9.英国−インク゚ランドスコットランド

 

 

    発言番号:489

    発言者  :深澤 龍一

    題名    :「英国紀行」(その1・・・スコットランド)

    登録日時:98/11/18 07:33

 

  〜これは10日間を共に過した彼女らに贈る「旅の記録」です〜

  一昨年の「東欧」旅行の後も「又一緒に行こう」と度々集った11人の仲間の中から、昨年の「トルコ」には唯一の「ご夫婦」が脱落、今回は更に70代の女性3名が不参加となったが、去年から約束していた仲間達との海外旅行が今年も実現し、10月21日に「イングランド・スコットランド」へと旅立った。男2人と女4人の混成チームである。

  幸い機内は物凄く空いていて、我々6人は離陸後席を移動して左右には分かれたが、夫々に並んで窓際を占領すると言うゆったりした旅であった。この日は仲間の ピアノの先生」が54才の誕生日を迎えて、お祝いにとブリティッシュ・エァウェイズのクルー達からの寄せ書きの色紙と「白ワイン5本」を頂いて彼女は至極上機嫌の旅立ちである。

 

A.スコットランド

a.エジンバラ

 ロンドンから飛行機を乗り継いで最初に降り立ったここはスコットランドの首都。成田を発って乗り継ぎ時間を含めると実に16時間振りの地上である。午後10時前にホテルに着く。

  皆さんは朝の散歩がお楽しみなので、翌日朝食後から出発までの僅かの時間、地図を片手にホテル近くのクィーズフェリー通りを歩く。

  現地のガイドさんの話ではイギリスはメキシコ暖流の影響で緯度の割には温暖で、特にこの辺りはスコットランドの中でも「ローランド」と称して北の「ハイランド」の様に雪に覆われることも少ないという。街はビクトリア時代からの建物も多くて歴史を感じさせる。今を時めくブレア首相が学んだというフェティス・カレッジの尖塔がバスの窓から眺められた。250年続くという古い家並みは、光線の取り入れを考えて窓が多く、又玄関前の鉄索に「泥落し」が印象的であった。何でも街を歩いて踏みつけた犬の糞を、これで靴の裏をこすり付けて擦り落すのだという。メイン・ストリートに面して鉄囲いが施錠されて、出資者だけしか入れないという広い「プライベート・ガーデン」もあって、今に残るこの国の階級社会の名残を垣間見る思いがした。ウォルター・スコットやアーサー・コナンドイルもこの街の出身で、シャーロック・ホームズの銅像が得意のポーズで道行く人を見下ろしていた。

 

◎ホーリールード宮殿

 バッキンガムやウインザーと共に「三大宮殿」の一に数えられ、王室使用時以外は見学できる。スコットランド史に残る悲劇の女王、Queen-Maryが陰惨な政争に巻き込まれたのもこの宮殿であるが、この女王こそ現皇室の流れの始祖だそうだ。正面の噴水は市の財政上、エリザベス王女ご滞在の時にしか水を出さないらしい。城の外壁にはイングランドとスコットランドを象徴するレリーフが2枚別々に嵌め込まれていた。宮殿の背後は広々とした公園が広がる。

 

◎エジンバラ城

 街の中心に位置するこの城は6世紀に砦が作られたという。自然の地形を巧みに取り入れた山城で、見学している間も北海から吹き抜ける風が冷たい。これ程迄に堅固な城を築いた背景には1707年にスコットランドがイングランドに併合される迄続いた両王国の激しい抗争の歴史がある。そして今も猶スコットランド地方を旅していると水色地に白のX印の入ったスコットランドの旗が矢鱈と目に付いてユニオンジャックは余り見かけなかった。スコットランドでしか通用しない紙幣があるから、釣り銭を貰う時は「 English-note please!」と言いなさいとガイドが話してくれた。

  展望台に立つと北海に接した街並が美しかった。優美な曲線を海面に落す「フォース・ブリッジ」を右に見ながら、バスはフォース川を渡って時速100K以上のスピードで北に向う。パース(名門セント・アンドリュース・ゴルフ場はここから東に折れて北海に出た所)を過ぎて名産品「スコッチ・ウィスキー」のブレア・アソル蒸留所を見学。この辺りを流れるタイ川の軟水と、蒸留の際に用いるこの土地の泥炭がウィスキー作りに極めて適しているとの説明であった。古い建物に絡まった「ツタ」の赤がとても鮮やかで、この地方には「サントリー」や「ニッカ」が買収したという蒸留所も点在していた。

  インバネスへの途次、アソル公爵家の歴史に満ちたスコットランドの居城ブレア城に立寄る。起伏に富んだ美しく広大な敷地に120年前に建てられたこの城の一角には、今もその子孫が住んでいて往時の華麗な生活を偲ばせる家具や調度を並べて「入場料」を取ると言う訳だ。

  この辺りは秋も深く、黄葉が目に染みて美しくて、遥か彼方の山は少し雪を被っていた。あちこちには顔の黒い羊「Scotish black face」の姿も見られる。

  暗くなってからホテルに着いた。夕食の後で隣りのテーブルのご夫人に「バースデー・ケーキ」のサービス。私達もお相伴に預かる。

 

b.インバネス

 ネッシーでその名を知られたネス湖から流れ出る「ネス川の河口」(「インバ」はスコットランド語で河口の意)を意味するこの街は今回の旅の北の果て、緯度では樺太の北端より更に北。私達が旅立つ1ヶ月近く前にロンドン近郊でボランティア活動をされた「ダイヤ・ネットワーク」の浅沼総子さんから、「英国はとても寒いから手袋やマフラーを忘れないように・・・」と教えられていたが、幸い訪れた日は雪も降らずに比較的暖かかった。朝の散歩でネス川を見下ろす小高い丘に建てられた「インバネス城」(現在は市庁舎)を訪ねる。1834年から12年の歳月を掛けて完成されたこの城は、それ以前は要塞が築かれていたが、スコットランド独立戦争の際、スコットランドのチャーリー王子の攻撃で破壊されたという。城の遊歩道には王子の銅像が立っていた。ネス川の辺を皆で一回りして宿に戻る。夏時間も終りに近く朝はとても暗い。

 

◎ネス湖

 今日は今回の旅で一番景観の美しい景勝の地を一気にグラスゴーへと下る。途中「ネス湖」にはネッシーの模型の前で皆さん思い思いにシャッターを切っていた。

  この辺りから湖が続くが、幅1.6キロ、長さ40キロ、深さ300Mと細長いこのネス湖を底部とした深いV字渓谷が続いて、国道の片側は切り立った崖が連なって、黄葉の美しい山裾と湖の境をくねりながら我々の乗ったバスは晩秋の「ハイランド」をひた走る。

 

◎アーカート城

 国道から石段を降りた湖岸に「・・・かの有名なアーカート城、その大部分は廃虚と化したが、今尚人々に深い感慨を与える」その城が荒涼たる姿を見せる。城の展望台からはネス湖北部が一望できて、その素晴らしい眺めを満喫した。しかし、こんな処にも土産物屋とは全くの興醒めである。

  この辺りからを「グレート・グレン」と称し、グレンとはスコットランド語で峡谷を意味するから、ここは将にスコットランドの「グランド・キャニオン」である。氷河が刻んだ自然の渓谷で南の「カレドニア運河」からネス湖に沿ってハイランドの北部に抜ける自然の回廊となっている。カレドニア運河を観光船がネス湖に向っていた。

  バスを止めて車窓から1000年前に作られ今も残る「インバーモルソンの石橋」を眺めた後、とても景色が良いからと再び運転手の計らいで暫らくバスを降りて大西洋に通じる運河を見学する。幅5m程度ながら、パナマ運河の様に小型観光船が順番に仕切られた5つのダムを階段状に登っていく訳である。周りの景色からお伽の国に来たような気分にさせてくれた。

  峡谷の外れの街「フォート・ウイリアム」で昼食。(チキン料理で余り美味しくなかったが・・・)食後、女達は「お買物」に忙しい。

 

◎グレン・コー

 コー川に沿った渓谷を意味し、両側から山が迫って西部劇に出てくるような風景が延々20キロも続いて、スコットランド一の景観を誇っている。この地方の人々にとって「グレン・コー」の響きが特別の意味を持つのは、イングランド王ウィリアムに抵抗したマクドナルド一族が全員虐殺された歴史の現場であるからという。(ここでも車を停めて暫しの「カメラ休憩」)

  窓外に見える三角の山はイングランド・スコットランドの最高峰「ベンネビス」(標高1344M・・ベンは山の意)。やがてバスは右に折れ、南に向ってグラスゴーを目指す。

 

◎ロッホ・ローモンド

 ロッホとは「湖」の意で、英国一の大きな湖の辺り、遊覧船の港もある小さな村ターベットの入口にバスを停めて村を通って湖岸に出る。「居た、居た!」と添乗員の声。彼女の指差す方に「High-land Arts Studios Open」と書かれた小さい立看板の傍で、中年の男性が「バグパイプ」を奏でていた。一緒に記念撮影をしてチップを取ると言う算段だ。

  ベン・ローモンド(標高974M)を過ぎた辺りから対岸の山は低くなる。文字通り「ローランド」だ。

 

c.グラスゴー

 スコットランド一の人口を誇る大都会。着いたのはこの日も夕方近くで、グラスゴー大学やケルビングローブ博物館を車窓から眺めた後、一寸下車して「大聖堂」周りを歩く。産業・経済の中心だが見るものは少ない。夕食の時、この日もツァーのメンバーの誕生日でホテルから特製の大きな「ケーキ」が出て、グループの皆さんに振舞われた。今日で3日連続の誕生日、こんな事は珍しい。食後、皆さんを引き連れて繁華街を歩いたが、8時前というのに既に殆どの店は閉ざされていた。それでも女性達は「カレンダー」とか「本」などを買い漁っていた。(これに付き合うのが又大変!荷物を持たされ、店員との「通訳」もやらされるのだから・・・)

  翌朝恒例の朝の散策も雨に祟られて、ホテル前の市の中心「ジョージ・スクェア」を一回りしただけ。雨の中を市民達は傘もささずに小走りに職場へと急ぐ。この日、スコットランドの北部は気温5度の由。

 

◎グレトナ・グリーン

 スコットランドとイングランドの国境の小さな街、その昔、「駆け込み結婚式場」になった教会があるそうだがその前に大きな土産物屋が立ちはだかって、そちらの方に目を奪われて仲間達でこの教会を訪ねた人はいなかったようだ。

  街の外れに「Last House of Scotland」、そして「国境?」を越えると「Welcome to England」とあった。「国旗」といい「紙幣」と言い矢張りスコットランドの人にはイングランドは異国なのかも知れない。人種的にも南方のアングロサクソン系に対してこちらはケルト系で、体格も大柄で風貌も何処か異なっている。何せ「United-Kingdom」なのだから・・・。

 

 

    発言番号:490

    発言者  :深澤 龍一

    題名    :「英国紀行」(その2・・イングランド)

    登録日時: 98/11/18 07:36

 

B.イングランド

  雨の中、バスはペンーリスを経由して愈々イングランドの中では最も景色の美しい事で知られる「湖水地方」に入る。今年は雨が多くて湖水の水位が可成り上がって、運転手もこんな光景は初めて見たと驚いていた。この辺りは「ランカシヤー国立公園」の中だそうだが、イングランドの低湿地帯で、周りを取り囲む峯の頂きから幾筋もの水が沢となって流れ落ち、羊毛産業の盛んなこの地方ながら、麓の牧場には水がひたひたと押し寄せて、羊達は降りしきる雨を避けて木陰に屯していた。

 

◎グラズミア

 湖の北に位置するリゾート地で、詩人ワーズワースが一生を終えた所。「ワーズワース・トラスト」が彼の住居や一家の墓地を管理していた。小雨の中、聖オズワルド教会を見学する。

 

◎ウィンダーミア

 この地方の中心地で湖畔にはホテルや土産物屋が軒を連ね、遊覧船も走って行楽客で可成り混んでいた。自由時間の終り頃に物凄い豪雨。「シャワー」と呼ぶのだそうで英国の天気は本当に急変する。こちらの人は少々の雨では傘もささずにフードを被る。

  この日のホテルは茲から少し離れたペンーリスの町外れ、翌朝は快晴で皆でホテルの周辺に出る。広々とした起伏に富んだ丘陵地帯が何処までも続いて「イングランド」に来ているという実感を噛み締める。こんな田舎町にも一寸した原っぱにはラグビーの白いゴール・ポストが幾つも立って流石にラグビー王国と感心させられた。

  早めにホテルを出てグラズミアに戻り、昨日雨漏りの為見学できなかった「ダブ・コテージ」(「鳩小屋」の意・・・ワーズワースの住居)を見学する。途中の牧場で「牧羊犬」がたった一匹だけで7〜80頭もの羊を追い駆けながら巧みに「誘導」している光景を見た。辺りに人影はなくワンちゃんの余りにも見事な「羊裁き」に運転手も思わず暫しバスのブレーキを踏んでいた。 

 

◎ホークスヘッド

 ウィンダミア湖の対岸に位置して、かの「ピーター・ラビット」(三菱信託銀行のイメージ・キャラクター)の故郷である。ビクトリア・ポター(ピーター・ラビットの創作者)ギャラリーには彼女の若い頃からの動物画も展示され、彼女の「絵手紙」から、かのピーター・ラビットは生まれたという。彼女が買い集めた4250エーカーの土地と14のコテージが今ナショナル・トラスト(現在では全部で60万エーカーの土地を管理)の管理下に置かれている。

  作家としてよりも寧ろ牧羊業者ヒーリス夫人として知られる事を好んだ彼女が、多くの時間を過したという近くの「ヒル・トップ農場」の見学も、ギャラリーと同様に予約制で、「時間厳守」がとてもやかましいと添乗員がこぼしていた。成る程入場券にはギャラリーと同様に「貴方の入場は11時35分」と入場する時間まで刻してあって、添乗員の話では遅れると入れてくれない旅行社泣かせの場所だそうだ。

  少し遅い昼食の後は高速道路を一路南下して、次の訪問地「チェスター」を目指す。さすがにランカシャー地方、左右に大草原が何処までも続いて多くの羊が戯れていた。郊外の広々とした起伏に富んだ豊かな自然、それが英国だなとしみじみ思う。

 

a.チェスター

 この町の歴史は大変古くてローマの時代に溯るが、町に着いたら既に夕闇が迫っていた。早速大聖堂に入る。12世紀から残る回廊を通って聖堂内部の聖書から題材を採ったモザイクの壁画や聖歌隊席の見事な木彫に素人の私ですら目を奪われた。

  皆で旧市街を取り巻く南北1キロ、東西500Mの小ジンマリした旧城壁の上を歩く。木骨が白い壁に映えるチューダー朝期の古い家並みが続いてシックで落着いた町の雰囲気を醸し出していた。東門には100年前に作られたという瀟洒な時計台が今も正確に時を刻んでいた。

  この町をゆっくり散策するのを今回の旅の楽しみの一つにしていたのに、今日の宿も郊外でそれが叶わなかったのがとても心残りとなった。

  ミッド・ランドに入って旅も愈々終りに近付いてきた。私には時間が勿体無いが、ウェッジウッドの工場に立ち寄ってから、更にストーク・オン・トレントで昼食の後、「ストラトフォード・アポン・エイボン」に入る。

 

b.ストラトフォード・アポン・エイボン

 シェクスピァが生涯の大半を過したという周囲1キロ程度の狭いこの街は、劇場あり、レストランありスーパーありで可成り観光地化されて、定期観光バスも走って、又街を流れる運河には遊覧船も浮かんでいた。

 

◎ホーリー・トリニティー教会

 エイボン川の畔に佇むこの教会はシェクスピァの墓標のある事で知られ、文豪は今もここに愛妻アンや娘スザンナとその夫と共に永遠の眠りについている。

  その後、シェクスピアの生家を訪れて当時の典型的な中産階級の住宅とその時代の暮しぶりを偲んだあと、夕暮れの美しいこの町で暫しの自由行動。

  旅も茲まで来ると皆疲れてきて、我々のメンバーもそろそろバラバラに行動し始めた。今夜は食事がないので別れ際に皆さんにどうするのかと聞いたら、彼女らが「たまにはテイク・アウトしてホテルの一部屋に集って一緒にお話しながら食べましょう」と言う。「じゃあ僕の分も一緒に買って来てよ!」と頼んだが、それは彼女らから体好く断られた。

  自由時間は6人のうち3人は夫々単独で狭い街を歩くことになった。私は何時も歩いて出来るだけ多くを見てやろうと言う訳だから、添乗員に町の概略を聞いて先ず先程見た運河に出る。信号待ちの間地図を眺めていたら、中年の女性が近付いてきて微笑みながら「何処へ行くのですか?」と聞いてくれたようだが、勿論聞き取れないし喋れないので、唯ニッコリと笑って見せただけ。運河の傍の公園に聳えるシェクスピア像の四隅に配した彫刻には、夫々に「 FAL.STAFF」、「 PRINCE HALL」、「LADY MACBETH」、そして「HALET」と読めたが・・・。

  暗くなった頃、ピアノの先生と二人で夜道を歩く太田さんに出合う。太田さんが「ハーバード大学創設者」の母キャサリンさんの生家を是非訪ねたいというので暗い街を捜し歩く。途中夕食にと私は「サンドイッチ」の立看板のある小さな店に入り、太田さんはお馴染みの「マクドナルド・ハンバーガー」である。

  ホテルに着いて我々の部屋に集った女性方の仕入れた食事は、サラダにフルーツ、ハムにジュースと流石バラェティーに富んでいた。

  話題は明後日に迫ったロンドンの自由時間をどう歩くかということである。ホテルの位置もグリニッチ天文台からテームズ川を隔てた辺りと添乗員から聞いたので、私が切り出して「ロンドン塔」を振り出しに、テームズ河畔をウエストミンスター寺院に向って歩けるだけ歩こうと提案した。直線距離で6キロと言ったら、「そんなに歩けない」と言い出す人も出て喧々諤々、皆の意見が纏まらないまま、「今夜はこれ迄にして、皆さんもう遅いから明日もう一度皆で考え直しましょう」と言うことになった。 

  このホテルも町外れ、次の日は最初にシェクスピアが毎日のように通ったという市街から2キロ程離れた小さな村ショッテリーに立寄る。

 

◎アン・ハサウェイの家

 黄葉の美しい田園の中に佇む茅葺きのこの家はシェクスピアの妻アンの住んでいた所。1582年、18才のシェクスピアが26才のアンと結婚し、6ヶ月後に長女が生まれているそうだ。周囲の田園風景がとても印象的であった。

 

◎コッツウォルズ地方

 イングランドの旅も終りに近付いて、今日はコッツウォルズ山脈の山懐に抱かれた小さい村を訪ねる。雨のしとしと降る中を村の中央を小さな小川が流れる箱庭のようなこの村がやけに印象的であった。傘をさしながら最後は太田さんと二人だけで村の外れまでを歩く。こういう片田舎にイギリスの本当の良さを発見した今回の旅でもあった。

 

c.オックスフォード

 今回の旅は移動時間が長くて見物している時間が少なく、且目的地に着いた時は大抵既に夕陽が傾いて只忙しく廻っただけだったので、この旅の記録も思うようにキーを叩けない。ここイギリス最古の学園都市も大急ぎで幾つかのカレッジを見て歩く。皇太子の学んだマートン校にも立ち寄ったが、「皇太子は人柄が良い」と今でも評判がいいそうだ。

  自由時間に三人で大急ぎで「駅」の方まで歩いて見る。途中太田さんがトイレに寄るから先に行ってくれと言う。仲間の絵描きさんと二人で暫らく歩き出しが、彼一人をここに置いた侭にするのは私も流石に気がひけて忍び難く、引き返して彼の姿を求めたら何とビルの陰での「立ち小便」とは畏れ入った。

  第四コーナーを廻って愈々ロンドンに入る。最初からズーッとこのバスを運転してくれた人の良いドライバーさんとも今日でお別れ。添乗員さんとのコンビ宜しく各所で車を停めてくれたり、予定外の所を見せてくれたりととても良くして貰ったので、皆で何がしかのお礼のカンパを集めようという事になり私にその係が廻ってきた。夕食のロンドンの中華料理屋で数えたら100ポンド近くの「浄財」が集ったので、食事中に皆さんにその旨を報告したら「端数を出すから丁度にして下さい」と申し出てくれるご夫人のグループも現れた。ご好意だけを頂いて添乗員に我々の趣旨を話して、彼に渡してくれるようにと頼んだが、「ブロークンで良いからお客さんから直接彼に手渡した方が喜ぶ」と彼女は言う。

  仕方なく車がホテルの前に着いた時、太田さんと中華料理を突付きながら考えておいた「謝辞」を述べて手渡した。バスを降りる時、私の手を握りながら彼は言った。「Very nice speech!」(?) お世辞とは解っていても、そう言われて悪い気はしない。

 

 

    発言番号:491

    発言者  :深澤 龍一

    題名    :英国紀行(その3・・・ロンドン)

    登録日時:98/11/18 07:41

 

d.ロンドン

 帰国の前日は丸一日の自由行動である。これまでの話合いで、皆は私の案内に従うこととなった。最初の見学先「ロンドン塔」の開門時刻に間に合うようにとホテルを出てドックランド鉄道の駅に向う。プラットフォームで同行の夫婦連れと一緒になって「旅は道連れ」と同じコースを目指す。途中の乗換駅で電車を間違えて着いた駅が「Bank」。一度戻って乗り換える迄もないと皆で「塔」迄の約1キロを歩く事にした。塔内を見学の後、「タワー・ブリッジ」も見学することになったが、女達は1キロ歩いただけで、ここの次は地下鉄に乗って「バッキンガム宮殿」に行くという件の夫婦連れと行動を共にすると言い出した。「反乱」の始まりである。

  前夜、太田さんは「小遣い」が無くなったので、私が20ポンドを高いレートで売り付けたが、イギリス各地の入場料は何処も高くて、ここロンドン塔では9.5ポンドをとられ、今又ブリッジで4.5ポンド取られたのでは、彼の今日の懐が持たないと即断した私は、「君は一度来たことのある処だから橋の向うで待っててくれ!」と勧告して別れた。

  所がである。この橋の見学が途中で10分余りのビデオを2回も見せられたり、リフトが客か一杯になるまで動かなかったりして予想外に時間を食ってしまった。どうせ女性達と別行動ならこんな処で時間を費やすのは勿体無いと、私は独りグループを離れてビデオも見ずにトコトコ先を急いだ。塔の向うで下に降りようとしたが係の黒い顔のお嬢さんがリフトでないと降りられないという。暫く待っていたがどうやら客が集らないとリフトは迎えに来ないらしい。「友達がこの下で待っているから」と頼んで漸くの事で電話で迎えのリフトを寄越して貰ったが、その時は既に彼と別れてから40分近くが過ぎていた。

  タワーを出たが案の定彼の姿は何処にも彼の姿は見当らない。テームズ川を吹き抜ける秋の風はやけに冷たく、とてもじゃないがこんな処に長くいられたものではない。「旅慣れた」太田さんのこと、きっと独りで歩き始めたに違いないとその後を追い駆けることにした。

  The Queen's Walk」と名付けられたこの遊歩道はなかなか快適で、前方対岸には「セント・ポール寺院」のドーム、後ろを振り返ると先程の「タワー・ブリッジ」が青空を背にしてくっきりと聳えて素晴らしい眺めである。

  相当のピッチで歩いたが何処まで歩いても彼の姿は見当らない。彼や彼女達と一緒ならとてもじゃないがこんなスピードでは歩けないと、心密かに「快哉」を叫んではみたものの、良く良く考えると地図も持たない彼がそんなに遠くまで歩ける訳がないと少し心配になってきた。雲行きも怪しくなってきたので、今朝のロビーで「12時に三越の裏門前に立っているから」と言ってくれた添乗員を頼りに、「チャリング・クロス駅」に架る鉄道橋を渡ってピカデリー・サーカスに出た。

  時計は12時を15分ほど廻っていたので、三越の前には知った人の顔はなかった。此処まで異国の知らない街を地図を頼りに1時間に5キロは歩いた計算になる。

  最早これまでと諦めて、「ペル・メル」の銀杏並木を真っ直ぐにバッキンガム宮殿に向う。既に1時を過ぎていたので「セント・ジェームス公園」の屋台にサンドイッチを見付けて、池の傍のベンチに腰掛けての腹拵えである。鳩が7〜8羽足元に近寄ってきたので、パンの3分の1は彼等の餌となったのも懐かしい思い出である。公園を出てウエストミンスター寺院に向おうとしたら、官庁街に一寸した人の列を見た。

 標識に「The Cabinet War Room」とあって、その裏側に「The underground headquauter used by Winston Churchill and British Government durling the Second World War」とあった。「旧敵国人」として流石の私も聊か逡巡したが入場料を払って中に入ってみる事にした。1939年から終戦までチャーチルらが閣議を取り仕切った部屋や彼の寝室、通信室から地図室等々広々とした地下壕が広がって今も尚大切に保存されているのである。入口で説明用のイヤホーンを勧められたが「日本語はない」と受付けの人はにっこりした。戦後50年を過ぎた今でも猶、若い人や女性子供を含む大勢のイギリス人が一々立ち止まって、イヤホーンを耳に真剣な面持ちで各部屋の説明に聞き入っているのには驚いた。彼等にとっては今でもヒトラーのあのロンドン空爆は忘れられないし、チャーチルは矢張りイギリス人が尊敬する英雄だなと痛感させられた。

  ウエストミンスター寺院の中でも旅の仲間に出合った。国会議事堂の前では、昨日私に運転手へのお礼の件を持ち掛けられたご夫婦にも出会った。ご主人が、「1時間ほど前にピアノの先生達に宮殿の辺りでお会いましたよ」と。皆行く所は同じである。

  「ウエストミンスター橋」を渡って更に河畔の散策路を南に下る。新婚旅行らしい日本人が2組、幸せそうにビッグ・ベンをバックに橋の袂で写真を撮り合っていた。私もシャッターを切ってもらおうかと少し思案した思い止まった。

  繁華街は歩いても詰まらないと、ここでウエストミンスター駅から地下鉄で大英博物館に向う。太田さんが「博物館を見るか?」と言っていた事を思い出し、会えるかも・・・と期待したからであるが、あの広い館内で彼を捜すのは不可能と閉館の30分前に門を出た。近くで又々サンドイッチの看板を見つけて、小さな店の中に腰を下ろしてのお粗末な「夕食」である。隣りの席の田舎紳士に「博物館でしたか?」と話し掛けられたが、残念ながらそれ以上の会話は出来ない。

  店を出て地下鉄駅に向う。途中日本人らしいうら若き女性が現地の人に「駅は何処か?」と聞いているのを耳にしたので、彼女を待って「地下鉄ですか?」と勿論日本語で話し掛けてみる。半日以上見知らぬ町を無言で歩いているのでとても喋りたくなったからだ。彼女も同じらしくて駅までの僅かの時間に、一人旅をしている事、4日に来たがロンドンは今日初めてお天気だった事、そして未だ開いている美術館があるのでこれからそこに廻る事などを話してくれた。彼女も矢張り思い切り「日本語」が喋りたかったのだろう。

  朝のドックランド鉄道への乗換駅で仲間の女性達と再会する。私は切符を買い足すために、「Bank」のプラットフォームで彼等と別れて切符売場に引き返した。でも、ホテル近くの駅に降りたが集札は無かったので、乗越しても良かったのかなとは思ったが・・。

  ホテルのロビーでは、太田さんが彼女らと引率してくれたご夫婦とで頬を紅潮させながら至極ご機嫌で歓談していた。その旦那様が私の顔を見るなり開口一番、「切符を買いに戻ったのは正解、車内で検札に来ましたよ!」と。問題の太田さんはどうやら私より10分ほど遅くまで橋の辺りをうろついていたらしいが、私がなかなか来ないので、「さては深澤の奴め、ワシを裏切って女達と一緒に行ったな!」と半信半疑で、橋の向う岸ならぬ真ん中の辺りを行ったり来たりしていたらしい。

  それから諦めてロンドンの金融の中心地、「シティー」を隈なく歩いて資本主義の将来を垣間見た思いと得々と皆に話していたという訳だ。彼女達は余り歩かずにあちこちを見、太田さんは新しい見聞を広め、そして私は予定通りの「ロンドン・ウォーキング」が出来て、万事「結果オーライ」と言う事てあった。

  皆さんが自室に引上げた後、ロビーのバーでお互いの「無事」と「仲直り」を祝って太田さんと二人だけでささやかに乾杯!

 

 

    発言番号:494491へのコメント)

    発言者  :羽鳥 行郎

    題名    :英国紀行(その3・・・ロンドン)

    登録日時:98/11/23 11:04

 

 3回にわたる英国紀行を楽しく読ませて頂きました。私は1994年7月9日から24日までアイルランドのダブリンから入ってアイルランドに4日間・その後海を渡ってイングランド西部の湖水地帯を北上しインパネスまで行き・次に東部地方を南下してスコットランドからイングランドに入りました。懐かしい地名が次々に登場して当時の写真を取り出して記憶を新たにしました。ブレア城では部屋の壁一面に陶器や武器が飾られ印象的でした。今の天皇が皇太子時代に宿泊されたとかで写真が飾られて居ました。数年前英国病とか一時報道されましたが流石19世紀に世界の海を制覇した国だけあって社会資本が充実し庶民のゆったりした生活を垣間見ることが出来ました。United-Kingdomといっても中に入って見ると例えば御指摘の様にスコットランドの紙幣がイングランドに通用しない様ですが・私が行った94年代でもアイルランドの紙幣がイングランドで通用しないことがありダブリンの空港で両替した同行の旅行者は困っていました。エジンバラではネルソン記念碑やアテネのパルテノン神殿を模したアクロポリス記念碑を見ましたが・日本も歴史的な遺産を大切に保存し後世に正しい歴史を伝える事か大事だと思いました。

 

 

    発言番号:495491へのコメント)

    発言者  :巖 隆吉

    題名    :英国紀行(その3・・・ロンドン)

    登録日時:98/11/23 12:01

 

  3回にわたる「英国紀行」を楽しく拝見しました。

  実は、先日ご一緒に旅行された太田さんより、予め今度の旅行のロンドンでは随分と面白い話があったので期待しておいてくださいとのコメントがありました。どうことだったのかなと思っていましたが、多少思惑が外れました。

  私も今から約30年前にアルミニュームのミッションでロンドンを訪ねました。確か昭和45年の4月20日でしたがニューヨークから当時は珍しかったジャンボジェットで朝早く着いたので眠く、その日は自由行動のため暫く横になりますと寝過ごしました。慌てて飛び起きて一人で慣れないロンドンに出て行きました。先ずは、衛兵交代を見てロンドン塔にタクシーで行きました。ロンドン塔には凄い宝石が並べられており、これがかっての牢獄だったのかと、しみじみ英国の財宝に驚きつつ見学したものでした。

  それから地下鉄で予め良く覚えていたネルソン広場に引き返しまして、夜の会食に遅れて参加したことを、たまたま私の誕生日だったので昨日のように思い出して

いるところです。

  それから昭和60年頃と思いますが、ロンドンに行き同じようなところを歩きました。確かウエストミンスター寺院であったかと思うのですが、トコトコと床の上を歩いていますと、案内していた商事の岩本さんがあなたの足元がチャーチルの墓碑だと指差しました。これには私も全くビックリしました。国によって習慣は大変異なり英国にとっては当然のことでしょうが、あれだけの偉人の名前の上を土足で歩くとはと、申し訳ないと思い強烈に印象に残っております。

 

 

    発言番号:533491へのコメント)

    発言者  :太田 中

    題名    :英国紀行(その3・・・ロンドン)

    登録日時:98/12/30 23:10

 

  −人間と犬との差程違う−その1

  今回の旅行記程、コメントが付けられず、躊躇していることは珍しい。前回まで、深澤さんは旅行中の私の言動を揶揄、嘲笑して、記事の半分位を埋めていたから、私はそれに抗弁、反論するだけで、結構コメントになったのだが、今回彼はいかなる心境の変化かオックスフォ−ドの立小便事件以外は専ら私を気遣ってくれているので、全く手が出ない。

  彼の旅行記は詳細、丁寧、洩れがなく、幾つかのコメントやメ−ルでも絶賛されているように、そのままガイドブックにしても良い位だ。

  そうはいっても、同行者の私がさらに提灯を付けたのでは八百長もいい所なので、何か別の取っ掛かりを探してみたら・・・あったあった。

  この旅行記を文化史、文学史の観点から見直したら如何ということで、いや実に材料豊富なのに驚いた。

  しかし、この方法は深澤さんの文章を加除、訂正することになるので、若干の名誉毀損になるのはやむを得ないし、ひいては三菱、大袈裟に言えば日本の知識層も揶揄、嘲笑することになるのだが、仕方が

ない。

 

◎スコットランド

@パプリックスク−ル

  「プレア首相が学んだフェティス・カレッジ」と言うことになっているが、これだけでは読者はフェティス大学の卒業生と誤解するだろう。彼はオックスフォ−ド大学の出身なのである。

  因みに申せば、同校は大学以前の中等学校であるパブリックスク−ルなのだ。

  パブリックスク−ルは「スク−ル」ばかりでなく、「カレッジ」「アカデミ−」等何を名乗っても、一向に構わない。イギリスには文部省はないから、日本の文部省みたいに箸の上げ下ろしまで、文句をつけられることはないのだ。

  パブリックスク−ルとは一体いかなるものか。知らない人は「公立学校」と言うだろうが、これはレッキとした私立校。

  車中で添乗員が、大領主が子女の為に雇った家庭教師を同階級にまで及ぼして学ばせたのが起源だと言っていたが、大方そんなものであろう。イギリス人は形式にとらわれないから。

  オックスリッジ(オックスフォ−ド大学とケンブリッジ大格の総合略称)入学前のセカンドリ−スク−ルで英国の指導層を養成する所、大体12歳−18歳、全寮制度、そのスパルタ教育は、オックスリッジに入らなくても十分だと言われる位価値がある。

  私が終戦直後、貪り読んだ次の小著は大いに参考になろう。

 

・「グッドバイ・ミスタ−チップス」−1934

  作者ジェ−ムス・ヒルトンはリ−ス校、ケンブリッジ出身。原書は我が国高専、大学教養課程の英語教科書になることもある。

  パプリックスク−ルの教師と生徒の交流物語。世界中で大ベストセラ−になり、映画化もされた。

 

・「自由と規律」岩波新書

  三井の大番頭池田セイヒンの息子でリ−ス校、ケンブリッジ出身、慶大教授池田潔著。

  パプリックスク−ルの精神と生活を描写。当時の風潮にも適合してベストセラ−になった。

 

A犬の糞

  玄関前で「泥落とし」の後、その靴で寝室まで行ってしまうイキ゛リス人は、何と不潔な国民なのだろうと想像するのは勝手。何しろ我が国では女性が犬の糞を踏んだ時と、ゴキブリを発見した時、天地がひっくり返る程の悲鳴をあげる位だから。

  私がカナダで経験した話。晩秋、紅葉を見に行った帰り、ロッキ−山脈の麓の町で1日中観光と買物で過ごした時、山から下りて来た野生鹿がいっぱいうろついているのを見た。公園の芝生の上はそれらの糞で足の踏み場も無い。「片づけるのか」と聞いたら「その中に雪が積もる。来年雪解け時に芝生に吸収されて、最上の肥料になる」その頃には鹿たちは木々に吹き出した新芽を求めて山に帰って仕舞うそうだ。

  日本では犬の糞は飼主が片づけろと煩いが、ビニ−ル袋や空き缶は辺り一面に散らかり放しである。

  イギリスやフランスでは都会でも田舎でも犬の糞は散らかっていても、ゴミの散らかっている所は無い。

 

◎イングランド

@ワ−ズワ−ス

  グラズミヤのワ−ズワ−ス博物館は実によく整っていた。小型だが資料がたっぷりあり、生き生きと展示されていた。

  しかし、一行26名(内男性6名)は殆どが何故こんな所へ連れてきたと言わんばかりに、予定の時間より遥かに短い時間で駆け抜けて行った。

  イギリス第一の浪漫詩人にして桂冠詩人も可哀想になってしまう。

  たった1人50歳代の女性が時間いっぱい食い入るようにガラスの中を覗いていたのが印象的。以前ロンドンに在住していた方らしい。

  約200年前のワ−ズワ−ス、コ−ルリッジ、バイロン、キ−ツ、シェリ−等の浪漫詩に胸をときめかしたことも、遥か昔のことになった。

  博物館隣の彼の住居は、この近辺で採掘され何処でも住宅や境塀に使われている鉄平石様なものを積み上げてある。部屋に窓は一つだけで採光、通風の用を足すのは大変だろう。床はゴツゴツの石張りかザラザラの板張り。無骨な家具。どれもこれも黒光りしている。

  壁一面が暖炉に当てられ、あの太い煙突で排煙する。それは採暖の他に炊事、灯火にも利用されていたのだ。成る程、彼が提唱していた「シンプルライフ」其の物だった。

  我々が日本の応接室等で見る暖炉が全く飾りであることが分かった。

  この後ピ−タ−・ラビット創案者の家へ寄ったが、三菱信託のマスコットになったり、あちこちのデザインに取り込まれているので、一行の人気はワ−ズワ−スとは比べ物にならない。盛んにピ−タ−・グッズを買いこんでいた。

  要するに今回はその程度の集団ということだ。

  前回ポルトガルの時は問題の人物ではあったが、黒鳥女史(ご記憶の方もおありでしょう)は曲りなりにも文明論の教授であり、深澤さんがマドンナと思いこんでいた女流画家も一応中央画会の会員だったから、程度はもう少し上だつたような気がする。

 

 

    発言番号:539491へのコメント)

    発言者  :太田 中

    題名    :英国紀行(その3・・・ロンドン)

    登録日時:99/01/05 22:41

 

−人間と犬との差程違う−その2

  「その1」を打ち出したその後、直ぐ「その犬とは俺のことかいな」とメ−ルが届いた。とんでもない。日頃尊敬している深澤さんを私が「犬」に譬えるなんて失礼なことをする筈がない。やがて「犬」なるものが判明するまで、暫くご辛抱を。

 

◎イングランド

A牧羊犬

  グラズミアの牧場で牧童も居ずに、牧羊犬一匹だけが羊群を巧みに「誘導」しているのを、バスを止めて、皆が感嘆の声を上げて眺めていた。

  以前、メルボルン郊外の牧場でこういう光景を見たが、それは見世物で、牧童も付いていた。牧羊犬が大群を右へ左へまた前に後に移動させていた。

  最後に犬が羊1頭だけを留めて、大群を向うにやってしまうと、その1頭は自由にされた後も、途方に暮れて立ち尽くす。大群の後を追う才覚も湧かないらしい。

  3年前、私が日本の庶民を羊群に譬えたことがあるが、今も適切な比喩だったと思っている。義務教育就学率100%、読み・書き・算盤にかけては、世界一の水準にあるが、牧羊犬ならぬボスに手もなく、引きずり回されてしまう。自己判断が全く出来ない国民である。

 

B耐寒温度

  チェスタ−大聖堂内部の荘重さに目を奪われた後、外に出ると日はとっぷり暮れて、北海からの寒風が容赦なく吹き付ける。その上高さ10米はある旧城壁の上を歩くと、身が縮む思いだ。東京の温度で言えば12月末。

  皆、冬の服装の上に、防寒コ−トで覆い、フ−ドまで被って、震えているのに、深澤さんときたら、半袖下着、合のシャツに夏のジャケットだけで平然と歩いている。10日間雨が降ろうが、風が吹こううが、この服装で押し通した。耐寒温度で言えば正に白人並み。

  聞いてみたら、若い時の療養生活で必然的に身についた習慣と言う。

  因みに、今度の旅行バスの運転手は30歳代の英国人、1週間ずっと半袖シャツのままだった。添乗員に聞いてみると、白人の中でも珍しいそうだが。

  私が以前、7月のヘルシンキ海岸で、何人もが家族単位で泳いでいるのを見たが、その時の温度が25度位。東京の5月上旬程か。白人は20-25度あれば楽しんで泳ぐ。2−3日前のテレビでモスクワでは、零下20゜、氷を割って寒中水泳に挑んでいるのを見た。

  しかし、いくらなんでも、これは一寸苦しいだろう。

白人の入浴温度は38-40゜、体温を少し上回る程度。彼等には風呂で暖まるという習慣はない。

  一般的に言えば、白人の耐寒温度は日本人より10゜内外低いようだ。

 

Cシェックスピア

  私にとっては、これからが旅のハイライト。

  この町には、彼の生家と隠居所と墓地がある教会しかないのに、今や世界的名所になってしまった。

  彼のことを此処に書いても意味はない。聖書と沙翁に関する本は世界の何処かで発行されない日は無いという位だから、それを見ればよい。

  沙翁について、私の経験を述べれば、若い時の話だが、36篇の脚本のうち、原文で読んだのは数篇。参考書や辞書を片手に四苦八苦して読んだ。何しろ、既に中世英語であるし、彼は教養が高いとは言えないので、無理な用語も多いし、低俗卑猥な文句も数限りない。尤もそれが観衆からやんやの喝采を浴びる素にもなっているのだろうが。「ハムレット」「キング・リア」「ザ・マ−チャント・オブ・ベニス」「アズ・ユ−・ライク・イット」「ロメオ・アンド・ジュリエット」・・・

  低俗卑猥な個所を除き、子ども向けに易しく書かれたチャ−ルスラムの「シェックスピア物語」(旧高専、大学教養の教科書で読んだ方も多いでしょう)は10篇程度。

  邦訳は坪内逍遥の昔からあり、読んだものは数知れない。

  芝居は芥川比呂志の「ハムレット」が印象深い。私の古い本の「オセロ」の項に仲代達矢と河内桃子と書き込みがあるが、劇場が何処だったか、思い出せない。

  現実に戻ろう。沙翁の生家は日本の樫に似た木造400年、よくもっている。ワ−ズワ−スの家は石造200年だが、全く暗い印象なのに、ここは窓は多く、照明は明るくしてあるし、中に土産物屋も開いているから、古さは全然感じさせない。

  尤も、沙翁の遺品等は一つもない。その筆跡も全くない所から彼は実在しなかつたのではないか、同時代の論説家ベイコンがペンネ−ムで書いたものだ(添乗員もそんなことを繰り返しマイクで言っていたから、知らない大部分の人は本気でそう思ったかも知れない)という説もあるが、この説は正当な英文学史では扱っていない。

  隠居所は流石の深澤さんも含めて一行26名中、私だけしか見ていないだろう。ロンドンでたっぷり儲けた沙翁が、生家より数倍立派な屋敷を購入したもの。生家から数百米の距離だが、夕闇が迫っていたから無理は無い。

 

Dハ−バ−ドの母の家

  恐らく観光客の誰も行かないし、知らない家を何故訪ねたか。添乗員が教えてくれなければ、我々も行かなかったろう。集合時間が迫っているので、駆足で廻り見つけたのは、通りに面した間口2間の長屋、シェックスピアと同時代の木造が良く残っているものだ。決して裕福でないことは一見して分かる。その子ジョン・ハ−バ−ドも多分この辺で育って、ケンブリッジ大に学んだ聖職者。植民地になって間も無いアメリカ・ボストンに渡ったが、1年後結核で急死した。しかし、その遺言に財産の半分(僅か375ポンド)と蔵書400冊を出来て2年目の大学に寄贈せよとあった。

  感激したマサチュ−セッツ議会が「新大学にハ−バ−ドと冠せよ」と議決した。

  創立者でも学長でもない部外者が永久に残る大学名を得たことは

「果報は死んで待て」と言うことだろうか。

 

 

    発言番号:544491へのコメント)

    発言者  :太田 中

    題名    :英国紀行(その3・・・ロンドン)

    登録日時:99/01/09 15:52

 

−人間と犬との差程違う−その3

  話は突飛な方向に行くが、東京で次の展覧会が開催されたことがある。私はこういう節目の会を見ているお蔭で、イギリス理解に大変役立った。

  97  チャ−チル展  於三越  彼の人となりと油絵等、創立120周年東京大学展  於東大  開学当初のお雇い外国人展等

  98  大英国展  於東京フォ−ラム  産業革命、ガ−デニング等

 

Eオックスフォ−ド大学

  ロンドン北西、テムズ川の上流100キロ(東京−前橋の距離)にあり、北東ケンブリッジ(東京−水戸)と並んで、イギリス最古の大学起源は12C半ば、皇太子が留学したマ−トン・カレッジを始め39のカレッジがある。

  各カレッジの中身は夫々に違うが、神学、法律学、英文学、物理学、化学、医学・・・等と人文、社会、自然科学が混在しているのが常である。他のカレッジと学科の重複は構わない。

  教室は無く、教師と学生と1対1のチュウトリアル・システム、学生は「正」と「副」の2科目を専攻する。

  例えばサッチャ−元総理は同大学で化学と法律を専攻して弁護士になった。

  週1回、チュウタ−の部屋で、前週渡された数冊の本の中身について話し合うが、厳しいやりとりが1−2時間続く。終ると、又翌週の本を図書館から受け取り、独りで勉強することになる。

  これを正」「副」と2回行う。チュウタ−の担当は7−8名とか。

  教室が無いから他の学生と顔をあわせることはない。それを補うのが、各人ガウンを着て、チュ−タ−を囲み、週1回行う会食。ここで、皆の意志の疎通を図り、また社交儀礼を学ぶことになる。

 イギリスの大学は40校余りあるが、オックスリッジとロンドン大学の3校がずば抜けた存在だ。

  ヨ−ロッパではどの国も、今でも数十校しかない。アメリカ3000校、旧ソヴィエト2000校、日本1000校は大体が「大学」と言う名の職業訓練校であり、不良化防止のレジャ−施設と言うのが専らの評判である。

  昭和20年代、30年代頃には、三菱、三井にもオックスリッジ出身者がいた。皆実業家のご子息で、勿論戦前の良き時代に留学した人達であるから、私が存じている方も大らかでイギリス紳士の風格を備えていた。しかし、その後トップ層に上りつめた人はいなかった。日本の会社風土には合わなかったのだろう。

  戦前は留学といえば、選ばれた人達だけが行くもので、英、仏、独等のヨ−ロッパが大部分、アメリカへ行く人は滅多にいなかった。戦後は猫も杓子もアメリカへ行く。ヨ−ロッパは皇室と文学、美術、音楽等を勉強して人に限られている。

 

◎ロンドン

@ロンドン塔

  日本で言えば、江戸城と伝馬牢と小塚原の刑場と合わせたようなもので、明暗取り混ぜた施設だった。こういう取り合わせは欧米人なら割り切れるが、日本人にはなかなか納得できないだろう。

  一行はジュエル・ハウスで溜息つきながら、宝冠と宝剣など「明」た゛けを見ると、私が「暗」も見なければと制止しても20ポンドの入場料を惜し気もなく、次のタワ−・ブリッジへ向かった。何せ、今日中にロンドン中の主な観光スポットを全部見なければならないのだから、ボヤボヤしていられないのだろう。

  深澤さんが詳細説明しているように、私はここで事実上皆と別れて一人になる。

 

Aシテイ

  皆が向かったビッグベンや大英博物館は前に行っているし、今後も簡単に行ける所だから、今回は午後一杯をシテイ探索に当てる。「TO  LET」「SOLD BY」が方々に掲げてある。ブ−ム時には金太郎飴的発想で第2地銀まで、ロンドン、ニュ−ヨ−クに支店を出した日本の銀行の夢の後とは、思いたくないが、或いはそうかも知れない。

  イングランド銀行、王立取引所、証券取引所が集まる一郭は、クラシックな建物が建ち並び、いかにもイギリス金融、経済の中心と言った感じで、地味で頼り甲斐がある存在だ。近くに「この場所に郵便局が建っていた。1653−1666

  此処で世界最初の郵便スタンプが打たれた。1661」の銅板が路傍に嵌め込まれていた。

 

Bチャ−チル

  深澤さんが偶然見つけたチャ−チルの地下執務室は、今後も日本人の観光場所には絶対なり得ないと言う意味で、貴重な経験だと思う。

  20世紀最大の悪人はヒットラ−とスタ−リンであることは、世界中の誰もが認める所だが、チャ−チルが最大の偉人であることも異存がないだろう。

  彼については面白い話がある。名門公爵家の御曹子、その上パプリックスク−ル名門中の名門イ−トン校を卒業しているのだから、誰が考えてもオックスリッジに進学するのが当然だろう。

  しかし、イ−トン校のチュ−タ−は「君は学問には向かない。軍人になれ」と。言う者も偉いが、従う者は尚偉い。

  士官学校を出てから、軍人2年、新聞記者2年、24歳から国会議員、幾多の大臣を経て大戦中は保守党首で総理大臣。ここからが彼の本領発揮。

  毎日、毎日、ドイツ軍の空襲やV2の襲来でロンドン市民は生きた心地は無かったから、「もう、降参して楽になろう」とチャ−チルに迫った。

  「ここまで、頑張ったんだ。俺と一緒にもう少しがんばろう。ヒットラ−はもうすぐ崩れるから」「チャ−チルを信じよう。そのために、大英帝国が滅んでもやむを得ない」

  赤い丸顔でドングリ眼に団子鼻、同国では農夫か大工の風貌。歴史始まって以来の国難に立ち向かうには、この風貌でなければ国民の信頼は得られなかっただろう。

  大戦を勝利に導いて、いよいよ、ロンドン市内挙げて修復が始まった。

  「国会議事堂は近代的、機能的な単純な形にしたら・・・」の声を斥け、「そんなマッチ箱みたいな建物にしたら、スタ−リン式の考えしか出来なくなる。元の形に寸分違わないものを造れ」成る程、スタ−リン時代のソ連、東欧の建物は、例外なく  チャチなマッチ箱形式だ。

  彼は、スタ−リンにはヤルタ会談、ポツダム会談等でさんざん苦しめられたので、骨身に染みていたのだろう。

 

◎−人間と犬との差程違う−

  この「文句」は私の発案ではない。勿論「犬」は深澤さんを想定したものでもない。

  ある正直で少々臍曲がりの評論家が欧米人と日本人を比較して言ったもの。どちらが人間でどちらが犬か詮索する必要はない。どちらでもよい。唯その差が大きいことだけは認識しなければならない。私は今回の旅行で嫌と言うほど知らされた。

  また、チャ−チルでさえ、音を上げたロシア人は、同じ白人の西欧の人間でも理解出来ないらしいから、日本人との距離は「人間と白熊との差程」あるのではなかろうか。

 

 

    発言番号:716

    発言者  :森口 勝

    題名    :「英国の旅日記」(その1)

    登録日時:99/08/02 18:51

 

「英国の旅日記」(その1)

  永年の家内の希望を容れ、夫婦で海外旅行をするようになったのはサラリーマン生活に幕を引いてからのことで、今回の旅行が3回目である。

  2回目までは三菱化学同期入社の大前さん夫妻、高井さん、中山さん夫妻との7人で行動を共にしたが、今年は大前さんが英国に,他の者はニュージーランド行きを目標にと、分かれることになる予定だった。ところが、高井さんと中山さんが健康上の都合で旅行を見合わせることになったので、大前さんの方へ同調した次第。これで3回とも欧州方面への旅行となったが、予てから英国の旅には、家内共々深い興味を抱いていたので、希望が叶って大変満足だった。

  JALPAKの“I'LLの旅”、「行きたい国で選ぶヨーロッパ旅行、伝統の国イギリスの都会と田園の魅力13日間」に、99627日から参加した。一行は女性の佐山コンダクター以下18名で、内訳は男性7名、女性11名。(夫婦6組、両親と娘、同一会社の主従である女性2人)。男性は大正13年生まれを筆頭に5名、残り2名は昭和生まれで最年少は6年生まれであるらしいことが、話し合ううちに大体ながら分かってきた。略同年時代の者ばかりだったから、話しも噛み合って愉快な13日間の旅を楽しむことができ、また大前夫妻と一緒だったことが、何といっても心強かった。

  この旅行は、深澤さんがダイヤネットワークの“井戸端会議室”に寄せられていた、「英国紀行」と殆ど同じコースを辿ったので、大変参考にさせていただいたことを感謝申し上げる次第。

  またこの報告は、現地ガイドさんから聞いたことを中心に、私自身のための記録として、日を追って作成したそのままなので、くどくなった嫌いがあるがご容赦願いたい。デジカメも未購入で、写真を送信する手段が無いことは残念です。

 

T. 627日(日)雨

  家を出る時は雨が止んでいて幸先良し。成田発12:00JL401便は12時間15分の飛行時間で、現地時間16:15ロンドンのヒースロー空港到着。現地は夏時間なので、日本との時差は8時間である。飛行機内座席の前には手元テレビが設置されてあったので、過去2回の旅行時に比べると、機内での長い時間もそれほど退屈せずに過ごすことができた。

  乗り継ぎの度に思うことだが、待ち時間が長いこと!。それに随分と歩かされるのが嫌になる。ヒースロー空港19:00発のブリティッシュ・ミットランド航空は、出発が約30分遅れたが、エディンバラのターンハウス空港には20:30に到着した。この飛行機の中で出た軽食やワインは、本旅行中で唯一不味いなと思う物だった。

  エディンバラ上空から見えた平坦なゴルフコースは、彼の有名なセント・アンドリュース・ゴルフ場だろうか?。現地の天候は薄曇りで気温は13度。

  成田空港でも、ヒースロー空港でもボディチェックをされたが、毎度のことなので慣れてはきたがあまり良い気持ちはしない。

  空港に出迎えてくれた現地の女性ガイドのキミ子さんは、エディンバラからグラスゴーまでの案内役、ドライバーのチャーリーさんは最後のロンドンに着くまで運転してくれるとのこと。チャーリーさんはベテランドライバーだそうで、髭を蓄えたいかにも英国紳士らしいタイプの容貌が、我々一行の女性の人気の的になっていた。

  英国では生水は飲めないと聞いていたが、キミ子さんから胃腸の調子を悪くしている者でなければ大丈夫と聞いて安心した。

  セント・ジャイルズ大聖堂に程近いホテル“CROWN PLAZA”に着いたのが21:30。電気湯沸かしポットとコーヒー、紅茶、お菓子の準備がしてあり、紅茶を入れて飲みながら暫し寛ぐ。(今回宿泊したホテルには、皆同じような湯沸かし器が備えてあった)。ここでは2泊する予定。外はまだ明るく準白夜とでもいうのだろうか。

 

U.6月28日(月)薄曇り、時々小雨

  時差の関係はそれほど気にならずよく眠れた。モーニングコールで7:00に起床。持参の携帯目覚まし時計で、起床時間をセットしておいたのに鳴らぬと思ったら、目覚し時刻だけを修正して、肝心の時刻を現地時間に修正するのを忘却していた。これを時差ボケというのだろうか? 朝食はバイキング様式で、魚を食べたいと思ったがそれらしいものが見当たらなかった。ホテルを9:00に出発。

  50人乗りくらいの大型バスで、トイレもついており、各人思い思いの座席に着いて、車内時間をゆっくりと過ごすことができた。

  (適当にトイレ休憩があったので、旅行中このトイレを使用した者はいなかったようだ)。

 

@エディンバラ

  エディンバラとは「斜面に立つ城砦」がその語源とガイドブック  に出ていたが、キミ子さんの説明によると、エディンバラは10世紀まではスコットランドの領土ではなくて、ノーザンビアという王国があって、エドウインという王様が治めていた。王の自治都市を「バラ」と呼んでおり、「エドウイン王の自治都市」ということからエディンバラと呼ばれるようになったとのこと。

  町の南側がオールドタウンといわれており、その昔、王様のお膝元ということで、貴賎を問わず大勢の人々が集まり住むようになり、町はだんだんスラム化していった。当時はトイレも無く糞尿は窓から道路に垂れ流しだったので、とても汚い街だったから、道路を石畳敷きにして洗い流すようにしてから奇麗になったそうだ。

  ドラモンド市長が上流社会の要望を容れ、町の北側にニュータウンの建設に取り掛かったのが1750年からで、1796年に大体が出来上がったというから、ニュータウンといっても200年前の建物が多いという訳だ。その時でも汚物は建物の裏に捨てていたというから、さぞや悪臭がひどかったことだろう。それからはニュータウンには富める人、オールドタウンに残ったのは貧しい人と、南と北とで貧富の差がはっきり分かれたとか。

  ニュータウンに住む上流社会人も税金対策には腐心したようで、特にウインドウ税(家にかかる税金で、窓の数によって決める)から逃れるために、窓を黒く塗りつぶして、その上に窓の絵を描いた「だまし窓」を作ったり、窓に石を詰めてしまったりした建物が残っていた。当初は税金対策の効果があったが、やがて駄目になったそうな。

  既に200年を経過しているニュータウンの建物は、個人の持ち物として維持するには費用が掛り過ぎることから、1970年頃からは1階は商店、2〜3階はオフィスになっているところが多いとのことだ。ニュータウンの中にあるクイーン・ストリート庭園は、上流社会の人や近辺居住の人で、管理費を払った者のみが鍵を貰い、散歩をする時は、その鍵で開けて公園に入れるようになっているとのこと。

  オールドタウンは東西約16kmの町だが、エディンバラ城からホーリルード宮殿に到る石畳のメインストリートを“ロイヤル・マイル”と呼んだいる。町全般にハニーカラーの砂岩の建物が多く、しっくりと落ち着いて見えたが、散策の時間がなかったのは残念。その北側にニュータウンが東西約2.5kmにわたり開けており、プリンシズ通り、ジョジー通り、クイーン通りが東西に平行して走っている。中でもプリンシズ通りはニュウタウンの目抜き通りで、とても賑やかであった。

  人口は約50万人で、スコットランドの首都だが、グラスゴーが人口約80万人とのことだから、人口最大でない首都であるのも珍しい。1707年にイングランドに併合されるまでは、独立王国であったスコットランドの、歴史が刻み込まれた町と聞いて、なるほどとその印象を深くした。またこの町には地下鉄が無く、スコットランドで地下鉄があるのはグラスゴーだけとのことである。

 

Aホーリルード宮殿。

  ルネサンス様式で、エリザベス女王が訪問の際は居城となる優美な建物であるが、今回は見学できず、閉ざされた門外からの望見に終わった。宮殿の前の広場に乗用車が沢山駐車していたのがどうも艶消しに感じた。

      

        カールトン・ヒルからの眺め

         (中央の建物はホーリルード宮殿)

Bセント・ジャイルズ大聖堂。

  ゴシック様式の建物で、エディンバラ最高位の教会。寺院内に今世紀に入って増築されたというスコットランド騎士団の礼拝堂があり、ネオゴシック様式の華麗な天井や側壁の彫刻が一際華麗さを誇っているように思えた。また教会前の広場は、かっては牢獄があった所だそうで、石畳に打ち込まれた金属鋲は、罪人が処刑された跡と聞いて、いい気持ちがしなかった。

 

Cカールトン・ヒル。

  エディンバラ東北にある海抜106mの丘で、もともとは展望台として造られたものだが、展望台は移転し現在は古い建物だけが残っている。エディンバラの町やエディンバラ城、フォース湾等が一望でき素晴らしい眺めで、観光客や若者に人気のある場所になっている。丘の上にはナポレオン戦争で戦死したスコットランド兵を称えて、1822年に着工されたパルテノン神殿を模した「国家記念碑」が、資金不足のため12本の柱が立てられたままで残置されている。柱1本をこの丘の上に引き上げるのに、馬12頭、人足70人を要したそうで、地元の人は完成できなかったことで、この記念碑を「エディンバラの恥」と呼んでいるそうだ。

  また望遠鏡を逆さにしたようなデザインのネルソン記念碑があり、上には白いマストが立っていて、その下にある白球(タイムボール)が巻き上げられ、午後1時に落下するようになっている。この落下に合わせて、エディンバラ城に置いてある大砲が号砲を一発撃ち放し、時刻を知らせるとのこと。何故1時に号砲するかについては、節約のため1発で済むからだそうだ。丘の上の広場には「エニシダ」の花が黄色く咲き誇っており、また紫陽花の花を小さくしたような花が満開だった樹木は、「西洋ニワトコ(エルダ)」とかで、その辺りに漂う微かな芳香が心を和ませてくれた。

 

Dエディンバラ城。

  高さ130mの岩山キャッスル・ロックに立ち、7世紀にエドウィン王が築いたと言われる。城の前の“エスプラナード広場”では、両側に観覧席が設営されつつあったが、これは毎年8月から9月にかけて行われる恒例行事の準備のためで、ライトアップされた城を背景に、キルト姿の軍楽隊のパレードや寸劇、バグパイプの演奏競技などが繰り広げられるとのこと。芸術祭のオリンピアードと呼ばれる、世界最大級のアートフェスティバルの目玉行事の一つだそうだ。

  入城門に到る橋の前にはキルト姿の衛兵が立っており、我々一行の中のご婦人2人の話しによれば、衛兵が交代する時、高く足踏みをした拍子に、兵隊さんの大事な一物が2度まで見えたと言う。タータンのキルト(スカートと言ってはいけない)は生地が厚いので、そのようなことが起きるのだろうが、咄嗟のこととて声を出す訳にも行かず、一瞬ギョッとして立ちすくんだそうだ。スコットランドの兵士は、規則で下着を着用するのを禁止されているそうで、意地悪な軍曹は靴の先に鏡をつけてチェックしたそうな。風邪を引いたり体調が悪くて着用したい時は許可が必要とのこと。キルトを腰に巻いて、“スポーラン”という小物入れを大事な一物の前に掛けている意味もこれで分かってきた。

  城内に在ったマルコム3世の妃マーガレットが、1076年に建てたという、エディンバラ最古のノルマン様式のセント・マーガレット礼拝堂は、本当に小さな建物で、堂内も簡素な佇まいだった。代々の王が居場としていたロイヤル・アパートメントや15世紀の大砲「モンズ・メグ」、士官や兵卒の収容された牢獄、軍人のメモリアルホール等を見た。家内も私も足腰が弱いので早く歩けず、所定の時間も迫ったので、城の最頂上に上がることは諦めて引き上げた。

  城内見物の時に一時雨が降ってきたが、城を出る時には止んでいた。

  エディンバラ城見学後、昼食を“HOGSHEAD PUB”で一同揃って済ませた後は、一旦ホテルに帰って小休息。その後は自由行動であったが、佐山コンダクターの案内により、希望者だけで国立美術館に行った。

 

Eスコットランド国立美術館。

  1850年代のどっしりとした古典式建物で、無料で入館できたが、コレクションは王立教会のものを基にしており、14〜19世紀のスコットランド美術や、エル・グレコ、ベラスケス、ラファエロ、ゴッホ、レンブラントなど巨匠の傑作が見られたのは幸いだった。

 

Fスコット記念塔。

 国立美術館を出てから、ニュータウンのメインストリートであるプリンシズ通りの店を見ながらホテルに引き上げた。商店街は何処も春物割引セール中で、家内が見立ててくれたバーバリーのブレザーを安く買った。この通りにはスコットランドが生んだ詩人、作家でもあるウオルター・スコットの記念塔が聳えていた。サンドストーンを用いたゴシック様式で、天蓋の下に大理石の彼の座像が置かれていた。約60mの搭上へは287段の階段で上ることができ、エディンバラの町が見渡されるそうだが、既にカールトン・ヒルやエディンバラ城から展望済みなので、誰も寄り付こうともしなかったのは何故だろう?エディンバラのシンボル的な建造物だというのに……。

 

G本日の夕食。

 旅行代金の中に含まれておらず、一同揃って市内のレストランで自弁で済ませた。メニューにより各自好きなものを注文したが、スコットランドの郷土料理で最も代表的なものの一品が「ハギス」(羊の内臓と玉ねぎのミンチにオートミールとハーブを加えて、羊の胃袋に詰めて茹でたもの)と聞いたので試食してみた。誠に表現し難い味であったが美味しいと思った。夫婦2人分の夕食代が£63.15で結構なお値段だった。ホテルに帰って明日の移動準備等をしていたら就寝が0時になった。

 

 

  発言番号:719(716へのコメント)

  発言者 :萩野谷 徹

  題名  :英国旅行

  登録日時:99/08/05 11:22

 

 英国旅行のお話大変興味深く読ませて頂きました。

 1956年から57年にかけてバーミンガム大学に留学している折りに、冬の休みを利用して、スコットランドに遊びに行き、エディンバラ、グラスゴウー、ネス湖やロモンド湖(Loch Lomond)を見てきたのを思い出しました。

 エディンバラでは、キングス・ストリートをはさんで片側がクイーンズ・ストリート、反対側がプリンセス・ストリートだと記憶してますが、如何でしたでしょうか。12月の旅行でしたので、お日様は高く上がらず、日の出から直接日の入りになるような感じでした。反対に、夏は多分夜遅くまで明るいのではないかと思います。失敗談は、エディンバラの宿で、「初めてのイングランド旅行だ」と言いましたら、途端に「ここはスコットランド」だ「イングランド」ではないと叱られたこと、食事の時に「a cup of watre please」と給仕さんに頼みましたら怪訝な顔をして、紅茶のカップにお湯を持ってきました。水は「a glass of water please」と言わなければいけないのを思い知らされました。

 お話の続きをお待ちしております。

 

 

  発言番号:749(719へのコメント)

  発言者 :森口 勝

  題名  :英国旅行

  登録日時:99/08/22 20:12

 

  「英国の旅日記」に対するコメントを頂き有り難うございます。

 40年以上も前の事をよく記憶しておられるのに脱帽です。”10年一 昔”と言いますから、当時とは趣も大分変っているのではないでしょうか?また行かれる機会がありましたら、その辺のことも含めてお聞かせ願いたいものです。

 エディンバラの東西に走る主要道路は、現地で貰った地図によると、北から南へQUEENSTREET」「GEORGE STREET」「PRINCES STREET」となっています。「GEORGE」は王様の名前ですから、ご記憶の通り「KING STREET」ですね。QUEENNGEORGE通りがどのような賑やかさなのかは、通って見ませんでしたから、残念ながら分かりません。

 スコットランド人が、自国に誇りをもっていることを聞きましたが、その事に関して思い知らされるような機会は、幸か不幸かありませんでした。冬のスコットランドは、日本人にとっては多分憂鬱なことでしょうが、これも体験してみなければ、本当のことは分かりません ね。

 以上大変遅くなりましたがご諒承ください。

 

 

  発言番号:721

    発言者  :森口 勝

    題名    :「英国の旅日記」(その2)

    登録日時:99/08/06 13:35

 

V.629日(火) 曇り、一時小雨。

 4時頃、何やら太鼓や掛声らしい物音に目を覚まされた。

  どうもホテルの近くらしいので窓を開けて覗いたら、軍隊が行進し  ているらしいのが、ビルの間から見えた。早朝なので、着替えをしてまで写真を撮りに行く元気は出なかったが、窓から見えた範囲の写真を撮った。出発後にキミ子さんから聞いたところでは、7月1日にスコットランド国会の正式オープンを行うことになっており、エリザベス女王が来臨して、ホーリルード宮殿からセント・ジャイルス大聖堂まで馬車でパレードし、大聖堂で礼拝後、再び国会の場までパレードすることになっているので、その予行演習をしていたとのこと。昨日ホーリルード宮殿を見学できなかったのも、女王の来城を控えていたからであろう。

  今日はハイランドのインバネスに向けて9:00にホテルを出発。

 

@ フオース・ブリッジ。

  此処でフォトストップ。北海に面したフォース湾に架かる鉄道専用橋で、711ヶ月をかけて1890年に完成した。北の方に在る工業都市ダンディーに架かっていた鉄製の橋が、雨風の激しいクリスマスの前夜に落下し、沢山な人が落ちるという事故があったので、建設途中で急遽鋼鉄製に変更されたとか。建設に当たっては57人の死傷者が出たが、その技術力の高さを自慢しているとのことだ。死傷者は大部分が落下にによるものだが、その内の3人は、橋桁に挟まれてどうすることもできなかったので、苦しんでいるのを見かねて、毒を飲ませるという悲惨な死に方をしたという。この鉄道の開通により、900年続いたフエリーは、現在は観光船になっているそうだ。

  その横に車と人が通行できる大橋が架かっていて、その橋を通過して対岸に渡った(この橋の名称を聞き漏らした)。この橋は自殺の名所になっているそうで、海面からは高いし、海水は冷たいので投身した人は殆ど助からぬ。

  スコットランドでは、16歳までは親が子供の面倒を見るが、それを過ぎると、親の言うことを聞かぬ者の大半は、家を追い出されるそうな。大学に進む時は国から“グラント”という補助金が出るが、親元から見放された者は、下宿代の支払いはもとより、食べることにも事欠くようになって、道端に座って乞食のようなことをするが、それも嫌になって、果ては自殺するティーンエイジャーが増えているとのこと。そういえば、昨日エディンバラの目抜きのプリンシズ通りを歩いた時、人通りの多い道端で座っていた妙齢の娘を見掛け、どうしたのだろうと思ったのだが、そんな運命を辿らずにすめばよいがと気になった。スコットランドでは車の高速料金は不要だが、橋を通行する時だけは料金が必要だそうだ。

  バスはローランドの田園地帯をひた走り、1452年まではスコットランドの首都だったというパースを過ぎる。ここから右に入れば有名なセント・アンドリュースのゴルフ場と聞いて、心ときめけども詮方なし。エニシダの黄色く咲いているのが沢山目についたが、スコットランドは崖が多く、土が定着し難いので、土留めのためにエニシダの種を蒔くそうだ。広い菜の花畑の黄色が、エニシダのそれとともに目も覚めるよに美しかった。スコットランドでは、食用油は牛・豚から採っていたが 、植物油が体に良いといわれるようになり、1960年代から菜の花が栽培されるようになった。大麦や小麦を作る時には、菜種を植えて休耕田を肥やし、食用油を採取し、その絞り粕は牛の飼料にして、捨てるところ無く有効活用されているというのは日本と同じだ。

  スコットランドのパースまでを“ローランド”といい、それより北を“ハイランド”というそうで、ローランドは田園風景が多い。

  英国は元々は火山国で、老年期の地層であり、北に行くほど土地は痩せている。土地の3/4が農地で、その内1/2は大麦、小麦、からす麦等を作ってる。残り1/4は森林。野菜はじゃが芋、人参,蕪等で、夏場はブロッコリー栽培が多いとのこと。北部からは牛乳を南部に運び、南部からは野菜等を北部に運ぶそうだ。

  6月〜8月にかけては、“ヘイ・ヒーバ―”(ヘイとは馬草のこと)がひどい時期とのこと。毎年花粉症に悩まされている私には、人事とは思えなかった。

 

A BELL'S”のウィスキー蒸留所。

  ブレア・アソールに在る1798年創業の蒸留所で、ユニオンジャックの旗が社屋の入り口屋上に掲げられていた。エディンバラでやたらとスコットランドのセント・アンドリュー旗を見てきたのでおやっと思った。キルトを着けた年増女性の得意としたガイドで、蒸留所内部をウィスキーの製造工程に従って見学。工場は静かな環境で、建物を覆った蔦が青青としていたが、秋にはこれが紅葉して、深澤さんが述べていた赤になるんだなと思った。所内では見学中案内人以外の人影を見かけなかった。後でキミ子さんから聞いた話しでは、この蒸留所の従業員は6人くらいで、それも受け付け、ガイド、お土産販売店の従業員の方が多いとのことだった。原酒を樽詰めして保管する貯蔵庫の外壁が真っ黒になっていたのは、ウィスキーを好む菌が寄生しているためと聞いて驚いた。

  この近辺には110ヶ所の蒸留所が在るが、100ヶ所がモルトウィスキーを、残りはトウモロコシ等の雑穀からグレンウィスキーを製造しているそうだ。見学後、例によって試飲の後、同社の製品販売コーナーに案内され、皆それぞれにお土産を買っていた。私もウィスキーが好きな甥のために、此処でだけしか売っていないと推奨された、OTTER(かわうそ)の商標がついた、12年もののシングルモルト・スコッチウィスキー(43% vol70cl)を2本買った。価格は13%程度の割引で1本£26弱。

  ウイスキーは16世紀の頃から、アイルランドのカソリックの僧が気付け薬として持ち歩いていたそうで、ゲール語で“ウスケバッサー“(命の水という意味)といい、薬効効果のある飲み物として、王家や貴族に対する贈り物にされていた。献上する時にはラテン語で”アクアビッテ“といわれた。17世紀の頃には農家の者も真似をして作りはじめ、”ウスゲ“といった。ウィスキーの語源はここから出たとも言われる。

  1707年イングランドとのユニオン条約ができ、それまでイングランドではジンが飲まれていたが、ウィスキーを売ることができるようになった。ウィスキーの味がよかったために、ジンの売れ行きが悪くなり、ジンの製造業者は訴えを起こし、ウィスキーに高い税金がかかるようになった。それを逃れるためにスコットランドの深い谷間に隠れて密造酒を造り、イングランドに密売するようになった。密造者を”スマグラー“という。香りつけに使うピートを燃やす煙が深い谷間に上がり、それを追いかけてくる税関吏を、武器を持って追い払うようなこともあって、西部劇さながらの撃ち合いを演じたこともあったという。

  現在は蒸留所は全てライセンス制になっており、英国の王家ジョージ4世がエディンバラを公式訪問した折りに、スコッチウィスキーの味見をして感激し、帰る時に沢山お土産に持って帰り皆に薦めた。それからは“王様のお酒”という名前で随分人気が出たそうな。ウィスキーが大量生産できるようになったのは、産業革命後、連続蒸留機が発明された1800年半ば以降のこと。グレンウィスキーは早く作れるが、モルトは作ってから売るまでに最低3年は寝かさねばならぬと法律で決められている。

  ウィスキーには大きく分けて、

a スタンダード。「50種類近いモルトウィスキー と、グレンウィスキーをブレンドして銘柄ごとの味を 出しているもの」。

b)デラックス。「古い年代のモルトウィスキーとグ レンウィスキーをブレンドしたもの」。

c)シングルモルト。「一つの蒸留所だけで作られた混 ぜ物の無いウィスキー」

d)バッティドモルト。「違う蒸留所のモルトウィスキ ーをブレンドして独特の味を出しているもの」

の4分類にされるらしい。

  スコットランドの大麦、水、イースト、泥炭(ピート)、空気等の条件下で製造されたものでなければ、「スコッチウィスキー」と呼んではいけないと、法律で決められているそうだ。

  スコットランドでお年寄りのいる家庭では、子供が歯が生える頃にむずかる時には、現在でもモルトウィスキーで歯ぐきをマッサージしてやるようにと、若いお嫁さんに薦めるそうだ。

  蒸留所見学を終わって、“ATHOLL ARMS HOTEL”で昼食をしたが、ポテトスープが日本の味噌汁風でとても美味く感じた。

 

Bブレア城。

  城に着いた頃には小雨が降っていた。ブレア・アソールの近辺は全てアーソル公の所有地であると。アソール公爵家は、1269年からマレー部族の流れを継ぐ歴史を有する旧家で、世襲制度が今も生きているらしい。現在私兵も80人程いるらしく、エリザベス女王がハイランドの別荘にご滞在中は、この私兵が警備に当たるそうだ。

  この城にはビクトリヤ女王も泊ったことがあるし、1921年に昭和天皇(当時は皇太子)が3日間ご滞在されたとのこと。武器、家具、絵画、陶器、刺繍、レース等幅の広いコレクションが32の部屋に陳列されているので、それほどゆっくり見る時間はなかった。

  入り口を入った途端に夥しい数の鉄砲、短銃、長剣、短剣等が一部屋一杯に、模様を描いたように整然と飾り付けられているのにびっくりした。昭和天皇が泊られたという部屋は15番の「赤の部屋」と呼ばれているところで、濃い桃色に統一された幌付きの寝台、椅子等が置かれてあったが、予想外に質素なものに感じた。刃渡りの長い日本の長刀が2振り、普通の長刀が2振り壁に懸けられてあったが、刀身は鞘に入っていたので、抜けば玉散る氷の刃であるかどうかは分からなかった。

  いずれにしてもこれだけの施設と、備品を維持管理して行くのには相当な物入りであろうし、日本ではこのようなことは出来ないであろうと思った。  大きな菩提樹の並木路を通り抜けてブレア城を15:35に出発した。

 

Cヒース(日本では“エリカ”と呼ばれる)について。

  野生のヒース(スコットランドでは“ヘザー”という)は8月中頃から丘陵一面に咲き始めるそうで、花言葉は純粋、潔白を表す。花の色には赤紫、ピンク、白とあるが、白いヘザーが汚れを知らぬ花、幸運を呼ぶ花として珍重され、今でも財布の中に忍ばせたり、本の間に挟む人が多いそうだ。時季的な関係で、その見事な色の群落を見られなかったのは致し方なし。

 

D羊について。

  羊は5ヶ月で出産し、生まれた羊は4週間は草が食べられぬし、親の乳首は2つしかないから、沢山子供を産んでも育たない。また出産した親羊は気が荒くなって、自分の子供でも蹴殺してしまうことがある。従って羊飼いにとっては、子羊が生まれて4週間の間は、生まれた子羊に親羊がちゃんとお乳を与えているかを管理するのが大変な苦労だそうだ。母親が死んでしまった子羊は、子供が死んだ親羊から貰い乳をしなければならぬが、匂いが違うと親羊がまた蹴り殺すことになりかねぬので、羊飼いと母羊の知恵比べになる。死んだ子供の皮を、貰い乳をする子羊の首に巻き付けたり、死んだ子羊の汚物を、貰い乳する子羊の体に塗り付けたりして、母羊を騙すようにするとのこと。それでも駄目な場合には親羊を縛り付けて乳を飲ませるそうだ。

  このような訳から計画的な出産を図るため、羊は牡と牝とに分けて放牧されており、次の出産OKとなったら、牝羊の囲いの中に牡羊を入れる。牡羊の腹部には「色袋」が皮ベルトで着けられており、交尾が終わると、牝羊のお尻の上に色が着くことになっているので、種付け完了を認知出来る。妊娠後3ヶ月程経つと、スキャンにより胎児が何頭かを知ることが出来る。牧場毎に色は違うそうだが、その胎児の数により色分けし、羊の首にその色を着けて、子供が何頭生まれるかを予測出来るのだそうだ。スコットランドでは寒い冬場の夜は、羊を牧舎に入れるそうだ。羊は生まれて3年間毛を刈り、最初に刈った毛をラムズ・ウールという。3年過ぎると、後は食用に供される。

  スコットランドはカシミヤの生産第1位であるが、その原料はアフガニスタン、中国等から輸入している。染色や紡織の技術が優れていたことが、生産の優位を保ち得た所以であると。何でも上等な物は、1枚のセーターを作るのに、山羊12頭から1年かかって取れる量が必要とのことであった。カシミヤ・セーターが高価な訳も肯ける。

  ハイランドは森林も多いが、土地は痩せているので、放牧が主体になっている。インバネス辺りでは飼う牧畜の頭数も1エーカー当たり何頭と国から決められているそうだ。

  キミ子さんからスコットランドの王家のつながりの話しがあったが、ややこしくて何のことかよく理解できなかった。

 今夜の宿泊地であるインバネスの“KINNGSMILLS”ホテルに17:20に到着した。ホテルには隣接してゴルフ場があったし、ホテルの敷地内にも4ホール程のミニショートコースがあった。

  ホテルでチキンをメインにした夕食をした後、大前さんの部屋に誘われて、ブレア・アソールで大前さんが購入したスコッチウィスキーをご馳走になり、とてもいい気持ちになった。

 

W. 6月30日(水)小雨。

  一泊での移動は何となく慌ただしい。朝から霧雨模様の天気だった。9:00ホテル出発の時には気がつかなかったが、ホテルに日本の国旗が掲揚されていたのを、バスの中から見たと言う者がいた。

 

@ インバネス。

  “インバネス”は日本では“トンビ”ともいわれた外套の名称の由来であるが、「インバー」とはゲール語で“河口”という意味であり、ネス湖に通じるネス川の河口に開けたことが町名の由来である。ハイランドの都ともいわれ、主要行政機関が全て集まっている。

  人口4万人弱の中規模都市。元々はビクト人の町だったが、6世紀になって、聖コロンバが布教に訪れてから栄えたという。インバネスの町は全然散策の時間もなく、フォトストップして、インバネス城をネス川越しに撮影したのみ。ネス川ではサーモンの釣りが有名とのこと。

 

A カローデンの古戦場。

   名誉革命でフランスに亡命したジェームズ7世の孫、チャールズ・エドワード・スチュアート(別名ボニー・プリンス・チャーリー)の率いるジャコバイト軍が、スチュアート王家再興を目指してハイランドで兵を挙げ、イングランドに攻め入ったが、形勢逆転して北へ逃れ、終にはチャールズの従兄弟カンバーランド公が率いる9,000人の政府軍に追いつめられ、1746416日にカロードムーアで衝突した。チャールズエドワード率いる5,000の兵は疲れきって完敗し、王家再興の望みは絶たれたという古戦場。その後ジャコバイト狩りが5ヶ月に亘って行われ、ジャコバイトと見なされた者は皆殺しにされ、カンバーランド公の渾名はブッチャー(肉屋)といわれた。ヒースの生い茂る原野の中に、ジャコバイト軍の「赤地に白のバラ」、政府軍の「黄地に黒のバラ」の旗が空しくはためいていて、それぞれの陣地の跡を示していたのを、バスの中から望見出来た。この後スコットランドのクラン制度(日本でいえば藩制度)は全て廃止され、領土取り上げ、キルトの着用禁止、バグパイプ演奏の禁止等の弾圧を受けた。

  これが農業改革の始まり(クリアランス)で、ハイランドの農業者は所有地を取り上げられ、イングランドの貴族に売り渡されたので、土地を追い出された形になったという。この戦いはイングランドに対するスコットランドの永年の不満が溜まって引き起こされたといわれている。

 

Bネス湖。

  地殻変動の亀裂で出来たという水深231m、全長26kmの湖で、ピート(泥炭 )の影響で濁っている。公認ネス湖怪獣博物館の前の、池の中に鎮座しているネッシーの像を背景に一同写真を撮ったが、入場料を払って入館する者は誰もいなかたようで、隣接のお土産店内を専らショッピングしていた。

 

C アーカート城。

  13世紀の建造だが、1692年にスチュアート王家を支持するジャコバイトの手に落ちることを恐れた政府軍によって破壊された。今は廃虚となって昔の威容を偲ばせていた。足元も悪いし、家内は足が悪いので、城を入った所までで引き返した。私も城の展望台まで上がろうかと思ったが、階段は狭く、頭がつかえるので、危険予知して諦めた。城門の上でキルトを着用した人が、バグパイプを吹き鳴らしていたが、その嫋嫋とした余韻が、人の心に一層の哀愁を誘っていた。

  英国の最高峰「ベンネビス」は、残念ながら天侯不良のため見えなかったが、この辺で見られた山は、今まで通過して見てきた山に比べると、かなり急峻に見えた。12:30頃“GLENCOE  HOTEL”で昼食。

       

           アーカート城とネス湖

D グレンコー。

  1692年、ウイリアム3世はスコットランド中の“クラン”に忠誠を誓わせる誓約書を求めたが、悪天候等の不幸な出来事が重なって、期日に間に合わなかったグレンコーのクラン、マクドナルド一族が皆殺しにされた所。フォトストップして、小雨に煙る「嘆きの谷」を写真に収めた。この辺からは一面の湿地帯が続いた。

 

E ローモンド湖。

  緑深い山岳地帯トロサックス地方にある淡水湖で、37の小島が浮かぶ風光明媚なリゾート地とのことだが、今日は湖上に浮かぶ船影も見られなかった。。ここでフォトストップ。湖の岸には名も知らぬ花が赤、黄色に咲き乱れていた。バスが走る沿線至る所で見かけた赤紫色の花は、この辺では“フオック・グローブ”というそうだが、日本の“ジギタリス”よく似ていた。大変生命力が強くて、広く繁殖するようになったそうだ。

  グラスゴーの宿泊ホテル“GLASGOW MOATHOUSE”に着いたのが16:50。ホテルはクライド川に面した16階建てであった。(今回の旅行で宿泊した中で、最高層のホテルだった)。

  エディンバラから案内役を勤めてくれたキミ子さんと、ここでお別れした。

  夕食は18:45に集合して、バスで市内の中華料理店“UMBER RESTRANT”(琥珀楼)に行き、20:20にホテルに帰った。琥珀楼で注文した紹興酒は、小瓶1本£5.5だったが、まずかった。

 

 

  発言番号:723(721へのコメント)

  発言者 :萩野谷 徹

  題名  :英国旅行

  登録日時:99/08/06 21:46

 

 旅行記引き続き興味深く拝見しております。

「ヒース(heath)」と「ヘザー(heather)」についての御説明がありましたが、必ずしも同じものではないのではと思います。

 ヒースはしゃくなげ科エリカ属の各種小かん木、荒野に自生し白・紫・淡紅色鐘状の小花をつけるとあります。(研究社英和辞典)ヘザーはヒース属(Erica)の植物(研究社英和辞典)ヘザーはギリューモドキ、ツツジ科の常緑小低木、エリカに近縁で花は桃紫色。(研究社新英和中辞典)米国では一般に両者は同じものと扱っているようです。

 エリカは、私が持っている園芸の本によりますと、エリカの仲間は世界で500種以上ありますが、我が国で最も知られているのはジャノメエリカで別名クロシベエリカと呼ばれているものです。(後略)

 スコッチウイスキーで思いだしましたが、「whisky」と「whiskey」二つの綴りがあり、スコッチは前者、アイリッシュ或いはバーボンは「whiskey」だと教わりました。一番美味しいのは「moon shine(密造酒)」だと米国の友人が言ってましたが、勿論冗談だった思います。

 

 

  発言番号:724

    発言者  :森口 勝

    題名    :「英国の旅日記」(その3)

    登録日時: 99/08/08 19:22

 

X.71日(木) 晴れたり曇ったり。

  9:00ホテル出発。グラスゴーからロンドンに行くまでの現地ガイド役はマリ子さん。マリ子さんはグラスゴーに15年前に来たとのこと。英語の勉強のために文通をしていた人が何人かいたが、こんな美しいスコットランドに住む人には、悪い人はいないだろうと思って、その中の一人と結婚したそうだ。富山市出身だが、今ではグラスゴーが第2の故郷と思っているとのこと。家庭での食事について聞いたら、彼女はやはりお米を主体にしているそうで、魚沼産のコシヒカリの味は忘れられぬと言っていた。中学生の一人娘は、グラスゴーでの夏休みが今日から始まるので、父母ともに働きに出かけて不在になることを喜んで、はしゃいでいたそうだ。

 

@グラスゴー。

  1500年前セント・マンゴという坊さんが教会を建設し、その門前町として栄えるようになった。当時植民地だったアメリカ、特に煙草の集積地であったバージニヤとは、帆船で17日間も早く往復できたので、貿易港として栄えるようになった。戦前は大型貨物船も出入し、鉄道網も発達した。ホテルの近くに在った大きなクレーンは、かってグラスゴーで製造した蒸気機関車を、蒸気のトラックでここまで運んで船積みし、世界中に輸出したので、グラスゴーの記念碑的存在であり、取り壊そうという意見も出たが、寄付を募って遺して置くことになったという。一時はヨーロッパで消費する煙草の半数が、グラスゴー経由で取り引きされ、多大の富を築いた。アメリカが独立した後は、既に蓄積した富の一部を西インド諸島との貿易に向け、綿花、サトウキビ、煙草の取り引きをした。また一部をクライド川流域の重工業発展のために投資した。また造船の町としても栄え、クイーンエリザベス2世号も此処の造船所で造られたが、現在では大型船舶を造る所は無くなって、フェリー、漁船、軍関係の造船所が残っており、日本に造船のお株を奪われた。このことから「クライド川がグラスゴーを造り、グラスゴーがクライド川を造った」といわれているそうだ。

  従って、ビクトリア王朝時代には、ロンドンに次ぐ英国第2の都市として栄え、現在はスコットランド最大の産業都市である。ビクトリヤ時代の赤砂岩の建物が沢山残っており、その特徴は手の込んだ装飾的な彫刻が多く施されていること。グラスゴーの南部から切り出された赤砂岩の建物は、雨が降るとその色が一際鮮やかになって、町に暖か味を増すそうだ。現在では古い建物の外構はそのまま残し、内部を近代様式に改造することが流行しているそうだ。ヨーロッパの文化都市に指定された芸術都市でもあり、エディンバラが保守的なのに対し、グラスゴーは何でもやってみようという進歩的なところがあり、マリ子さんはそのようなグラスゴーに共感を抱いているとのことだった。

 

A ジョージ広場。

  ジョージ3世が造ったという、町の中心にあるジョージ広場でフォトストップ。此処に在る一見石造りの市庁舎は、煉瓦造りに石を貼り付けたものだそうで、1890年ビクトリア女王の臨席のもとにオープンされたもの。内部はイタリヤのフィレンツェ周辺から取り寄せた総大理石造りという豪華なものだそうだ。また広場には12基の銅像が立ち並んでおり、中程に一際と高く聳える台の上に立っているのが、ウオルタースコットであった。エディンバラでも「スコット記念塔」が、町のシンボル的存在であったが、此処でも大きな銅像を見上げて、彼の業績が偉大だったのだなと思った。その他スコットランドの偉人達の名を聞いたが、時間も無いままに、どれが誰の銅像やらよく分からないままに終わった。

  グラスゴー大聖堂は、バスから降りて遠目に眺めたのみで、それからバスは一路湖水地方に向かってひた走る。

  今日は国民投票の結果決まった、スコットランドの新国会がスタートする日だから、エディンバラは大変な賑わいだろう。今日エディンバラを観光している旅客は、そのお祭り騒ぎを見られる幸運に浴していることだろう。

 

Bグレトナ・グリーン。

  スコットランド最南端の町。ここでトイレ休憩。「駆け落ちの町」として有名なそうだ。駆け落ちの町となった由来を聞き漏らしたが、イングランドから駆け落ちした2人連れが、国境を超えて直ぐのこの町に在った“BULACKSUMITH”の家でかくまって貰ったのであろう。日本でいえば、鎌倉に在る“駆け込み寺”「東慶寺」に相当するものだろう。

  その広場でバグパイプを奏でるキルト姿の人がおり、お金を取るのかと思ったら要らないとのことなので、ご本人の横に並んで家内と一緒に写真に収めて貰った。

  This is the world famous BLACKSUMITH'S SHOP MARIAGE ROOM  GRETNA GREEN”と看板を掲げた建物が在ったので、入って見ようかと思って覗いたら、あまり見物人もおらず、観光客を受入れるような態勢も窺えなかったので飛び出してきた。此処は看板の通り結婚式が挙げられる場所で、私が覗いた時は挙式者がいなかったから、ひっそりとしていたのだと分かった。

  此処を出発すると間もなくスコットランドとイングランドの国境である。バスの中から見えた国境の家には、スコットランド側に“LAST HOUSE in SCOTLAND Marriage Room”、イングランド側には“FIRST HOUSE in SCOTLAND Marriage Room”と,黒地に白字で書いた大きな看板が屋上に掲げられ、セントアンドリュー旗がはためいていた。

  スコットランドよ、さようなら!!

  1707年にイングランドに併合された後も、スコットランド人は自国に誇りを持っており、政治的には一緒になったが、気持ちの上では違うと思っているとのこと。スコットランドに更なる自治権を与えるという選挙公約で、ブレア労働党政権が誕生したという。しかしながら独立国になりたいかというと、必ずしも積極的な意見は無いそうだ。

 

◎湖水地方

  イングランド北部の湖水地方は、イングランドで最も風光明媚な所の一つとのことで、1951年に国立公園になった。なだらかな山の斜面、平らな谷底、そしてなだらかな山の流れ、このような地形を“U字谷”といい、45000年前に火山の活動で隆起したところを、1〜2万年位前に氷河の侵食によって現在の形になったとのこと。

  この地方を“カンブリア”といい、アルプスよりも古い地層が在るそうだ。大辞林によれば“カンブリア紀“とは、古生代の最初の地質時代。約57500年前から59000年前までの時期。先カンブリア時代とオルドビス紀の間。先カンブリア時代に比べて藻類無脊椎動物が急激に増加したカンブリアにこの時代の地層が発達していることに因む名称とある。

  この辺には大小500以上の湖があるそうだが、イングランドで最大の湖といわれるウインダミア湖は全長17km、深さ63mで、この辺の湖は皆氷河に削られた後に水が溜まったものという。湖の北端にあるアンブルサイドの“THE WATERHEAD HOTEL”で昼食を済ませ、此処から今夜の宿泊ホテルのあるボウネスまで遊覧船に乗った。これは旅行代には含まれていないからと£3.8/人を支払う。

  14:45出航までの暫しの時間を、湖水の岸辺に群れる可愛い水鳥が、餌を争って奪い合う、面白い動きを見て楽しんだ。ボウネスまでの乗船時間は30分で、ウインダミア湖は、風もなく湖面は静かで、両サイドに流れる緑豊かな風景を満喫しながら、あっという間に30分が過ぎ去った。ボウネスの港に近くなり、船の上から、あれが今夜宿泊する所と教えてくれたホテルは、湖岸に面しており、日差しを一杯に浴びて輝いて見えた。ボウネス着15:15

  下船してホテルに向かう途中の湖岸の広場には、白鳥が沢山いて観光客から餌を求めたり、休息したりしていた。15:30にホテルに到着した。ホテルの玄関の上には“THE OLD ENGLAND”と出ており、掲揚されていた旗は、風もなく垂れ下がっていたので、どこの旗かよく分からなかった。  ホテルの部屋割りについてはコンダクターが苦心するところで、湖に面した部屋が全員には取れなかったというので、‘あみだくじ’を引かされたが、私は湖とは反対側の部屋が当たった。このホテルはお金持ちのお屋敷を改造したものだそうで、私の部屋の前は床が傾いていた。4〜5人乗りのリフトで2階(日本流でいうと3階)に行くのだが、そのドアーが開く時の音が、びっくりする程大きのには驚いた。

  ホテルでの夕食は20:00からなので、部屋で一服してからそれぞれに町中へ出かけた。冷やかすつもりで入った紳士洋服店で、ジャケットを見ていたら、丁度似合いの品があり、防水加工もしてあるというので、値札£245のものを£220に値引きさせて買った。体の大きい私には、日本ではなかなか格好の品を見つけ難いので、高かったが思い切って買った。此処では2泊するので気分的に余裕があった。

  夕食をしたホテルのホールは一段低くなっており、ウインダミア湖に面していたので、湖側に傾いて行く夕日が湖面にきらめいて、光と水と森との織り成すコントラストが何とも言えず美しかった。今日の歩行数は6,710歩。0:50就寝。

 

Y.72日(金) 小雨 後薄曇り。

  6:40起床。7:30から朝食。今日はダブ・コテージを見学するため、何時もより早く8:30にホテルを出発した。朝から生憎の小雨模様でガスがかかっており、一寸肌寒かった。こういう時には昨日求めたジャケットが役立つので、早速着用に及んだ。湖水側の部屋に宿泊した方の話しでは、昨日の夕焼けがとても素晴らしかったとのことで、反対側の私には見られなかったのが残念だった。

  スコットランドでは放牧している家畜は、冬季の寒い夜にはシェルター内に入れると聞いたが、この辺では年中放し飼いだとマリ子さんは言っていた。それだけイングランドとスコットランドでは気温の差があるということだろう。雨に煙る牧場の中で、のんびりと草を食んでいる羊や牛の姿を見やりながら、バスは北に向かって走る。

  途中“アルス湖”がある所でフォトストップ。此処もワーズワースが好んだ所という。丁度雨が止んでいて、バスを降りてから、羊のいる牧場の中を横切って湖岸に到着した。湖面は見晴らしがよく、山の頂上に雨雲がたなびいているだけで、鏡のように波静かな湖上に、何隻かのボートが浮かんでいた。「山の寂しい湖に一人来たのも寂しい心」というう歌が、ふと頭をよぎった。雨にしっとりと濡れた牧草の中を、羊の糞を踏まぬよう気を着けながらバスに引き上げた。羊を放牧しているので、牧場を出入りする時は、必ず木戸を閉めるようにとガイドさんから注意もあり、木戸にもその旨注意書きがしてあったが、我々一行の最後に出てくる者が閉めるのを忘れて、丁度犬を連れて入ってきた地元の婦人が引き返して閉めてくれた。小グループでも徹底することの難しさを感じた。

 

@ビアトリクス・ポターとピーターラビット。

  ダブ・コテージに向かうバスの中で、マリ子さんからピーターラビットの作者であるビアトリクス・ポターの話しを聞いた。彼女は1866年にロンドンで生まれ、父親は弁護士の中流家庭に育った。結婚するよりは両親の面倒を見るようにと育てられた人見知りの強い、恥ずかしがりやであった。当時はスコットランドで夏を過ごすことが流行しており、彼女の両親も例外ではなかった。スコットランドでの別荘の借り賃が高くなったので、それでは湖水地方でと、隔年交代で消夏するようになった。彼女が湖水地方を訪れたのは16歳の時であったが、幼い頃から絵心があり、絵を書くことを教わっていた。大人になってからドイツ語の家庭教師と親しくなり、その教師の男の子が病気になった時に手紙を書こうとしたが、何を書いてよいか分からぬからと、彼女のペットであるウサギの“ピーター”のお話しを書いたのが始まり。それを読んだ人が出版を薦め、出版社に原稿を送ったが断られたので自費出版した。口絵だけをカラーにし、その他は白黒の絵で出版した。最初150部、続いて300部売れた。これを見た出版社から出版したいとの申し込みがあったが、手紙形式をもっと絵本らしくすること、白黒絵を全部カラーにすることという条件付きであった。彼女は別荘に閉じこもって製作し、1902年にこれを出版した。2年間で5万冊という当時としては物凄いベストセラーになった。この印税と叔母さんの遺産を合わせて、大好きな湖水地方のニア・ソーリーの近くに“ヒルトップ農場”を購入した。何事にもうるさい両親も投資になるからと、この購入には賛成したという。

  その一寸前に、くだんの出版業者から求婚されたが、両親に反対される。その出版業者は悪性貧血で死亡し、彼女は大変な嘆き悲しみのあまり体を壊したが、ヒルトップの農場に来ることで健康を回復した。

  美しい自然や歴史的遺産を守るための、民間の保護団体である“ナショナル・トラスト”は1895年に設立されたが、彼女は強くこれを支持するようになり、1930年にはトラストに加入した。また彼女は、北イングランドに適する羊の飼育にも力を入れ、現在もそれが受け継がれているそうだ。

  46歳の時ホークス・ヘッドに住む弁護士ウィリアム・ヒールスから求婚されたが、また両親に反対された。彼女の弟が、いくら何でも46 歳にもなって、親のいうことを聞かなくてもいいんじゃないのと薦めてくれ、2人で1年かかって両親を説得の末、翌年に47歳で結婚した。結婚の翌年父親が亡くなり、ロンドンから母親を湖水地方に引き取って、看病しながら農場経営をした。

  弁護士の夫は社交家でもあり、彼女は晩年を幸せに暮らし、77歳で夫に見守られて昇天した。遺産は夫に受継がれたが、夫の死後はナショナル・トラストに寄贈するようにと遺言されていた。彼女は晩年の30年間に4冊しか本を書かなかったそうで、その幸せな生活ぶりが想像できる。“ヒルトップ農場”は、木・金はお休みで、今日は金曜だから見られず、お話しを聞くだけに終わったのは心残りだった。湖水地方を訪れる人々が、昔と変らぬ風景を見ることができるのは、彼女が愛する湖水地方の自然保護に力をいれた賜物である。

  湖水地方を訪れる観光客は、日本人とアメリカ人が多いとのこと。

  マリ子さんはピーターラビットは大人が呼んでも面白く、考えさせられる本だから、英語で読むことを薦めるとのことだった。

 

Aダブ・コテージ。

  ホテルを出発してから2時間余かかって到着した。また小雨が降って来た。此処はロマン派詩人であり湖畔詩人ともいわれたワーズワースが1799年から1808年まで住んでいた家。彼は湖水地方の北部で生まれ、彼の家庭は父親も兄も弁護士であったが、彼は大学卒業後は詩人となった。ヨーロッパの旅をした後、元々はパブだったというこの家を借りて、妹のドロシーと一緒に住み、彼の最も充実した時代を過ごした。幼なじみのメリー・ハッチンソンと結婚したのも此処であり、彼の傑作の殆どは此処で書かれたという。ドロシーは一生結婚しないまま、兄に献身的に尽くし、また兄を尊敬していたので、克明な日記を書いており、それが残っているため、ワーズワースの生涯が分かり易いという。その日記によると、彼女が得たインスピレーションを、兄に話したことが、彼の詩作に役立っていることが分かるそうだ。

  2階建ての家を覆うようにバラや名も知らぬ花が咲いていた。小さな門には“Dead flowers make poor souvenirs Please leave them for other people to enjoy.”と書いた小看板が掲示されていた。観光客が多く、雨の中を暫く外で待たされ、入場してからも、先行のグループに対する説明が終わるまでは、次の部屋に進めなかった。入場したところの部屋には、木製の名刺受けがあった。

  居候もいたようで、多い時には9人もいたとか。台所には暖炉があり、壁の下部が外部と通ずるよに開いており、天然冷蔵庫の役目をしていると。当時は羊の油と蜂蜜のワックスで蝋燭を作ったそうで、その保管箱が置いてあった。天井は思ったより高く、1階の土間は石材を嵌め込んであった。2階に上がる階段の上に、70歳の誕生日に贈られたという鳩時計が懸けてあったが、その年齢の時は、ライダル・マウントに住んでいたのだから、何故此処に懸けてあるのかを質問するほど頭が回らなかった。寝室にはダブルベッドが置いてあったが、衣類の洗濯は5週間に1回とのこと。彼の身分証明書に相当する書き付けが掲示されており、また3人の子供部屋の壁紙は新聞紙で、当時の新聞記事を知ることができる。

  ワーズワースの生き方は、「生活は質素に、心は高貴に」ということだったとか。一時は37匹の犬を飼ってていたそうだ。

  建物内部は撮影禁止。

  見学が終わり11:58にダブ・コテージを出発して、ホークス・ヘッドへ行き、“THE SUN INN”で昼食の後、小さな街の中を散歩し、孫達のために“ピーターラビット”の本を7冊購入した。(£4.51冊)。他の店を覗いたら、3冊まとめ買いをすれば、£11:00と表示されてあった。ホークス・ヘッドを15:00に出発して、ライダル・マウントに向かう。

 

Bライダル・マウント。

  ワーズワースが1813年から、80歳で死去する1850年まで暮らした家で、先に見たダブ・コテージに比し外見、内部ともに立派なものであった。

  此処の管理人らしい女性の説明によると、彼の生誕200年を記念して、197047日に一般に公開されたこの家は、ワーズワースの孫の孫の孫の孫の女性が所有していたプライベートのもの。そして此処は今もワーズワースの子孫が時々来て住んでおり、博物館ではない。マリ子さんが直接に管理人に聞いたところによれば、この家は元々は借家で、持ち主の要請で返却されたので、彼の一族は住んでいなかったが、30年程前にこの家が売りに出たので、ワーズワースの子孫が購入して住むようになった。別荘として使用しているらしく、普段は管理人に任せて公開し、必要な時に来て住むらしいとのこと。

  ワーズワースが居間として使っていた部屋は1500年代のものであり、新しい所でも1700年代の建物とのことだった。展示品には英語でそれぞれ説明書きされていたし、日本語の簡単な説明書もあったが、これは退場する時に要返却だった。建物内部は写真禁止。見学を終わったところで、家の前に一同集まって佐山さんに写真を撮って貰った。(この旅行期間中で集合写真を撮ったのはこの1枚だけに終わった)。

  ワーズワースが自分で考え、デザインして作らせたという、美しい庭園内を暫く散歩して気分を爽やかにした。ワーズワース自身もこの庭を散策しながら、詩の構想を練り部屋に戻って書き上げたという。庭園に咲いていた芳香の花の名は、マリ子さんが管理人に聞いたところ、“ポルトガル・ロウレル”とのこと。

  16:10にライダル・マウントを出発して、16:25にホテルに帰着した。19:30のホテルでの夕食までに時間があるので、家内と共に今一度ウインダミヤア湖畔に行って、回りの風景に溶け込んだ。帰る時に気がついたのだが、ホテルの前の民家の生け垣に、可憐なハマナスの花が咲いていた。

  本日の歩行数6,480歩。就寝23.50

 

 

    発言番号:726

    発言者  :森口 勝

    題名    :「英国の旅日記」(その4)

    登録日時:99/08/09 22:34

 

Z.73日(土) 薄曇り一時雨。

  5:45起床、7:00にスーツケスをドアー横に出した後で朝食。今日は湖水地方を発って、イングランド中央部のストラトフォード・アポン・エイボンに向かう日なので、走行距離が長いため、何時もより1時間早く8:00にホテルを出発した。出発して間もなくケンダルの町を過ぎる頃雨が一しきり降って来た。途中、「嵐が丘」の舞台となったハワースの“ブロンテ姉妹の家”を訪ねた。

  先ずブロンテ姉妹の父が牧師をしていた「ハワース・パリッシュ教会」の前で、マリ子さんからハワースでの行動予定の説明があった後見学した。教会の中を通って抜け、ブロンテ姉妹の家に入った。

 

@ ブロンテ姉妹の家。

  ブロンテ姉妹とは、シャーロット(1816年生まれ)、エミリー(1818年生まれ)、アン(1820年生まれ)のことであるが、シャーロットの上には姉が2人いたが11歳と12歳で亡くなった。シャーロットの下には弟のブラウンウェル(1817年生まれ)がいた。父親のパトリック・ブロンテは教会牧師で、1820年にハワースの教会に赴任して来たが6年で死亡した。当時の教会牧師は中流の最低に近い職業で、父の牧師が亡くなると忽ち生活に困るようになる。当時の女性の働き口としては、お金持ちの家庭に雇われて、子女の教育をする家庭教師(governess)であったから、3姉妹もそれに倣ったがアンは5年で、エミリーは嫌だといってすぐ止めた。その頃の牧師の収入が£200だっのに対し、家庭教師の収入は£30〜£40でしかなかったという。

  ブロンテ姉妹は成人して、ハワースの牧師館に戻って来て住むようになったが、或る日エミリーが詩を書いているメモをシャーロットが発見し、私も詩を書いているのよということで、3人で詩集を出すことになった。当たれば金持ちになれるから、中流女性の間では出版が流行していた。男性名で自費出版したが全然売れなかった。次に書いたのが小説で、シャーロットの「ジェーン・エア」、エミリーの「嵐が丘」、アンの「アグネス・グレイ」であった。弟のブラウンウェルは画家を志し、先生について勉強もしたものの、挫折してハワーズに帰って来たが、後に阿片と酒に溺れ、胸の病から30歳で死んだ。パリッシュ教会の前には彼の通った酒場や、麻薬を買ったという店があった。エミリーはブラウンウェルの葬式の日が寒くて、風邪を引いたのがもとで胸を患い29歳で死んだ。アンも同じ病気にかかっていることが分かり転地療養させたが、エミリーの死んだ翌年28歳で死んだ。シャーロットは父親の副牧師をしていた者と結婚したが、妊娠が原因で胸を患い1855年に38歳で死亡した。年子のように生まれ、両親に早く死に別れ、また相次ぐように若くして死んで行ったブロンテ姉妹が哀れに思えた。

  牧師館は煉瓦形状をした石積みの二階家で、箱型の直線的な建物だった。建物の内部は撮影禁止、ガイドさんの説明もできぬとのことで、各部屋の入り口に書いてあった表札を便りに見て回った。

  エミリーが息を引き取ったという長椅子や、ブラウンウェルの書いた肖像画があった。裏にあったもう1棟の建物を通って裏口に出た。その裏側はもう丘陵の原野になっていて、これが“ムーア”だなと暫し眺めやった。

  見学を終わって町の中を散策している時に雨が降って来たので、昼食場所の“OLD WHITE LION”の酒場の方で時間待ちをした。11:30から昼食、終わって12:40に出発する時には雨は止んでいた。カメラ電池は新しいのを入れ替えたばかりだから、大丈夫だとは思ったが、フォトショップがあって売っていたので、念のためにと高いのを承知で買ったら、日本では2\1380で買えたものが、此処では£15.982倍以上かかった。店主に電池をチェックされた時、日付が初期設定になってしまっていたのを気づかず、ホテルに着いて後に分かった(電池は旅行を終わった後もまだもっている)。

  途中ここが「嵐が丘」の舞台だったという所でフォトストップして、遥か彼方は薄靄に霞んでいる広大な「ムーア」を写真に収めた。

 

Aイギリスの階級。

 マリ子さんの話しでは、イギリスでは上流階級、中流階級、労働者階級と、階級による差別が隠然として残っているそうだ。階級によって行く学校、レストラン、ブティックが違い、住んでいる所、言葉遣い、マナーも異なる。従って下流の者が着飾って上流階級の者が行くレストランに行っても、直ぐ見破られ、木で鼻をくくったような扱いをされ、折角高い金を払って行っても不愉快極まる思いをするだけだから、そういうことはしようとせず、お互いに分を弁えて暮らしている。一声発すると、その人がどの階級に属するかが分かるというから凄いものだ。ビクトリア時代の公・候・伯・子・男爵の階級が今もあって、昔は貴族は固定資産税も払わなくて済んだが、1950年代に改革があって、固定資産税や相続税を払うようになった。従って多大な資産を維持するのがだんだん大変になって、相続税を払うために資産を切り売りしたり、維持費を捻出するために建物等を公開して、入場料を取ったりしているとのことだ。スコットランドで見た「ブレア城」もその部類に属するものらしい。

B 石積みの垣につぃて。

 スコットランドからイングランド北部にかけて見られた、広い土地を区切ったような石垣は、土地の囲い込み運動の名残でもあるそうだ。1700年代から人口が増え始め、食糧確保のため農地が必要になって農業革命が起った。それまで4人の内3人までが農業地帯に住み、何とか生活ができた。ところが土地の所有者を明らかにし、石積みを造って境界線がはっきりして来ると、それまで誰の土地だか分からないままに住んでいた者は追放されることになった。先述したように、スコットランドではこれを「ハイランド・ クリアランス」と言っている。追い出された者はアメリカ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド等に移民するか、長時間労働者として雇われるようになり、やがて産業革命が起きるようになった。

  この石積み(ダイクといい、石積みの間に石以外のものを挟まないのをドライ・ダイクという)は手作業で行われるが、崩れぬように一枚一枚石を積み上げるのだから、相当の技術を要するそうだ。現在でも毎年石積みの競技大会があって、昨年は40-歳代の女性が優勝したそうな。生活の中に今もしっかりと石垣が定着していることの現れであろう。スコットランドからイングランド北部にかけては、掘れば直ぐ岩だそうだから、それだけ土地が痩せていることである。牧畜の飼料として牧草が生えやすいように、原野の石を掘り起こし、その石を積み上げていったのであろう。イングランド中部から南部にかけては石垣から生け垣になるとのことだ。

 

C ストラトフォード・アポン・エイボン。

 美しい田園風景が続くコッツウォルズ地方の、小さな田舎町の一つである。“エイボン川のほとりに在るストラトフォードの町”という意味で、有名な文豪シェークスピアが生まれ、晩年を過ごし、そして亡くなった所だ。彼が眠るホーリー・トリニティ教会は、明日は日曜で礼拝があるため入場できないので、今日に予定を繰り上げて参観した。

 

D シェークスピアのこと。

 彼の生まれは1564423日頃ではないかといわれる。当時は出生届けも無いから、426日に洗礼を受けていることからの推定である。父親は町長のような役割をしており、また羊の皮や羊の皮の手袋を扱う業者でもあったから、父の羽振りのよい時に生まれた。父親は県知事のような役につこうと画策したが成功せず、家運が急に傾き事業にも失敗した。借金取りに追われるような貧乏暮らしになったので、彼はこの町のグラマースクールを出た後大学には行けなかった。彼は日記をつけていないので詳しいことは分からないが、18歳の時に、裕福な農家の出身である8歳年上のアン・ハサウェイと結婚、すぐに長女のスザンヌが生まれ、次いで男女の双子が生まれて、20歳になる頃には3児の父親であった。

  その後単身でロンドンに行き、1580年代から劇団付きの役者兼劇作家になった。1590年頃から作家活動が始まり、「ヘンリー6世」「リチャード3世」「じゃじゃ馬ならし」等沢山の作品を書いた。1599年ロンドン、テムズ川南岸の劇団グローブ座の株を買い、大入りがあると配当が増えて、やがて名声を博し金持ちになって、46歳で引退しこの町に帰り、町で1〜2を争うような大きな家を買って住んだ。

  或る日ロンドンの昔の友人が訪ねて来て、一夜痛飲した後風邪をこじらせたのが原因で、1616423日頃に52歳で死亡し、ホーリー・トリニティ教会に葬られた。彼が死んだのは、生まれたのと同じ月日ではないかといわれている。日本では徳川家康が亡くなった頃の話しである。

  彼の作品は4大悲劇(ハムレット、オセロ、リヤ王、マクベス、)を始め、喜劇の真夏の夜の夢、ロミオとジュリエット、ベニスの商人等々、あまりにも分野が広く深い知識が必要な作品だったため、シェークスピアという人物は存在しなかったのではないかともいわれるが、ストラドフォードの町では近代の研究の結果、彼は実在して、総ての作品は彼の手によるものだといわれているそうだ。

 

E ホーリー・トリニティ教会。

 シェークスピアが洗礼を受け、また眠っている教会で、彼は日曜日毎に礼拝に来ていた。1200年代の終わり頃に造られたものだそうだ。建物の中央部の色は黄色味を帯びていたが、左右は黒ずんでいた。中央部が一番古く、14世紀、15世紀と修理が行われたという。

  当教会も長い時の流れの中で荒廃が進み、それを修復して行くのに毎年約£60,000のお金が必要とのことで、「ペンスの寄付」が募られていた。

   教会内の祭壇の最前部に、彼の名を刻んだ石碑が埋められていた。

  妻アンを始め彼の家族の墓が並んでいた。境内や教会内の通路には石盤が到るところにあり、特に石盤の上は、歩道のように使用されているのが、これで良いのかと気がかりであったが、沢山の人に踏まれることが功徳になるとの考え方らしい。

  教会の出入り口の内側の扉は15世紀に作られたもので、それに13世紀製というドアーノッカーがついていた。いかなる罪人も此処に入れば、37日間の保護を受けることができたという。

  教会を出てからホテルまで、エイボン川沿いの心地よい風景を眺めながら散歩して帰った。エイボン川ではボート遊びをする者や、キャンピングボートを連ねて、休日を楽しんでいる者が多かった。

 

F ロイヤル・シェークスピア劇場。

  エイボン川のほとりに建つ赤煉瓦色の建物で、シェークスピア劇だけを上演している。夏の間は毎晩、冬は隔日程度の開演だそうだ。シェークスピア以外の作品は“OTHER PLACE”劇場で上演されているとのこと。現在は“真夏の夜の夢”が上演されているとのことで、入場希望者はいないかと聞かれたが、誰も行く者がなかった。

  因みに入場料は£36程度とか。今日は土曜日だから立ち見席しか無いかもとのこと。

  また劇場の前に広がる“バンクロフト・ガーデン”には種々の花が咲いていたり、街灯にはハンギング・バスケットの花が飾られていてとても美しかった。町中を挙げて観光客を歓迎しているという姿勢がよく窺い知れた。

  今夜のホテルである赤煉瓦造りの“MOAT HOUSE”に17:30に到着した。夕食は19:00からで待ち時間があったから、歩いて出た汗をシャワーで流した後は、疲れた体を休めた。

  エディンバラで買ったバーバリーのブレザーを着用して夕食に行ったら、同席の者からよく似合うと褒めてくれた。お世辞とは分かっていても悪い気はしなかった。日本人客と食堂で一緒だったので、食後ホテルの庭に出て散策した時に話しをしたら、阪神航空のツアーで、我々とは逆回りのコース辿っており、ロンドンでは大変暑かったと言っていた。

  今日は426kmを走破したとのことで、さすがに一寸くたびれた。

  おまけにエレベーターから部屋までの距離が相当長かったので、余計に疲れた感じがした。

  本日の歩行数は6,550歩。就寝23:45

 

 

    発言番号:727

    発言者  :森口 勝

    題名    :「英国の旅日記」(その5)

    登録日時:99/08/10 23:27

 

[.74日(日) 薄曇り 時々雨。

  今日はストラドフォードの市内観光をして、次の宿泊地である南イングランドのバースに向かう日。荷物を8:00に出して、9:00にホテルを出発した。まず車窓から、1500年代のものという木枠組みの大きな建物、“ホールズ・クロフト”(シェークスピアの長女スザンナとその夫ジョン・ホール医師の住まいだった所)を見た。この家の2階には当時の医療器具が展示されていて、鋸、ペンチ、鉈等、まるで大工か樵が職業かと思われるようなものだそうだ。 アン・ハサウェイの家には9:15に到着したが、普段は9:00開場が、今日は日曜日のため9:30から。待ち時間を利用して近辺を散策した。

  道路を隔てた所は川で、木の橋が架かっており、その先は牧草地が開け、二匹の山羊が遊んでいた。ずっと先には、この土地の所有者らしい赤煉瓦の家が建っていて、いかにものどかな風景だった。

 

@アン・ハサウェイの家。

 シェークスピアの妻アンが結婚以前に住んでいた家。大きな藁葺き屋根の家で、屋根全体に金網が被せられていた。鳥害や風害を防止するためとのこと。建物は2棟が一列になっており、屋根は段違いになっていたが、内部は続いていた。道路から遠い棟に1基、手前の棟には2基の煙突が立っていた。家屋は木枠の嵌め込み構造で、壁は土、砂、牛の糞を混ぜて塗り、その上を漆喰で固めてあるとのことだった。家の入り口には赤いバラと、同色のゼラニュームが一際鮮やかだった。庭は広く黄色い花が一面に咲き乱れていた。

  屋敷全体から受ける感じが生き生きとしていた。道路から離れた奥の方は、果樹園のようだった。庭にあった、沢山実を着けた大きな木はリンゴだった。家を出て更に奥に入って行くと、お土産品売り場になっていた。その庭もまた奇麗で、小鉢に植えた種々の花が並べられていた。種子も売っていたが、これが欲しいというものはなかった。

  家の内部を見て面白いと思ったのは、両親の寝室に置いてあったベッドで、マットの下の台座に綱が張ってあり、これをピンと張ることによって良く眠れたという。“Sleep Tight !”が「よくお休みなさい」という意味に使われるのは、これが理由だそうだ。また子供は毛布にくるまって床の上に寝たという。この家には最多11人が住んでいたと。キッチンの間にあったオーブンでは、藁を燃やし加熱して調理し、その余熱でパンを焼いたという。

  家の内部は撮影禁止で、後になって思い起こせるような材料が得られぬのが残念。此処の入場料は旅行代の中に含まれていたが、掲示板に書かれていたのを参考までに記すと、大人£3.9、小人£1.6

 

A シェークスピアの生家。

 木枠組みの建物であるが、アン・ハサウェイの家と違うのは、屋根が石板葺きで、構造の木枠組みの中は漆喰塗りではなかった。

  彼はこの家で生まれ、青年時代の初期までを過ごしたという。ガイドさんの説明もなく、写真撮影禁止、英語の説明書きを読んでいたのでは、老眼の私には時間ばかりかかるので、適当に見て通ったから、あまり印象に残らなかった。但し見終わって戸外に出た時には、そこにまた美しく咲き競う花畑が在り、そのあでやかさと歴史を経た古い建物との対照が強く印象に残った。

  この生家を出て、大前さんと一緒にヘンリーストリートを散策して、11:45に出発するまでの時間を過ごした。ユニオンジャック旗を掲げている店があった。

  バスはコッツウオルズ地方(北はストラトフォード・アポン・エイボンから、南はバースに至る160kmにわたって広がる丘陵)の広々とした眺めの中を、一路バースに向けて南下する。車窓から見て、草原の中に忽然と湖が現れたのかと思ったら、それは“リンシード”の花畑だそうで、その淡いブルーの色が何ともいえず美しかった。亜麻仁油の原料になるとか。12:20頃田舎のパブ“RED RION PUB"で昼食し、13:40出発。パブのマスターが、わざわざバスまで見送りに来て御礼を言ったのが、サービス精神旺盛に思えて微笑ましかった。

  14:20頃コッツウオルズ地方の“バーフオード”の町でフォトストップし、町内を散策して14:50出発。所々で“ひなげし”の花が畔の縁に赤い列をなして咲いていた。

 

Bロイヤル・クレッセント。

 ジョン・ウッドの息子がデザインしたタウンハウス。エディンバラで見たのと同じようなジョージ王朝様式の1700年代のもので、三日月形のアーチ状をした、180mの長さがある建物で、6m毎に30軒の家が連なっている。1階の部分だけ石と石の間の彫刻が深くなっており、地下があって、明かり取りのために広い前庭があり、高さは3階で、ギリシャ風の柱が立っている。石灰岩で出来た「バース・ストーン」を 使っており、クリーム色をした明るく美しい建物だ。

       

          ロイヤル・クレッセント

Cロイヤル・ビクトリア・パーク。

 ロイヤル・クレッセントの前にあり、ビクトリア女王が11歳の王女時代に、「ビクトリア」という名前を、初めて冠してオープンした公園。ビクトリア女王はこんな賑やかな町は嫌だといって、2度とバースには来なかったという。女王はどちらかというと、スコットランドのように、「ひとけ」の無い自然を好まれて、其処には毎年行かれたそうだ。?B?Cをフォトストップして眺め、バースの町に入ったのが16:30だった。

 

Dバース。

 英国随一の温泉場でBATH(風呂)の語源にもなった。今から2000年前にローマ人が鉛と錫を求めて西方にやって来た時に、こんこんと湧き出ているお湯を発見した。今でも48℃もあるお湯が1125リットル以上も湧き出ているが、殆ど当地では使われていない。43種類もの鉱物質が含まれているが、硫黄分が少ないので、ただの火山による温泉ではなくて、昔に地層に閉じ込められた氷河が、地熱で温められて出て来ているのだろうといわれている。その後は雨水が溜まって、温められて出て来ているのだろうと。お風呂の好きなローマ人は早速お湯の湧き出ている所を石垣で囲み、そこから鉛のパイプを引いてあちこちに給湯し、色々な風呂を造った。

  中には水風呂もあったが、100年後には屋根が造られ大浴場になった。その横に“サル・ミネルバの神殿”を造った。“サル”とは先住のケルト人が温泉の神を崇めてつけた名前、“ミネルバ”とはローマの病気を直す神様。この神殿にお参りをして、隣のお風呂に入るのが、当時の流行になった。

  サクソン人はお風呂に興味がなかったため、ローマの風呂はやがて土砂に埋まってしまった。その後この風呂は皮膚と骨の病気に効くということで、病気の人だけが療養に来るようになった。シェークスピアもやって来たというし、エリザベス1世女王も1500年代に来たというが、町があまり汚くてお叱りを受けたそうだ。1700年代になって、体の弱かったアン女王が当地に療養にやって来た。そうなると上流階級や中流階級の人もやって来るようになり、こんな汚い町では駄目だということで、リチャードオーナッシュという人が町に進言して、奇麗な家並みを造るよう市長を説得して、現在のような家並みの美しい町になったという。

  バースは当時お金持ちのリゾート、保養地であったが、退職者が余生を送るところでもあった。また此処は一大社交場になっていて、ネルソン提督も愛人のエマ・ハミルトンを連れてやって来た。

  その後プリンス オブ ウェールスが、こんな温泉に入るより海岸で日光浴した方がよっぽど体に良いんだということで、海岸の方に行ってしまったので、此処も昔程は賑やかでなくなった。

 

Eローマ浴場跡。

 19世紀末に発掘され、遺跡はもっと広いらしいが、それを掘ると地盤沈下を起こすので、ローマの温泉の遺跡と神殿の一部が地下の博物館となっている。65歳以上の入場料1人£6:00を支払って入る。入場券売り場は列ができていた。機械による日本語の説明を聞きながら回れる訳だが、一通り聞いていると2時間かかるそうだから、17:25集合では30分程の見学時間しかない。主な所だけを拾い聞きして行くのだが、時間を気にしながら機械の説明を聞いていると、慌ただしくてあまり記憶に残らなかった。

  大浴場は2階にも回廊があり、それを支える柱に、めらめらと焔を上げて燃えている大灯火が、浴場の水面に映えて一寸神秘的であった。たたえられた湯は青緑色をしていたが、鉄分が多くて入浴は不可とのこと。洞窟の中から湧き出ている湯は、温度が高いのか熱気でむっとした。説明を聞きながら、もっとじっくりと見て回りたかった。

  15世紀に、当時の司教だったオリバー・キングによって再建されたというバース寺院は、時間が無かったので一寸中を覗いただけだった。面白いなと感じたのは、外部の西側正面の両側に、キング司教が見た夢に基づいて作られたという、梯子を登る天使達の彫刻で、右側の上から2人めの人物だけが逆さに彫られていた。これは降りる者を表していると聞き、なるほど上る者と降りる者とを区別するには、これしか方法がないんだなと思った。バース寺院の前の広場では、若者達が集まってパフォーマンスをしたりして、とても賑やかだった。

  この町の中にもエイボンという名の川が流れており、パルトニー橋の直ぐ下流は、川の流れがアーチ形の3段階になっていて、それぞれの段の流れが描く水沫模様が美しかった。この川にもキャンピング・ボートが連なっていた。パルトニー橋は、フィレンツェのポンテ・ベッキオ橋を模して造ったそうで、橋の上に建物が建っており、此処を通る人は、橋の上を渡っているとは気が着かないとのこと。このような橋はイギリスでは此処にしか無いそうだ。

  17:35に今夜の宿泊ホテル“HILTON NATIONAL BATH”に到着した。ホテルでの夕食後、横のベランダに出てまだ明るいバースの町並みを暫し眺めた。エイボン川が輪のように曲がって流れている内側に、浴場、神殿を中心に町ができ、地形は北に向かって高くなっているので、高い方へ向かって逐次新しい住宅ができて行った様子が窺えた。ホテルから眺めた夕映えの家並みが奇麗であった。

  部屋は3階で今までよりは広めだったが、此処もエレベーターからは遠かった。また室内プールがあって、そのカルキ臭が廊下に立ち込めており、その湿気のせいだろうが、廊下の壁紙が剥げていたり、黴が生えて黒ずんでいたので、ヒルトンと名がつくホテルにしては維持管理が悪いなと思った。またバスタブに取っ手が着いていなかったから、普段使い慣れている老夫婦にとっては難儀なことだったし、水洗トイレの流れが悪くて苦労した。

   本日の歩行数9,750歩。就寝0:00

 

 

  発言番号:729

    発言者  :森口 勝

    題名    :「英国の旅日記」(その6)

    登録日時:99/08/12 17:38

 

\.7月5日(月) 薄曇り 時々雨。

 8:00までに荷物を出して朝食し、今日の宿泊地ブライトンに向かって9:00に出発。バースの町を散歩してみることもなく後にするのが、些か心残りであった。

 

@ストーンヘンジ。

 10:00頃到着。遺跡への入場者が列をなしていた。入場に当たって、「謎の遺跡ストーンヘンジ」なる日本語の説明書が渡された。それによると、本遺跡の建設段階は次の3段階に分かれると。

a.紀元前3050年(5050年前)土塁と周溝(ヘンジ)が作られた。

b.紀元前2500年(4500年前)中央に木造建物が作られた。

c.紀元前25001500年(45003500年前)石のモニュメントが作られ、約100年にわたって並べかえられてきた。

この辺は、昔は森林地帯だったそうだが、今は見渡す限りの平原である。

  マリ子さんの話しによると、ウィルトシャーは「不思議の国」といわれており、その一つがユネスコの世界遺産にも選ばれているストーンヘンジで、環状列石ともいわれる巨石の遺跡である。。その外、今日は天候の加減で見えなかったが、丘の斜面に白馬が6体も浮き彫りになっている所があると。この辺り一帯は地下がチョーク質だが、この白馬も誰が何のために作ったのか分からない。発見されたのは古いもので200年前くらいだから、作られたのはもっと前ということだ。もう一つ「ミステリーサークル」というのがあって、朝起きると、昨日まで何もなかった麦畑の真ん中が、奇麗に踏み潰されて、円形の模様ができていたりするとのことだ。

 ストーンヘンジは5000年くらい前、新石器人が建てたのではないかといわれている。

 

 夏至の日の太陽が真っ直ぐこの列石の中に入って来ることから、カレンダーの役割をしていたのではないか、祭壇で生け贄を捧げたところではないかといわれているが、いずれにしても、かなり高度な技術を持った人間が、相当の気を配ってこの石を配置したという所までは、総ての考古学者の意見が一致

ストーンヘンジ       しているが、「何のために?」ということになると、意見百出で分からないのが現状であるとのこと。ただ明確なのは、これだけのものを建てさせるだけの、強力な支配者が存在したということである。この巨石は、船と船の間に支柱を渡し、その支柱に、縛った巨石を懸け、海中に沈ませて運搬したのではないかと言われている。

  周辺には古墳の盛り上がりが見られたが、中には骨のかけらも残っていないそうだ。約30分間の無料オーディオ・ガイドもあったが、英語によるものだったから、マリ子さんの説明を聞きながら回った。一周できるようになっている道は、何故か途中で通行禁止になっており、来た道を引き返した。

  ストーンヘンジ周辺の石は、過去の人々により、砕かれ、持ち去られ、家屋や道路の建設に利用されてきたり、多数の観光客の訪問により、地面ははげ、有史以前の遺跡に深刻な侵食が見受けられるようになったため、遠回りにロープが張り巡らされて、巨石群の側に近寄れないようになっていた。ストーンヘンジの原形はこのようであっただろうという、大きな絵図の看板が見学通路の脇に掲示してあった。

  現在、周辺の1600ha以上にわたるウイルトシャーの丘陵に、自動車にも騒音にも煩わされることなく、人々が自由に歩けるような、有史以前をテーマとする「紀元2000年公園」を設置する計画が進められているとのこと。10:30に此処を出発。

 

A ソールスベリー大聖堂。

 11:00に到着。此処も入堂に当たり、日本語の簡単な説明書をくれたが、大聖堂は東西135m、南北62m、尖塔の高さ123m、上から眺めると十字架の形状をしており、イングランドで最も古い聖地の1つであると。チャピターハウスと礼拝時を除いて、大聖堂内を自由に撮影できたのは有り難かった。

  元々は「オールド・サーラム」という小高い丘の上に、ウイリアム征服王と共にやってきた、セント・オズマンド司教が建てたものだが、お城と一緒の所だったため、戦争の度に巻き込めれるし、また土地がチョーク質で水が出ず、雨水に頼るしかなかった。そこでリチャード・プア主教の時に、水も無い、お祈りもゆっくり出来ないからと、ウイリアム征服王にお願いして、移転する土地を貰った。水があればいいんだなということで、3本の川が合流している、ひどい湿地帯を与えられた。

  現在は湿地帯の面影は全然見られず、広い境内は緑の芝生が鮮やかで、日本と違って、自由に立ち入って良いし、この芝生の上で、持参の弁当を楽しむことができるそうだから羨ましい限りだ。

  1220年に、オールド・サーラムから移設のための礎石が置かれ始めたのは、東端のトリニティ・チャペルからで、最後に尖塔が載せられた。リチャード・プア主教のアイデアの基に、たった90年間で、イングランド初期ゴシック様式で統一された、これだけの建物を建ててしまった。建物の素材は近くで産出するジュラ期の白い石灰岩で、雨が降ると灰色になり美しいという。何百年もかかって、継ぎ足しながら大きくなった大聖堂が多い中で、この大聖堂は比較的短期間に建設され、統一された美しさを持っているのが特筆すべき事項であると。

  200年前の大改革で、内部が暗いからと、ステンドグラスを素通しのガラスに変え、多い窓からの光りで堂内は明るく、軽やかで女性的な繊細さを見せている。古いステンドグラスが一部だけ西の大窓に残っているとのことだが、現在は修理中の覆いが掛けられていて、見ることは出来なかった。現在のステンドグラスは殆ど新しい物とのこと。別棟だった鐘楼もこの時に解体して売却し、そのお金を貧しかった司教や、坊さんに分かち与えたり、聖堂の改修資金に当てたとのことだ。

  この聖堂が65年間で一応出来上がった時には、尖塔はそう高くなかったが、更に神に近くということで、その後次々と上に123mまで伸ばし、6400トンもの石を載せた。そしてイギリスで一番高い尖塔を有する大聖堂となったが、最初はそのような設計にはなっていなかったから、建物に歪みが生じ、外側や内側からフライング・バットレスや補強アーチ等で増強作業が行われた。尖塔の内側中心部位に釣り下げられてある、1本の細長い円棒の先端が、尖塔礎石の対角線の交点上に埋めてある銘板よりも、少し西南に片寄っており、77.5cmの傾斜を生じているとのことだった。

  入堂して最初の左側に、半円形をした、どでかい櫃のようなものが在ったが、13世紀に僧侶のガウンを入れておいた衣服箱で、重くて手では蓋が開けられず、綱をつけて引っ張って開けたそうだ。

  それに続いて置いてあったのが、1386年頃の製作といわれるヨーロッパ最古の大時計。先ほど述べたように、200年前に取り壊された鐘楼に使っていたもので、毎時に時を報じていたとのこと。今はその装置だけが堂内に展示されて動いていた。ロープの両端に石臼状の重りをつけてあり、一方の石は他方の石の3倍位の重量ではないかと思われたが、ハンドルで重い方の石を巻き上げ、その重力でゆっくり下降するのを利用して、歯車を動かすという構造だった。

  ウイリアム・ロングスビーの墓が、堂の中程右手に在ったが、この人物はかのマグナカルタに調印させられた、ジョン王と母親違いの兄弟で、陸軍・海軍司令官、外交官、政治家であった。この教会で最初に埋葬された人で、大聖堂の最初の礎石式にも参列し、マグナカルタの調印にも立ち会い、ソールスベリー伯爵となった。この人の逸話としてマリ子さんから聞いた話。彼が戦争で不在中に、彼の妻に言い寄る金持ちの息子がいた。戦争から帰った彼がその事に気付いて、言い争いになり、結局は彼が勝った。では仲直りをということで、金持ちの息子に呼ばれて夕食をした。ところが帰ってきた翌日彼は急死してしまった。墓に埋葬したが、何年か経って、或る理由で墓を開けたところ、彼の頭蓋骨の中でネズミが死んでいた。彼の骨を調べたところ大量の砒素が発見され、毒殺されたことが分かったとのこと。

  ウィリアム・ロングスビーの墓の手前に、オールド・サーラムに最初のソールスベリー聖堂を作った、セント・オズマンドの墓が在った。

  大聖堂の右手に在るチャプターハウスは、回廊でつながっており、ウェストミンスター寺院をモデルに、大聖堂を営む聖職者である参事会会長と、参事会員の会合が行われる場所として、13世紀後半に建設された。8角形をした建物は、真ん中の柱1本で支えられており、イングランドにおける、ゴシック建築の最高峰に数えられているとのことだ。この会合で、聖書の抜粋(チャピター)読誦の練習が行われたことが、その名称の由来となっている。窓を飾るトレサリー模様が美しく、とても明るい部屋で、入り口から奥の東側壁面の前には、主教、参事会会長、その他高位の聖職者が座り、その両脇に参事会員が座る席が作ってあった。主教の座席には3つの顔を持つ頭が彫られていたが、これは主教が皆の方に顔を向けているという印であり、主教の資質に欠かせない1つである、「思慮深さ」を表すともいわれている。

  アーケードの上部には、中世紀の壁面模様が彫り込まれており、アダムとイブ、ノアの箱船、アベルを殺害するカイン、バベルの塔等、聖書の最初の、創世記と出エジプト記からの場が描かれている。

  現在は世界に4冊のみ現存するという、マグナカルタ(大憲章)の、原本の内の1冊が展示されている。(後2冊は大英博物館、1冊はリンカーン城に所蔵されている)。

  マグナカルタは1215年、ラニーメードにおいて、ジョン王が封建貴族およびロンドン市民に迫られ、個人の権利・自由の保証を約束した著名な合意書であり、ラテン語で、ベラム(子牛皮紙)の上に、細い字で、美しく書かれていたが、到底分かる筈も無かった。

  マグナカルタの調印は、イングランドにおける憲政の勝利を意味し、同格の者の面前での公平な裁判無しに、自由の民が牢に入れられたり、起訴されることは無いという概念を、その他の事項と共に確立した。マグナカルタの基本精神は、アメリカ合衆国及び幾つかの英連邦諸国の憲法に組み込まれているとのこと。

  12:20に大聖堂の出口に集合。此処で待ち合わせていた時に、これからアイルランドへゴルフに行くという日本人と会って、暫し会話。何処の旅行会社かと聞かれ、JALPAKだと答えたら、「ああ!10万円は高い費用の会社ですね」と言われた。バスは12:30次の目的地ポーツマスに向かって、ソールスベリーの町を後にした。

  ポーツマスの町に到着したのが13:40過ぎ。港に近い“KEPPEL'S HEAD HOTEL”で昼食。ホテルの食堂は我々一行だけで、天井扇がゆっくりと回り、広々とした明るい雰囲気で、食べた料理も美味しかった。

 

B HMSヴィクトリー号と、ホレイショ・ネルソン提督。

  昼食を終わって、15:00頃からイギリス海軍の歴史が展示してある、王立海軍博物館を見学。説明は総て英語であるから、ざっと眺めて過ぎてしまった。

  ヴィクトリー号には15:55に乗船して見学。海軍の管理下にあるため、時間厳守とのことで、一同早めに集合した。現役士官の案内で船内見学をしたが、勿論喫煙、ビデオ、写真撮影は禁止だった。

  船内は天井が低かったので、背が高い私は常に中腰の姿勢だったからくたびれた。

  1805年のトラファルガーの戦い前後の、英国海軍の戦艦における、一般的な生活について説明があった。マリ子さんが、士官より渡された日本語の説明文を読み上げる形式だった。

  トラファルガーの戦いで、ネルソン提督が弾に当った場所という甲板、47歳で息を引き取ったという船室を見た。船は4階の構造で、直立の帆柱が3本、船首に斜めに突き出た帆柱が1本あった。大砲の数は1つの階に左右で30門が3階あり、合計90門。当時としては重装備の戦艦だったことが窺えた。

  規律を犯した者の仕置きの道具等を見て、軍隊の経験がある私としては、嫌な感じがしたが、当時海軍の軍人は、6割が志願者以外の者だったそうで、軽犯罪を犯した者、乞食、浮浪者等を強制的に連行してきていたから、狭い船中での生活を秩序あるものにするためには、当然軍律も厳しくならざるを得なかったようだ。

  ネルソンが生まれた頃は、フランスとの戦争も終わっていて、またスコットランドと同盟条約を結んだ後でもあったから、後顧の憂いも無くなって、フランスやスペインを相手に、植民地獲得争いが盛んな頃だった。そして植民地への航路の確保や、移民の移送を護衛したりするために、海軍の拡大、増強が必要な時代だった。このような時代にネルソンは、父親が聖職者の家庭に生まれ、聖職者は中流の最下層の職業だったから、身を立てるために海軍に入ることにした。

  ネルソンは29歳で医者の未亡人と結婚したが、船上生活のため不在がちで、意志疎通を欠くようになり、仲はあまりよくなかった。ナイルの戦いに勝ち、その疲れを癒すために、当時地中海での唯一の同盟国だったナポリに行き、其処にはウィリアムハミルトンがイギリスの大使として駐在していた。ハミルトンの妻エマと熱烈な恋愛に陥る。英雄崇拝が物凄かったエマは、ネルソン提督が自宅に来てくれるというので、完全に熱を上げてしまった。ネルソンは妻に離婚を求め、沢山のお金を渡して、2度と顔を見に来ないようにとの条件をつけた。ネルソンとハミルトンは親友になって、1800年代の始め頃、ハミルトンは大使の役を解かれて、ネルソン、ハミルトン、エマの3人でナポリからイギリスに帰ってきた。 ネルソンはロンドン郊外にこじんまりとした邸宅を購入し、其処に3人で移り住み、社交界の一大スキャンダルとなった。ネルソンとエマの間には3人の子供ができたが、育ったのは娘のホレイシャだけだった。エマはホレイシャの父親が誰であるかは言わなかったが、一緒に住んでいるのだから、誰の目にも分かることだった。ホレイシャ自身は、ネルソンの娘であることを誇りにしていたが、エマの娘であることは絶対に言わなかった。1803年にウイリアム・ハミルトンが亡くなり、ネルソンとエマの2人だけになったが、1805年にはネルソンが亡くなったので、両人の幸せは2年間しか続かなかった。ネルソンは回りの人達に、自分に何かあった場合は、エマは大事な人だから宜しく頼むと言ってはいたが、人妻でありながら、国家の英雄であるネルソンをたぶらかしたという、悪い印象を与えていたから、ネルソン存命中はいざ知らず、死亡後は相手にされず、見向きもされなくなった。エマはその後莫大な借金をし、それが返せなくて、債務者ばかりが入る監獄に入った。出獄後はフランスのカレーに行き、後には酒浸りになり、乞食のような貧困の中で亡くなるという哀れな末路を辿ったという。

  ホレイシャは成人して聖職者と結婚し、1881年まで幸せに暮らして亡くなった。ネルソン提督の血筋は今も続いているとのこと。

  ネルソンは大変勇敢に戦った提督であるが、一方部下のことを大変大事にした。人からお世話になると、それを絶対に忘れずに、何かの時に必ずお返しをした。世話になった人の息子が入団して来ると、自分のもとに引き寄せて面倒を見た。結婚したり子供が生まれた場合は、お祝いを送り、また特別に注文した品物を送ったりした。部下からは尊敬されると共に、大変敬謙なクリッシャンであった。敬謙なクリッシャンが、何故不倫をしたのかについては、ナイルの戦いの怪我や疲労が原因で、熱に浮かされ判断が狂ったのであろうと。

  ネルソンの活躍に対し、政府からお金が出たが、ネルソンには子供がいなかったから(ホレイシャは庶子だから受領の資格が無い)、ネルソンの兄である、聖職者のウイリアム・ネルソンに渡され、ホレイショ・ネルソンの命と引き換えに、莫大なお金を貰ったウィリアム・ネルソンは、その後かなり裕福な暮らしをしたという。

  ヴィクトリー号の見学を終わったのが17:00頃で、今夜の宿泊地であるブライトンに向かう。

 

C ブライトン。

 イギリス海峡に面した有名なリゾート地。元々は漁港の古い町であったが、1750年代になって、この近くに住む医師のリチャード・ラッセルが、海水浴や海岸での日光浴が健康に良いということで、自分の患者をブライトンへ送り込むようになった。

  ジョージ4世がまだ皇太子だった頃、この地が気に入り、ロイヤル・パビリオンを建てて以来、皇太子が住む町ということで、上流階級が、次いで中流階級がブライトンに来るようになり、高級リゾート地となった。やがては一般の人も集まるようになってきたから、上流階級は、金持ちだけが行けるような、例えば地中海沿岸等を求めて行くようになった。最近は一般人も、スペイン、ポルトガル、西アメリカのカナリー諸島、ギリシャ等、もっと安いヨーロッパのリゾート地を求めて、外国旅行も兼ねて行くようになってきたから、ブライトンも一寸寂しくなってきた。そこで国際会議を開催する等して、集客に努めているとのことであった。10km以上も続く小石状の砂浜が美しく、夏は海水浴場、冬は避寒地として賑わうそうだ。

  宿泊ホテル“THE BRIGHTON THISTLE HOTEL”に到着したのが18:35だった。ホテルのレストランで19:45から夕食。

  ホテルは道路を隔てて直ぐに海浜に面しており、リゾート地に来たなという感触を味わえた。ホテルの直ぐ近くに、海岸から突き出して伸びる、長さ500mの桟橋「パレス・ピア」があったが、行って見る時間が無かった。

 

D ロイヤル・パビリオン。

 夕食が終わって、ホテルの近くにあるロイヤル・パビリオンまで散策した。ジョージ4世がまだ皇太子だった頃、密かに結婚した妻を連れてやって来て、最初は農家を購入して住んでいた。1787年から建築家ジョン・ナッシュ等の手により、50年の歳月をかけて、自分の住んでいた離宮の拡張が行われたのが現在の姿。ライトアップされた外観は、インド風の建築様式であったが、内部は主に中国風とのことだ。西洋の人にとっては、中国も印度も日本も、総て東洋の範疇に一くるめになってしまうようで、内部は極彩色のキンキラキンで、あっと驚かされるという。この建物が完成した時に、ジョージ4世はあまりの美しさに、感激して涙を流したと伝えられている。

  今回は中に入る時間がなかったが、内部は8月まで改修中とのことで、たとえ入れても全容は見られないだろうとのことだった。

  22:00過ぎにホテルに引き上げた。本日の歩数は12,280歩。  0:15就寝。

    

               ロイヤル・パビリオンの夜景

 

 

    発言番号:730

    発言者  森口 勝

    題名    :「英国の旅日記」(その7)

    登録日時:99/08/14 09:27

 

].76日(火) 薄曇り 時々雨。

  7:00起床。8:30までにスーツケースを室外に出して朝食。昨日は夕刻だったので気付かなかったが、ホテルは外光をふんだんに取り入れて、とても明るく、リゾート地に相応しい構造になっていた。

  早朝に起きて散歩してみる元気も無かったが、明るい時のブライトンの町を見ずして去るのは一寸残念。13日間の旅行日程もいよいよ最終段階の10日目に入り、今日はライの町を観光し、カンタベリー大聖堂を見学して、イギリス最後の宿泊地ロンドンに向かう日だ。

  9:30にホテルを出発した。ヘイスティングの町を過ぎる頃から雨が降り出した。

  マり子さんもこの辺の沿線には、特に説明することも無いらしく、ダイアナ妃の話しをしながら退屈凌ぎをしてくれた。この辺りの家は専ら煉瓦造りで、塀は生け垣であった。黄茶色をした広々とした畑は麦ではないかと思われた。またトウモロコシを作っているところもあった。軽トラックが石炭を運搬していたが、田舎ではまだ燃料として使用しているところがあるらしい。勿論町中では使用禁止になっているそうだ。英国は石炭埋蔵量の多い国だが、日本と同じく、輸入炭の価格安に追われて、炭坑の閉鎖が増えているらしい。イングランドでは1日の内に四季があるとまでいわれるそうだが、雨が降っていると思うともう止んでおり、また降ってくる。

  従って当地の人は、雨が降ってもめったに傘をささない。

  あれがチョーク質の山だと説明してくれたが、山の半分程を削り取られた肌が白くむき出しになっていた。またバスの窓から見えたグラウンドでは、小学校の運動会らしい集まりがあったが、旗を飾り付けるでもなく、テントを張るでもなく、運動用具類があるようにも見えず、父兄の姿も見えず、誠に簡素なものであった。高学年と低学年に分かれて、“かけっこ”をするくらいだとか。

 

@ライ。

 11:10頃ライの町に到着した。昔は港町として栄えたそうだが、現在は沢山の観光客が訪れる観光地になっているとのこと。バスを降りた近くには、古物道具屋が並んでいたが、造船関係の倉庫が不要になり、アンティークの店になったそうだ。

  可愛い家並みの中にある、河原の石を並べたような石畳の小道“マーメイド通り”の坂道を上って行き、町の中を散策をした。丘の頂上に在るセント・メリー大聖堂の近辺には、600700年前の古い家並みが残っていた。木枠の中に柱を立て、空間を漆喰で固め、屋根は小さい石板を積み並べてあった。セント・メリー大聖堂の塔上からの眺めは良いそうだが、そう説明してくれるだけでは実感がわかない。フランスからの侵攻に備えた物見の塔でもあったそうだ。大聖堂を過ぎる頃から雨が降ってきた。

  此処は元は島だったとのことで、500年の間に海岸線が退いて埋まっていった様子を、町並みの外れにある展望台から見ることが出来た。その後は昼食の12:15まで自由散策をし、通りの店を覗いて回った。やがて雨も上がった。

  町の賑やかな通りに面した“THE GEORGE HOTEL”で、メインがチキンの昼食をした。このホテルの前に、商品を格安で売っている店があり、お土産品等に買って帰る者が多かった。

  13:30ライの町を出発してカンタベリーに向かう。途中海に流れ込む川には、丁度引き潮時で水がなかった。この辺りは羊を飼ったり、農作物として麦、トウモロコシ、じゃが芋等を作っているところが多いようだった。

 

A カンタベリー大聖堂。

  カンタベリーは、ロンドンの東南104kmに位置する古い歴史の町。紀元前43年、ローマ軍の侵入により、ロンドンとヨーロッパ大陸をつなぐ商業の中継地として栄えた。

  14:40に大聖堂の立派な門をくぐって境内に入った。この門は3階建てで、1階と2階の境は、色鮮やかな数々の紋章で取り巻かれており、2階と3階の境には人物が並んでいて、その正面真ん中にある一際大きい像は、ヘンリー8世(后を8人取り替えたという)の像とのことだった。

  597年、ローマから派遣された聖オーガスチンがこの地に到来し、修道院を建てたことに始まるというから、古い歴史を有する聖堂である。現在の大聖堂は1089年に着工してから、約470年もの歳月を費やして完成されたという荘重なもので、豪華絢爛なゴシック様式の建物だ。本堂中央に聳える“ベル・ハリー・タワー”は1498年に完成したもので、イングランドでは最も古い煉瓦造りの建造物といわれる。ヘンリー8世が英国国教会を起こし、ローマ・カトリックと袂を分かってからは、英国国教会の総本山として、イギリスで最も重要な位置を占めてきた。

  大聖堂内を写真撮影をするには許可が必要とのことだったが、多分決められた寄付金支払いを要するのであろう。また堂内で説明することもいけないそうで、マリ子さんは付近に誰もいない時にはそっと話をしてくれた。

 

Bトーマス・ベケットについて。

 彼の父親は商人だったが仕事が順調ではなく、生活のために彼は聖職者となった。当時国王であったヘンリー・アンジェル(後のヘンリー2世)とは大の仲良しで、何処へ行くのにも行動を共にし、戦争に行くのも一緒だった。当時教会と王家は対立しており、教会側は神は王よりも上位と言ったから、それでは王はやり難く、教会を王の権力の下に置きたかった。カンタベリーの大司教が亡くなった後、ベケットをその後任にしたので、親友が教会の頂点に立ったから、王権と教会がうまく折り合って行けるだろうと思った。ベケットは大司教になりたくはなかったが、引き受けた代わりに、教会人として厳しく対処していくからと、ストイックな生活をするようになり、遊び等王からの誘いがあても応じず、王の寵愛のもとに今までに貯めたお金も、貧しい人々に分かち与える等、事毎に王に逆らうようになった。ベケットは一時フランスに亡命したが、法王のとりなしで戻って来た。大本山のベケットが不在中に、プリンス・オブ・ウェールズの称号授与式が行われていたことに立腹した彼は、授与式に関係した司教達を総て免職にした。これが王に対する完全な当てつけとなり、王は側近の者に対して、何とかならぬかと怒りをぶちまけた(殺してくれとは言わなかったそうだ)。1170年、側近の中のごますり人が、夕べのお祈りをしていたベケットを殺害したという。ベケットの墓は最初地下(現在は聖母の間となっている)に作られたが、王権に屈せず自由を貫いて殉教したベケットの墓には、巡礼者があまりにも多かったので、1220年に、大聖堂の一番奥の正面である、現在の場所に移された。ベケットの霊所に上がる階段は擦り減ってしまっており、いかに巡礼者の参拝が多いかを物語っていた。大聖堂に入って左側中程に、ベケット殉教の場所があり、壁には割合近代的な十字架と剣がかかっていた。

  ヘンリー8世が最初の后と離婚する時、カトリックは離婚できぬから、法王庁と手を切って、英国国教会の基となるものを作ったが、その時に、ベケットは反逆者であり、王に逆らった者をこのような所に祭る必要はないと、1538年に王の勅令により墓を破棄させてしまった。従ってベケトの遺骨は今何処にあるのか分からないそうだ。

  大聖堂は国から財政援助は一切受けておらず、壮大な聖堂の運営には1日に£7,000を要するので、来拝者の献金を頼りにしており、喜んで寄付を受けますとのことだった。

  カンタベリー物語」はイギリス文学の父とも称えられるチョーサーの代表作。カンタベリー大聖堂にある聖トーマス・ベケットの墓に参拝する29人の巡礼者達が、ロンドンのサザークを出発して、旅のつれづれに、交代で様々な物語を語り聞かせるもので、24のストーリーからなっている面白い作品とのこと。マリ子さんも英語本を買ったがまだ読み切れていないそうだ。

  大聖堂見学を終わった頃から小雨が降り出したが、気になる程ではなかった。境内のトイレは有料で、初めて使用料を払って用足しをした。1人£0.2だった。

  カンタベリーを16:00に出発してロンドンに向かう。高速道路を走っている時に、凄い雨が降ってきた。外出中にシャワーが襲来したのは、何時もバスの中にいた時だったから助かった。ホテルに行く前に夕食をすることになっており、“KYM'S”(金満楼)に着いたのが17:45だった。ここでマリ子さんとお別れした。彼女はこれから空路グラスゴーに帰るとのことだったが、6日間のガイド本当にご苦労様でした。彼女の説明は理路整然として明快であり、我々一同は感心し且感謝した。さすがに終り頃は疲れたのであろう、マイクから流れる声も小さくなったように思った。

  金満楼の中華料理の味はまずまずだった。紹興酒は1本£6:00だったが、グラスゴーの中華料理で飲んだのよりもずっと美味だった。この店で、今日まで全然見かけることがなかった、日本人女性の店員に会うことができて、ほっと心が和んだ。彼女は英語の勉強に来ているとのことで、金満楼は今日が初めての出勤だと言っていた。隣席に中国人の家族連れの一隊が、大声で喋り捲っていたので、何だか落ち着かない気持ちの夕食だった。

  19:00に金満楼を出て、宿泊するホテル“KENJINGTON PARK HOTEL”に着いたのが19:15。此処で、エディンバラから安全運転に徹して、我々をバスの中で快適に過ごさせてくれた、ドライバーのチャーリーさんとお別れした。10日間の運転を通して見た彼の態度、また女性の花の名前の質問には、ポケット植物図鑑で調べて答える等、最初に聞いた通りのベテラン・ドライバーであることがよく分かった。彼はこれから一人でエディンバラに帰って行った。

  割り当てられた540号室は、エレベーターを降りて最初の部屋だったから便利だった。部屋には珍しく天井扇が着いていた。だが、これまで泊ったホテルには置いてあった、お茶にそえるお菓子は無かった。此処では2泊する。

  本日の歩行数7,900歩。  0:15就寝。

  バス旅行が終ったので、佐山コンダクターから別途に聞いた、バスの走行kmをここに記しておこう。

 

 1. エディンバラ〜インバネス                 260km

  2. インバネス〜グラスゴー                   269

  3. グラスゴー〜ウィンダミア                 310

  4. ウィンダミア内観光                       146

  5. ウィンダミア〜ストラトフォード           426

  6. ストラトフォード〜バース                 152

  7. バース〜ブライトン                       261

  8. ブライトン〜ロンドン                     260

   総走行距離数                                2,084

 

 

  発言番号:737730へのコメント

    発言者 :深澤 龍一

    題名  :「英国の旅日記」(その7)

    登録日時:99/08/16 18:36

 

  昨秋我々旅の仲間が訪れたスコットランド〜イングランドを、森口さんが素晴らしい観察力と健筆で綴られた「英国の旅日記」、毎回一種の感動と尊敬の念を以って大変楽しく拝見しながら、あの日の我々の旅路を反芻しています。

  最初に「自分の為の旅の記録」とおっしゃっていましたが、マリ子さんの詳しい解説もさる事ながら、それをこんなに克明に再現された森口さんのご努力は大変な事と拝察致しております。でもこのご努力は森口さんご夫妻の「旅の思い出」を一層豊なものにするでしょう。そして、あれだけのボリュームを、あれだけのスピードで我々にお送り下さった事にも感謝して、何かコメントして差し上げないと申し訳ないと思いながらキーボードの前に座ったものの、いざ叩くとなると完璧すぎて誠に残念ながら付け加えるべき何物も見出す事が出来ません。

  多分我々よりも10万円以上は高いツァーだけに、知らない所も沢山訪れられて「シマッタ!」と言うのが偽らざる実感です。

  素晴らしい旅の記録も愈々最終コースに入ったようです。完結致しましたら是非一纏めにして我々の旅仲間のご婦人達にも届けて上げたいなと思っているのですが・・・宜しいでしょうか?

  最後のロンドンの町と、それに加えて大前さんお約束の「コメント」が楽しみですね。

  それにしても、雑学大家の太田さん!、パソコンも通信機能が回復したようですから、同じ旅慣れた仲間として是非共この「大記録」にコメントして差し上げて下さいな

 

 

    発言番号:738

    発言者  :森口 勝

    題名    :「英国の旅日記」(その8)

    登録日時:99/08/16 20:03

 

]?T.77日(水) 晴れ時々曇り、暑し。

 6:50起床。日本では七夕の日だ。7:45に朝食に行ったら行列ができていた。こんなことは初めてだ。順番が来ると、従業員が所定の席に案内してくれて、自分の座席が決まる。ざわざわしていて、ゆっくり朝食を味わえる雰囲気ではなかった。このブライトン・シスル・ホテルは、ハイド・パークに隣接するケンジントン・ガーデンから直ぐ近くだ。昨日佐山コンダクターから、昨年彼女が率いたパーティの人が、早朝のケンジントン・ガーデンを一人で散歩していて物取りに襲われ、眼鏡を割られたうえ、パスポートや金銭を取られるということがあったから、早朝の散歩には行かないようにとの注意があった。我々の一行の中で、早朝等人通りの少ない時を外  して、緑が美しいケンジントン・ガーデンに行き、ダイアナ妃が住んでいたケンジントン宮殿を見た者がいたかどうかは分からない。

  9:00にホテルを出発して、午前中は市内観光、午後はオプショナル・ツアーでウィンザー城見学だった。本日のガイドは京都の舞子さんをお嫁さんにもらったという英人のウィリアムさん。舞子さんを嫁ににするには可成のお金が要るだろうに、冗談なのかどうか真偽の程は定かでない。訛りの強い日本語でしゃべってくれるから、どうもよく意味が聞き取り難かった。昨日までのガイドさんの説明がよかっただけに、余計物足りなさを感じた。

 

@バッキンガム宮殿。

  先ず此処でバスを降りて写真を採る。宮殿内部は88日から105日の間のみ公開されるとのことで、外側から眺めるのみだった。正面広場に建つビクトリア女王の像の前などで写真を撮り合った。エリザベス女王はスコットランドに滞在中だから、宮殿の正面屋上には王室旗は掲げられておらず、ユニオンジャック旗のみが掲揚されていた。バッキンガム宮殿近くの通りには、宮殿の近くだというのに、建物の際に煙草の吸い殻や、食べ物のケース等のゴミの吹き溜まりが見られ、ロンドンの町は奇麗とは言えないなと思った。またロンドンの町は建物が古いそうで、修理中の所が多かった。赤い郵便ポストの投函口に張り紙をして塞いであり、現在スト中で切手、はがきは売るが、集配はされないとのことだった。

  11:30からの衛兵交代の儀式は、現在隔日に行われているとのことで、今日は行われる日に当たっていたが、最初から予定されていた大英博物館の見学時間と重なるので、博物館の見学時間を割いて見物するかどうかを、佐山コンダクターから聞かれたが、希望を申し出る者は誰もいなかった。

  所々で白い花が咲いている大樹を見かけたので、ガイドのウィリアムさんに聞いたら知らないという。おまけに花の名前は知らないから、聞かないでくれという。ガイドが職業なら、観光客から見て目立つ、季節毎の花の名前くらいは、勉強しておくべきだろうと思った。ロンドンの紫陽花の花は、もう色褪せ始めていた。

 

A ロンドン塔とタワーブリッジ。

  バスの中からウェストミンスター寺院、国会議事堂、ビッグ・ベン、セント・ジェームズ宮殿、首相官邸、ホース・ガード、トラファルガー広場等を見ながら、シティを通過してロンドン塔の西側の前でフォト・ストップしたのが10:30頃。ロンドン塔の前を通ってテムズ河畔に出て、此処から上流に見えるタワーブリッジを背景にして写真を撮り合った。ロンドン塔への観光客が、入場口で列を作って並んでいるのを見やりながら、此処でも写真を撮っておいた。此処は只外見のみだったから、特筆できることは何も無い。

  ただ、ロンドン塔の入り口近くにいた、変った服装をした、ビヤ樽形の人物が珍しかったので写真に納めた。後でガイドブックを読んでいたら、1485年に王の警備のために設けられた“ヨーメン・ウオーダー”、通称“ビーフィーター”と呼ばれ、現在も守衛兼案内役として、チューダー朝の衣装を身にまとい任に当たっていると書いてあった。

 

B 大英博物館。

    大英博物館に到着したのが11:15頃。博物館も修理中なのだろうか、南側の正面入り口の右方に、大きなクレーンが立っていたのが目障りだった。此処は入場料無料とのことで、入場口に置いてあった寄付箱に、ほんの心ばかりではあるが、£1の寄付をして入った。エジプト象形文字解読の手がかりとなった“ロゼッタ石”、古墳に納められていた柩や完全な状態の世界最古のミイラ、アテネのパルテノン神殿からもって帰ったBC5世紀の大理石彫刻や浮き彫り等々、大英帝国の力を誇示しているように思える展示品の数々に、些か圧倒された感がした。

  12:20に北口から大英博物館を出て、リージェント・ストリートに程近い“JALプラザいぎりす屋”の近くでバスを降りた。午前中のグループ行動はこれで終った。午後はオプショナル・ツアーのウィンザー城観光に参加する者以外は自由行動。

  各自で昼食なので、“いぎりす屋”と同じ経営と思われる店続きの“Cafe Plaza”に行き、大前さん夫妻と4人で山菜うどんを食べた。山菜といっても、入っていたのは青野菜一品とワカメであったが、味はなかなかよくて、日本のものに比して遜色はなかった。値段は1杯£6.5。店員に、日本から取り寄せているのかと聞いたら、現地で作っているとのことだった。お結びもあったので序でに1個(£1.3)買ってみたが、こちらはやはり日本の方が上等。“すし”がよく売れているようだったが、果たして味や如何?

 

Cウィンザー城観光。

  ウインザー城観光に参加したのは大前さん、私を入れて10人で、ガイドはウィリアムさん。佐山コンダクターは参加しなかった。

  昼食後13:40にバスでロンドンの西36kmに在るウィンザー城に向けて出発した。ウィンザー城までの所要時間は約1時間とのことだったが、交通渋滞気味で、それをかわすつもりで入った道が行き止まりだったりして、少し無駄な時間を要した。入場料は、一人£32であるが、“JALPAKの旅バンク”に加入しているカードを提示すれば£29OK。私はカード持参を忘れたが、佐山コンダクターがうまく処理してくれたようで£29でよかった。バスの駐車場から暫く歩き、ウィンザー・セントラル駅を過ぎて、ビクトリア女王の像が立っているキャッスル・ヒルという坂道に達する。此処も入場するのに長い列ができており、セント・ジョージ門で所持品検査を受けて、城内に入れたのは15:15頃だった。刃物等を所持して、展示品を傷つけるのを防止するための所持品検査だというこの城は、ウィリアム征服王が1070年に此処に砦を築いて以来、900年以上も王室の居城として使用され、今も国賓を迎える等の役割を果たしているとのことだ。

  城内に入るとすぐ右手に、城の中心になるラウンド・タワー(円形の塔)を見上げることができる。このような塔をノルマン様式というようだ。エリザベス女王不在中のため、塔上ににはユニオンジャック旗のみが翻っていた。塔上からの眺めは最高らしいが、この塔には案内はしてもらえなかった。ウィンザー城も室内の撮影は禁止だった。

   ウインザー城のラウンド・タワー

 

  城内のノルマン門をくぐって最初に案内されたのが「ステート・アパートメンツ」で、王室の公式行事、国王クラスの国賓のために使われている数々の大広間を見た。それぞれの部屋には英語で名称が表示されていた。“ウオタールー・チャンバー”という大広間には、世界最大というカーペットが敷いてあった。夥しい数の銃や鎧の武具が並んでいる部屋や、歴代王や女王の居間や寝室、ルーベンスとその派に属する画家達の作品が集められたドローイング・ルーム等があった。19921120日、漏電で火災を起こした所は、97年の12月に修復が完了したとのことだが、“ランターン・ロビー”と表示してあった。

  ここを出るとノース・テラスで、此処からはイートンの町が見渡せ、あれがイートン校だと、白い大きな建物群を教えてくれた。またこのテラスで、衛兵が16:00の交代のために、2人並んで歩調をとって歩くのを間近に見て撮影した。短剣を着けた“自動小銃”を担いでいたのが印象的だった。

  ビクトリア女王とその夫君アルバート公が、永遠の眠りについている「アルバート記念礼拝堂」は外見しただけで、「セント・ジョージ礼拝堂」に行く。1516世紀のイギリス風ゴシック建築で、1475年、エドワード4世の命によって、ガーター騎士団の守護聖人とされる、聖ジョージを祭るために建設が始められ、ヘンリー8世時代に完成した。“ガーター騎士団”とは1348年にエドワード3世により制定されたもので、イギリス最高の勳位をもつ騎士の集まりである。ガータ爵位を授けられた騎士席があり、旗が掲げられていたが、菊の紋章の日本の天皇旗もあった。また此処にはヘンリー8世、ジョージ5世、6世等のイギリス君主達の他、ナポレオン3世の墓もあるとのことだった。

  16:20にヘンリー8世門からウィンザー城を出た。今日は大変暑くてとても喉が渇き、ミネラル・ウオーターを買いたかったが、売っていなかったので我慢した。門を出た近くの通りに、あでやかな服装をした女性が2人、手提げ篭をもって立っているのを見かけた。その時は何だろうと思ったが、後になってガイドブックを見たら、“キャッスル・スタジオ”で、イギリスの紳士淑女の姿で撮影してもらえるとのこと。10分でレトロなドレス姿がセピア色の写真に仕上がり、1人1プリント£20とあった。

  バスの駐車場に集合して帰途についたのが16:50頃、順調に走行してホテル帰着17:30であった。

 

D デラックス・ミール・クーポンでの夕食。

  ホテルに帰着して入浴し、汗と疲れを洗い流した。今夜の食事はデラックス・ミール・クーポンを利用して、各人好みのレストランに行くことになり、大前さんから行き場所を一任されたので、郷に入れば郷のものをと思い、イギリス料理/シーフードの“スコッツ”(SCOTTS)に決めた。スコッツに行く者は10名で、他の方は日本料理に決めたようだ。スコッツの案内書の内容に、「要正装」とあったのが気になり、遠慮した方もいたようだ。私はスーツは持参しなかったので、ワイシャツ、ネクタイ、ブレザー姿で行くことに決め、断られれば帰る積もりでいた。デラックス・ミール・クーポンの価格は£45/人で、飲み代とそのサービス料は自分持ちだ。

  スコッツはハイド・パーク東端の近くに在り、19:30に予約してあったので、ホテル・ロビーに19:00に集合して、タクシー2台に分乗して行く。ロンドンのタクシーはオースチン型が多いように思ったが、後部座席に向かい合って乗れるようになっていたのが昔懐かしかった。結構スピードをあげて走るのには一寸驚きだった。

  スコッツに入った時に、先ずミール・クーポンを渡すのだが、気がかりだった服装の件は何でもなかった。壁際に10人の席が設けられてあり、大前夫妻と女女、男男で向かい合って座った。

  メニューの前菜には何種類かあり、私はコールド・スープを注文したが、深い壷状の器にたっぷりと入っていて、得も言われず美味しかった。トマト・ケチャップのような色をしているもので、何という名前だったか思い出せない。メイン・ディッシュは、大きな舌平目のムニエルに香草とレモンが添えられていた。またポテトと“いんげん”がそれぞれ別皿に盛られて出た。舌平目の味もさすがに格別だった。大きな魚は食べきれていなかった家内でさえ全部平らげていた。デザートは特製プディングでこれもうまかった。食べ物の味では、やはり本旅行中随一のものだった。

  マスターかどうか分からなかったが、食事中に一同の写真を撮ってくれるというサービスぶりだ。こんなところでは写真を撮るのは憚られたが、これを機に皆で写真を取り合った。ビールを飲んだが、これまではグラス一杯£1.21.5だったものが、ここでは£3だった。

  21:30過ぎにスコッツを出たが、その時も店先で集合写真を撮ろうとしていたら、早速店の人が写し手を買って出てくれた。一同気分をよくして、来た時と同じメンバーでタクシーに分乗しホテルに引き揚げた。

  本日の歩行数11140歩。 就寝0:45

 

]?U.78日(木)晴れ時々曇り暑し。

  イギリス滞在最後の日である。長いと思った12日間も過ぎて見ればあっけない感じがする。7:00起床、7:45に食事に行ったが、昨日程長くはなかったが行列していた。今日はヒースロー空港に向かうため、ホテルを16:30に出発するまで自由行動だ。大前さんとは事前打ち合わせを何もしていなかったので、予定の行動は決めていなかったが、結局女性の買い物に付き合うことになってしまった。

  9:00にスーツケースをドアーの外に出し、取り敢えずは不要の手荷物を、佐山コンダクターの部屋に預かってもらった。

  10:00過ぎ、佐山コンダクターの案内でショッピングに出かけた者は12名。ホテルの近くからバスに乗り、私は2階、家内は下と別れてしまった。ピカデリで下車し、乗車賃は£1/人だったが、家内は私が払ったと思って払わなかったそうで、黒人の車掌が何か変な顔をして見ていたという。ダブル・デッカーの2階に是非乗ってみたかったので先に上がったのだが、家内もついて上がって来ると思ったのが間違いのもとだった。

  バスを降りて先ず行ったのが“フオートナム&メーソン”。其処での買い物を済ませた大前さんと4人で、フォートナムの近くだというカシミヤ製品専門店“N.PEAL”を訪ねて先行した。ここはJALと提携して商品を10%引きで販売している店だが、案内の場所に見当たらぬ。番地表示は確かに合っているのに店が無い。紳士用品店の人に聞いたら、道路を隔てた向かい側に引っ越したという。道路を渡って見たがよく分からぬので、或る店に入って聞いたら、其処にいた店員が日本人女性で、差し出した案内書の所に電話をして確かめてくれた。この女性も英語の勉強に来て、アルバイトをしているとのことだった。PEALに行ったのは大前さんと私の他に1組みの夫妻の6人で、一緒に出かけた12人の内、残りの6人がその後どう行動したかは分からない。

  佐山コンダクターがPEALを探して来店し、住所の変更を確認した上、JALに連絡しておくと言い残して、他の者から依頼されている所へ行くからと立ち去った。PEALにも日本人女性がいて、イギリス人と結婚したが離婚したとのこと。東京に帰りたいが、就職難らしいので、イギリスで働いているとのことだった。家内が希望していたカシミヤ製品は無かったが、3人の女性がそれぞれに買い物の品定めをしている間は、男性は至って手持ち無沙汰だった。

  PEALを出た6人は、同行の2人が“ハロッズ”で買い物をするからというのに付き合い、バスに乗って行った。家内はもう買い物の予定は無かったが、自分夫婦だけで別行動をすることも心許ないので、結局ついて行く他なかった。ロンドンに来て目立ったのが、黒人の多いことだったが、バスの車掌は殆ど黒人なのだろうか?何人分というバス賃の計算に一寸手間取っていた。ハロッズでは所定時間に、所定の場所に落ち合うことにして、2人と4人に別れ、大前さんと4人で行動を共にし、大前夫人が帽子売り場で買い物をした。昼時をかなり過ぎており、デパート内にもレストランは在ったが、どうも入り難くて素通りしてしまった。

  時間に所定の場所に居なければ、別行動をとることにしていたが、結局また6人一緒になった。デパートを出て、食事に適当な所はないかとその辺りを探したが、見当たらなかったので、大前さんと私の4人はホテルに帰ることにして2人と分かれた。

  ホテルにバスで帰ろうと思ったが、その路線番号のバスが待てども待てども来ないので、しびれを切らし、タクシーを拾ってホテルに帰着したのが15:00近くになっていた。

  ホテルの食堂では15:00からランチ・タイムになっていたので、ビール、オムレツ、パンの食事をした。オムレツがとても美味しかった。サービス料を加算して£50を大前さんと折半した。

  16:30にホテル・ロビーに集合したが、空港まで行くバスのホテル到着が少し遅れたので、空港では一寸忙しかった。空港に行く途中、日本大使館の前を通過する時に、日の丸の旗が掲揚されているのが見えた。

  空港内売店で、所持の現地通貨を使い切るため、クッキーやチョコレートを買い、それを2袋に分けて詰めてくれたのを、よく確かめなかったので、1袋だけしか持ってこなかった。売店の女性が親切に、確かこのパーティの人が買った筈だがと、荷物を持って聞きに来たそうだ。待っていた連中は、私がそれを買ったことは知らないし、私がいないから店員は品物を持って店に引き揚げた。その直後に私が戻ってその事を聞き、店員の所に行って無事に品物を受領できた。大した金額の品物ではないが、女性店員の親切心と、その注意力に敬意を表した次第である。最近どうも忘れっぽくなって困る。特に手放した物を忘れがちである。

  大阪から参加の女性主従は、関西空港直行便に塔乗するというので、ロンドン空港でお別れした。ロンドン発19:45JL402便は定刻出発した。

  この旅行で、往復ビジネス・クラスを利用したのは、一行17名の内8人だった。また佐山コンダクターのリピーター(既同行者)は7名で、2回目の者が藤沢から参加した夫妻と私夫妻の4人、他の3名は、大前夫妻と大阪から参加の女性1名で、数回に及ぶようだ。大前さんが他の旅行会社に比較して、彼女のガイドぶりが懇切丁寧であると褒める理由もよく理解できた。それは私の最初の海外旅行は同じJALPAKであったが、その時の旅行前後の対応ぶり等も含めて比較した場合、23回目の佐山コンダクターのサービスぶりに大きな満足感を覚えるからである。

  帰りの私の座席はトイレ等の間仕切りの直ぐ後方で、この座席は手元テレビの収納や、サイド・テーブルの収納等で、アーム・レストの下部が少し幅広くなっており、しかも固定されていたから、あたかも四角いコルセットを嵌められたような感じで、体の大きい私にはとても窮屈だった。行く時には、家内との間のアーム・レストは上げて比較的に楽だったのだが。塔乗してから席の変更を申し出るのも悪いし、その席がそんな構造だとは席に着いて初めて分かったことだ。機内食で飲み且食事をした後は、くたびれたせいか窮屈なのも忘れてよく眠った。

 

 

  発言番号:750(738へのコメント)

    発言者  森口 勝

    題名  :「英国の旅日記」(その8)

    登録日時:99/08/23 15:54

 

 ?B大英博物館の冒頭で、修理中らしいクレーンが目障りだったと記述しましたが、これは朝日新聞社が、創刊120周年記念事業として、87日〜103日まで上野の東京都美術館で「大英博物館・古代エジプト展」を開催しており、これに出品展示するものを搬出するためのクレーンであったように思われます。

 821日で入場者が10万人を突破、特に人気が高いのは「ミイラ」だ そうです。興味のある方は一度ご覧になってはいかがでしょうか。

 家内が新聞記事を読んでいて気がついてくれましたので、蛇足かもし れませんがコメントしました。

 

 

  発言番号:739

    発言者  :森口 勝

    題名    :「英国の旅日記」(その9・完)

    登録日時:99/08/16 20:26

 

]?V.79日(金)晴れ時々曇り。

 日本時間12:35(英国時間4:35)機内食が出た。あまり食欲は無かったが腹に詰め込む。成田空港到着15:14。無事に着いてほっとした。

  長距離バス旅行を無事に終えられるかについては、家内の事が一番心配だったが、バスの中で待機したのはアーカート城観光の時だけだったから、佐山コンダクターも感心するくらいで、同行の方にご迷惑を懸けずに住んだ事は幸いだった。

  手荷物受け取り場所のターン・テーブルで、自分の荷物は早く着いたが、家内の荷物がなかなか出て来ないので嫌な予感がした。“これで終り”の札がベルト上に置いてあったのを確認したが、終に荷物は現れなかった。

  今回の旅行に行く前に、佐山コンダクターから、最近空港到着時に時々スーツ・ケースを受領できない場合があるから、1日分の着替えは必ず携行するようにと連絡があり、それに従ったが何も起らなかった。帰りの便で、しかも家内の荷物にこんな事が起きようとは……。そんなことがあったから、空港で“さようなら”できたのは、大前さんと親娘3人連れの方と、最後まで面倒を見てくれた佐山コンダクターだけで、他の8名の方には失礼してしまった。

  到着後のトラブルですっかり遅くなり、17時台の電車には乗れず、空港で夕食をして、成田発18:02の横須賀線に乗り、鎌倉駅に着いたのは20:22だった。 丁度よいバスがあり、帰宅したのが20:50。一度に疲れが噴き出した感じがした。

  昨日から本日にかけての歩行数12350歩。0:45就寝。

 

@ スーツ・ケースのクラックについて。

  実は行きの便で、私のスーツ・ケースにクラックが生じていたのを、ホテルに荷物が届き、開ける時になって発見した。空港で現認を受けなければクレームは出せないから、帰りの便で発生したことにしてクレームを出すことにしていた。

  荷物受け取り場所の近くに、日本航空の事務所があり、塔乗券(通常はコンダクターがまとめて持っており、必要な時に渡してくれる)を提出し、損傷した現物を持参して「手荷物損害賠償請求書」を作成してもらう。帰宅した後で、空のスーツ・ケースにその請求書を入れ、鍵をつけて送る。送り先等は、事務所で渡してくれる着払い専用の伝票に記載されている。7/11に現品を発送して、戻って来たのが7/24だった。何処にクラックが入っていたのか分からないくらい上手に修理されていた。

 

Aスーツ・ケースの迷子について。

  日本航空の手荷物サービスセンターで、当該品の形、色、収納物等を聞かれた上、スーツ・ケースの鍵を預かられた。帰国の翌日7/10夜、日本航空から電話があり、ヒースロー空港で積み残しになっていたのが届いたからとの連絡を受け、やれやれと安堵した。行方不明になったり、中身を抜き取られる場合があると聞いて心配していたが、そんなことにならなかったのは幸運だった。

  ウィスキーを1本入れていたが、発泡スチロールのケースに入れて別送され、スーツ・ケースと共に7/11に落手した。旅行の最後になって、佐山コンダクターに心配をかけてしまって申し訳無い事だったが、兎に角、総てが無事に解決できたことは大変嬉しかった。

  日本航空が鍵を預かるのは、その荷物を通関する時に、税関吏に点検されることがある(点検の行、否は税関吏が判断する)からで、ウィスキーを荷物から出されていたのは、通関時に開けられた訳だ。通常の到着でない、このような荷物はやはり開けさされるようだ。割れ物も本来は入れてはならないことになっているが、若し割れたら運送会社が弁償しなければならなくなるから、別送したとのことだった。

 

旅行を終えての感想。

1.今回のイギリス旅行に当り、事前に聞いていたところでは、食事は大変不味いとのことだったが、不味いなと思ったのはロンドンから乗ったエディンバラ行きの機内食のみで、その外は美味しくいただいた。JALの旅行費が高いといわれるのは、食事代に気をを配って、不味いと言われないだけの費用をかけている結果かも知れないと思った。

  事実、佐山コンダクターも、日航の出先機関関係者が利用客の意向を尊重しながら、予算の範囲内で、できるだけ美味いものを食べさせるレストラン等を下調べしているとのことだった。

 

2.飲料水も自由に飲めて、腹を壊すこともなかったのは、事前に聞き及んでいたことと違って、大変助かった。

 

3.ロンドン市内は別として、何処に行ってもお花を美しく作ったり、飾ったりしてあって、通り過ぎる旅人の心を和ませてくれたことが印象に残った。

 

4.何処のトイレもよく掃除が行き届いて奇麗であり、感じがよかった。私の住んでいる観光都市鎌倉にトイレが少なく、それほど清潔とまで言えないのとは大きな違いだと思った。

 

5.今回の参加者は、皆さん教養ある紳士淑女で、集合時間等時間管理が厳守されて、迷惑を感じたことは一度も無かった。

 

6.ロンドン市内の1日ガイドさんを除き、名ガイドさんやベテラン・ドライバーさんに恵まれて、旅行を楽しく満喫できた。

 

7.大聖堂や寺院もそれぞれに古い歴史の重みを語りかけてくれたが、何といってもイギリスの良さは、スコットランドや北部イングランドに在るのではなかろうか。特にスコットランドのやさしい丘陵の起伏の中に、何処かに秘められている自然の厳しさを感じられる佇まいや、古くても垢抜けた感じのする明るい都市が魅力的であった。

 

 

    発言番号:741739へのコメント)

    発言者  巖 隆吉

    題名   :「英国の旅日記」(その9・完)

    登録日時:99/08/16 21:59

 

  森口さんの9回に及ぶ「英国の旅日記」面白く読ませていただきました。全部印刷しましたが膨大な量になっており、これに写真を入れれば、これだけで1冊の立派な紀行文になると思います。

  日程もハード、しかも観察も緻密、いながらにして英国の現状を詳しく知ることが出来ました。私のみならず家内も毎日楽しく読ませていただき感謝しています。有り難うございました。

  旅行中の体力はいわずもがな、緻密に観察しようというエネルギーと帰国後の資料整理等、人並みはずれたご精進には心から敬服しています。これだけ詳しく見てそれを整理して文章に残されれば、この旅行の価値はさらに大きくなり、その心に留めた良い印象は、何時までも残ることでしょう。

  この調子で、どんどん世界を廻って来てください。

  中でも印象に残ったことは、英国の階級制は今でも

相当なものだなと思います。また、キルト姿のスコットランド兵の「一物」をはからずもご婦人方が見ることが出来たということ、鬼軍曹が靴に鏡をつけてそのノーパンを検査するとは全く想像外の面白い話しでした。ご婦人方も旅行当初の頃ですので、さぞやビックリされたことでしょう。

  ともかく、最後に一寸したトラブルがあったようですが、大前さんご夫妻とともにお元気で楽しくこの旅行を終えられたことを心から喜んでいます。

 

 

    発言番号:743741へのコメント)

    発言者  :中山 典昭

    題名    :「英国の旅日記」(その9・完)

    登録日時:99/08/18 09:36

 

 英国旅行記毎回大変楽しく拝読致しました。

 今回は残念ながらお供できず心残りですが楽しい又詳細なご報告で一緒に旅行した気分にさせて頂き感謝しております。奥様お元気で全行程無事こなされた事改めて敬意を表します。

 期間中の失敗談やその他トピックスをもっと入れて欲しいとお願いしましたが、紳士、淑女の集団であまりそのような事も無かった由、良かったですネ。

 次会は体調も回復すると思いますのでご一緒したいと念願しております。

 

 

    発言番号:744739へのコメント)

    発言者  :大前安人

    題名    :「英国の旅日記」(その9・完)

    登録日時:99/08/19 13:02

 

 森口さんの旅行記、まさに脱帽、詳細にして、丁寧、補足することも殆どありません。しかしコメントはつけますと約束しておりましたので、重複するところが多いと思いますがご了承ください。

 この旅行記、家内も喜んで拝見しており、私共、夫婦にとつても良い記念になりますので、お願いして、本当によかつたと、あつく御礼申し上げます。

 私たちも、元気なうちに年1回程度は夫婦で海外へと出かけておりますが、数年前、世話になつたJALPACKのコンダクター佐山さんの気配りにほれこみ、今は、彼女と相談しながら、決めている状況です。

 今回も家内の以前からの希望の英国旅行、深沢さん、太田さんの旅行記も読ませて戴き,バス旅行だし、ちょつと無理かなと、心配したのですが、家内のたつての希望もあり、決めた次第です。また森口ご夫妻ともご一諸出来、幸せでした。

 最初にこの旅のよかつた理由として考えられるのは

コンダクター、現地ガイド(ロンドンを除き)、ロンドンまで、いつてくれたドライバーがそれぞれに、気配り、歴史、文化への造詣の深さ、の素晴らしさ。

 何時も誰か脱落者(忘れ物、遅刻等)がいるのに、今回は、年回りそのた、違和感が少なかつたせいか、お互いの話もあい、皆に迷惑をかける人が誰もいなかつたこと。最後に森口さんの荷物が出てこなかつたが、翌日には、無事到着ということで、無事故にすんだ事等。

 前置きが長くなりましたが、私の印象にまだ、のこつているのは、

(1)日本では、夏場近くというのに、ロンドン以外は長袖、気候服装のことは、きいていたし準備していたのでよかつた。雨も小雨程度は、あつたが、どしゃぶりは、あまりなく、それも一時的で、バスを降りれば天気と、恵まれた。

(2)食事は不味いのではと、心配していたが、ロンドンーエジンバラ間の機内食以外は問題無く、家内等、肉食の苦手な者にも配慮をしてくれた。、

(3)何といつても,素晴らしかつたのはスコツトランドの景観、特にネス湖周辺の深い渓谷、黄葉の美しい山裾と湖、緑豊かな大草原。好きなハイカーあたりは弁当持参で、1週間のあいだ、、半日、1日、1時間コース等で景色を楽しむ人たちもいるとか。

 ピーターラビツトの作者ビアトリクス・ポターが100年もまえから、美しい自然や歴史的遺産をまもるため、活躍したはなしなど嬉しく聞いた。

(4)今回の現地ガイド、きみこさん、まりこさん、二人ともよく勉強しており、私も興味深く、聞きながら、各地の聖堂、文化遺産、色々な建物が見学でき、楽しみが倍加された。強く印象に残つているのは、石造りの建物、ユネスコの文化遺産ストーンヘンジ、各家の美しい花、各地区の歴史或る聖堂等々。

(5)うらやましかつたのは、森口さんご自身の買い物、バーバリーのブレザー、ジャケツト、彼がいつているようにからだが大きいので、こちらのほうが買いやすく、またよく御似合いだつたこといずれにしても楽しく心配していた病気もせず無事に帰れた事がなによりでした。

 

 

  発言番号:747(739へのコメント)

  発言者 :太田 中

  題名  「英国の旅日記」(その9・完)

  登録日時:99/08/20 18:35

 

 A4版42枚に及ぶ英国の旅日記を楽しく読ませていただきました。私は平成6年7月9日から24日迄の16日間アイルランドのダブリンからはいって7月14日にイングランドに渡り、西側の湖水地方を北上してインパ−ネスに行き帰りは東側のエジンバラを経てロンドンに着きました。経路は違うようですが主なる観光地は8割方同じで、エディンバラのカ−ルトンヒル・ベルのウイスキ−工場・ブレア城等々懐かしい地名が次々と出て来て思わず昔の写真やメモを取り出して暫し英国の旅を5年ぶりで回想しました。貴兄の訪問地毎の詳しい解説を読んで大変参考になりました。私の当時の感想文を引用すると

 

@英国の人民は4種に分かれ言語・風俗を異にすると岩倉使節団が報告している。今迄何の疑念もなくイギリスと呼んでいたが正式な国名は「グレイトブリテン及び北アイルランド連合王国」略してU.K、また、北アイルランドを含まない場合は「グレイトブリテン」略してG.B,と呼び、イングランド・スコットランド・ウェ−ルズの三っの国で成立している。通貨は夫々独自に発行しているが、パリの空港ではイングランド紙幣しか通用しないことを知る。

 

A 英国旅行の目的の一つは英国の統治下にあった香港・シンガポ−ル・インドを旅行して英国人が世界の大帝国を建設して行く過程に興味を持っていました。一時英国病と呼ばれる状態が報道されたが、実態はどうか。結論を述べれば英国は豊かなりと感じた。当時数字の上では日本は豊かな国のはずですが、英国には数字に示されない隠されたストックの豊かさ、心のゆとりがあるのではないかと思いました。

 

B ダブリンからアイルランドの南部を周遊し、ウェ−ルズ・スコットランド・イングランドと専用バスで3684キロメ−トルを走破し、緑豊かな丘陵地帯では牛や羊が放牧され、市街地ではバラをはじめ色々の花が美しく咲いている。ピ−タ−ラビットの作者は広大な土地をナショナルトラストに寄付しそのお陰で今でものどかな田園風景や歴史的建造物を味わう事が出来るのは大変な財産だと思いました。以上のメモを読み返し、今回森口兄の旅日記を拝見しても古い歴史の重みを感じられます。

 なお、当時参考資料として?@ イギリス衰退100年史?A なぜ英国は失敗したか?B ロンドンぬきの英国旅行?C イギリスは豊かなり?D イギリスの旅の5冊を読みました。

 

 

    発言番号:747739へのコメント)

    発言者  :太田 中

    題名    :「英国の旅日記」(その9・完)

    登録日時:99/08/20 18:35

 

  「英国の旅日記」楽しく拝見致しました。

 我々の旅が昨年10月下旬、10日間、男2人、女4人、皆連合いを家に残して来た勝手な連中ですから、森口、大前両ご夫妻のように仲睦まじい方々とは、初めから心掛けが違いました。従ってその内容に於いて、我々の雑駁さと貴方方の濃密さとでは比較になりません。

 ツア−会社も近ツリとジャルパックとではグレ−ドが大分違います。

 私がこんな風ですから、家内も友人や妹達と近ツリの2倍以上高いジャルパックを使って自由に出かけています。時々エコノミ−が混んでいたので、ファ−ストに回されてゆっくりした旅行をして来たなどと嘯いていることがあります。ジャルパック−日本航空だからそんなサ−ビスが出来るのですね。

 9回にも及ぶ膨大な旅行記は読むだけでも大変ですが、貴方が旅行中採った丹念な記録や根気の要るパソコン打ちは、私から見たら全く卒倒しそうです。何せ、メモは一切とらず、パソコンは雨垂れ式の私のことですから。

 兎に角、全部コピ−を取りましたので、去年の我々の足跡に合わせて

じっくり、想い出してみましょう。

 

 

  発言番号:796(739へのコメント)

  発言者 :濱田 賢一

  題名  :「英国の旅日記」(その9・完)

  登録日時:99/09/27 12:04

 

 先日のDOCOKAIオフ会の帰途、森口さんに、飲み代稼ぎに、懸賞論文に応募していて、コメントのチャンスを失った」旨、excuse をしていた処、それを聞きつけた深澤さん他から、遅くなっても出すべきだと“強要”されたので、『六菖十菊』ですが、今頃コメントをする次第です。

 改めて通しで読み直してみると、結構草臥れる程でしたが、随行している気分になり、楽しく、実感が持てました。唯、のっけから、誠に失礼ではありますがこれでは、ガイドの説明に耳をとられメモをとるのに懸命で、時には、安いのか、高いのか、換算をしながらの買い物などもしたでしょうから、本当にゆっくりと、楽しく、観光が出来たのだろうかと、(不精でメモをとらない私は、専らカメラとポケットテープレコーダー任せなので)余計な心配をしてしまいました。

 それ程、克明な観察と史実を織り交ぜての、そして随時に感想を述べてあり、毎日の終わりには、歩行数と就寝時間まで几帳面に入れると言う大変な行動の記録なのです。これはもう忍耐・努力(?)の世界だと敬服致しました。

 ところで、今はいろいろの点で良くなりました。¥200/£程の円高になりパックツアーで全てお任せになりましたから。私が初めて英国へ行ったのは、昭和55年12月、当時 ケンブリッジ大留学中の長男が、挙式したいというので、妻と次男を連れ、飛行機やホテルの手配等自分で行い、円安(¥500/£位)で、航空運賃(エールフランス:¥600,000/人)も高く、又、機内のアルコール飲料は(今は飲み放題ですが)別料金でした。飛行時間も non stop の約12時間ですが、当時は北極回りアラスカアンカレッジ経由で、17時間半も掛かり、着いたら、ヒースロー空港は拡張工事中、臨時通路で往生しました。

 びっくりしたのが、ロンドンの Liverpool street 駅から Cambridge へ向かう時、出発のアナウンスは一・ニ回、発車ベルは鳴らず、車掌のホイッスルもなく、静かに列車が出るので、慌てて飛び乗った有様で、これが、Do it on my ownの精神なのかと思いました。そして Cambridge では、King's English と思っていたら、花屋のおばさんが、Sunday:サンダイとか、table: タイブルとか言った調子の vernacular で、すっかり面食らい、終戦直後の駐留軍のオーストラリア兵が同様の発音をしていたことを思い出し、オーストラリア人の先祖は、英本国からの流刑囚なので、この辺りの出身(?)なのかと思ったものでした。

 scotland は、どうなのでしょうか?二回目の英国行きは、昭和62年6月。統合前の西独をメインに、英・独・瑞・仏・墺・伊・西を周遊した最初が英国で、この時は、non stop KLMで、レニングラード上空通過、アムステルダム(スキポール空港)乗換えで、ロンドンに入りました。為替は、¥250/£程と前回の倍になり、円高を大変享受した記憶があります。唯、通貨単位が違う国に入国の都度、その国に滞在中、幾ら位、しかもコインを残さぬように、両替するかが最大の悩みでした。

 ローマを発つ前夜のこと、飲んで夜中に自宅に電話をした翌朝、ホテルの Bill を見ると、14,000とあります。4〜5分だったのにと思いながら、酔いが醒めました。それは、¥14,000.ではなくて、14,000 lira だったのです。当時、リラは、10/円でしたから、¥1,400.だったのです。

 何はともあれ、病気も怪我もせず、飛行機も落ちず、御夫妻ご無事に、日本に帰られて、本当に良かったと、今頃ご挨拶申し上げる次第です。

 そして、何よりも感じておりますことは、失礼ですが、森口さんが、これ程の長文を短期間の内に、このフォーラムにアップされた Keyboard 入力の skill up振りで、心から敬服して居ります。