A2−10 日本近代史断章

 

 

  発言番号:578

発言者 :大田 

題名  :日本近現代史断章ーあるクラス会誌から

登録日時:99.02.27.13:49

 

  近頃読んだもののなかで、これほど感動した読物がほかにあるでしょうか。クラス会誌の僅か一ペ−ジに満たない手記でありますが、今の日本人が殆ど捨ててしまった徳目を、図らずも想いださせてくれて、頭を金鎚で殴られる程の衝撃を覚えました。

  以下、原文のまま抜粋掲載します。 

 

  −旧満洲同期生の遺骨収集への想い−

−前略−

  戦後大学へ入る前、昭和19年暮、日本の士官学校に当たる満洲国の軍官学校に入校しました。それから7月を過ぎた在校中、ソ連が侵攻してきました。関東軍の一翼として出陣し、間もなく終戦になったのですが、同期生300名がシベリアへ連行され、極悪な環境のなかで、炭坑や原生林で重労働を強いられました。

  抑留中に同期生の83名が栄養失調と発疹チフスで亡くなりました。ほとんどが最初の冬、昭和20年暮れから21年春までのことです。チタ州の奥地、ブカチャ−チャという炭坑でした。17−8歳のことです。

  生きている者が亡くなった戦友を埋葬しました。零下40度にもなる凍てついた大地は、つるはしでも歯がたちません。炭坑から石炭を盗んできて土の上で燃やし、やっと溶けた50センチほどの表土を掘って埋めました。みんな衰弱していたので、埋めた者が、翌日は埋められるような毎日でした。

  帰還した生き残りの同期生は、世間で「もはや戦後ではない・・・」といわれた後も、何とかして亡くなった同期生の遺体を掘り起こし、日本へ持ち帰ってご家族へお届けしようと、何回もソ連大使館へお百度を踏みましたが、「シベリアに、そんな炭坑はない!」という返事に終始していました。

  ゴルバチョフ時代になって事情が一変しました。彼が日本を訪問したとき、シベリア各地の日本人抑留中死亡者のリストを持って来たのです。

  死亡者の名前はロシア文字で書かれていたので、厚生省の翻訳が間違っていたり、困難を極めましたが、原簿を閲覧し、何ヶ月も時間をかけて同期生の名前を探しました。ブカチャ−チャの地名もありました。4ヶ所の病院墓地と1所のロシア人墓地を含めて、83名の埋葬地が確認出来たのです。

  まず、「現地に慰霊に行こう」ということになったのですが、ブカチャ−チャ村には宿泊設備がありません。チタの鉄道局と交渉して、滞在中は、乗って行つた列車の寝台車をそのままチャ−タ−してホテルがわりにしました。

  生存者たちは、埋葬地をはっきり覚えていました。なだらかな斜面に、かすかな土の盛り上がりが無数にありました。足下をシャベルでちょっと掘ると、土茶色になった戦友の骨が出て来ました。ただただ、涙でした。

  その慰霊行に始まり、遺骨収集について生存同期生は全力投球し、平成4年から今年までに、4ヶ所の病院墓地を含めて82柱を発掘し、持ち帰りました。今年は5柱を収容して8月24日に帰国したばかりです。

  50余年、半世紀の間、持ち続けた執念です。5万とも6万ともいわれるシベリア抑留中死亡者のうち、発掘帰国できたのは今年までに約4000柱で、全体の8パ−セントにも満たないなか、我々の仲間は99パ−セントの成果をあげることができました。生存者も既に古希を迎えましたが、あと、イルク−ツク郊外に眠る一体を、我々の体力がいうことをきくうちに、何とかして発掘して持ち帰るべく、厚生省や現地に許可を求めて交渉中です。

  帰還した同期生の遺骨は、残念ながら個人を特定するすべはありません。無名戦死者として千鳥淵戦没者墓苑に眠っています。

  −後略−

  執念を超えて、鬼気迫る怨念とでもいえる迫力ある一文であります。

 

 (実は昨日、私の雨垂れ式一本指打法で3時間かけて作ったメッセ−ジ文が、送信手続中に何かの手違いにより飛んでしまいました。恐らく原筆者の転載不可のシグナルとは想いましたが、古希前後のDDD会員に是非お知らせ致したき存念黙し難く、今日再度メッセ−ジ作成、送信することにしました。作成は昨日の変換ワ−ドが残っていましたので、2時間で済みました。)

 

 

  発言番号:590(578のコメント)

発言者 :松本  喜一

題名  :日本近現代史断章ーあるクラス会誌から

登録日時:99.03.02.17:34

 

  ソ連抑留の記事大変厳粛に読ませていただきました。軍隊の経験のない私ごとき輩がとやかく言う資格はありませんが、兎に角前代未聞の悲劇ですね。

 正に世紀の犯罪です、今更抗議しても始まらないのか、日本もおとなしいのか、意気地が無いのか堂々と主張する場がないのか、全く情けないはなしですね。

 それにしてもロシヤはなかなか手強いですね、北方領土の問題にしても一歩も譲る気配がありません。領土問題を棚上げして、経済問題を協議しようと虫の好いことばかり主張しているようですね。日本の外交手腕が試されるところです。

 何時も思うのですが、国と国との交渉となると大変複雑で、スンナリといか

ないもののようですね。領土の件についても、サハリン支庁を説得できない、国内世論が承知しないと言う事情があるらしいです。こればかりではありませんが、国家がからむとなかなかスンナリといかないものですね。

 樺太から引揚げてきた人の話しによると、住民は純朴で、人の良い人が沢山居るそうですが、国家が絡むと全く箸にも棒にもならないそうです。官僚が幅を利かすような社会はごめんですね。

 

 

  発言番号:591592(578のコメント)

発言者 :早川  元広

題名  :日本近現代史断章ーあるクラス会誌より

登録日時:99.03.03.14:31

 

 私も兄(名古屋から出征)がガ島への最後の補給を終えて果てております(18年2月)。  私自身もS・19年満州軍官学校から強い誘いを受け、お国のためと覚悟しましたが、母のOKが得られず諦めました。

  本当に人生何が岐路になるか判りません。同じ世代を生きた者として 身につまされて、厳粛な気持ちにさせられました。

  私ごとですがコメントさせていただいた次第です。

 

 

  発言番号:606(578のコメント)

発言者 :大田 

題名  :日本近現代史断章ーあるクラス会誌から

登録日時:99.03.13.12:23

 

 早川さんから貴重な経験談をお聞かせ戴き有難うございました。私も付け加えたいことがありますので、以下コメントします。

      −身近に二人の強力な証言−

  灯台下にいらっしゃいました。私と同じ葛飾区在住でK君とO氏と言うシベリア抑留経験のある方の証言を得ましたので、ご報告しましょう。

 

◎K君の場合

  彼は私と旧制中学(栃木県)の同級であり、唯一人外地へ渡航し敵軍と交戦した経験者である。現在も青果物会社社長で、毎朝5時半起床して陣頭指揮するバイタリティ−は我々の尊敬の的。

  昭和19年1月、卒業式も待たず、「新京」の「満洲航空」に入社。航空写真部に属していたので、撮影した写真を持って、軍官学校へは度々訪ねている。

  20年8月1日、1年繰上で現地入営。直後、8月8日のソヴィエト参戦を迎える。横一線に並んだ重戦車が満州里、チチハルを丸潰しして新京に迫ったが、たった半日の交戦で圧倒的火力の前に敢え無く降伏した。

  イルク−ツクから東へ300キロ、タイセットで24年10月まで第二シベリア鉄道の建設に使われる。20年は穀倉ウクライナが大飢饉で食料が決定的に不足していた。1日黒パン1枚とジャガイモ1個で労働、5000人のうち1000人が死亡した。死者は最初の1年に大半が集中。

  彼は21年夏、栄養失調と風邪のために収容所病院に入院、日に日に弱って行く自分を感じ、死をも覚悟した時、偶然回診してきた中学先輩のH軍医に会った。「地獄に仏」をこの時程実感したことは無い。それからというもの、めきめき回復し退院が近くなつた頃「原隊に帰れば、また弱って必ず死ぬだろう」と、衛生兵に採用してくれた。それから3年間病人食の白パン、ス−プが食べられて元気に帰国できた。

  死亡者の扱いは、夏を除けば雪をかけて置いて来るだけ。軍官学校の例は全く敬服に値する。粒選りの若者達だったから出来たのだろう。

  ロシアに対しての感情は、一生恨み続ける。庶民は限られた範囲だが、九九が出来ないで、縦横10列の薬品を100迄勘定している経理将校、ライオン歯磨粉を白粉にしている看護婦など何故こんな奴等に負けたのかと悔しいながらも、憎めないところがあった。

  日本政府は、戦争中も今も全く頼りにならない。北方四島は今のままでは絶対返らないだろう。関東軍は玩具の兵隊だった。

 

◎O氏の場合

  地元囲碁会の会計を担当している好々爺。大正11年生れ。昭和17年、葛飾区から現役で満洲「牡丹江」の連隊に入営。

  ロシア参戦後は後退に後退を重ねて、朝鮮国境近くのタントンで降伏、武装解除となる。

  捕虜になってからは、先ず外蒙ウランバ−トルに連れて行かれ、その後、転々と北に移動、昭和23年帰国時にはバイカル湖イルク−ツクの東200キロ対岸ウラウンデ近辺にいた。

  冬の寒さは零下40度、一人一人寝ていたのでは、凍えてしまうので、虫の冬眠のように、皆が衣類を持ち寄り、潜り込んで、抱き合って寝た。

  労働は森林伐採、汽車製造、屠殺場使役、バイカル湖の荷役等あらゆる事をさせられる。

  部隊は500人程だったが、帰国時には3割が死亡していた。死体は殆ど放置したまま。

ロシアは本当に嫌いだ。

  日本について尋ねた時、突然、昂奮状態になり、共産主義教育で虐めを受けたことを告白、今でも悪夢になっているらしく、「日本に住まなければならぬ。日本は好きにならなければならない」などと、答えにならない答えを叫んでいた。脅迫観念というものか。

  帰国時には皮膚をつまむむと5−6センチも伸びたまま。医者も今後の生存は保証出来ないと。そのため、何度も大病を患い、年齢より老けているように見える。

  戦後50年以上が経ち、戦争世代は国民全体の1−2割に減ってしまった。

  我々はこれからも、残り少なくなった語り部として、北から南まで何千キロにわたって、戦野に散った無名戦士の無念の気持ちを風化させないためにも、伝えていかねばならない。(千鳥ガ淵の戦没者墓苑には、大型のアジア、太平洋地図で地区毎の犠牲者数を示してある)