−7.ロシア

 

  発言番号:73

    発言者 :深澤 龍一

    題名  :僕達の「ロシヤ紀行」(その1)

    登録日時:97/07/20  08:37

 

 6月の末から約1週間の旅程でモスクワとサンクトペテルブルグを見て回りました。以下は例によって太田さんとの珍道中の報告であります。

  我々の旅は何時も 「アエロフロート国際航空 」と決まっています。安い事と操縦が比較的安定している事が何よりの理由ですが、行く度毎に少しづつながら機内 サービスも向上しているようで、今回からは旧来のロシヤ語と英語に加えて 日本語」での機内放送もありました。何時かのインドネシヤ 航空の事故からかと思いますが・・・。そして機内で目にした The Moscow Times」なる英字紙の World Stocks 欄には「Kirin,MbBank,MbChem,MbCorp,MbElec や「MbEst,MbHvy,MbTrB,Nikon,TokioM」等々の懐かしい社名も並んでいました。

  さて、海外音痴の私は出発前に世界地図を見て、カムチャッカ 半島の付け根辺りに位置するサンクト・ペテルブルグだからと、合のジャケット や長袖のシャツ を用意しましたが、何の事はない朝夕は兎も角として日中はこちらと変わらない258度の暑さに加えて、今は 白夜」の季節とあって10 時になっても未だ明るく、神経質な私は隣で口を開けて高鼾をかく太田さんを何度か恨めしく見つめるロシヤの夜でした。特に9時間20分のフライトの後、非能率な入国手続きを済ませて漸く辿り着いたモスクワホテルは、街の外れに位置しながらも25階建な"500室・もb髞n鹿でかい建物でしたが、部屋は冷房も効かずに弱りました。勿論スーツ・ケースポーターが運んでくれますが、なかなかこないので先にゆっくり食事を済ませて部屋に戻ってきたら、廊下の片隅に屈強な ポーターさんがスーツ・ケースの主の帰りをジ-ット待っていると言う訳で、前の大戦でドイツ軍の猛攻を耐え抜いた彼らロシヤ人の辛抱強さを彷彿させました。何でもこの ホテル1980年のモスクワ・オリンピックに際して選手村として建設されたようですが、我々の部屋の廊下にも223才のロシヤ 美人が「 お元気にしてあげましょうか?」と勧誘していたそうです。相場は何処も同じ23万円との事・・?!?・・。

  さて、前置きはこの程度にして本論に入りましょう。

 

1.モスクワ

  想像していたよりも街はすっきりしていましたし、品物も豊富で人々は落ち着いていました。物価は先の東欧に比べると決して安くはなく日本と変わりませんが、家賃とか電車賃など生活の基礎になるものは低価格のようでした。地下鉄にも乗ってみましたが、頻繁に次から次へと電車は来ますし駅の構内はさながら美術館を想わせる程に立派な彫刻も施され、塵一つ落ちていませんでした。仕事を与える為か箒と塵取りを手にした労働者をあちこちで見かけましたが、地上には路面電車やトロリー・バスも走って料金は何れも何処まで乗っても日本円にして50円程度との事でした。ただ、路面電車の線路は如何にもガタガタという感じで、これでよくもまあ脱線しないものと感心させられました。

  現在、市の人口は約900万人だそうですが、戦後は特に「住」の問題が深刻で、フルシチョフの時代になって郊外に所謂 「プレハブ住宅」を沢山建てて住宅不足に対処したものの、今ではこのプレハブは不評のようで、最近ではもとの煉瓦を積み上げる方式が増えているそうです。建物は 815階位の下駄履きの高層住宅が全てで一階は殆どが商店になっていましたが、町中ではとうとう 一軒家」を見掛ける事はありませんでした。

  到着の翌朝、例によって早くから街を散歩しました。来る前は 「ロシヤ は治安が悪いから僕は絶対にプライベートではホテル の外に出ない!」と啖呵を切っていた太田先生も、私に促されて1時間ほどホテル の近辺を歩いてみました。元の 国民経済達成博覧会会場」も今は「全ロシヤ 展示会センター」と改称して商店街に変わり、その近くには 人工衛星記念碑」が聳えて、記念碑の壁面には各層の人達に混じってレーニンの姿もありましたし、この公園の入口ではガガーリン その他の第一号宇宙飛行士達( ソ連邦英雄」)の大きな胸像が並んで、訪れる人達を見下しておりました。

  市内見物は 勿論 「クレムリン」から始まりましたが、平日にもかかわらず大勢の観光客で賑わっていました。 「クレムリン」とは、そもそも古代ロシヤ時代の「城砦」を意味する普通名詞だそうで、全長約 2キロに亙って赤レンガの厚い城壁に囲まれていました。我々は何がしかの入場料を払ってポリスの検問を通り城壁の中に入りますと、武器庫」( 実は帝制時代の武器や王族の衣装、各国からの貢ぎ物を集めた宝物殿)やいくつかの聖堂、大クレムリン 宮殿やロシヤ共和国の中枢部の建物等が集まっていました。あちこちにポリスはいましたが写真撮影は勿論自由で10年前までは考えられない事でした。建物自体はお世辞にも立派なものとは言えませんが、こんな中まで入れる事だけで満足する事にしました。

  昼食後は赤の広場」にやってきました。ソ連邦時代によくテレビで見た革命記念日」のパレードで、スターリン以下の領袖達が軍隊を観閲した レーニン廟の前では皆さんがカメラシャッターを切っていました。廟から向かって左側から何時もパレードは行進してきましたが、実はこの広場に入る所に元々 教会」が建っていたのをスターリン がこのパレードの戦車を通す為に壊したのだそうで、今はその教会が再建されて大勢の祈祷者で賑わっていたのがとても印象的でした。

  レーニン廟の向いはかの有名な「グム 百貨店」ですが、見かけ倒しの細長い煉瓦造りの3階建の建物がアーケードを隔てて3棟並んでいて、それぞれが精々5坪から10坪程度の小さな店舗に細かく区切られた小売店の集合体で、その内で婦人物を扱う店が7割を占めていました。首吊りの背広上下7万円、ショート・ケーキが1個 150円と食べ物以外は値段も決して安くはなく、しかも3階は全て空室の状態でした。百貨店の外れには中央の高い塔を8つの ネギ坊主が取り巻く構造の極彩色に染められた美しい「聖ワシリー聖堂」が建っていました。

  その日の最後に町の南の外れにある「レーニンの丘」に行ってみました。モスクワ大学のキャンバスもここにあって、モスクワ川を隔ててここから見る市街の風景は緑も多くてとても美しい眺めでした。それにもまして美しかったのは途中で立ち寄った「ノボテビーチ修道院」で、私どもも佇んだこの修道院前の湖を眺めながら、チャイコフスキーは「白鳥の湖」を作曲したと伝えられるほどに幻想的な風景でした。

  2日目のモスクワは午前は「トルストイの家博物館」と、「ブーシキン 美術館」を見学の後、モスクワ一を誇る「ウクライナ・ホテル 」で昼食を摂りました。以前われわれもテレビの前に釘付けになった記憶がありますが、かのゴルバチョフが失脚する直前でしたか、この ホテルに反革命軍の部隊が立て篭もって モスクワ 川を隔てた目の前の「ロシヤホワイトハウス」に砲弾をぶち込んだのだと聞きました。あの時もうもうと黒煙を吐いていた建物が今我々の目の前に美しく建っていて、皆さんはそれをバックにここでも盛んに記念写真を撮っていました。

  その日は午後からも「トレチャコフ美術館」の見学と美術館のハシゴは流石に疲れましたが、と言う事はモスクワ の街はただ広いだけで「クレムリン」と美術館以外には特に取り立てて見る所もないと言う事でもありましょうか?でも、プーシキン美術館では偶然「トロイの金」の特別展(大戦後ドイツから押収した代物)に巡り合いましたし、 トレチャコフ美術館では約20年前に三越で開催された「 ロシヤ・ソビエト国宝絵画展」に出品された「 忘れ得ぬ女」に再会できたのは感激でした。そしてビーフ・ストロガノフの夕食とフォルクロア・ショーを楽しんだ後、ペテルブルグ 駅( レニングラード駅)に向いました。( ロシヤの鉄道の駅はその行き先を駅の名前にして、例えば「キエフ駅」とか「リガ駅」などとモスクワには全部で9ツの駅がありました)

  夜行寝台特急に乗って次の訪問地「サンクト・ペテルブルグ」までは8時間半の汽車の旅です。我々の一行は夫婦6組、女同士、男同士の友達各1組、それに女の一人旅7人、男の一人旅4人の計27人の ツァーですが、列車は2人部屋の個室で我々だけで2車両を占領し、用心の為にと丈夫で人の良さそうな 「ガード・マン」が車両の両サイドに付いて寝ずの番をしてくれましたので、安心して休む事が出来ました。

  註:先の東欧の折は一人旅の方は女性二人のみでしたが、今回は男女計11人とは驚きでした。「ロシヤ観光」に来る人は我々2人を含めて 変わり者」が多いと言う事でしょうか? この人達は特に旅慣れておりました。

 

 

  発言番号:75

    発言者 :深澤 龍

    題名    :僕達のロシヤ紀行」(その2)

    登録日時:97/07/20 09:46

 

2.サンクト・ペテルブルグ

  我々の乗った列車は定刻に「北のヴェニスサンクト・ペムテルブルグ に到着しました。車中窓外には広大な ロシヤの原野が広がっていましたが、線路に沿っては昔懐かしい木製の電信柱」が何処までも続いておりました。 途中、駅の近くには部落が点在してここは文字通りの一軒家」で、各家々には テレビアンテナも立っていましたし白夜の季節とて早朝3時頃から働く農夫の姿も見掛けました。

  北緯60度に位置し、フィンランド湾に面してネヴァ デルタ の大小 100を数える島々の上にあるこの街は、1703 ピョートル 大帝によって創建され、その後1914年にペテルグラードと改称しました。1917年のロシヤ 革命の中心地としてその指導者を記念して1924年にはその名をレーニングラードと改めましたが、1991年に元のサンクト・ペテルブルグに戻りました。駅構内の正面には大きなレーニンの像が掲げられていたそうですが、今はピョートル大帝のそれに変えられていました。

  ホテルに荷物を置いて朝食の後は、直ちに過密な観光スケジュールが待っていましたが、ここのホテルの部屋は モスクワのそれの3倍近くもあって大きくてとても快適でした。

  市の中心部は寺院や宮殿と見る所が多すぎて殆どバスの中からの観光となってしまったのは大変残念でしたが、一時下車した 海軍中央博物館 の前から眺める ネヴァ川周辺の風景にはすっかり魅了されました。又、ロシヤ革命の始まりを合図して冬の宮殿」に向って発砲した巡洋艦オーロラ号」は今も河岸に係留されていました。

  午後からは サンクト・ペテルブルグの南24キロ プーシキン市にあるエカテリーナ二世の 夏の宮殿」を訪ねた後、夕食もそこそこにマリインスキー劇場に出かけました。

  これは今回の旅の中で最も期待したマリインスキーバレエ団による白鳥の湖」鑑賞がお目当てで、皆さんはこの日の為にと持参した スーツ ジャケットを着込んでの正装でした。モスクワボルショイ劇場と並ぶロシヤの伝統を誇るオペラ・バレエの殿堂として君臨する客席1600を数えるこの劇場は今夜も満員の盛況で、我々は美しい本場のバレエに見惚れていました。口が悪くて滅多に誉め言葉を耳にした事のない相棒の太田さんの口からですら、綺麗に揃った 白鳥達の踊り」には感嘆の声さえ漏れた程でした。3時間の鑑賞の後劇場を後にしたのが午後10時、未だ街は明るくて薄日すら射していました。

  註:この劇場で初演された作品にはヴェルディー作曲運命の力(1862年)、チャイコフスキーオペラ「スペードの女王」やバレー 眠れる森の美女」(何れも1890年)、更にはバレー「くるみ割り人形」(1892年)等があるそうです。

  翌日は市の南西に位置しフィンランド湾に面した 「ピョートル 大帝夏の宮殿」(又の名を噴水宮殿」という)を訪れました。18世紀の初めに「ロシヤヴェルサイユ宮殿」を目指してピョートル大帝がドイツから建築家を招いて造った代物と言うだけあって建物の内外ともに見事なものでしたが、前日の 夏の宮殿」もそしてこの「噴水宮殿」も残念ながら共に戦時中ドイツ軍の占領時代にその参謀本部として利用され、軍の撤退に際して時限爆弾で内部を完全に破壊されたものを、戦後元の設計図に従って再建したというものです。( 幸い什器調度品の類はイサク寺院の地下やウラル 山脈に疎開したので難を免れたそうです)

  街に戻って遅い昼食の後で、世界四大美術館の一つに数えられ、元の「冬の宮殿」エルミタージュ美術館を見学しました。ここは5ツの建物に跨る広大なものでしたが、我々には3ツ目の美術館とあって流石の名美術館も皆さんにとっては些か食傷気味の様子でした。(因みにエルミタージュとは「隠れ家」という意味だそうで、又我々が宮殿や美術館に入る時にカメラを担いでいると、大半の所では3400円の撮影料を徴収されました。)

  市内に戻る途中でロシヤ人のガイドさんが話してくれたこの街の状況は、先の大戦で街の60%は破壊されましたが戦後の再建に際して18世紀の雰囲気を保存する為にモダンな建物は作らないという事が守られて、この街の美しい今の佇まいが保持されているのだとの事でした。

  又全般的な「ロシヤ事情」としてエリッイン の時代になって2つの決議がなされたそうで、

  1.若者が国から資金を借りて輸入業を始め、物価の安い 中国「トルコ」「ポーランド」から物資が入って競争原理が働いて、価格引下げに効果があった事はとても市民生活には幸いした。

  2.大都市周辺では、野菜や果物を作る為に1世帯 600uの土地が無料で貸与され、余った物は野菜市場で売る事で食糧問題を解決したという。(裕福な人はそこに別荘を建てるのだそうです)

  又、この所インフレも収まって物価の上昇率は一昨年は30%でしたが、昨年は0.8%に止まり、今年もこの傾向が続いているとの事でした。

 

  現在の為替レート1ドル5700ルーブル(大雑把に5000ルーブル100円と見て、皆さんはショウ・ウインドウを見て歩いていました)で、ガイドさんのいうのには サラリーマンの平均月収は約80ルーブル、平均の年金額は35ルーブル、年金の給付年齢は男性は60才、女性は55才からであるが、鉄道や化学会社などで重労働に従事した者は5年早くから支給されるそうです。また、特例としてX線の仕事に従事していた人達は45才から、そして興味深かったのは バレリーナ は学校を卒業した17才から20年仕事を続ける事は非常に激しい労働という事で、その後は恩給生活に入れるのだそうです。そしてスターリン の時代から軍人の年金は特に優遇されていて、20年軍隊に勤務したものは一般の3倍の年金が支払われているとの事でした。(但し ガイドさんの言った事なので何処までが本当かは良く解りません。 現在の失業率は0.3%とも説明していました)

  こうした 「ロシヤ事情」を聞いているうちにホテルに戻り、我々の最後の晩餐会」の為にこの夜も再び正装に着替えて旧ニコライ宮殿に向いました。ここはニコライ二世の建てた豪華な接待場で、今は 文化会館」に変身していました。天井の高いシャンデリァ の輝く立派な部屋に通されて、弦楽四重奏を聞きながら宮殿時代と同じ フルコースの食事を出されましたが、皆さん食べる事にも些か食傷気味で大半の人が折角最後に出されたメイン・ディッシュ 「ビーフ・ステーキ」には手も付けられず、調理してくれた方々に申し訳ない想いで一杯でした。ロシヤ の料理は一般的に味付けが淡白で日本人の口に合ったものでしたが何しろ量が多くて・・・。

  旅の間中、バスの中から窓外を眺めていた雑学博士の太田さんが「 ロシヤの女姓は若い時は大変 スマートで美しいのに中年以降になるとどうしてこうも ブクブク太るのかねぇ?」と呟いておりましたが、ガイド さんの話では ロシヤのご婦人達は「食べる事が大好き」で、それで加齢と共に太っていくのだそうです。

  翌朝、サンクト・ペテルブルグを発って空路 モスクワに戻りました。昼食は市の外れにある 競馬場 内のレストランでしたが、ロシヤにも 競馬場」があるのには皆さんとても驚いた様子でした。ここはソ連邦の時代から特権階級だけでなく一般の人も入場できたそうで、 馬券売り場」もズラーッ と並んでおりました。(現在はカジノもやっている様子に見えましたが・・・?)

  食事の後は、今回の旅の最終コース 一般家庭の訪問」です。

  5班に分かれてマンションの家庭を訪問しましたが、我々は御主人が プログラマーで月収 400弗と言う家庭でした。他の人にも聞いてみきましたが、ある人は銀行の支店長宅だと言っていましたから訪れた所は皆さんエリートの方達のご家庭の様でした。

  マンション の7階に案内されて、2人のお子さんのいる30代の若くて綺麗な奥さんが通訳を交えて我々を歓迎してくれました。 夫婦の寝室」、「ダイニング・キチン」、子供部屋」そして風呂からトイレまで全部見せて頂いた後で、 「リビング・ルーム」に案内されて1時間半ほど色々な質問を発しましたが、奥さんはどの質問にも躊躇なく皆すらすらと答えてくれました。テーブルの上にはキャンディー や奥様お手製のクッキーカステラケーキもたくさん並べられて紅茶で歓待して頂きました。

奥様との会話の中からその一部をピック・アップしますと、 1.新しい ロシヤになって若い人たちは皆以前に比べて今の方が良いと思っているが、お年寄りの年金生活は大変のようで 保守派」を支持する人はこうした年金生活者だと言う事でした。

 2.エリツィン の後継者はどうするのだと言う問に対しては、貴方達でも政治家の後釜を心配しないし、選挙に行かない人もあるでしょうと涼しい顔をしておりました。

 3.モスクワに日本料理店がありますか?との質問には、最近できたので家族全員で「にぎり寿司」を食べに行ったら500 弗も取られたと笑っておりましたが、月収400 弗の家庭が豪勢なものだとみんなで感心させられました。

  リビングには100 年前の代物だと言う両脇に 燭台」のある縦型のピアノも置いてありました。奥様はシベリヤ の出身なので暑いモスクワの生活はとても苦手だと美しい笑顔でこぼしておられました。部屋には集中暖房はありますが、勿論冷房設備はなくて我々には結構暑苦しく感じました。  帰り際に皆で記念撮影をして別れましたが、この日の 家庭訪問」は 先の地下鉄試乗」と共に今回

の旅行で特に印象深い体験となりました。

 

(  大田   )

  モスクワでは余り英語の「案内板」を見掛ける事が無いので、33文字ある「ロシヤ語のアルファベット」では トイレ」の表示すら我々にはさっぱり見当も付きませんでした。

   これで、お粗末で冗長な旅の報告を終わります。

 

 

   発言番号:76(075へのコメント)

   発言者  :太田 中

  題名    :ロシア紀行」 自選 20句

   登録日時:97/07/21 23:21

 

     夏機上逝きし虜囚に合掌す

     モスクワ宿冷房効かず寝苦しき

     炎昼や記念塔にはガガ−リン

     レ−ニンの赤の広場は灼けにけり

     炎天のワシリ−寺院イコン満つ

     川畔のレ−ニン丘は夏樹映ゆ

     夏草や功罪半ばモスクワ大

    トルストイ緑蔭の荘古めがね

    列車旅ペテルブルグへ白夜かな

    夫殺しエカテリ−ナの「夏宮殿」

    ビョ−トルの大噴水やニレの森

    汗噴けるエミルタ−ジユの長廊下

    スタ−リンの影いづくにも無く夏の夢

    彫刻のオペラ劇場白夜光

    白一色「白鳥の湖」涼しかり

    夏木立すっきり少女とでぶ老女

    ポプラ照りチョウザメ・ムニエル食しけり

    夏の宴ステ−キ残しいぶからる

    四重奏ハラショウ沸かず夏の夕

    結局は理解も成らで大地灼け