女に「どうぞ宜しく!」と挨拶した。  彼女(「K女史」としておこう)と話を交わすうちに次の事が判明した。

 

1.彼女は、私達が一昨年「東欧」を旅した時のグループの中のお二人と同じ「絵画サークル」に属していて、つい先日もその内の一人の方と一緒に国内を旅した事。

 

2.彼女が絵仲間とスペイン旅行に行った時のガイド役は、私がスペイン巡礼の折に一緒に巡礼路を歩き通したマドリード滞在20年の洋画家の奥さんであった事。

更に驚いた事には

 

3.彼女の住いが、私の従弟の直ぐ近くで、しかも従弟一家とは長年家族ぐるみのお付き合いを続けている事。(私はその従弟とはかれこれ30年以上もあった事はないし、当然その家などには行った事は無く、唯毎年の年賀状だけのお付き合い)

  そして彼女の年齢は今年芳紀将に「還暦」である事まで判って、お互いその「奇遇」に全く驚いた次第。

 

  ロンドンからリスボンへの乗り換え便では、通路側に件の添乗員、真ん中の席が太田さん、反対の通路側が私の席。太田さんはバツが悪いのか終始無言で目を閉じていた。彼がトイレに立ったのを機に私は添乗員の横に座って色々聞いてみた。この旅は\154,000. と格安だ。彼女の話では往復の飛行機代たけでも \100,000.は掛かるし、とても人気が高くて事実添乗員仲間でも自費で参加した人もいるくらいで、今回の我々はA班の40名とB班の30名、併せて70名の大部隊である。

  そんな事で、機中退屈だろうと発つ前に「インタネット」で取り寄せた「和文」と「英文」双方の「リスボン」案内に目を通す事も無く、午後9時半過ぎにリスボン国際空港に無事着陸した。ロンドンでもそうだったが、案の定空港内では何処からともなく日本人が「湧いて来る」という感じてある。

  因みに、我々B班は、夫婦5組、母と子2組、女同士の3人組が2組と、男同士・女同士の2人組が夫々各2組づつ、そして女の一人旅が3人の計29名の構成である。

  さあ、これから時間が止ったかの様な古き良き町並みを残すポルトガルの旅が始まる。

 

1.リスボン

  この国は「観光」に力を入れているのであろう。入国手続きは至って簡単で、審査官が「ありがとう!」と笑顔で日本語を返してきた。空港にはリスボンの観光案内まで置かれて第一印象は極めて良好である。

  ホテルの朝は準備不足で宿の位置も不明のため、恒例の散策は止めにしてロビーで絵葉書を求めた。ケースから適当に8枚を抜いて担当のウエイトレスに差し出したら「Howmany?」と聞いた。「Eight」と答えると、彼女は絵葉書の枚数も数えずに代金だけを受け取って「Thank  you!」。これもお国柄かと、やけに感心した。

  初観光の朝は「地下鉄スト」とあって、道路はマイ・カーで混んでいたが、起伏に富んだこの街の丘の上に美しい虹が架っていた。

  イベリア半島の西の端に位置するこの国の歴史は、古代原住のイベリア人に続いてフランスからケルト人、更にローマ人もやってきて6世紀頃からキリスト教が普及したが、モロッコからのモア人(イスラム教)の到来に続いての「レコン・キスタ」と、スペインと同じ歴史を辿り、スペインと似た中世的な風景とキリスト教文化が広がっていた。

  緑濃き市内の高級住宅街には各国の大使公邸が軒を連ね、町の中心を流れるテージョ川 (1000キロ先から遥々流れ、この辺りの川幅は2キロに及ぶ)の近くには、高さ3メートルもあろうかと言うとても大きなポインセチアの木が、真っ赤な花を一杯に付けて「暖かい所」だと實感した。

 

A.べレンの塔

  最初に降り立ったテージョ河畔の四角い塔で、かつてこの国が「大航海時代」に船人達が長い旅路の末にこの塔を見て、故郷に着いた安堵に胸を撫で下ろしたという。朝が早くて内部は見学できなかったので、先ずは太田さんにK女史と二人で従弟への記念の「証拠写真」のシャッターを切って貰う。

 

B.発見のモニュメント

  大航海時代を切り開いたエンリケ航海王子の没後500回忌を記念して、1960年に建てられた。王子を先頭に大きな帆の両側には海外の新天地発見に関与した航海家、地理学者、天文学者、宣教師、芸術家等が立っており、その中に王子の両親に混じって我が国にもお馴染みのバスコ・ダ・ガマやフランシスコ・ザビエルも並んでいた。(つい最近日本長期信用銀行が1頁大の新聞広告にこの像を採用していたのを見掛けた)

 

C.ジェロニモス修道院

  エンリケ航海王子が建てた礼拝堂の地に、一大海洋帝国を築いたマヌエル一世が大航海時代の偉業を記念して建てた壮大な大寺院で、繊細なゴチック様式の彫刻が実に見事で、中にはインド航路を発見したバスコ・ダ・ガマと、彼の航海を中心に謳った叙情詩「ウズ・ルジアダス」の作者で、ポルトガルの国民的詩人カモンエスの石棺が安置されていた。

 

D.サン・ペドロ・デ・アルカンタラ展望台

  街の中心部にある高台で、坂の多いこの町の中心からケーブルカーも通じている。展望台からの眺めは正面に「サン・ジョルジェ城」の城壁を望み、右手後方にはテージョ川とそれに架る長大な「4月25日橋」も眺められて、箱庭のようなここリスボンの町が誠に印象的であった。

 

E.アルファマ地区

  現代ヨーロッパの首都の一部とはとても思えない風情が漂い、洗濯物のぶら下がった狭い道路、入り組んだ町並み、小さな魚屋に八百屋や食べ物屋が軒を連ねて、中世の歴史が息づいているヨーロッパがここにあった。1755年の大地震で町の大半が破壊され、西世界で一番美しく豊かな街を廃虚にしてしまったのに、レンガ造りの建物がひしめくこの一角だけは奇しくも残ったと言う。素顔の住民や生活感が溢れていた。

 

2.シントラ

  代々王の離宮が置かれた緑豊かなおとぎの国のような町。木々に覆われた標高550Mのシントラ山の麓にあるこの小さな町は、2つのとんがり帽子の「王宮」が遠くからも目を引く。「白鳥の間」、「かささぎの間」、「紋章の間」等々華麗な装飾や家具、調度品が当時の王家の富力を思い起こさせる。山の頂には1850年に建てられた「ペーナ城」があるが、我々は王宮の入口から仰ぎ眺めただけで女性達は土産物屋を覗いていた。

  集合時刻までの間、独りで坂道を降りて行ったら横浜から来て6ヶ月近くこの国に滞在して、絵筆片手に各地を回っていると言う絵描きさんが、キャンバスにお城と小路と煉瓦造の家を描いていた。話し掛けると日本語が懐かしいのか絵筆を止めて喋り捲っていた。

 

3.ロカ岬

  何の変哲も無い岬の高台だが、ヨーロッパと言うよりも寧ろユーラシア大陸の最西端、草原の続く岬は140Mの断崖となって大西洋に落ちている。叙情詩、「ウズ・ルジアダス」の詩の一節、「ここに陸終わり、海始まる」と刻んだ碑の前で、赤い灯台と青い海とそして白い波しぶきをバックに太田さんと記念のカメラに納まる。終わって脇の郵便局に駆け込んで今朝ほど書いた絵葉書を投函する。これも最西端に足を踏み入れた記念だ。遥けくも来つるものかなとの感慨が胸をよぎる。帰りのバスの中で添乗員が観光案内所が呉れた「証明書」を配ってくれた。「太田中がヨーロッパ大陸の最西端”ここに陸終わり、海始まる”ポルトガル国シントラのロカ岬に立っている事を証する。ここには今も尚、帆船に乗って新世界を探し求めたポルトガル人の信条と冒険の精神が溢れている」と。

  今日の宿は大西洋に面したリゾート地、カスカイスの「貸し別荘」。海岸の岩に砕け散る大西洋の波しぶきが何故か凄く印象的であった。

 

4.サンタクルス

  作家の壇一雄がぶらりと訪れて「火宅の人」を執筆したと言う海岸の村。海辺には「落日を  拾いに行かむ  海の果」と彼の直筆を刻んだ碑が建ち、住んでいた煉瓦造りの家もその侭保存されていた。その前の道は「壇一雄通り」と名付けられていたが、海水浴シーズン以外に訪れるのは日本人観光客だけだそうだ。

 

5.オビドス

  海岸線に別れを告げて我々を乗せたバスはこんもりとした丘の上、「谷間の真珠」と呼ばれる城壁に囲まれた美しい町オビドスに入る。城壁の手前のサンタ・マリア教会の内部にはルネサンス時代の代表的な彫刻もあると聞いたが、昼時なのか入口に番をする少女がいて中には入れてもらえなかった。

  城門を入るとそこはこの町のメイン・ストリート、狭い道幅ながら観光客相手の土産物屋が軒を連ねる。自由行動の間、城壁に上って幅1M足らずの小道を半周する。昼食は高台にある「城」、ここは今レストランになっている。食後は反対側の城壁を一周り、見下ろす街の風景は白壁に赤屋根の家々が狭い入り組んだ路地を巡ってぎっしり立ち並び、中世にタイム・スリップした感じである。スペインのトレドやアビラとそっくりだ。遥か向こうにはイスラム時代からの古い水道橋も残されていた。歴代の王妃に愛された街で長く王妃の直轄地だったといい、将に「中世の箱庭」の感がする。

 

6.ナザレ

  再び海岸線を走ってナザレの街へ。添乗員の説明では伝統の習慣を守ってきたこの街では、民族衣装の既婚女性は短いスカートを重ね、未婚女性は長いスカートに身を包むとの事であったが、景色に見惚れて道行く人を眺める余裕はなかった。バスは街の北の外れにある断崖の上の「オ・シティオ」に上がる。ここの観光ポイントは(1)海岸線の展望、(2)ナザレ教会の礼拝堂、そして(3)小さな礼拝堂「ノッサ・セニョーラ・ダ・ナザレ」だと添乗員が夫々を指差して自由解散。ここでもナザレ教会の内部は見事だったし、白波の打ち寄せる夕暮れの海岸線の風景も見応えがあった。

 

  今日の夕食は各自勝手に街のレストランで採る事となった。早めにホテルに着いた我々は、「旅慣れた」太田さんに街の食堂を案内するよう求めた。しかし例によって彼は「君に任すよ」と言う。誠に便利な台詞である。添乗員からは詳しいメニュー迄入った地図を貰っているので、「旅慣れているのなら一度くらいは案内しろ!」と迫ったら、彼は「降参」とは言わずに「風邪気味で気分が優れないから、君独りで行ってゆっくりで良いから帰りに僕のパンとジュースでも買ってきてくれ」と来た。海外でレストラン如きに一人では入った事のない私は、内心はたと困ったがこれ以上彼を窮地に追い込む訳にも行かず、仕方なくベッドに横たわる彼を横目で見ながらホテルを出た。

  捨てる神あれば拾う神ありで、幸い10M先をかのK女史らAグループ8人の集団が歩いていたので私はこれに便乗した。人気の無い海辺のレストランは開店までに1時間の間があったが、約10人の団体さんとあって店を開けてくれた。各自夫々が日本語のメニューに従って思い思いの魚料理を注文したが、さて、各自支払いの段になって請求書が実際に皆が注文した数よりも多いのに気が付いた。誰も交渉しようとしないので、勇を鼓して私がマスターと掛け合う事にした。カウンター越しに大半は身振り手振りの折衝である。相手も納得して事無きを得たが、私の「交渉力(?)」はその場の皆さんに高く評価され感謝された。(彼らは「身振り」でなくて「口振り」で交渉したと信じているようだ)

  翌朝、独りで床を抜け出して狭い街を散策した。海辺でスケッチに余念か無いK女史にお目にかかったが、彼女からも昨夜の交渉振りを改めて感謝され冷や汗ものであった。

 

7.ポルト

  9時前にホテルを出てバスは一路「ポルトガル」発祥の地「ポルト・ワイン」の工場が並ぶポルトの町を目指す。ここはリスボンに次ぐポルトガル第二の大都市である。

  昼過ぎにドロウ川に架る「ドン・ルイス一世橋」を渡って市の中心部に入り、腹ごしらえの後ワイン工場を見学する。黒いガウンにシルクハット姿の、黒尽くめのとても奇麗なポルトガル嬢が我々を歓迎してくれる。鼻の下を長くした私は、薦められるままに20年物の「赤」を求める。これまでの旅行で土産物など滅多に買った事のない私がである。

  工場見学の後は再び市内に戻ってカセドラルやサン・フランシスコ教会を見学する。この教会は14世紀に作られたものだが、内部の天井や壁、柱の全てに彫刻が施され、更に金箔(200キロの金が使われたそうだ)が貼られていたと言う。この国の教会の建物は何処も見事である。

  翌朝、小雨降る中を太田さんと市内を散策、「サン・ベント駅」の壁面に飾られたこの国の歴史を描いたアズレージョス(この国特産の青いタイル)の壁画に見惚れた後、市のシンボル「グレリゴスの塔」の側に行く。高さ76Mの6階建でポルトガルで一番高いこの塔は、螺旋階段を登って頂上まで登と市内の美しい景色が全貌出来るそうだが、時間が早くて見学できなかった。今回の旅では朝夕の自由時間を惜しんで街を歩くツァーの仲間達に良く出会う。皆さん旅に慣れ親しんでいるようだ。

 

8.アヴェイロ

  リスボンからポルトまでとポルトガルを北上し続けた我々はボルトで反転して再び南に向かう。赤、青、黄色と色鮮やかな「コスタ・ヴェルデ」の海辺の別荘地帯を見物の後、「運河の町」アヴェイロを訪ねる。先ずトイレ休憩はアヴェイロ駅。駅舎には土地の風景や風俗を描いた絵タイル(アズレージョス)が美しい。ホームに特急列車も入ってきた。  ここでも「サン・ドミンゴス大聖堂」から町の見学が始まる。何度も修復されて11〜2世紀のロマネスク様式からゴチック〜ルネサンス〜バロック〜ロココと建築様式が混在しているそうだが、私には寧ろ十字架を背負ってサレコウベの丘に向かうキリスト像が印象的であった。インペリアル・ホテルでの昼食の後は「ジェズス修道院」である。15世紀に建てられた修道院で今世紀初め市に買い取られて美術館として保存されている。最初に案内された大理石をモザイクのように張り合わせたアフォンソ五世の娘サンタ・ジョアナの石棺の安置された部屋のほか、肖像画など彼女に縁のものが多い。

  修道院を出て、レプリカ広場から「中央運河」を眺める。カラフルな「モリセイロ」と呼ばれる舟が浮かぶ。ちょっと大袈裟だか「ポルトガルのヴェネツィア」が観光局か決めたこの町のキャッチフレーズ。

 

9.コインプラ

  とうとう本格的に雨が降り出した。バスは南下を続けてポルトガル王国最初の首都コインプラに向かう。到着後早速「コインプラ大学」を訪門。キャンパスには多くの学者像が建っていたが、その全てにマントを着せたり、覆面をさせたりして学生の悪戯が今も跡を絶たないと言う。物の本によると、ポルトガル最初の大学はリスボンに創られたが学生騒動の度毎に、コインプラに移されたり、リスボンに戻されたりを繰り返した後、1537年に此処に落ち着いたと言う。生徒の悪戯は学生騒動の名残かも知れない。

  見学した図書館には16〜18世紀に出版された本が集められ、今も学生に貸し出していると言う。高い天井に達する書架は木製だか金箔が貼られていて、各世紀毎に法学、神学、医学、薬学と分類整理されていた。

  ポルトガルの町は何処も坂が多い。此処の旧市街も道幅の狭い石段の続く道を「旧カテドラル」に向かう。この通りはポルトガル語で「背骨を壊してしまう石段の道」と名付けられていると現地のガイドさんが説明してくれた。実に急な石段が続いて足が弱い人には困ったものだが、中々趣のある石畳の道が続く。

  今日のホテルは「下町」はモンテゴ川の辺り。余り誉める事のない太田さんがホテルの窓から川と橋と街路樹と小高い丘の緑の風景を見下ろしながら「ここの眺めは最高だ」と感嘆した。夜、有志の人達は添乗員の案内で「コインプラ・ファード」を聴きに出掛けたが、余り興味の無い我々は明日に備えてホテルの窓から町の夜景を眺めるに止まった。

  翌朝の散策では市庁舎の近くの「サンタ・クルス修道院」と川向こうの「サンタ・クララ修道院」の前迄行ったが、ホテル前のモンテゴ川に架る「サンタ・クララ橋」から眺める大学の建物のある「上の町」の風景がとても美しかった。

 

10.ファティマ

  リスボンに帰る途中、聖母マリアが現れたと言う奇跡の町「ファティマ」に立ち寄る。奇跡とはあらまし以下のような事である。

  第一次大戦中の1917年5月13日、3人の羊飼いの子供が丘の上で羊の世話をしていた時に、美しい女性が現れて今後6ヶ月の間、毎月13日に現れて3人にだけ3ツの秘密を語ったと言う。その中に「間もなくこの大戦は終結する」と言うのがあって、事実その通り戦争は終わった。また、この場所に礼拝堂を建てるようにとのお告げもあったので1953年、この広大な敷地にバチカンを彷彿させる「聖地」が建設され、今はバチカン当局によっても公認されていると言う。3人の童女の内の一人は今も尚生きていて、口外できない「最後の第三の秘密」を知っていると言う。彼女が入る墓地は既にこの礼拝堂の中に設けられ、この日も多くの敬謙な信徒の祈りが絶えなかった。

 

*エピローグ

  そろそろ「送信制限」の行数にに近づいたのでこの稿も閉じねばならない。

  「聖地」を後にした我々はお昼前リスボンに戻って、市の中心にある「ロシオ広場」で添乗員から「夜の7時半にホテルのロビーに集合!」と自由解散を告げられた。「旅慣れない」私には外国の町に放り出されるなど初体験である。然も相手は自称「旅慣れた」太田さんではとてもじゃないが頼りにならないが、これも良い機会と二人で歩き出した。

  先ず腹ごしらえをと繁華街をさ迷った。太田さんは「ラーメンが食べたい」というがそんな店は見当たらない。横通りにパラソルを立てて机と椅子を並べた店の前のメニューを眺めて「オムレツ」とビールに決めた。「オーダー位やれよ!」と唆したが彼が腰を上げないので、仕方なく私が立ち上がって、マスターに無言でメニューを指差して右手で「チョキ」を出す。これで「オムレツ二人前」のオーダーが出来たと言う訳だ。

  食事の後、最初この町に来た時に眺めた「サン・ジョルジェ城」が近いので行って見ることにした。別れ際、添乗員が37番のバスに乗れと言っていたが、地図で見ると余り遠くはなさそうなので歩くことに決めていた。店のウエイトレスも確かめたら、西の方を指差して「ストレート」と英語が返ってきた。

  地図を頼りに急坂を上り、石畳の続く狭い道を裏手から周ろうとしたが、なかなかそれらしい入口が見当たらない。2〜3度土地の人に聞いたらグルーッと周れとの大きなジェスチャー。城の周りを略一回りして漸く「サンタ・ルジアの展望台」に出た。夏の日差しの中を顎を出しながらとぼとぼ歩く太田さんには気の毒だったと「もう帰ろうよ」と声をかけたら、「ここまで来たから行こうよ」との答に勇気づけられた。間もなく正門が見付かって中に入ると広々とした城内にすっかり魅了された。その起源はローマ時代以前と言われ、市内を見下ろす高台にあるこの城の城壁の上を一回りしてその絶景に感嘆。何処かの国の中年のアベックが風景を背に写真を撮っていたので、私がシャッターを切る事を申し出て彼女にもシャッターを押してもらう。言葉は出来なくても人間の意志は通じるものである。城内の ライオンの家」という建物のレストランで「自由行動」の思い出にと、フルコースのメニューからコーヒーだけをと太田さんに交渉させたが、それだけではとものの見事に玄関払いを食わされた。「嫌な事だけはワシにやらすなぁ!」と太田さん。

  城門を出た所に丁度「37番」のバスが停まっていたので急いで飛び乗る。外国で独りで乗合バスに乗るのも初体験。ロシオ広場に戻って「リベルターデ大通り」を北上し「ポンパル広場 の北の緩い傾斜地に広がる「エドゥアルド7世公園」を突き抜ける。公園の中は5月から始まる万博の準備で少し乱雑だった。

  高台からリスボンの街の全容が見える。これで私が予定していた自由行動も終わったので、最後に「旅慣れた」太田さんにタクシーを拾うように頼んだが、彼は疲れ果てて足取りが重い。仕方なくこれも私があちこち歩き回って拾う羽目になった。

  ポルトガル最後の夜は、「暗く、たくましくそして哀愁漂う調べ、ファード・ショー」を楽しむ。黒い衣装の中年女性の歌い手が入れ替わり舞台に出て、人生の重荷や海に出たまま帰らぬ恋人や夫を偲んで歌うポルトガルの民謡である。

  旅行での最後の朝、太田さんがいみじくも呟いた。「お前と一緒だと喧嘩したり宥め透かしたり、態度の切り替えが大変だよ!」と。・・・至極ご尤も!!

 

  帰国した夜、旅の疲れを癒すべく一風呂浴びている時、鎌倉の従弟から電話が入った。「将に奇遇ですね。K女史はこんな楽しかった海外旅行は初めてと興奮気味でしたよ。これは神様の巡り合わせ、この機会に是非一度お二人で遊びに来て下さいよ!」。

 

 

    発言番号:278260へのコメント)

    発言者  :太田 中

    題名    :「憂愁のポルトガル」周遊の記

    登録日時:98/04/30 22:38

 

  実を言えば、50余名のダイヤネットの中で何方か1人や2人コメントを付けて下さると期待していたが、既に海外旅行などに興味が無くなってしまったのか、深沢さんの制限一杯の長いメッセ−ジに圧倒されたのか、全く応答は見られなかった。

  今日で4月も終り、そこで遅れ馳せながら私が少々のコメントを試みたい。

 

・「男はつらいよ」の寅さん的発想

  彼と同行した海外旅行は東欧、ロシア、トルコに続き今回が4回目である。例に依って、彼が正面から詳細を極めた長文のメッセ−ジを寄せるのに対し、私が脱線と皮肉に満ちた短いコメントを送ることになるのはやむを得ない。

  よく考えると彼は映画「男はつらいよ」と同じ手法を踏んでいる。いつもの事だが、マドンナを見つけることは神業的である。それが同じツア−客である場合や添乗員やガイドである場合もあるが、押並べて美人であるか、そうでなくてもチャ−ミングでなければならない。

  映画では一流の女優が競ってこのマドンナ役を志望したそうだ。

  今回は幸運にも成田発早々の航空機の隣席にいたとは驚き入った次第。

  一方で間抜けのピエロを仕立てる。私をそれに見立てている事は説明の必要がない。映画では印刷工場の「タコ」社長と帝釈天の掃除男であろう。

  彼が若しこの映画的手法を知った上で、行動しているとすれば大監督の計算された自作自演と言うことになるし、知らずに動いているとすれば、優れた関西的処世術を遺憾なく発揮していると言うべきであろう。

  何れにしても、「寅さん」の如くやがてマドンナに去られ、傷心を懐いて旅に出かけることになるであろうし、そして早晩ピエロは自分だつたと気付くのだが・・・

  メッセ−ジ面に戻ろう。そのマドンナ礼賛や関りの説明に要した行数は全部で23行、ビエロつまり私を上げたり、下げたりした部分が38行であった。

  マドンナ部分は彼が固く信じているのだから、私が今更横から口を出すのは野暮な事だが、ピエロ役についてはこの儘放って置くと、ご存じない方は本当だと思う心配があるので、少々弁解させて戴こう。私の名誉の為にも。

 

・「私がいなければ独りでは一歩もホテルの外に出られない彼がである」何と天を恐れぬ罰当りの発言であろう。海外旅行20余回のベテランに奉る言葉か。始めの頃は私の分も市内地図をコピ−して来たが、この頃は自分の分だけ、言わば情報を独占していてこの生意気な言草は許せない。日本の官僚より酷い所業だ。私は妻と行った時、他の友人と行った時などちゃんと案内して土産物の交渉から現地料理まで食べさせているのだ。

 

・ロンドンからリスボンへの航空機の中で添乗員の隣にいながら終始無言で目を閉じていた−誤解も甚だしい。言っている筈だ。

  運悪くロンドン到着前義歯の具合が悪くなって針金が飛び出し舌に当って泣きだしたい位だつたことを。彼が彼女と旅行代金の話をしている間、こちらはトイレの中で針金を押したり引いたり曲げたり四苦八苦してちぎっていたのだ。

 

・彼は「降参」と言わずに「風邪気味で気分が優れないから、君独りで行って・・・」夕食の案内が嫌だから仮病を使ったとは許せない侮辱だ。その日、彼は私がバスの中で終始居眠りしているのを見て風邪のことは認めている筈。風邪のことは帰って来て直送った巌さんへのメ−ルにも書いてあるから厳然たる証拠である。

 

  以上、彼の周遊記に苦情を言ってしまつたが、他意は無い。私の名誉回復を少々試みただけ。

  彼だって悪気は無い。あの長い紀行文を書いてサ−ビスするなんて、なかなか出来ないこと。彼のインタ−テイメント精神には頭の下がる思いだ。

 

・「白鳥の湖」の中の黒鳥

  深沢さんは女流画家のK女史についてはマドンナとして下にも置かない扱いだった。確かに魅力的で60歳の年齢を感じさせない女性である。

  反対にN女史についてはどうだろう。彼は今度の長いメッセ-ジの中で一言も触れていないばかりか、旅行中も彼女を敬遠していたようだ。一行全員が皆そんな風に感じていたと思う。

  K女史が白鳥ならばN女史は舞台一杯を荒れ狂う黒鳥と言うことになろうか。

  歳は60代半ば、150センチ40キロにも満たず化粧もしない。笑顔などしたことがない。朝食は皆が引き上げる頃来る。どうせバイキングだから何時来てもいいようなものだが。

  出発のバスが来ると、皆10分以上も前に乗って待っているが、彼女はギリギリか2−3分遅れて小さな体に3−4個の荷物を持って乗って来る。

  とうとう恐れていた最悪の事態が訪れた。帰国便に乗るため、コインブラからリスボンに戻るバスがホテルを出発した後、突然、後方の座席で彼女が「パスポ−トをホテルに忘れた」と騒ぎだした。皆不満だつたが出発直後だったので30分程の遅れで事無きを得た。2−3時間遅れていたらどうなったか寒気がした。

  その他やりたい放題のことをやっていたが、それらは省略してその正体を話そう。

  食事の際、私は彼女の隣に2−3度座ったことがある。その時の会話のやりとりは長くなるのでやめるが、なかなか正体を現さない彼女にとうとう署名させることに成功した。

  東京に帰ってから、図書館で色々調べた結果判ったことは、某大学教授、スコットランド、エジンバラの近郊にある某大学修士、毎年オックスフォ−ド、ケンブリッジの図書館に勉強に行っていると言うが両大学とは関係無し。箔付けの為で日本人の形式主義である。兎に角珍しい性格の人間がいるものだ。

  深沢さんのメッセ−ジに無くもがなのコメントを付けてしまいましたが、旅の友に免じてお許し下さい。

 

 

    発言番号:279260へのコメント)

    発言者  :村瀬敏哉

    題名    :「憂愁のポルトガル」周遊の記

    登録日時: 98/05/01 10:39

 

 太田さんから催促があったからでは有りませんが私も20数年前にポルトガルに行ってますので 思い出しながらコメントを入れます。その頃は三菱油化の貿易部長をしておりまして仕事がら2ヶ月に1度位のペースで海外に出かけてました。唯昨年来記載して居ります様に仕事での出張の為?物見遊山は殆ど出来ずその埋め合わせで最近の海外旅行をして居る状況です。

 さてポルトガルの出張の目的は合成樹脂の輸出に関しての日本とヨーロッパのメーカーのunder table meetingにありポリエチレン、ポリプロピレンそれぞれの両業界が毎年東南アジア ヨーロッパに集合し価格 輸出数量に就いて話合うための会議です。従ってロンドン パリ或いは東京で開催する事は出来ず例えばヨーロッパならリスボン チュニス(これはアフリカです)アテネ、ゴットランド(バルト海にあるスエーデンの離れ島)東南アジアであればバリ、台北、ペナン等といった場所で2〜3日会議をしました。ヨーロッパの連中は何れも夫人同伴でイタ公などは子供まで連れてきてました。日本の場合は国の或いは会社の規定で何れも本人だけ この辺にも何か国としての後進性を感じました。(この種の集まりは当然行取法に触れると思いますがもう時効でしょう)

 ポルトガルもそういった事でリスボンとロト岬の間位にあった名前は忘れましたが小さなホテルにかんずめで殆ど観光はしておりません。深沢連と共通の場所は従ってロト岬位で私も此処を訪ねた証明書は貰ってきております。

 川辺の発見のモニュメントは見た記憶が有ります。後は会合の終わったよるリスボンに泊まり一人で街をあるき若いアベックをつかまえてファドを聞きたいと頼み此方のおごりで店に行った位です。何分20年以上前の事であまり覚えておりません。

 今回御両名が行かれるに当たって 1.スペインの隣国で有りながら美人は居ませんよ。 2.コルクを産出している位であまり見るところは有りませんよ。との先入観を植え付けましたが 1 に就いてはご同意頂けたかと思います。2 は私の出張の目的に忠実であった為の市場調査不足とお許し下さい。以上

 

 

    発言番号:281279へのコメント)

    発言者  :巖 隆吉

    題名    :「憂愁のポルトガル」周遊の記

    登録日時:98/05/01 17:43

 

  深沢さんの周遊記と太田さんと村瀬さんのコメントを詳しく拝見しました。何しろ名文の大作に圧倒されたのみならず、私自身ポルトガルに行ったこともなくコメントする余地はありませんでした。

  しかし、その後のコメントを見ますとK女史とN女史のことは全く面白いですね。それにしても深沢さんはK女史のような人を見つける天才で、太田さんのN女史についての観察もさすが見事ですね。

  更に太田さんが殿様然として全く動かなかったのは、風邪と歯のせいだったとはうなずけます。今回の旅では「旅慣れた」太田さんも一寸元気が出なかったのでしょうか...。

  この次の旅では、太田さんも是非高級レストランを案内して名誉回復を計るのも一案でしょうね。

  ともかく私は皆さんが行かれた、ユーラシア大陸の最西端のロス岬には是非行って見たいなという思いにかられました。

  詳しい紀行文とコメントに感謝しつつ敢えてコメントを入れます。