4.ギリシヤトルコ

 

 

 4-1 ギリシャ

 

 

  発言番号:00027

    発言者  :村瀬敏哉

    題名    ギリシャ旅行

    登録日時:96/09/23 15:29

 

 アテネには約20年前に一度社用で2日程滞在しておりますが、パルテノン神殿を見たくらいで その時から暇が出来たらエーゲ海をのんびりと旅行したいと思っておりました。94年のイタリー旅行の1週間後にやはり現地旅行社のパックが有りましたので此れに便乗しました。

 旅程は7月30日にデュッセルドルフを出発アテネに2泊8月1日船に乗り1日ミコノス島 2日クレタ島 サントリーニ 3日ロドス島 4日クシャダス(トルコ)パトモス島 5日ピレウス(アテネ)帰着となっておりました。

 船はEPIROTIKA LINE TORITON号 14.000トンの客船でプールカジノ、ナイトクラブ、劇場と何でもありました。

 各島にある建物は殆どがギリシャの国旗と同じに白い建物に空色の窓と大変美しい光景です。クレタではクノッソス宮殿を訪問 BC1400年以前のミノア文明の1部を見ました。あまりにも遠い昔のものですが 美しい絵や陶器が発掘されております。サントリーニではアクロティリの発掘現場へ行きました。まだお金との兼ね会いを考えながら細々と作業しております。

 ロドス島ではこの島のアクロポリスへ行きロバにのって坂をのぼったり 又今回は同行しております愚妻とエーゲの海に浸かったりしました。

 クシャダスでは栄光の古代都市と言われているエフィソス訪問 イタリアのポンペイ同様大変大きなもので聖殿 浴場 音楽堂 市公会堂 各種神殿 公衆トイレまであり このトイレに座って写真を撮ってきました。

 パトモス島では聖ジョージ修道院へ行きましたが大変ひつっこい現地人の説明に辟易したことをいまでもおもいだします。

 船は大体夜間に航行し翌日目的港に到着 希望者は島に上陸夫々ぶらぶらしたり オプション エクスカーションに参加したりです。夜はバー良しカジノ良し退屈しません。1夜ナイトクラブで飲んで居りましたら司会者に呼び出され偶々日本人が私一人しか居りませんでしたので無理矢理お客参加ショウに引き込まれました。私を含めて各国男4名で先ずはウオッカの入ったグラスを渡され 視聴者には 1人だけがウオッカ 3人は水 誰がウオッカを飲んだかあてさせます。実際は全員ウオッカを飲まされていますので 如何になんともないような顔をしてごまかすわけです。次は1人交代で一定の時間の間に会場を回り1人でも多くの女性とキスしてこいとのこと。外人は平気な顔をして喜んでブチュブチュしておりましたが 流石小生の場合は国民性と教養が邪魔しましたので 手にキスしてまわりました。第3の演題は男4人のダンス 昔懐かしいチャールストン等躍らされました。最後は会場からすきな女性を連れてこいとのこと 偶々近くに居りました20才前の大変美しいスペインのお嬢さんが受けてくれました。そしてペアーで抱き合い 更に腰の上に乗せての風船割り競争 これは悪くはありませんでした。大変疲れましたが すっかり遊名人となり翌日から大勢の外人におまえ見たぞと話しかけられました、閑話休題 この航海は大変良いと思いますのでチャンスが有ったら行かれては如何でしょうか。

 アテネではアクロポリス オリンピック競技場等主な所を見て歩きました。

 オリンピック競技場では100年前のトラックを走りました。アクロポリスは前回来た時より大分復旧された感じでした。毎度食べ物の話しになりますが 此処も日本に比べ大変安く美味しくアテネの海岸漁港にあるレストランで食べた伊勢エビなど1匹1000円程度でした。

何れにしても大変楽しい8日間でした。

 

 

    発言番号:000280007へのコメント

    発言者  :巌  隆吉

    題名    :ギリシャ紀行

    登録日時:96/09/25 20:31

 

 村瀬さんのギリシャ紀行文楽しく読ませて戴きました。特に、お嬢さんとの「風船割り競争」は、誰でもやりたいことですね。また、面白いお話しを聞かせて下さい。

  なお、お陰様で、インストロールする方法は出来るようになりました。この面をお借りしてお礼申し上げます。

 

 

4- 2.  トルコ

 

 

    発言番号:164

    発言者  :深澤 龍一

    題名    :トルコ周遊の記

    登録日時:97/11/16 07:52

 

<プロローグ>

  10月25日午前9時、成田第二空港ビルに集まったのは、昨年の秋「東欧」を旅した仲間達の内、その後も「写真交換会」だ「新年会」だ「絵画展」だ更には又「カラオケ大会」だと何とか理由を付けて集まった「配偶者排除」の男女10名の面々で、今年の新年会の席上で次は皆でトルコに行きましょうと言う事になった。

  搭乗に先んじて記入する「出入国カード」も書方の解らない方には仲間がその記入を手伝って、「知った人と一緒に行くのは良いね」と東北からやってきた「古希夫人」はとても嬉しそうだった。愛用の輸入香水を「Duty-Free で求めて搭乗口への集合が遅れた我々の「マドンナ」(53才の誕生日を過ぎたばかりのピアノの先生)を待つ私の前に現れたのは、信託時代と第二の人生で職場を共にした旅好きの「後輩」、聞けばご夫婦で「東欧」に出掛けると言う。恙無い旅をとお互いに祈りながらその場は別れたが、搭乗すると彼の席は私の直ぐ隣。退職後はこんな人とはとても付き合い切れないとお互い冗談を交わしていた間柄なのに、こんな形で巡り合うのも「奇遇」というかアラーの神のお導き、これからは終生仲良くしようねと機上でお互い堅い握手を交わした次第。

  さて、ブリュッセル に着いた夜、同じツァーの二人の女性から「皆さんは一体どんなご関係ですか?」と聞かれた。何でも76才から48才と年齢差は大きいし、男女の比率もアンバランスな集団だと言う事らしい。

  そんな前奏曲の後、ブリュッセル で太田さんと「初夜」を過して翌日空港に向う途中、窓外に15の国旗がはためく「EU本部」を見た。誰かに「加盟国を挙げて見て!」と聞かれたものの、全部を答える事が出来なかった。(その方に今お答え致しましょう「 オーストリアベルギーデンマークフィンランドフランスドイツギリシャアイルランドイタリア ルクセンブルグオランダポルトガルスペインスェデン、英国の15ヶ国です」と)。

  ブリュッセル の街を素通りしてその日の内にイスタンブールに飛び、愈々騒々しいが又楽しくもある我々の2,500Kmに及ぶバスの長旅の始まりである。

 

1.イスタンブール

  夕方4時過ぎに空港に着いて、早速に忙しい「強行軍」が始まる。

 

A.アヤソフィア大聖堂

 元々ギリシャ 正教の本山として建てられたが、後年オスマン・トルコの時代にモスクに改修され、第一次大戦後のトルコ 共和国になってからは博物館として一般に開放されたもので、このビザンティン建築の最高傑作には一同目を見張ったが、旅行者にまとわり付く大勢の 物売り」には些か辟易し、この国の第一印象は決して良くはなかった。

 

B.ブルーモスク

 6本の高い塔(ミナレット)の聳える信仰の場、祈りの時間外ながら熱心な信徒の姿もちらほら見る事が出来た  ピアノ さんの依頼でお祈りに来たベールを被った親子連の家族が気持ちよく記念撮影に応じてくれた。 ミナレット」は四囲に祈りの時を知らせる合図をする為のもので、昔は人が立ったが今はマイクを使って四方に音を響かせるだけという。でも旅の間中この音は私の耳が遠いせいか聞かなかった。(「ブルー・モスク」を出る時、我らの仲間「古希夫人」は出口を間違えて一時行方不明、一時は皆で心配したが親切な現地在住の日本人に連れられている所をバスの中から「ピアノ」さんが見付けて幸い事無きを得た)

 

C.ベリー・ダンス

 ホテルに荷物を置いた後、老舗の「キャラバン・サライ」で民族色溢れる妖艶なディナーショーを見物したが、平均年齢60才近い我々には寧ろこんな「民族芸能」しか見せるものが無いのかとがっかりした次第で、トルコの初日に口にした食事も不味かった。

 

D.グランド・バザール

 翌日一番に 屋根のある市場」を訪問。1時間近い「自由時間」には現地 ガイドから「ここの価格は不定だから買わずに見るだけ」と注意されていたが、ご多聞に漏れず女性達の目は「店頭 に異常な迄の興味を示す。ここで「引率者」を自認する私は前日の「古希夫人」のような「行方不明者」を出すまいと、迷路のような市場の中をその最後尾に付けて群れを追う牧羊犬の「ボーダー・コリー」よろしく彼女らの「お尻」ばかりを ジーット見つめ続けていた。

 

E.トプカプ宮殿

 歴代のスルタンが居をおいたと言うこの王宮も、今は博物館として公開されて多くの観光客を集めていたが、庭の黄葉を眺めながら我々は今回の旅のきっかけとなった昨年の「東欧の秋」を懐かしく思い浮かべていた。ここに集められた宝物の数々はオスマン・トルコ時代のこの国の繁栄振りを誇示しているかの如くで、中でも陶磁器のコレクションでは北京、ドレスデンに次いで世界3番目と言う。

 

F.ボスフォラス海峡

 トルコの欧州側と亜細亜側を隔てるこの海峡は、地中海と黒海を結び付ける「運河」の役を果たして、この見事な風景を横目に「金角湾」に面したレストランで名物「ゲバブ」の昼食を摂ったがこのトルコの旅の間中我々は「世界三大料理」の一つと言われる「トルコ料理」が全く口に合わなくて実に困った。

 

  昼食の後はマルマラ海に沿った片側3車線の高速道路を「ダーダネルス海峡」に向って我々を乗せたバスはひた走る。沿線には沢山の別荘が建設中で、1円が1,320トルコ・リラ1ドルは186,700トルコ・リラという激しいインフレ下のこの国の経済の実態が解らない。誰かが旅の途中でトルコ人 ガイドに「日本に絵葉書を出したいが、切手はいくら買えば良いの」と聞いた所、返ってきた答えは「それは今のトルコで一番難しい質問です」と言う事であった。日々値段が変わると言う事らしい。そう言えばイスタンブールの空港の「免税店」の価格はすべて「ドイツ・マルク」で表示されていた。

  海峡の入口 エジアバトからバスのまま大型フェリーに乗り込んでアジア側のチャナッカレに向う。30分の船旅である。途中バスの中でツァー仲間の自己紹介があったが、我々を代表したピアノさんの「皆さんも仲間になって下さい」との宣伝に応じて、船中で夫婦一組と女性のアベック が「とても楽しそうだから私達も仲間に入れて」と申し出てきた。

  午後8時、漸く町はずれの リゾート・ホテル(その昔三笠宮殿下も泊った)に到着。翌朝8時に出発と、盛り沢山な我々の旅は何時も強行日程である。例によって寸暇を惜んで早朝仲間を誘ってダーダネルス海峡に沿った海辺を歩く。余り綺麗な海岸ではないし、頬を撫でる風も少し冷たい。

 

2.トロイの遺跡

  ホメロスの叙事詩 イリアス」に出てくる トロイ戦争」の遺跡である。入口近くにトロイ戦争のエピソードに因んだ大きな木馬が置かれて皆さんそちらの方で盛んに シャッターを切っていた。この国の歴史もまた古代より西から東からと揺さぶり続けられた事を知らされる。約 100年前に発掘されたそうだが、それは「宝物」目当ての発掘だった為に、オデオンやアクアポリス等の遺跡はかなり荒れ果てていた。

 

3.ベルガモン王国の遺跡

  トルコ3番目の都市イズミールへの途中にヘレニズムの時代からローマ時代に栄えたと言うベルガモン王国の壮大な遺跡を見た。「ゼウスの祭壇」、「アテナ神殿」、「野外劇場」など保存状況は決して良いとはいえないが、往時を偲ぶには十分で何かギリシャに来たような気分になった。ジプシーの子供たちが遺跡の中で遊んでいた。カメラに一緒に収まって「チップ」を得ようと言う魂胆である。

  エーゲ海沿いのイズミールに着いて皆で夜の街を歩く。ここはイスタンブールアンカラに次ぐトルコ第三の都市だと言う。海沿いにあるジュムフリエット 公園に建てられた建国の父「アタチュルク」像の前で太田さんが「記念写真」を撮ってくれた。遅い時間なのにこの繁華街はかなりの人出で賑っていたが、裏通りに入ると暗くて人影もまばらで淋しかった。太田さんがとても心配そうな顔をして「ホテルは何処だ?」と呟く。「私を信用して黙って付いて来いよ!」と私。  一泊して翌朝は7時半の出発だ。

 

4.エフェソスの遺跡

A.聖母マリアの家

 キリストの処刑後、聖母マリアは弟子の聖ヨハネと共にこの地に移り余生を送ったと言う。マリアの住んだ家の跡には小さな教会が建てられて今も巡礼者が絶えない。この近く遺跡の入口にはトルコ兵の警備詰所もあった。我々の「マドンナ」が機関銃を手にした彼に「一緒に写真を撮りたい」と記念撮影。あとから兵士がメモを片手に彼女の所にやってきて、写真が出来たら送って欲しいと言う。彼女もさる者、それならもう一度と仲間達を連れて再度詰所に押しかけて警備兵の全員を引っ張り出してきたのには驚いた 聞けば今でもこの国では毎年5月27日の旧海軍記念日に、小学生が日本大使館に「おめでとうございます」と挨拶に来るそうだ。オスマン・トルコの末期にその領土を奪ったロシヤのバルチック艦隊を日本が打ち破った日だからだそうな。

 

B.エフェソス都市遺跡

 小アジア最大のスケールを誇るこの遺跡は巨大な野外劇場を中心に、陽光に輝く大理石の通りを行くと神殿や図書館、娼婦宿や水洗式の公衆便所までが並んで輝かしい古代の繁栄を彷彿させた。近時「世界文化遺産」にも指定されて保存工事のクレーンも見られて、トルコにこんな所があったとは自らの不勉強を恥じた。その時突如としてここの立派な擦り鉢状の 大野外劇場」の舞台に進み出た我々のツァーの「女丈夫」(御主人の勤続30年記念にとご夫婦で参加したご夫人)は、朗々と詩吟「川中島」を詠じて各国から来た観光客の大喝采を受け、大いに日本の国威高揚に貢献した。

 

C.考古学博物館

 エフェソスからの出土品の多くが集められた充実した博物館で、性神プルアポスや2体のアルテミス像など興味深い彫像が多数集められていた。

 

  遺跡見学を終ってパムッカレに向う途中、「革製品」の製造販売の店に立ち寄らされる。最初にファッション・ショーを開く立派なホールに案内されてモデル嬢による衣裳ショーを見せられた後のアトラクションは、我々ツァーの メンバーによるファッション・ショーである。特に目立った先程の「川中島女史」と「私」がモデルに選ばれて大理石の舞台に登場した。

 私の出で立ちは麦藁帽子にサングラスをかけ、カラフルな羊皮製のガウンを纏って片手に鞄をぶら下げると言う格好で、見物の仲間達からやんやの拍手喝采(大爆笑付き)を受けた。

 

5.バムッカレ

A.温水プール

 この日の宿は温水プールやトルコ風呂付きのなかなか立派なホテル。夕食の後、早速仲間の有志達と水着に着替えてプールに出る。(太田さんは水着を用意してきたのに何故か行かずに部屋に閉じ篭ったままだ)鉄分を含んで赤く濁ったプールで私は20年振りの「Swiming」。 例の「古希夫人」が今迄泳いだ事が無いと言いながら、首まで浸かって丸いプールの縁に沿って歩いていた。真ん中に行くほど深くなってやっと私が立てる位の深さなので、小さい彼女は縁から離れられない。私が彼女の両手をとってプールの中程に導くと、「あー!泳げた、泳げた!気持ちいいー!!」と。本当に嬉しそうな童女のようなその笑顔を目の前で眺めながら、私は今は2児の母になった娘を初めてプールで泳がせた日の頃の、幼い笑顔を懐かしく思い浮かべていた。

  ここは昨日までのエーゲ海沿いとは違った内陸部で夜中は大変に冷えた。幸い私はダブル・ベッドに寝かせてもらったので、毛布を二つ折りにして被って寒さを和らげたが、隣の太田さんは夜中にごそごそと シャツや靴下を着込んで狭いシングル・ベッドの上で体をくの字に枉げながらジーット寒さに耐えていたようだった。翌日は早朝7時15分に宿を出る。この日の行程は今回の旅行中最も長い 630キロの移動である。

 

B.綿の城(石灰棚)

 ヒエラポリスの遺跡の一部「ドミティアン・ゲート」の付近を覗いた。「ビアノ」さんと二人でこのゲートの一番先端の方まで歩いている時、彼女が足型のような窪みのある15センチ四方程の「石」のかけらを見付けた。道端に転がっていたこのかけらは、「古代」の何かを偲ばせる。促して密かに彼女のリュックに忍ばせた。暫く歩くと遺跡の石ころを手にして売り歩くジプシー男に出会った。

  「綿の城」は流れ落ちる石灰を含んだ温水が、長い歳月の間に作り上げた白い石灰棚の重なりで、その光景は見る人にとても幻想的な世界を作り出していた。近年は自然保護の為に入場が制限されていると聞いていたが、幸い一部入場できたので早速素足になって温水に浸りながら暫し皆で奇観を楽しんだ後、この日も暗くなってから次のホテルに到着。

 

6.カッパドキア

  この日も7時15分の出発と強行日程が続く。朝の散策は無し。

  太古の昔、火山活動によって大量の火山灰が堆積して熱い凝灰岩の層を作ったこの地域の風変りな地形は、その凝灰岩層が長期にわたる浸食を受けて生まれたと言う。泊ったホテルの窓からもこの景色の一端が垣間見えた。

A.地下都市・カイマクル

 地下トンネルを複雑に巡らした「地下都市」を見学。地下8層まであるうちの4階までを歩いたが、当時は数万人を収容したと言うだけあって「居室」、「台所 、「教会」、「墓地」などが狭い通路で結ばれて、通路を遮断する為の直径2メートルはあろうかと言う厚い石造りの円盤状の「回転扉」まで用意されていたのには驚かされた。迫害を受けたキリスト教徒達はこの地にひっそり隠れ住み敵が・ってくるeiFeA???DcミノメFFFf????

 

B.ギョレメ野外博物館

 小さな街ギョメレの谷間に数多い岩窟教会が集まって、内部には11〜2世紀に描かれたフレスコ画が鮮明に残っていた。辺りには「ぺリバジャ」(妖精の煙突)と呼ばれる奇岩が林立し、台地の端では今も侵食が進行して崩れ行く岩塊があれば、又生まれ来る奇岩も有るのだと言う。

 

C.洞穴レストラン

 この街での昼食は雰囲気のある「洞穴レストラン」。料理そのものはたいしたことはなかったが、民族衣装のボーイさん達のサービス振りがここでもこの国の親日振りを示してくれた。

 

  絨毯工場を見学した後、バスは一路首都アンカラを目指す。車窓から見た雪を被ったアシアス山(標高3,400m)の遠景は将に「トルコ富士」そのものの美しい山容で、車中からは感嘆の声が漏れた。

  途中、「コンヤ」の街のホテルで昼食。この街は人口100万、今発展途上にあってベンツを初め自動車産業を中心に外国企業の進出も盛んで、それに伴って郊外には夥しい数のアパート群が建設中だったが、煉瓦積みが途中の侭で放置されたように見える建物には、工事に携わっている人影すら殆ど見当らないので、我々の目にはとても奇妙に映った。

 

7.アンカラ

  第一次大戦後「建国の父 ムスタファ・ケマル イスタンブールから首都をこの地に移して70年余り、新興都市で見所が少ないのか首都アンカラは単なる旅の中継地。一泊して5時半の朝食の後、6時半には大急ぎで再びイスタンブールを目指して疾駆する。何しろこの国は再三述べた通り「建築中」の建物がやたらと目立つ。中には3階建の住居で下の2階は住んでいるのに3階は煉瓦積みの骨格だけと言うのも多い。太田さんが盛んに気にするのでガイドさんにその理由を聞いてみた。今はこの侭で住んで、お金が貯まったら将来3階の建設を進めるのだと言う。多分、工場やアパートも同じ考え方なのだろう。

 

  峠の辺りは濃いスモッグだ。バスで走っている時に感じた事は、何よりも人家のある所「モスク」ありと言う事で、聞けばこれらは全て信者の寄進で建てられていると言う。国民の98%がイスラム教徒のお国柄だ。又この国には「川なるものを余り見掛けなかったような気がする。

 何処までも広がる起伏に富んだ広大な土地は痩せているようだが良く利用されている。農民は遠い所からトラクターを操って耕作に励むそうだ。

  やがて走る高速道路の左手にマルマラ海が見えてきた。ボスフォラス 海峡を越えてイスタンブールに繋がる「第二 ボスフォラス橋」は、日本に優先的に作らせてその親日振りを示したと言う。

 

  空港近く海沿いの快適なレストランで昼食の後、空路ブリュッセルに戻る。飛行時間は約3時間半。ホテルに着いたら日はトップリと暮れていた。

 

8.ブリュッセル

  この旅の間中、時間の許す限り毎朝6時半に起きてホテルの周辺を散策した我々の「楽しみ」の機会もこの日が最後となった。トルコよりだいぶ緯度の高いベルギーはこの時間未だ真っ暗であったが、最後の朝、仲間の内の6人がロビーに集まった。

  「ヨーロッパの首都」を自認するこの街の外れのホテル近くを歩いてメトロの駅を覗いたり、街の佇まいを眺めたりしながら「ベルギー建国50年記念公園」の中を歩いている時、ほのぼのと北ヨーロッパの夜が明けた。短い時間広くてとても美しい公園を一回りしてホテルに戻る。

  旅の最後の日も9時出発だ。「半日観光」の忙しい日程。フランスに20年滞在の後、ここベルギーに移り住んで5年になるという日本人女性のガイドによると、この国は美しくてとても住み易い所と言う。 建国は1831年のベルギー革命によってオランダから独立したのだと言うから建国後未だ200年に達せず、町の道標などもオランダ語とフランス語が併記されていた。

 

A.ブリュッセル 公園

 朝早い上、生憎この日は霧が深く垂れ込めて美しい町並みも霞んで良く見えず誠に残念であった。「宮殿広場」の前で大きなリュックを背負った日本人の若者に出会う。聞けば私の大学の後輩、「ヨーロッパの歩き方」を小脇に抱えての気紛れな旅で、昨日イギリス から渡って来て西ヨーロッパを一回りすると言う。私らの頃に比べて近頃の若者は恵まれている。公園の前で先輩後輩並んでパチリ。「しっかり勉強もせんとあかんで〜!!」と先輩面をして彼らに発破を掛けて別れる。

 

B.小便小僧

 余りにも有名なこの像の前で皆さん夫々記念撮影。想像していたよりも遥かに小さいこの像に驚いた。この像は17世紀の始めのもので由来ははっきりしないが最も年を取った「ブリュッセル 市民」だ。「今日はオシッコの出が少ない」とガイドさんが皆の笑いを誘う。

 

C.グラン・プラス

 バロック 建築群の集まるこの四角い広場。15世紀の作と言う見事なゴチック 様式の市庁舎や「ブラバン公の館」、そして、実際には国王が住んだ事は一度も無い「王の家」等を飽きる事無く何時までも仰ぎ見ていた。市民の コミュニティーのに中心として大道芸人の姿や物売りの屋台で賑っていた。

 

D.小便少女

 グラン・プラス を挟んだ「小便小僧」と反対側の路地に「小便少女」の像があった。「いゃ〜だ〜」と言いながらも同行の女性達は彼女の姿を盛んにカメラに収めていた。この像は10年ほど前に作られた「新しい市民」だそうで、何故かビルの壁に嵌め込まれた上、厳重に鍵の掛かった鉄格子の中に「鎮座」していた。

  その後は例によって1時間のお買物タイム。女性達は四散し、退屈な男二人は彼女らのガード・マンを兼ねてショッピング・センター の見学である。そしてこの近くにも何故か「ドンキ・ホ サンチョ・パンザ」の銅像があった。

  ここから国際空港に直行して今回の旅はフィナーレとなった。

 

<エピローグ>添乗員さんが気を利かしてわれわれ10人組の都合に合わせて、帰国後このツァーの仲間達との「写真交換会」を開いてくれる事になったが、我々仲間の中で「乳癌」の手術を遅らせてまで参加してくれた75才のご夫人の為に、急遽帰国早々に我々だけの「交換会」を開く事にした。皆がどんな顔をして集まって来るか楽しみである。

  更に帰りの飛行機の中で、来年は趣向を変えて又皆で「イングランドスコットランド」とイギリス縦断の旅に出ようとの約束まで成立した。1年後の再会を夢見て我々老兵も体力の維持向上に努めねばなるまい。

 

 

    発言番号:165164へのコメント)

    発言者  :巖 隆吉

    題名    :トルコ周遊の記

    登録日時:97/11/16 19:37

 

  詳細なトルコ周遊紀行文拝見感謝しています。

  早速、印刷して家内と読んでいます。印刷のページ数も5枚ですし読むのにも大分時間がかかりますので、会議室に載せるのもさぞや大変だったと推察しています。お陰でトルコのことは、私自身が旅して来たような感じになりました。

  二三印象に残ったことを記載しておきます。

@  対日感情はと言う質問をしていましたが、毎年5月27日の旧海軍記念日に小学生が日本大使館に挨拶に来るとは全く驚きました。毎年世田谷観音での特攻慰霊祭に在日大使館武官がお参りに来て、祭文を献上していましたが、トルコは相当な親日的なのでしょうか。

A  女丈夫が大野外劇場で「川中島」の詩吟とは、良い思い出になったことでしょうね。また、その女史と意気投合、深澤さんもファッションショーとはさすがですね。

B  「小便小僧」はともかく「小便少女」とは、面白いですね

 

 

    発言番号:166164へのコメント)

    発言者  :村瀬敏哉

    題名    :エフェソスに行ったとき

    登録日時:97/11/17 09:53

 

 エフィソスは私も一昨年エーゲ海クルージングの際海路から1

行きました。坂の上から色々な発掘した物をみながら歩き水洗

便所には座って撮った写真もあります。19日には思いで話が出来

ると楽しみにしております。

 

 

    発言番号:167164へのコメント)

    発言者  太田 中

    題名   :トルコ周遊の記

    登録日時:97/11/22 11:14

 

  既に巌さんと村瀬さんがコメントされているのに、同行者の私が黙っていたのでは申し訳ない。

  深沢さんのメッセ−ジは詳細を極めているので、今更付け加えるものは何もない。

  そこで、トルコ2度目の私としてはガイド・ブック等に見当たらない文明論的考察を少々試みたい。今回も物見遊山的旅行に終ったのでは、農協旅行の爺ちゃん婆ちゃんと何等変わらなくなってしまうからだ。

 

1.日本語のこと、物売りのこと。

  いつも感じるのだが、欧米系航空会社の日本向け航空路では乗務員が日本語をしゃべることは絶対無い。往復とも乗客の8割以上が日本人と言うのにだ。客との対応が難しい時は1機に2、3名いる日本人スチュワ−デスが当るから、不都合は無いというのだろうが、こんなに日本人を馬鹿にした話はないと思う。(偶然というものは不思議だ。当日機上で配られた日経新聞の交友抄に学友でスペイン語の大学教授が書いていた。以前私にその男が同じようなことを言っていた。そして「日本人が乗らなくなったら、日本航路は閉鎖されるだろう。しかし、それだけのことさ」と。)

  理由は日本語は大変難しいことと、苦労して覚えても他に大した使い道がないかららしい。これはホテルへ行っても同じでフロントで日本語をしゃべる人など居た例が無い。

  深沢さんがアヤソフィヤで「旅行者にまつわりつく大勢の物売りには些か辟易し、この国の第一印象は決して良くなかつた」と書いているが、この現象はアジア各国みな同じようなものだ。それでも、彼らは片言であるが日本語で話しかけてくる。

航空会社、ホテル等大樹の下に居る人間は全く努力しないが、自分で品物を売らなければその日の糧にも困る人間は必死だと言うことだ。

  アジアの西端トルコに来ると、つくづく其のことを感じる。

  すぐ隣のギリシャはヨ−ロッパだ。アテネのアクロポリスでは物売りなど1人もいない。黄色い日本人に頭を下げて物を買って

貰うなど恥辱と思うのか。

 

2.ベリ−ダンスのこと、羊肉のこと。

  トルコ第一日の夜、一行29名は私を除きオプションのベリ−ダンスを見に行った。私は以前アテネで見ているから今回は遠慮した。深沢さんも文中で嘆いていた裸ダンスだから2度見る程の価値は無い。

  換わりに私は1人でホテルのレストランで牛肉のステ−キと高級ウィスキ−の食事をした。牛肉とウィスキ−はともにこの国では産しないもの、ベリ−ダンス料金に近い代金を取られてしまつた。

 まさか、ホテル前のファ-ストフ-ドで食べたのでは、ベリ−ダンスはつまらない等と大見得を切った手前、プライドが許さないからだ。

  この後、トルコを離れる日の昼食に牛のさいころステ−キが出る迄、焼肉もハムもチ−ズも全部羊ですっかり参ってしまった。

  イスラム教では豚は駄目だが、牛は羊とともに食べてよいことになっている。しかし我々の旅行中、羊の放牧は此処彼処で見られたが、牛はたつた1回だけだつた。羊は苔位の草でも飼えるが牛は良質の牧草と大量の飲み水が必要だし、寒冷に弱いから放牧専門のトルコで飼育するのは無理なのだろう。

 

3.トルコの遺跡

  正直言ってトルコにこんなに立派な遺跡があるとは思わなかった。しかも我々の良く知っているギリシャの遺跡に勝るとも劣らない規模と内容を持っている。それなのにギリシャ程有名でないのはギリシヤがヨ−ロツパ文明の源流であるのに対し、トルコは全く亜流であつたからであろう。

  それだけに遺跡の保存もいい加減なところがあつた。素人が見ても判るような無理な復元が各所に見られた。私のの見るかぎりエジプトやギリシヤは世界の目が厳しい故か厳重な管理が為されているようだった。

 

4.ガイドのこと

  今回、トルコは独習で日本語を覚えた中年の現地人、埼玉県に何ヶ月か住んだこともあると言っていた。余り教養があるようには見えないが、一生懸命やっていた。

  ブラッセルではフランスに20年滞在した後、ベルギ−に移り住んでから5年になると言う中年の日本人女性で口8丁手8丁。スキ−のインストラクタ−の様子だった。

  ベルギ−の公用語はオランダ語とフランス語だから不自由は感じないであろう。

  私が今まで訪問した国のガイドを分類すると若干の例外はあるものの次の通りである。

 (い) 中年の現地人で正規の日本語教育を受けたわけではないが、熱心さと経験が売り物。少々訛りがあるのは仕方ない。

 (ろ)若い現地人で、大学の日本語学科をでた秀才。 教養豊かで訛りなし。安定した職業を望んでいるが、なかなか得られない。日本の責任ではないが、将来反日思想を持たないか心配だ。

 (は) 日本女性で在住20−30年、現地人と結婚した者が多い。教養があるし根性もある。

  先年夏、スエ−デンでガイドしてくれた女性が娘と共同して大江健三郎の3冊目のスェ−デン語訳を行ったことがノ−ベル賞受賞の決定打になったとは其の年の秋になって知った。名前はデュ−ク永子さんとか。

 (に) 中年の現地在住日本人男性。国際的で多少放浪性がある人達。性格は面白い人が多いが余り信頼は置けない。