A3 郷土

 

 

  発言番号:00001

発言者 :樋口三男

題名  :郷土史

登録日時:96/09/22 22:00

 

郷土を文化史の面より述べてみる事とする。

 家のベランダの椅子に腰掛け、煙草を燻らしながら、静かに、座つていると60有余年前の少年時代の故郷の事など思いおこすことがある。

 ゲーテのいう「追憶とは、徒に、過去の思い出に浸るものではなく、当初から、我々内部に産み出し、かくて、永遠に形成しつつ、我々の裡に生き続け、創造するものでなくてはならない」と。この様な静かな追憶の一ときをもちうるのも、今迄の長い苦闘の戦列から離れ、晴耕雨読を楽しむ境地の年齢に達したのではないかと思う。その意味で、暫し、追憶の淵に沈んでゆくのを赦していただきたい。併し、その追憶も、繭の様にくるまれて、 何かのきつかけに、身を任せ乍ら、糸を紡ぎだしてゆくと、徐に、朧げながら光が糸にあたってくる。

 私の故郷は、北九州の小倉。東に足立山、西に帆柱山、街の中央を紫川が流れ、前には彦島、玄海灘に面し、延命寺、長浜、中原、枝光、八幡、黒崎、折尾とつづく。何といつても、八幡製鉄は、重厚長大時代の花形で、天を覆う程の七色の虹の煙りをだしていた。筑豊の石炭は、高品位炭で、遠賀川や筑豊線で若松に集まり、その埠頭は殷賑をきわめ、沖仲仕達は肩で風をきっていた。その石炭を利用して、化成ー三菱化ーは、無機、有機の総合化学工場を黒崎に、旭硝子は板硝子、ア法カセイソ-ダソ-ダ灰を牧山にて稼動させ、資材統制の頃には、相互に有無補完しあった。それらを通じ、更に知り合った人達との想い出は尽きないものがある。

 さて、本論の故郷について、文化史の面にふれてみる。その風土は、玄海灘からのカラツ風、冬のドンヨリした鉛色の気候。かつて、遠賀川を上下した石炭運搬船に働く人達−−川筋男−−−の義理と人情の強い風土、所謂演歌でいう「小倉生まれで、玄海育ち−−」又、「無法松の一生」の映画にみられたものが、北九州文化を醸成するものだと思われ勝ちであるがそれが全てではない。

 万葉集をひもどいてみると、意外にも、詩情豊かなロマンの世界があつたことが分かる。

・ ほとどぎす 飛幡の浦はしく波の しばしば君を     見むよしもがな

 戸畑は、そのころ、飛幡といわれており、小倉の中原、日明、長浜、大里にかけて、綺麗な砂浜に、松林の続く海辺が続いていた。

・ とよくにの 企救の長浜ゆきくらし 日の暮れゆけば 妹をしぞおもう

・ とよくにの  企救の高浜たかだかに 君待つ夜らは 小夜更けにけり

・ とよくにの  企救の浜松ねもころに 何か妹に相初めにけり」

 俳句の世界では、芭蕉、宗祇が北九州を土地の同人と共に逍遥し乍ら詠った数々の俳句が歌碑として、夫々の所にたてられている。

 芭蕉  八九間  空で雨ふる  柳かな     「小倉北区安国寺 碑」

 〃   ほろほろと 山吹散るや 滝の音    「八幡西区観音寺 碑」

 〃   木のもとは あせもなますも 桜かな  「若松区修多羅高塔山高野山別院」

 宗祇  名を思う こよいしぐれぬ 秋の月    「   〃       

 更に、ずつと下つて、昭和になり、ホトトギス派の白紅、久女ー後除名ーの句として、

 白紅  滝あびし    人間の  眼をひらく  「八幡西区 観音寺碑」

 久女  三山の  高嶺づたいや 紅葉狩     「小倉北区 妙見 円通寺碑」

 〃   花衣   ぬぐやまつはる 紐いろいろ  「小倉北区堺町公園碑」

 一方、文学面をみると明治の文豪森 鴎外は、東京の栄職より、小倉の閑職に左遷されたが、ここで、数々の名作をかいている。その居宅地−−小倉北区鍛治町−−には、その「碑」がある。

 昭和の前半、北九州文学として、土の匂いが漂い、その中に、鬱勃たる野心を秘め、力動的な溌剌さをもってうってでたのが火野葦平「糞尿たん」−−芥川賞。 つづいて、劉 寒吉「山河の賦」−− 〃 候補。「翁」「古戦場」。岩下俊作「宮島松五郎」−−直木賞候補。人達が輩出し、中央文壇の眼を見はらせた。

 更に、松本清張−−朝日新聞西部本社のころ−−は、三田文学により、「西郷札」つづいて、芥川賞の「或る小倉日記伝」をものした。

 小倉の南方にカルルス石灰岩地帯として、有名な平尾台があるが、その平尾台観光ホテルの前に小倉の生んだ児童文学者故栗原一登先生ー女優栗原小巻氏の実父ーーの「平尾台断章」の一節が碑に刻まれている。

 姫百合の   朱き   山端に   うずくまり

  肩寄せあいて  何か聴く 石の羊ょ

  草の根の 悲しき 歌や    池の底の  化石の声か

  しらじらと 群れて  動かむ

 

 郷土の文化的歴史の一端にふれたが、今後とも、更に、深く調べてゆきたい。

 

 

  発言番号:00001 へのコメント

  発言者 :巌  隆吉

題名  :

登録日時:

 

 樋口さんの北九州の格調高い郷土史を懐かしく拝見。

  私も昭和25年から29年まで黒崎にいまして、石炭係として原料炭の購入を担当しておりましたので、昔を思い出しつつ懐かしく読まして戴きました。帆柱山には、数回登りましたし若松には週に1〜2回工場の岸壁から行きまして石炭各社を訪ね歩きました。当然硝子さんや製鉄さんにも度々お伺いしております。

  筑豊の炭坑にも、三菱の新入、貝島の大の浦、古河の目尾(シャカノオ)にも入坑して地下の炭層を見ました。

  また、確か昭和28年の6月の末だったと思いますが、遠賀川が決壊水びたしになりました時は、工場からトラック10台を出し、私が責任者として救援に行きましたところ、今度は、私達が水の中に孤立、一晩工場に帰れず、逆に今度は工場、社宅が危ないのに主力のトラックが少なく困ったということを、今、思い出しまして感無量です。

  その当時は、北九州の万葉時代の歴史等に関心がなく、ただひたすら、会社人間として、強いて言えば、毎日夜は、飲み明かしていたようで、色々の歌を拝見して、心が洗われます。

  お礼をかねて、私の思い出も述べさせて戴きました。