5.欧、中.東欧

 

 

 5-1 ヨーロッパ雑感

 

 

    発言番号:

    発言者  :秋里 隆男

    題名    -ロッパ雑感

    登録日時:

 

1.今回の旅が今年の6月3日から11日までの9日間で、夫婦同伴の陸士同期の会の催し(15名)であったことは、先に報告申し上げた通りでです。

  亭主どもが陸士同期という仲間意識からか、女房(陸軍ではこれを副官と申します)どもも忽ちにして 姉妹のような仲となりました。

  亭主連中も 久しぶりに女房の和やかな顔つきを見て ニヤニヤ嬉しそう にしていました。

  世界中に「人類という仲間意識」が根付けば 世界はもっと穏やかなるものをと思えてなりませんでした。

 

2.ロ−マはトレビの泉では、おばさん達がさかんにお金を投げていました。3回か4回か投げると離婚でるとかで、お金をたくさん投げている どこかの おばさんもいました。夫婦同伴ではないらしく 御主人は知る由もありません。  女は相変わらず 強いと思いました。

 

3.パリでは 今まで出張の機会には行けなかった ム−ランル−ジュを見物しました。絢爛たる そして躍動的に変化する舞台、素人目にも素晴らしいものでした。

  それにもまして、若くて美人の踊り子が上半身裸であるのには 久しぶりに男の血が騒ぎました。

 

4.ロンドンのウインザ−城では、エリザベス女王がおいでになっているという旗が立っていました。

  残念ながらお目にかかることはできませんでしたが、悩み多くあらせられるであろう女王様の ご健康を祈って来ました。

 

5.日本から一緒にしてくれた 女性の添乗員は素晴らしい人でした。私がもう少し若ければ嫁さんにしたいような人でした。

 

  しかしツア−料金が安かったせいか、ホテルと食事はどうもという状況でした。ホテルでは鍵の具合が悪く、都度添乗員に面倒をみてもらう始末でした。食事は、当時狂牛病騒ぎの最中で牛肉はなし。それにしてもまずい食事てした。

  6月11日 日本に帰ってからすぐさま行きつけの寿司やに 飛び込みました。やれやれという感じでした。まだうまい物を求めて食べたいという若さがあると自信を強めた次第です。

 

 

 5-2 中欧

 

 

  発言番号:243

    発言者 :巌 隆吉

    題名  :中欧、音楽と美術の旅 プラハ、ドレスデン、ベルリン

    発言番号:98/04/06  20:19

 

  3月9日から17日まで中欧の旅をしました。早くご報告をしたいと思いつつも、種々の行事が重なりまして今まで延びました。もう、深沢さんや太田さんのポルトガルの旅も終わりましたので、それより遅くなってもと急いでご報告します。

  プラハやベルリンとなると既に訪れた方も多いと思いますので、今回私が特に感じたことのみに絞りまして、その感想を若干記載します。

@  今回の旅のテーマは音楽と美術でしたので、それなりに得ることは多々ありました。プラハではスタミナホールでのプラハシンホニーオーケストラのコンサート、ベルリンではベルリン国立オペラ座でのローエングリーン観劇等、音痴の私でも充分楽しめました。でも昼は美術館等を含めての観光、夜は音楽会というのもいささかしんどいことでした。特に私はドレスデンが寒く風邪を引きまして、凄く乾燥したホテルで鼻を痛めまして鼻炎となり、その上咳きが出るので音楽会で、その咳きを抑えるのに難行苦行でした。それでドレスデンのゼンパーオペラ座の赤と黒」のバレーは私だけカットした程でした。

A  そこでどうしてもこの際、「水」の問題に触れたいと思います。ヨーロッパは水で困るということを良く聞いていましたが、私自身今回程、「水」で苦労したことはありませんでした。風邪の咳きを治すには、経験から熱い湯を多量に飲むのが一番ですが、その「水」の入手には大変苦労しました。ポットは予め準備しておりましたが、ホテルの冷蔵庫にはガス入りの「水」ばかり多く、エビアンのようなノンガスの「水」は、小ビンで1本だけであり、その「水」もホテルでは1本350〜400円もするのには全くビックリしました。

  スーパーにはノンガスの「水」を売っていますので何処に行っても先ずその「水」を手当てした次第でした。風邪を引かなかったならばそのように「水」で苦労することもなかったと思いますが、日本の水の有難さをしみじみと感じました。お互い日本の「水」を大いに大事にしましょう。

  また、ホテルの「水」はビールより遥かに高いですね。咳きさえ出なければ、ビールを飲む方がより効率的なのですが、その点残念至極でした。

B  プラハの街には最近多くの日本人が行っていますが、さすがにかって神聖ローマ帝国の首都だっただけに、歴史的建造物も多く、本当 に美しい街。世界遺産になるのも尤もだと思いました。昔の古城跡のヴィシェフラドやプラハ城、カレル橋、旧市街それにモーツアルトの住んでいたベルトラムカ荘等。3日間ゆっくり歩いて見たが、まだまだ見足りない位。

  また、チェコは昔からロシアとドイツの狭間で随分苦労した国ということを現地のチェコ人の歴史談義を聞きつつ痛感させられる。

C  さらに、チェコも東ドイツも社会主義下で経済の遅れは深刻だなと思われた。チェコのドイツとの国境近くの村々の疲弊は言語に絶する程のようで、その村の娘さんが旅人特にドイツ人運転手を求めて道路筋に売春のため立っているのを見て、大変驚くとともに哀れを感じた次第だ。

  かってチェコは工業国として栄えていたが、今ではやはり相当苦しいのだろう。チェコのコルナは安く従って物価も安い。それに比較するとマルクは強くドイツの物価は円ベースで考えると大分高いようだ。

D  第2次世界大戦の傷痕はまだいたるところに残っている。チェコのテレジンにはかってのユダヤ人収容所が残っており、ドレスデンは随分戦争で痛めつけられたようだ。かって破壊された教会の残骸を集めて再建中の聖母教会が建っている。東洋の陶器を模倣したマイ センは被害がなかったので、立派な技術が今でも燦然と残っているが...。

  さらにベルリンには広島ドームと同じ趣向の壊れたままの記念教会もありベルリンでもその他随所にそのような傷痕が見られる。

  東ベルリン地区には、まだソ連の戦勝記念碑が2台の戦車を脇に置いたまま厳然と立っている。私自身、今後ドイツはどのようにするのかなと疑問に思った。

E  ベルリンは首都となったがまだ大統領が来ているのみで、首相はボンにいるようだ。目下首都機能を大拡充中で凄い建築ラッシュ。

  「クレーンの首都」といわれている程だ。それでも、ドイツは、東ドイツの合併の余波で失業者を450万人もかかえて大変な問題となっている。ドイツも社会主義のため遅れた東ドイツを抱えて当分の間は苦しむことだろう。

  ブランデング門の傍にはロシア人が軍服を売っており、ベルリンの壁も一部観光用に残しているのみで大部分は整理されていた。

  ヒットラーの総統官邸の堅固な防空壕は、そのまま残っているようだがその付近は綺麗に整地されている。元日本大使館も綺麗に化粧直しされており、その傍の道路が広島通りと命名されていると聞き大変親しみを感じた。

  昔華やかなドイツ空軍の空軍省のビルも改装されており、今度はドイツの大蔵省が入るとかいう。世の流れをつくづくと痛感する。

F  ポツダムでは、ポツダム宣言や原爆投下の話の出た小さな部屋を見て、私たち戦中派の一人としては感慨深いものがあった。この小さな部屋でトルーマン、チャーチル、スターリンが話し合い、ドイツの戦後処理と日本の降伏を討議、歴史の一齣が決定されたとは、まさに感無量だった。

G  これから、ヨーロッパも統一通貨になり統合されよう。チェコとドイツの国境を通って感じたのだが、国境といっても標高500メーターの丘陵地帯。戦力の均衡が破れれば、戦車ならすぐに突破出来るようなまことにもろい国境線だ。

  そのように考えると国境なんて全く無意味。これから統合されたヨーロッパは大いに発展しよう。暫くは多少の混乱もあろうが、日本も心しないと遅れるのではないだろうか...。

  僅か10日足らずの旅であったが、始めての土地だったので、良い勉強と貴重な経験となった。

 

 

  発言番号:244243へのコメント)

    発言者 :太田 中

    題名  :中欧の旅  プラハ、ドレスデン、ベルリ

    登録番号:98/04/07 22:26

 

  昨日、ポルトガルから帰って参りました。

  早速、パソコンを開きますと、巌さんの「中欧の旅」が掲載されていました。一昨年10月深沢さん達と一緒に訪れた所ですので、大変懐かしく一気に読み終りました。

  何か私が同地を再訪問したような錯覚さへ致しましたので、私の感想も少し付け加えさせて戴きます。

1、巌さんの旅のテ−マが「音楽と美術」ですから当然のことでしょうが、プラハではオ−ケストラ、ベルリンではバレ−等羨ましい限りです。しかし、昼、夜、美術と音楽漬けでは、巌さんのペ−スと言うより、正に奥さんのペ−スと言った方がよいのではないでしょうか。

 

2、風邪と水には大分悩まされたようですね。私もポルトガル到着当日に風邪をひき、これでは今回の旅行は第2日からギブアップかなと思いましたら、翌日バスの中で居眠りする程度で済んだのは幸いでした。

 

3、プラハは良かつたですね。50年に及ぶ共産政治の下では街の中もメチャメチャだろう思っていましたら、歴史的建造物がそのまま厳然と残っていたのには驚きと同時に感動しました。

  巌さんがご覧になった所は私達も大体見ているのですが、中味の濃さが違います。巌さんの3日間に対し、私達は1日でしたから。

 

4、チェコは昔からドイツとロシア、特にヒットラ−とスタ−リンに苦しめられたこと。チェコの経済不振、失業者の増大、国境付近の売春婦、ユダヤ人収容所等も皆お述べになっている通りです。

 

5、ドレスデンは再建中の聖母教会と広島ド−ムと同じ趣向の壊れたままの記念教会とドイツ人らしい発想ですね。

 

6、ベルリンは首都としての機能回復のための大手術の最中のようですね。

 

7、ボツダムも行きましたよ。個人の別荘よりは大きいですが、そんなに豪華とも思えない木造の山荘で連合国の首脳が集まってドイツ、日本の将来を議したのかと感無量でした。

 

8、ヨ−ロッパ統一通貨に象徴されますように、統合されたヨ−ロツパは大いに発展するでしょう。日本は駄目だと言うご意見には私も同感です。日本には今、発展策は全く見当たらない。

 

 

  発言番号:246244へのコメント)

    発言者 :巖 隆吉

    題名  :中欧の旅  プラハ、ドレスデン、ベルリ

    登録番号:98/04/08 20:32

 

  早速コメント恐縮でした。百聞は一見にしかずといいますが、皆さんもほぼ同じような感想をお持ちのようですね。

  音楽の旅のオペラ観劇は出発前に家内から充分ビデオで教育されていましたので、言葉は判らなくとも充分堪能出来ました。

  今日、財団から要請がありました統計資料の整理事務のため財団に出向きました。その後、例の蕎麦屋で深沢さんより、ポルトガルの美しい写真を拝見したところです。皆さんは、世界最大の大陸の最西端の浜辺に立たれたわけですので、さぞかし感激を新たにされたことでしょう。

  何れポルトガルの紀行文も掲載されましょう。今から楽しみにしております。

 

 

 5-3 東欧

 

 

  発言番号:00030

    発言者 :太田 中

    題名  :東欧旅行へ行って来ます

    登録番号:96/09/30 11:47

 

 今週4日(金)東欧5国(ドイツチェコ-ストリアハンガリ-ポ-ランド11日間の旅に出かけます。

  既に-ロッパは大方巡っておりますので、今回が一応の仕上げになります。ツア-ですから、勿論定食メニュウですが、当店特選お好みメニュウだと旅行会社は言っております。

  パ-トナ-は我が旅行史上最強の深沢竜一さん、体力・知力その上積極性に優れている方なので、小生は大船に乗った積りで安心しております。

  本年、彼はスペイン巡礼の旅、九州・四国岬巡りの大業を引提げ、それに引き換え小生はやや劣る3年越しの奥州街道歩き、カナダ東海岸旅行を実績にして今回の旅に望むわけです。

  ご存じのように、東欧は不幸にも戦後約半世紀を共産圏に繰り込まれ、大変苦労しましたが、もともと敬虔なキリスト教国現在は漸く自由をを取り戻し昔の情趣に返りつつあるようです。

  天を衝く大聖堂や壮麗な宮殿を見ることも、日本より一足早い紅葉も楽しみですし、ビ-と民族舞踊、ワインジプシ-音楽などは想像するだけで胸がわくわくします。

  人は今度の旅行を「大丈夫ですか。危険はありませんか」と心配してくれますが、それは旧共産圏で何か秘密のベ-に覆われていたこと、旧-ゴの内戦等から連想されているのでしょうか。紀宮さまが28日からブルガリアチェコを公式訪問されている位ですから、大丈夫でしょう。

  兎に角、帰ってきましたら深沢さんの健筆ならぬ健パソコンがいよいよ冴え渡り、ダイヤ会議室旅行部門は更に賑やかになることは間違いありません。

 

 

  発言番号:00031(  00030へのコメント  )

    発言者 :巌 隆吉

    題名  :東欧旅行

  登録日時:96/09/30 21:40

 

  東欧へのご出発の由。お元気で行ってらっしゃい。  旅のベテランの太田さんと深沢さんですので、さぞや面白く楽しい旅となりましょう。お帰りになっての紀行文を楽しみにしております。

  この3月末から、4月始め私も、オーストリアのウイーンとザルツブルグへ主として祝祭劇場や国立オペラ座等、音楽中心の旅を家内と家内の妹の3人でやって来ましたが、一寸垣間見ただけですので、後から色々お教え下さい。

  なお、プラハには、発電所の廃ガス処理プラントのため、長男もおりますので、是非寄りたいと思いましたが、無理な旅行もどうかなと思いまして、立ち寄りませんでした。

  チェコの良い景色を十分堪能して来て下さい。

 

 

  発言番号: 00032  (00031  へのコメント)

    発言者  :深沢龍一

    題名    :東欧旅行

    登録日時:96/10/01 13:22 

 

 巌さんには何時も何かと励ましのお言葉を頂き、ありがとうございます。今回は太田さんが大袈裟な前宣伝を致しましたばかりに、重ねてご配慮を頂いて恐縮至極に存じています。私共の旅行は巌さんのように優雅なヨーロッパ「音楽の旅」でなくて、各都市正味1日づつの駆け足行脚でございます。加えて、何せ我々の「弥次喜多道中」でございますので、途中での「仲間割れ」も十二分に予想されますが、私とて、先日の台風の日に2泊3日で秋川渓谷の禅堂に籠って、多少は修行も積んで参りました身でございますので、若しも二人仲良く無事に「帰朝」の暁には、双方で手分けして「東欧駆け足旅行記」でもレポートさせて頂きましょう。

  出発を前にご声援ありがとうございました。明明後日の午後1時、「エアロフロート・ロシア国際航空」での旅立ちです。

 

 

  発言番号:00038

    発言者  :深澤 龍一

    題名    :東欧見聞録

    登録日時:96/10/16 21:01

 

 樋口さんの格調高い「旅の讃歌」の直後で誠にやりにくいのですが、巌さんからも「発破」掛けられていますので、肩肘張らず気楽に私流の「太田さんとの珍道中旅日記」を綴りましよう。

  10月4日、11時発の我が愛する「アエロ・フロート」ロシヤ国際航空のエア・バスは、途中モスクワで乗り継いで定刻20時55分に東ベルリンの国際空港に実にスムースに着地致しました。この空港はベルリン郊外に新設整備されたもので、将来は「首都ペルリン」の国際空港に予定されているそうです。

 

1.ベルリン

  ホテルは東ベルリンに用意されていましたが、途中1.2キロに亙って「壁」が残されていました。「壁」の裏側が市内を流れる「スプレー河」に面しているので、市の再建計画には影響はないと過去を忘れぬために残すことにしたそうです。開放後、西を真似て壁面に色々の絵がペイントされていましたが、その中でも大衆車「トラバント」が壁を突き破って頭を出している絵が一番の傑作とはガイドさんの話でした。このかつての東独の大衆車が、今も尚無様な姿をさらして市内を走っているのを良く見掛けましたが、日本の軽自動車に似た1気筒のこの車が爆音を響かせている姿は、西のベンツやフォルクスワーゲンと比較して将に「東」を象徴しているようで、事ほど左様に東西を隔てた壁は経済的にも思想的にも未だに越えきれていないようです。

  撤去された壁の跡地にはアパート群がどんどん建てられており、今やベルリンは建設ラッシュのようでした。大統領官邸は既にこちらに引っ越して、首相官邸や官庁の建物は目下整備中で、2年後には「首都移転」を目指していると聞きました。

  市内は「壁」と「ブランデンブルグ門」以外見るべきものもなく郊外のボツダムに行って、トルーマン、チャーチル、スターリンが「ドイツと日本の戦後処理」を協議したツェツィリンホーフ宮殿(ソ連が爆撃を回避して残した)は、調度品と共に当時のままの姿で保存され、多くの人が訪れていました。

  私達は毎朝寸暇を惜しんで市内を見て回りましたが、「無名戦士の廟」の前にはベルリンに一番乗りしたといわれる戦車が今も2台据えてありましたし、「マルクス・エンゲルス広場」にはスターリン時代に建てたらしい二人の並んだいかつい像も建つていて、太田さんは二人の間に立って記念写真を撮りました。

  ベルリンからマイセンを経由してドレスデンに参りましたが、ここ東側の「アウト・ヴァーン」は時速100キロに制限されていました。簡易舗装でガタガタ道だからという事に加えて、どうせ「トラバント」は時速80キロ以上は出ないからとの理由だそうですが、来年からは有料にしてこの道路を整備するという話もあるそうです。

 

2.ドレスデン

  エルベ河畔に開けたマロニエの街路樹がとても美しいここザクセン州の首都は、終戦の年の2月13、14の両日、米英空軍の徹底的な報復爆撃を受け、市内の85%が破壊されたようで、もともと当時この街には何等「軍事的」に値する施設は無かったのに、ヒットラーの無差別爆撃への報復として行われたようです。古い文化財に富むところから「ドイツのフィレンツェ」とも呼ばれ、中でも街の中心に位置する「聖スパーク教会」は、「ヨーロッパの広島」としてこれまで原爆ドームと同様、破壊された当時の状態のままで保存されていましたが、近年再建話が起って瓦礫の中から損傷を受けた石材も取り出され、コンピューターによってその石片が何処の部分に当るかも既に分析されて番号も振ってありました。今、これらを利用して2006年を目指して再建中で、これには英国のエリザベス女王もドレスデン市民へのお詫びにと再建資金を拠出されたとの事でした。エルベ河を挟んで市内にはツヴィンガー宮殿やアルベルティーナムの他、歴史的な教会、劇場、庁舎、宮殿等の建築物も多く、とても美しく印象的な都市でした。

  ドレスデンからバスは紅(黄)葉がとても美しい国境への道を辿りました。国境越えはドイツ側は殆ど形式的でしたが、チェコ側では面倒なビザを要求されて、ここにも「人を見たらスパイと思え」との旧共産圏の意識が尾を引いているように思われました。その癖、ズィムワードからチェコ領に入った途端、まだ午後の3時を少し廻った所というのに、道路に沿った「簡易ホテル」の前にはショート・パンツ姿でバストを誇示した若い金髪の女性達が、煙草を口にしながら客を求めて二人、三人と立ち並ぶ姿は、将に「自由化への苦悩」をまざまざと見せ付けられた感じがして、「プラハの春」のイメージは壊れそうになりましたが、幸いこの風景は国境近くの取り締りの目の及ばぬ辺りのみでした。

  プラハを目指してボヘミヤの美しい自然を眺めながら、途中「テレジン」の元の城塞に建てられたナチスの「ユダヤ人強制収容所」跡に立ち寄りました。29172人の墓標が整然と並んでいて、ここはこの国の子供達が「悲しかった過去」を何時までも忘れないようにと、必ず修学旅行に訪れるそうです。私達がいる時にもあどけない小学生の一団に巡り合い、侵略を受けた人々の悲しい心を見る思いが致しました。

 

3.ブラハ

  モルダウ河畔に位置するヨーロッパ最古の都市の一つプラハは、今観光ブームに沸いていました。英米独からの客も多く、この月初めはドイツ統一記念日という事もあつてドイツから大勢が訪れた為、日本人観光客はここから100キロ離れた所にしか宿舎を取ることができなかったと、現地の日本人ガイドさんが話していました。

  ここは「百塔の街」といわれる程塔の多い街で、又神聖ローマ帝国の都として栄えた所で、街の中心に位置する「プラハ城」はチェコの人々にとって「歴史的な宝物」で、中でも聖フィート大聖堂は最も重要なゴチック建築です。市内には約3500の教会があって、そのうちの140が文化財に指定されているそうです。

  この街を案内してくれたのは容姿端麗なチェコ美人で、プラハ大学で経済と貿易を学び、日本語を趣味として開放後自分で「英和」「和英」の辞書で独学したと言っていました。機知にも富んで研究心も旺盛で、「ガイド中若しも自分の日本語の使い方が間違っていたらどうぞ教えて下さい」と笑っていました。私は唯彼女の流暢な日本語に聞き惚れ、美しい笑顔に唯々見惚れるのみで、かつてのこの国の美しい女子体操選手を思い浮かべておりました。

  この日は「プラハ城」を見て「カレル橋」を渡って市庁舎を眺めた後、女性達はガイドさんの勧める「ボヘミアン・グラス」の専門店で熱心に買い物をしていました。

  ここの街を見下ろす高台には、「スターリン像を取り除いた跡にマイケル・ジャクソンの像が立っている」と同行した添乗員が話していましたが、現物をこの目で確めていませんので真偽のほどは判りません。

  昼食の後「ボヘミアの古城」コノシチュベ城を見学して、夜はプラハに戻って名物のピルセンビールと民族舞踊を楽しみました。このビアホールは奥の方に我々日本人の観光客が、そして入口に近い方には英国からの老夫婦の団体が50人近く陣取っていました。エキゾチックな意匠の歌い手がマイクを差し出すままに、私も彼女に合わせて民謡のリズムを口ずさんでおりましたが、終った途端に英国の皆さんが盛んな拍手を送ってくれました。更に私達が帰る為に彼等の席の間を通った時、英国夫人の中の2〜3人の方から握手を求められました。70才をとっくに過ぎた老夫人達が口々に私の声を褒めてくれたのも今回の旅の良い思い出となりました。年齢や容姿から推察すると、彼等英国紳士はその昔欧州戦線に従軍した「元英国勇士」夫妻の団体ではないだろうかと想像致しました。

 

4.ウィーン

  翌日は早朝に宿を発ちウィーンを目指しました。「東」を専攻(?)する我々はこの日は大半が移動に当てられて、東独よりは良く整備された高速道路をオーストリアへ向いました。

  ウィーンは何と言っても「ハプスブルグ家」と「音楽」が街を彩るヨーロッパを代表する美しい街です。我々は殆どバスの乗ったまま環状道路を一回りしましたが、王宮やオペラ劇場、そして皇帝や音楽家の銅像が矢鱈と目につく街でもありました。ザルツブルグに生れたモーツアルトはここウィーンで亡くなりましたが、昨日のプラハのホテルのすぐ裏にも「モーツアルト記念館」がありました。彼は子供の頃から父に従ってヨーロッパの各地を渡り歩きましたが、乗り物の完備しない当時のこうした過酷な移動が、天才的作曲家の命を縮める結果になったのかも知れませんね。

  ここで我々のツアーの構成を眺めて見ますと、総勢20名の内夫婦連は5組10名友達同志が我々を含めて3組の6名、女姉妹が1組2名で残りの2人は共に女性の独り旅。男7名に女13名の構成ですから「見物よりも買い物」を好む集団でもありましたので、何時かの有里さんの旅行記を思い浮かべてしまいました。

  ベルリンに着いて間もなく或る夫婦連れの奥様の方が小さい声で私に聞きました。「お二人はどういうご関係ですか」と。「友達です」と答えたら大層驚きの様子で、その奥様の言うのには、ご主人は家では無口でテレビばかり見ていてろくに口も利かないし余り外へも出ない「濡れ落ち葉的亭主」だと言うのです。我々男同志の二人連れにつくづく驚いている様子で、「奥さんはお留守番ですか?」と不思議そうな顔をしておりました。(そのくせこの奥さんは日本に帰る頃になって、私のオッチョコチョイ振りに「ビデオに写して奥さんに見せまっせ!」とおっしゃっていました。)

  次の朝は深い霧の中、朝早く宿を発ってドナウベント地方を目指してハンガリー領に入りました。国境警備の係員が我々の内ピック・アップされた5人のスーツ・ケースを開いて点検に貴重な時間を取られました。さすがのベテラン添乗員もこんな事は「初体験」だそうで毎日忙しい彼女は「使った下着が入っていて恥ずかしかった」と笑っていました。国境通過者が少なくて警備員も退屈だからやったのでしょうとのことで、係員が頻りに「シガレット、シガレット」と言っていましたから規定以上の煙草を没収して彼等で山分けしようとしたのではなかろうかと憶測すら致しました。

  点検も異常なく無事に終って我々は一路ドナウベント(「ドナウの曲り角」の意)地方に向いました。古都エステルコムは霧が深くて「ドナウ川の漣」も霞んで良く見えませんでしたが、次のセンテンドレでは漸く霧も晴れて二頭立ての馬車が観光客を運ぶ「おとぎの国」のような町並みと、「美しく青きドナウ」の流れに皆さん暫し見惚れておりました。そして、「有料高速道路」を通って夕方にはブダベストに入りました。

 

5.ブダペスト

  到着の夜は街に出てワインとジプシー音楽を楽しみました。夕食の後バスの運転手に頼んでブダペストの夜景を見物しました。「ブダ城」の周りの市街を見下ろせる高台からの眺めは抜群で、この辺は世界文化遺産にも指定されているそうえです。ドナウ川(この辺りは特に「ブダ川」と言います)を挟んでブダ地区とペスト地区を結んだ「セーチェーニ吊り橋」がライト・アップされて、街灯の光と共にとても美しく輝いて見えました。1時間余りのこのオプョンはお一人様金1弗也と大変お安かったのですが、暗闇の丘でイタリヤ旅行団の老夫人が若いアラブ系の男に、持っていたショールダー・バッグを私達の目の前で引っ手繰られて泣いていました。翌日は、朝食後「ブダの王宮」、「マーチャーシ教会」や「漁夫の砦」を見物して「吊り橋」を渡って「ステファン礼拝堂」を見ての後、空路ワルシャワへと更に駒を進めました。

 

6.ワルシャワ

  この旅の間中、私達二人は朝一番に食事を済ませた後、寸暇を惜しんで地図を頼りに異国の街を見て歩きました。最初の国ドイツでは(東)ベルリンでマルクス・エンゲルスの像やソ連戦車、それに大衆車「トラバント」をよく見かけましたが、他の東側諸国では余り見る事は出来ませんでした。ここワルシャワの旅行最後の朝、市民が「スターリンの唯一の置土産」と称する旧文化科学宮殿を訪ねましたが、私がカメラを構えている時、通勤途次と思われる40過ぎの立派な紳士が両腕をクロスして私にX印を示し、擦れ違いざま恐い顔をして睨みつけながら指でVサインを示して「スターリン・・・・」と叫びながら通り過ぎ、振り向いても尚私を見据えておりました。「スターリンの置土産如きにカメラを向けるな!我々は彼等に勝ったのだ!!」と彼は誇らしげに叫んでいる様でした。思えば第二次大戦とそれに続く冷戦時代、いや、もっと昔からかも知れませんが、ドイツとロシヤの狭間にあって苦しみ抜いた国だからこそ、今も尚、両国への憎しみは我々の想像以上のものがあるようです。又、ショパンやキュリー夫人は共に「国民尊敬の的」ですが、両人共、夫々に理由は違っても20才前後で故国を去ってパリで大成したのが何かこの国民の運命を感じさせます。

  ここでは「ワジェンキ公園」や「旧市街」を見物しました。旧市街では例によって皆さんの希望で「お買い物時間」が設けられ、現地のガイドさんが案内役をつとめてくれましたが、旅行の最後とあって「資金枯渇」や「重量満杯」で買い物の出来ない人も半数近くになりました。成田からの「添乗員」を含めて「深沢さん、何処かへ案内して〜」ということになって1時間ばかり皆さんのガイド役を買って出ました。プロの添乗員さんを異郷の地で案内するのも又「乙なモノ」で、地図を片手に「ここはバルバカンといって元の城壁でありますとか、ここかあちらのどちらかがキューリ夫人博物館でございますとか、この川はヴィスワ河と申します」など時計と睨めっこしながら皆さんに話すのもなかなか良い気分でした。これも「未知なるものへの挑戦心を養ってくれた「パソコン・スクール」のお蔭と大いに感謝しています。

  この後、郊外にある「ショパンの生家」を見学しましたが、立派な公園になって黄葉がとても綺麗で私達の旅の最後を慰めてくれました。

  最後の晩餐はワジェンキ公園内の小ホールで私達だけの「ピアノ・コンサート」が開かれて、ショパンの小品を聞いた後「ポーランドの固い肉料理」で皆で最後の夜を歓談致しました。

  翌日は又、モスクワで乗り継時間が往きより長い4時間半に及びましたが、旅の間に気安くなつた方も出来て、我々二人の周りには総勢10人もの仲間達が集まって来ました。空港2階のレストランでビールかコカ・コーラ一杯でワイワイガヤガヤと話が弾んで、アッと言う間に3時間が過ぎました。これぞ将にパソコンならぬ「熟年からのウキウキ旅行人生」でありました。

 

 

  発言番号:00040(00038へのコメント)

発言者 :太田 中

題名  :

登録日時:96/10/22 19:47

 

 深沢さんの旅行記が発言されましたが、その流麗な筆致でエピソ-ド-モアを適当に挟んだ文章は紀行文の範と感心しました。

 大方の内容は承知していたものの、私は丁度「奥州街道歩き」の最終回(第24回、1719日、青森−龍飛崎)を歩いていた最中で、帰って来てパソコン開けましたら彼の旅行記です。余りの手早さに驚いた次第です。

 彼は私の予告通り、体力・知力そして積極性(行動力と言った方がよいかも知れません)に於いて抜群、お蔭で朝晩の余暇も寸時を惜しんで街の中へ繰り出し、旅行会社スケジュ-130%を旅したと彼に感謝しています。

 ただ彼は女性に少し弱いところがあるようで、そのとばっちりがこちらにも及んだことが再三ありました。

 彼がプラハの項で半分を費やして書いている美人ガイドにはぞっこん参って仕舞ったようです。説明を聞くのも上の空、うっとり顔ばかり見つめていましたので、自動車に轢れはしないかと心配でたまりませんでした。しかし、最後になって彼女が説明の中で夫と子供の話をした時に、彼の顔を見ていなかったのは私の怠慢でした。

 ツア−の構成は彼も書いているように20名、男性7名は暇な役人1人を除いて皆年金生活者、女性は50歳以上ばかり76歳の気の強いお婆さんまで13人。彼は口では平等主義を唱えていますが、行動では友達同志2組(76歳もいる)の女性に特に親切なようでした。女性の買物好きと写真好き(風景の中に必ず自分を入れる)は有名ですが、彼はこの4人に対しお抱え写真師のように動き廻っておりました。

 そのために当方は彼に敬遠された女性(30年前から別居、最近離婚、多少しつこい)につきまとわれ往生しました。ところで旅行中のニックネ-は彼が「プレイボ−イ」私が「校長先生」であったことを見ましても大方の推測はつくと思いますが・・・

 最後にワルシャワで彼が添乗員を含めて10人程を道案内したことが得意げに書かれております。私も付いて行った1人ですから、彼の体力、知力、行動力それに山歩きで得た地図読み力、土地感の故だと敬服しております。しかし彼を除いては日本語の市街図を持っていなかったこともあるのでは・・・(彼はこの旅行に当たり、町田図書館に行って必要な詳細地図を全部コピ−、図書も借り出して持参した。彼の周到性は見習うべき)私もホテルのポ−ランド語案内地図を貰いましたが、い加減で当てになりませんでした。

 兎に角、今回の旅行は事故もなく、楽しくいろいろ教えられた11日間でした。また心配された仲間割れも無く成田絶交が成立しなかったのは幸いでした。

 深沢さん本当に有難うございました。

 

 

  発言番号:00038

    発言者  :深澤 龍一

    題名    :東欧見聞録

    登録日時:96/10/16 21:01

 

 樋口さんの格調高い「旅の讃歌」の直後で誠にやりにくいのですが、巌さんからも「発破」掛けられていますので、肩肘張らず気楽に私流の「太田さんとの珍道中旅日記」を綴りましよう。

  10月4日、11時発の我が愛する「アエロ・フロート」ロシヤ国際航空のエア・バスは、途中モスクワで乗り継いで定刻20時55分に東ベルリンの国際空港に実にスムースに着地致しました。この空港はベルリン郊外に新設整備されたもので、将来は「首都ペルリン」の国際空港に予定されているそうです。

 

1.ベルリン

  ホテルは東ベルリンに用意されていましたが、途中1.2キロに亙って「壁」が残されていました。「壁」の裏側が市内を流れる「スプレー河」に面しているので、市の再建計画には影響はないと過去を忘れぬために残すことにしたそうです。開放後、西を真似て壁面に色々の絵がペイントされていましたが、その中でも大衆車「トラバント」が壁を突き破って頭を出している絵が一番の傑作とはガイドさんの話でした。このかつての東独の大衆車が、今も尚無様な姿をさらして市内を走っているのを良く見掛けましたが、日本の軽自動車に似た1気筒のこの車が爆音を響かせている姿は、西のベンツやフォルクスワーゲンと比較して将に「東」を象徴しているようで、事ほど左様に東西を隔てた壁は経済的にも思想的にも未だに越えきれていないようです。

  撤去された壁の跡地にはアパート群がどんどん建てられており、今やベルリンは建設ラッシュのようでした。大統領官邸は既にこちらに引っ越して、首相官邸や官庁の建物は目下整備中で、2年後には「首都移転」を目指していると聞きました。

  市内は「壁」と「ブランデンブルグ門」以外見るべきものもなく郊外のボツダムに行って、トルーマン、チャーチル、スターリンが「ドイツと日本の戦後処理」を協議したツェツィリンホーフ宮殿(ソ連が爆撃を回避して残した)は、調度品と共に当時のままの姿で保存され、多くの人が訪れていました。

  私達は毎朝寸暇を惜しんで市内を見て回りましたが、「無名戦士の廟」の前にはベルリンに一番乗りしたといわれる戦車が今も2台据えてありましたし、「マルクス・エンゲルス広場」にはスターリン時代に建てたらしい二人の並んだいかつい像も建つていて、太田さんは二人の間に立って記念写真を撮りました。

  ベルリンからマイセンを経由してドレスデンに参りましたが、ここ東側の「アウト・ヴァーン」は時速100キロに制限されていました。簡易舗装でガタガタ道だからという事に加えて、どうせ「トラバント」は時速80キロ以上は出ないからとの理由だそうですが、来年からは有料にしてこの道路を整備するという話もあるそうです。

 

2.ドレスデン

  エルベ河畔に開けたマロニエの街路樹がとても美しいここザクセン州の首都は、終戦の年の2月13、14の両日、米英空軍の徹底的な報復爆撃を受け、市内の85%が破壊されたようで、もともと当時この街には何等「軍事的」に値する施設は無かったのに、ヒットラーの無差別爆撃への報復として行われたようです。古い文化財に富むところから「ドイツのフィレンツェ」とも呼ばれ、中でも街の中心に位置する「聖スパーク教会」は、「ヨーロッパの広島」としてこれまで原爆ドームと同様、破壊された当時の状態のままで保存されていましたが、近年再建話が起って瓦礫の中から損傷を受けた石材も取り出され、コンピューターによってその石片が何処の部分に当るかも既に分析されて番号も振ってありました。今、これらを利用して2006年を目指して再建中で、これには英国のエリザベス女王もドレスデン市民へのお詫びにと再建資金を拠出されたとの事でした。エルベ河を挟んで市内にはツヴィンガー宮殿やアルベルティーナムの他、歴史的な教会、劇場、庁舎、宮殿等の建築物も多く、とても美しく印象的な都市でした。

  ドレスデンからバスは紅(黄)葉がとても美しい国境への道を辿りました。国境越えはドイツ側は殆ど形式的でしたが、チェコ側では面倒なビザを要求されて、ここにも「人を見たらスパイと思え」との旧共産圏の意識が尾を引いているように思われました。その癖、ズィムワードからチェコ領に入った途端、まだ午後の3時を少し廻った所というのに、道路に沿った「簡易ホテル」の前にはショート・パンツ姿でバストを誇示した若い金髪の女性達が、煙草を口にしながら客を求めて二人、三人と立ち並ぶ姿は、将に「自由化への苦悩」をまざまざと見せ付けられた感じがして、「プラハの春」のイメージは壊れそうになりましたが、幸いこの風景は国境近くの取り締りの目の及ばぬ辺りのみでした。

  プラハを目指してボヘミヤの美しい自然を眺めながら、途中「テレジン」の元の城塞に建てられたナチスの「ユダヤ人強制収容所」跡に立ち寄りました。29172人の墓標が整然と並んでいて、ここはこの国の子供達が「悲しかった過去」を何時までも忘れないようにと、必ず修学旅行に訪れるそうです。私達がいる時にもあどけない小学生の一団に巡り合い、侵略を受けた人々の悲しい心を見る思いが致しました。

 

3.ブラハ

  モルダウ河畔に位置するヨーロッパ最古の都市の一つプラハは、今観光ブームに沸いていました。英米独からの客も多く、この月初めはドイツ統一記念日という事もあつてドイツから大勢が訪れた為、日本人観光客はここから100キロ離れた所にしか宿舎を取ることができなかったと、現地の日本人ガイドさんが話していました。

  ここは「百塔の街」といわれる程塔の多い街で、又神聖ローマ帝国の都として栄えた所で、街の中心に位置する「プラハ城」はチェコの人々にとって「歴史的な宝物」で、中でも聖フィート大聖堂は最も重要なゴチック建築です。市内には約3500の教会があって、そのうちの140が文化財に指定されているそうです。

  この街を案内してくれたのは容姿端麗なチェコ美人で、プラハ大学で経済と貿易を学び、日本語を趣味として開放後自分で「英和」「和英」の辞書で独学したと言っていました。機知にも富んで研究心も旺盛で、「ガイド中若しも自分の日本語の使い方が間違っていたらどうぞ教えて下さい」と笑っていました。私は唯彼女の流暢な日本語に聞き惚れ、美しい笑顔に唯々見惚れるのみで、かつてのこの国の美しい女子体操選手を思い浮かべておりました。

  この日は「プラハ城」を見て「カレル橋」を渡って市庁舎を眺めた後、女性達はガイドさんの勧める「ボヘミアン・グラス」の専門店で熱心に買い物をしていました。

  ここの街を見下ろす高台には、「スターリン像を取り除いた跡にマイケル・ジャクソンの像が立っている」と同行した添乗員が話していましたが、現物をこの目で確めていませんので真偽のほどは判りません。

  昼食の後「ボヘミアの古城」コノシチュベ城を見学して、夜はプラハに戻って名物のピルセンビールと民族舞踊を楽しみました。このビアホールは奥の方に我々日本人の観光客が、そして入口に近い方には英国からの老夫婦の団体が50人近く陣取っていました。エキゾチックな意匠の歌い手がマイクを差し出すままに、私も彼女に合わせて民謡のリズムを口ずさんでおりましたが、終った途端に英国の皆さんが盛んな拍手を送ってくれました。更に私達が帰る為に彼等の席の間を通った時、英国夫人の中の2〜3人の方から握手を求められました。70才をとっくに過ぎた老夫人達が口々に私の声を褒めてくれたのも今回の旅の良い思い出となりました。年齢や容姿から推察すると、彼等英国紳士はその昔欧州戦線に従軍した「元英国勇士」夫妻の団体ではないだろうかと想像致しました。

 

4.ウィーン

  翌日は早朝に宿を発ちウィーンを目指しました。「東」を専攻(?)する我々はこの日は大半が移動に当てられて、東独よりは良く整備された高速道路をオーストリアへ向いました。

  ウィーンは何と言っても「ハプスブルグ家」と「音楽」が街を彩るヨーロッパを代表する美しい街です。我々は殆どバスの乗ったまま環状道路を一回りしましたが、王宮やオペラ劇場、そして皇帝や音楽家の銅像が矢鱈と目につく街でもありました。ザルツブルグに生れたモーツアルトはここウィーンで亡くなりましたが、昨日のプラハのホテルのすぐ裏にも「モーツアルト記念館」がありました。彼は子供の頃から父に従ってヨーロッパの各地を渡り歩きましたが、乗り物の完備しない当時のこうした過酷な移動が、天才的作曲家の命を縮める結果になったのかも知れませんね。

  ここで我々のツアーの構成を眺めて見ますと、総勢20名の内夫婦連は5組10名友達同志が我々を含めて3組の6名、女姉妹が1組2名で残りの2人は共に女性の独り旅。男7名に女13名の構成ですから「見物よりも買い物」を好む集団でもありましたので、何時かの有里さんの旅行記を思い浮かべてしまいました。

  ベルリンに着いて間もなく或る夫婦連れの奥様の方が小さい声で私に聞きました。「お二人はどういうご関係ですか」と。「友達です」と答えたら大層驚きの様子で、その奥様の言うのには、ご主人は家では無口でテレビばかり見ていてろくに口も利かないし余り外へも出ない「濡れ落ち葉的亭主」だと言うのです。我々男同志の二人連れにつくづく驚いている様子で、「奥さんはお留守番ですか?」と不思議そうな顔をしておりました。(そのくせこの奥さんは日本に帰る頃になって、私のオッチョコチョイ振りに「ビデオに写して奥さんに見せまっせ!」とおっしゃっていました。)

  次の朝は深い霧の中、朝早く宿を発ってドナウベント地方を目指してハンガリー領に入りました。国境警備の係員が我々の内ピック・アップされた5人のスーツ・ケースを開いて点検に貴重な時間を取られました。さすがのベテラン添乗員もこんな事は「初体験」だそうで毎日忙しい彼女は「使った下着が入っていて恥ずかしかった」と笑っていました。国境通過者が少なくて警備員も退屈だからやったのでしょうとのことで、係員が頻りに「シガレット、シガレット」と言っていましたから規定以上の煙草を没収して彼等で山分けしようとしたのではなかろうかと憶測すら致しました。

  点検も異常なく無事に終って我々は一路ドナウベント(「ドナウの曲り角」の意)地方に向いました。古都エステルコムは霧が深くて「ドナウ川の漣」も霞んで良く見えませんでしたが、次のセンテンドレでは漸く霧も晴れて二頭立ての馬車が観光客を運ぶ「おとぎの国」のような町並みと、「美しく青きドナウ」の流れに皆さん暫し見惚れておりました。そして、「有料高速道路」を通って夕方にはブダベストに入りました。

 

5.ブダペスト

  到着の夜は街に出てワインとジプシー音楽を楽しみました。夕食の後バスの運転手に頼んでブダペストの夜景を見物しました。「ブダ城」の周りの市街を見下ろせる高台からの眺めは抜群で、この辺は世界文化遺産にも指定されているそうえです。ドナウ川(この辺りは特に「ブダ川」と言います)を挟んでブダ地区とペスト地区を結んだ「セーチェーニ吊り橋」がライト・アップされて、街灯の光と共にとても美しく輝いて見えました。1時間余りのこのオプョンはお一人様金1弗也と大変お安かったのですが、暗闇の丘でイタリヤ旅行団の老夫人が若いアラブ系の男に、持っていたショールダー・バッグを私達の目の前で引っ手繰られて泣いていました。翌日は、朝食後「ブダの王宮」、「マーチャーシ教会」や「漁夫の砦」を見物して「吊り橋」を渡って「ステファン礼拝堂」を見ての後、空路ワルシャワへと更に駒を進めました。

 

6.ワルシャワ

  この旅の間中、私達二人は朝一番に食事を済ませた後、寸暇を惜しんで地図を頼りに異国の街を見て歩きました。最初の国ドイツでは(東)ベルリンでマルクス・エンゲルスの像やソ連戦車、それに大衆車「トラバント」をよく見かけましたが、他の東側諸国では余り見る事は出来ませんでした。ここワルシャワの旅行最後の朝、市民が「スターリンの唯一の置土産」と称する旧文化科学宮殿を訪ねましたが、私がカメラを構えている時、通勤途次と思われる40過ぎの立派な紳士が両腕をクロスして私にX印を示し、擦れ違いざま恐い顔をして睨みつけながら指でVサインを示して「スターリン・・・・」と叫びながら通り過ぎ、振り向いても尚私を見据えておりました。「スターリンの置土産如きにカメラを向けるな!我々は彼等に勝ったのだ!!」と彼は誇らしげに叫んでいる様でした。思えば第二次大戦とそれに続く冷戦時代、いや、もっと昔からかも知れませんが、ドイツとロシヤの狭間にあって苦しみ抜いた国だからこそ、今も尚、両国への憎しみは我々の想像以上のものがあるようです。又、ショパンやキュリー夫人は共に「国民尊敬の的」ですが、両人共、夫々に理由は違っても20才前後で故国を去ってパリで大成したのが何かこの国民の運命を感じさせます。

  ここでは「ワジェンキ公園」や「旧市街」を見物しました。旧市街では例によって皆さんの希望で「お買い物時間」が設けられ、現地のガイドさんが案内役をつとめてくれましたが、旅行の最後とあって「資金枯渇」や「重量満杯」で買い物の出来ない人も半数近くになりました。成田からの「添乗員」を含めて「深沢さん、何処かへ案内して〜」ということになって1時間ばかり皆さんのガイド役を買って出ました。プロの添乗員さんを異郷の地で案内するのも又「乙なモノ」で、地図を片手に「ここはバルバカンといって元の城壁でありますとか、ここかあちらのどちらかがキューリ夫人博物館でございますとか、この川はヴィスワ河と申します」など時計と睨めっこしながら皆さんに話すのもなかなか良い気分でした。これも「未知なるものへの挑戦心を養ってくれた「パソコン・スクール」のお蔭と大いに感謝しています。

  この後、郊外にある「ショパンの生家」を見学しましたが、立派な公園になって黄葉がとても綺麗で私達の旅の最後を慰めてくれました。

  最後の晩餐はワジェンキ公園内の小ホールで私達だけの「ピアノ・コンサート」が開かれて、ショパンの小品を聞いた後「ポーランドの固い肉料理」で皆で最後の夜を歓談致しました。

  翌日は又、モスクワで乗り継時間が往きより長い4時間半に及びましたが、旅の間に気安くなつた方も出来て、我々二人の周りには総勢10人もの仲間達が集まって来ました。空港2階のレストランでビールかコカ・コーラ一杯でワイワイガヤガヤと話が弾んで、アッと言う間に3時間が過ぎました。これぞ将にパソコンならぬ「熟年からのウキウキ旅行人生」でありました。

 

 

  発言番号:00040 (00038へのコメント)

    発言者 :太田 中

  題名  :

  登録日時:96/10/22 19:47

 

 深沢さんの旅行記が発言されましたが、その流麗な筆致でエピソ-ド-モアを適当に挟んだ文章は紀行文の範と感心しました。

 大方の内容は承知していたものの、私は丁度「奥州街道歩き」の最終回(第24回、1719日、青森−龍飛崎)を歩いていた最中で、帰って来てパソコン開けましたら彼の旅行記です。余りの手早さに驚いた次第です。

 彼は私の予告通り、体力・知力そして積極性(行動力と言った方がよいかも知れません)に於いて抜群、お蔭で朝晩の余暇も寸時を惜しんで街の中へ繰り出し、旅行会社スケジュ-130%を旅したと彼に感謝しています。

 ただ彼は女性に少し弱いところがあるようで、そのとばっちりがこちらにも及んだことが再三ありました。彼がプラハの項で半分を費やして書いている美人ガイドにはぞっこん参って仕舞ったようです。説明を聞くのも上の空、うっとり顔ばかり見つめていましたので、自動車に轢れはしないかと心配でたまりませんでした。しかし、最後になって彼女が説明の中で夫と子供の話をした時に、彼の顔を見ていなかったのは私の怠慢でした。

 ツア−の構成は彼も書いているように20名、男性7名は暇な役人1人を除いて皆年金生活者、女性は50歳以上ばかり76歳の気の強いお婆さんまで13人。彼は口では平等主義を唱えていますが、行動では友達同志2組(76歳もいる)の女性に特に親切なようでした。女性の買物好きと写真好き(風景の中に必ず自分を入れる)は有名ですが、彼はこの4人に対しお抱え写真師のように動き廻っておりました。

 そのために当方は彼に敬遠された女性(30年前から別居、最近離婚、多少しつこい)につきまとわれ往生しました。

 ところで旅行中のニックネ-は彼が「プレイボ−イ」私が「校長先生」であったことを見ましても大方の推測はつくと思いますが・・・

 最後にワルシャワで彼が添乗員を含めて10人程を道案内したことが得意げに書かれております。私も付いて行った1人ですから、彼の体力、知力、行動力それに山歩きで得た地図読み力、土地感の故だと敬服しております。しかし彼を除いては日本語の市街図を持っていなかったこともあるのでは・・・(彼はこの旅行に当たり、町田図書館に行って必要な詳細地図を全部コピ−、図書も借り出して持参した。彼の周到性は見習うべき)私もホテルのポ−ランド語案内地図を貰いましたが、い加減で当てになりませんでした。

 兎に角、今回の旅行は事故もなく、楽しくいろいろ教えられた11日間でした。また心配された仲間割れも無く成田絶交が成立しなかったのは幸いでした。

 深沢さん本当に有難うございました。

 

 

    発言番号:

    発言者  :太田

    題名   

    登録日時:

 

  既に巌さんと村瀬さんがコメントされているのに、同行者の私が黙っていたのでは申し訳ない。

  深沢さんのメッセ−ジは詳細を極めているので、今更付け加えるものは何もない。

  そこで、トルコ2度目の私としてはガイド・ブック等に見当たらない文明論的考察を少々試みたい。今回も物見遊山的旅行に終ったのでは、農協旅行の爺ちゃん婆ちゃんと何等変わらなくなってしまうからだ。

 

1.日本語のこと、物売りのこと。

  いつも感じるのだが、欧米系航空会社の日本向け航空路では乗務員が日本語をしゃべることは絶対無い。往復とも乗客の8割以上が日本人と言うのにだ。客との対応が難しい時は1機に2、3名いる日本人スチュワ−デスが当るから、不都合は無いというのだろうが、こんなに日本人を馬鹿にした話はないと思う。(偶然というものは不思議だ。当日機上で配られた日経新聞の交友抄に学友でスペイン語の大学教授が書いていた。以前私にその男が同じようなことを言っていた。そして「日本人が乗らなくなったら、日本航路は閉鎖されるだろう。しかし、それだけのことさ」と。)理由は日本語は大変難しいことと、苦労して覚えても他に大した使い道がないかららしい。これはホテルへ行っても同じでフロントで日本語をしゃべる人など居た例が無い。

  深沢さんがアヤソフィヤで「旅行者にまつわりつく大勢の物売りには些か辟易し、この国の第一印象は決して良くなかつた」と書いているが、この現象はアジア各国みな同じようなものだ。それでも、彼らは片言であるが日本語で話しかけてくる。

 航空会社、ホテル等大樹の下に居る人間は全く努力しないが、自分で品物を売らなければその日の糧にも困る人間は必死だと言うことだ。

  アジアの西端トルコに来ると、つくづく其のことを感じる。

  すぐ隣のギリシャはヨ−ロッパだ。アテネのアクロポリスでは物売りなど1人もいない。黄色い日本人に頭を下げて物を買って貰うなど恥辱と思うのか。

 

2、ベリ−ダンスのこと、羊肉のこと。

  トルコ第一日の夜、一行29名は私を除きオプションのベリ−ダンスを見に行った。私は以前アテネで見ているから今回は遠慮した。深沢さんも文中で嘆いていた裸ダンスだから2度見る程の価値は無い。

  換わりに私は1人でホテルのレストランで牛肉のステ−キと高級ウィスキ−の食事をした。牛肉とウィスキ−はともにこの国では産しないもの、ベリ−ダンス料金に近い代金を取られてしまつた。

 まさか、ホテル前のファ-ストフ-ドで食べたのでは、ベリ−ダンスはつまらない等と大見得を切った手前、プライドが許さないからだ。

  この後、トルコを離れる日の昼食に牛のさいころステ−キが出る迄、焼肉もハムもチ−ズも全部羊ですっかり参ってしまった。

  イスラム教では豚は駄目だが、牛は羊とともに食べてよいことになっている。しかし我々の旅行中、羊の放牧は此処彼処で見られたが、牛はたつた1回だけだつた。羊は苔位の草でも飼えるが牛は良質の牧草と大量の飲み水が必要だし、寒冷に弱いから放牧専門のトルコで飼育するのは無理なのだろう。

 

3、トルコの遺跡

  正直言ってトルコにこんなに立派な遺跡があるとは思わなかった。しかも我々の良く知っているギリシャの遺跡に勝るとも劣らない規模と内容を持っている。それなのにギリシャ程有名でないのはギリシヤがヨ−ロツパ文明の源流であるのに対し、トルコは全く亜流であつたからであろう。

  それだけに遺跡の保存もいい加減なところがあつた。素人が見ても判るような無理な復元が各所に見られた。私のの見るかぎりエジプトやギリシヤは世界の目が厳しい故か厳重な管理が為されているようだった。

 

4、ガイドのこと

  今回、トルコは独習で日本語を覚えた中年の現地人、埼玉県に何ヶ月か住んだこともあると言っていた。余り教養があるようには見えないが、一生懸命やっていた。

  ブラッセルではフランスに20年滞在した後、ベルギ−に移り住んでから5年になると言う中年の日本人女性で口8丁手8丁。スキ−のインストラクタ−の様子だった。

  ベルギ−の公用語はオランダ語とフランス語だから不自由は感じないであろう。

  私が今まで訪問した国のガイドを分類すると若干の例外はあるものの次の通りである。

 

(い) 中年の現地人で正規の日本語教育を受けたわけではないが、熱心さと経験が売り物。少々訛りがあるのは仕方ない。

 

(ろ)若い現地人で、大学の日本語学科をでた秀才。 教養豊かで訛りなし。安定した職業を望んでいるが、なかなか得られない。

  日本の責任ではないが、将来反日思想を持たないか心配だ。

 

(は) 日本女性で在住20−30年、現地人と結婚した者が多い。教養があるし根性もある。

  先年夏、スエ−デンでガイドしてくれた女性が娘と共同して大江健三郎の3冊目のスェ−デン語訳を行ったことがノ−ベル賞受賞の決定打になったとは其の年の秋になって知った。名前はデュ−ク永子さんとか。

 

(に) 中年の現地在住日本人男性。国際的で多少放浪性がある人達。性格は面白い人が多いが余り信頼は置けない。