3.お楽しみ編集室

 

 

 電子会議室「井戸端会議室」に会員から寄せられた記事を話題毎に分類し、ここに編集したものです。編集は、以下の通り会員有志の方々にお願いしました。

 

 編集に携わった方々

   分 類        担 当(敬称略)

 A 歴史

  A1 三菱小史     樋口 三男

  A2 歴史       巌  隆吉

  A3 郷土       樋口

 B 文芸

  B1 俳句       樋口

  B2 映画・音楽・演劇 樋口

  B3 能面       望月 昭一郎

  B4 書籍・書評    樋口

 C 旅・登山・散策

  C1 国外       樋口

  C2 国内       樋口

  C3 登山・散策    深澤 龍一

 D 自然

  D1 園芸       松本 喜一

  D2 鳥        権藤 卓也

  D3 虫        権藤

 E 生活

  E1 健康       巌

  E2 食        樋口

 

A 歴史

 

 A1 三菱風土抄

 

 

  発言番号:392

    発言者  :樋口 三男

    題名    :三菱風土抄−総論

    登録日時:98/09/02 14:05

 

  古い秩序が新しいルールを求めて、国際的に企業の再編、"垣根なき競争"化、合併・買収(M&A)、事業の分離・独立、再構築によるリストラへと向かう世界的経済基調の流れの中で、「丸の内の論理症候群」ともいうべき古い論理の否定こそ、構造改革の鍵の一つであると言う者ーー日経編集委員永岡氏ーーも現れてきた。

 今、岩崎弥太郎、弥之助、伝記編纂会発行(S46.8)の弥之助伝(上.下2巻 )を再読しているが、弥太郎、弥之助、久弥、小弥太の四代の当主及び俊弥氏にわたり、先進的技術の導入と先見的関連事業部門の育成、相互発展によつて、各事業の経営基盤を固め、一方、人材の育成を図り、時の為政者の干渉に、時には、挑戦する事もあつたが、大局的見地による解決という事業発展、存続の背景をもつ歴史のあつた事、又、私財を擲つて教育、文化面に多大なものを遺された事を、今更乍ら、深い感銘をもつて読んでいる。そして、又、それら事業間の人的な繋がり方が如何に深かつたかも判る。これらが、眼に見えない形で、三菱社の社風、風土となり、今日に及んでいるが、我々OBの時代には、幸いにも、先輩達の物語、社報の掲載記事によつて、当時の先人の方々のことを知りうる立場にある。

 "温故知新"という言葉があるが、上述の厳しい変化の時、埋没されてしまう懼れのある社史に掲載されていない、それらの秘話、裏面、経過を掘り起こし、これを、例えば、"三菱風土抄"ともいうテーマでのもとで、関心のある会員識者からのアトランダムコメントを得ることにより、我々会員同志の一層の繋がりを深めるえにしとならないだろうか。以上の観点より、

1.各当主及び先覚者の社史に掲載されていない事項

2.各社単独事項を避け、2乃至3社以上に亙る事項

3.遺された文化的遺産

4.その他オール三菱対抗スポーツ、囲碁、将棋、俳句、マージ  ャン

という絞り方をしては、如何であらうか。識者の御批判とコメントを頂きたい。

 

 

  発言番号:393 392へのコメント)

   発言者 :巖 隆吉

  題名  :三菱風土抄

  登録日時:98/09/02 22:09

 

 昨日のDOCOKAIが終わってからの懇親会の席上ご提案のありました三菱をもう一度考えて見てはとのご趣旨を早速この会議室に掲載されたご熱意に衷心より敬服しております。私は、あまりにも格調が高い事柄であり明治の三菱がどうだったのか古いことは語り継ぎされたことや各社の社史から類推するしかコメント出来るようなものを持ち合わせませんが、昨日もお約束したことでもあり取り敢えず感ずるままをコメントします。

 ダイヤネットワークの皆さんは三菱に在職されたお方ですので、今後何らかなコメントがあることを強く期待しつつ....。

 

1.万物化成

 初代社長の弥太郎様については相当なお方ですね。今から約35年前、高知から室戸岬に行く途中その生家を訪ねましたが当時は相当な田舎であったと思います。4代目の小弥太様のことは、三菱化成の柴田社長も常に良く語っていましたし、化成には小弥太様の書いた「万物化成」という大きな額がかかっていましたので、その小弥太様には親近感を感じております。

 

2.温故知新

 「温故知新」にあやかりまして、昔に学ぶべきというご趣旨全くそのとおりです。最近「三菱の苦悩」とか「三菱の凋落」という冊子が出回っています。これらの記事に迎合することもないでしょうが、その内容を見ますとうなずける面も多々ありますので、三菱マンも大いに反省して未来を築くべきと痛感しております。三菱の創業期と発展期には「着眼大局」で「挑戦」の気概が横溢していたと思います。確かに重厚長大から敢えていえば精密短小にまで産業構造が変わって来ており、現在が過渡期の面もありますがそれはそれとして、あくまで三菱の先人の築いた「挑戦」の精神を貫いて、はばたいて欲しいと願っております。「覇気」というか「挑戦」というかオール三菱での「闘魂」を発揮して他のグループに勝る戦力を発揮してもらいたいなと痛感しております。

 

3.三菱の団結

 昭和40年頃でしょうか三菱電機の元老の三谷さんの葬儀が福山であった時ですが、私は化成の柴田社長のお供で参列したのですが、その時さすが電機の元老の葬儀のため鉱業の大槻さん、油化の池田さんもお見えになり、式場の近くで同じように着替えをして葬儀に参列したことを覚えています。このように三菱の元老の葬儀には現役の社長が揃って地方にまで出向いて参列するということに私自身いたく感心し、「三菱の団結」というものを教えられたものです。当時油化と化成は石化問題で多少ギスギスしていた時と思いますが、大局的には「大同」につくという気概を感じたものです。今の時代、グループの枠を飛出して大いに発展すべきとも思いますが、反面グループの歴史からくるその気持ちも大事にして欲しいなと思っております。

 

4.社会還元

 ダイヤ財団はある意味では、三菱の「社会還元」ですが、三菱各社ともこれから事業で収益を挙げ、「社会還元」を計るべきと思います。岩崎家も「静嘉堂」等々色々なものを残し「社会還元」していますが、これからの三菱も大いに考えるべきと思います。その点財団の研究を基盤に福祉施設の育成等出来ることからやるべきではないでしょうか。

 三菱は昔から「所期奉公」で「おおやけ」に報いることにより発展して来たことを心がけるべきでしょう。

 

5.スポーツ

 美術やスポーツについてのコメントはあまり持ち合わせがありませんが、私も昭和30年頃旭硝子、三菱レイヨン、三菱化成の三社対抗ヨットレースに4回位出場しました。その頃は旭硝子が強く中々優秀な選手が多くいて、化成は歯がたたず、やっとのことで優勝したことがあります。ヨットのことについては権藤さんが大変お詳しいので、そのヨットのことを含め、その他もろもろ是非コメントしてください。    

 皆さん、特に先輩方にとりましては、この程度では全く駄目で、まだまだ多くのご意見があろうかと思っております。折角のこのご趣旨にコメントをお願いしたいと思っております。

 

 

  発言番号:397393へのコメント)

    発言者 :早川 元廣

  題名  :三菱風土抄

    登録日時:98/09/03 21:5

 

 巌さんのコメントにヨットの話しがでましたので・・私も入社早々ヨット班で、しごかれた懐かしい記憶を幾つか持っています。 23〜27年の頃のことですが、毎週土曜の終業を待ちかねて横浜や逗子へと飛び出したものです。

 3社対抗にも出ましたが、特に旭の女子が強く熱心でした。 軽量級でしたので微風には苦労しましたが、何回か好成績でゴールしました。 社内対抗の時でしたが後塵を拝していたのに風が変わってぶっちぎりでトップをさらって何とビールの旨かったことか・・・楽しい思い出です。 

 重量級の友の一人は会うたび毎にレースの時、スキッパーの私に恐い目で睨まれたと言っています。 よっぽど微風の時だったのでしょう。彼の体重が気になっての挙げ句でした。いや失礼といった一幕でした。

 松島へ国体で行った事もありその時も女子が優勝したと思います。練習中に沈んだ失敗もありました。生田さん、山下さんもご一緒でした。

 

 

  発言番号:401

    発言者  :樋口 三男

    題名    :三菱風土抄−その1

    登録日時:98/09/05 17:12

 

1.岩崎家子弟の教育

 弥之助氏は岩崎家子弟の教育の為に、寄宿学寮をもうけた。弥太郎氏の在世中も、駿河台鈴木町に家を借りて、長男久弥と親戚の藤岡款次氏をこれにいれ、豊川良平氏が監督して書生生活をさせたが、その後、弥之助氏の意見で、本郷雛鳳館を開設した。もと桐野利秋の持ち家であつたという。ここに岩崎一門の子弟を入れた。そこでは、風呂焚き、洗濯なども寮生自ら行い、すべてスパルタ式の教育で、三土忠造は「富豪の子弟の学寮は、どんなことをやつているのかと参観に行つたところ、全く貧乏書生の生活であるのに驚いた」とのべている。

 

2.大阪北浜"花外楼"徳光孝サンの話

 史跡に指定されている大阪北浜の有名な料亭花外楼は、明治22年か23年頃、多額の負債で危機に陥つた際、女主人のお悦は、東京に行くと、弥之助邸を訪れ、援助を懇請した。弥之助当主は大阪に行くと、必ず花外楼に立ち寄つている。明治18年三菱と共同運輸会社合併の際、ここは、其の内談の舞台にもなつた。当時三菱管事の川田小一郎氏は、政府の最高首脳であつた伊藤博文、松方正義参議の了解を得る為に、両人が滞在していた花外楼を訪ねて相談し、遂に、合併の実現をみた。されば、三菱にとつても花外楼は記念すべき家であつたので、その懇請を快諾した。

 又お悦サンの娘ー孝サン。次の女主人ーは次の様な逸話をのべている。

  「私の母が、弥之助サンに頼まれて、まだ少年時代の小弥太サン、俊弥サン御兄弟を奈良見物にお連れした事がある。昼時になり、昼食をとる為、割烹店「むさしの」へ御連れした。何分、岩崎家の御曹司たちの事であるし、かねて、心やすくしていた其処に案内し、一人前一円の昼食を注文したが、当時としては、まづまづの料理で、二人して大変喜んで召上がった。さて、二の膳が運ばれるとお二人は目を丸くして、箸をつけようとしない。<何故召上らないの>と聞くと、<おばちゃん、こんなにご馳走を食べていいの>と聞かれた。おそらく、これが岩崎兄弟が始めて召上がつたニの膳だつたと思います。

 

3.月給前借り

 2代当主弥之助氏が若い頃、兄初代当主弥太郎氏の下で、百円の月給をもらつていた。併し、生計はそれでは足りず、時々、会社から月給の前借をした。初代が会計帳簿を調べた時、これを発見した。直ちに、弥之助氏を呼びつけ、激しく叱責した。「世の中には、十円、二十円の薄給で一家数人を支え、然も、貯蓄をする者も少なくない。然るに、お前は、百円の給料をもらつている。家計を維持するに足りない筈はない。今後、絶対に前借をなすべからず。更に、一家の財政を整理できぬ様な

奴は、大なる業務を経営する事はできない。今後、お前が立派に家計を処してゆくことが出来るか否か、俺が監視した上、会社の業務を託せるかどうか、決める事にしょう。」と釘をさした。弥之助氏は兄の訓戒が骨身に染み、爾来金使いも慎重になり、再び、注意を受ける事はなかつた。

 

4.荘清次郎氏談

 荘清次郎氏が学生時代、同じく学生の岩崎久弥(3代当主、初代の長男)氏と夏休みに伊香保の岩崎別邸にでかけた。その時、弥之助二代当主も静養にきていた。二人が東京に帰る時、二代当主は彼らに旅費を与えた。それは、二銭銅貨、十銭銀貨、五十銭銀貨、一円紙幣と別々に分けてあり、「何処の橋を渡る時は、橋銭はこれを、宿銭はこれで払へ」と細かい注意を与えた。自分はそれで非常におどろいた。

 

 以上「1−4」迄岩崎弥太郎、弥之助伝記編纂会発行「弥之助伝」ーーー以下単に編纂会編という。ーーーによる。

 

 

  発言番号:413

    発言者  :樋口 三男

    題名    :三菱風土抄−その2

    登録日時:98/09/11 18:41

 

 三菱の風土、社風に焦点を当てて考える時、初代弥太郎氏、二代弥之助氏の資質と時代の流れに沿った処し方を振り返る必要があると思う。

 明治維新直後の実業界は、旧商人道(商業資本)と之より脱皮せんとする国家的資本主義、薩長派と非薩長派による政争、これらが相互に絡みあい、正、反、合の世界の中で、どう生きぬくか、大きな問題であつた。

 初代弥太郎氏は、土佐出身の荒武者とともに、土佐長崎商会に最初身を置き、土佐藩士族の持合会社であつた"九十九−ツクモ−商会""三川商会−M4.9-","三菱商会-M6.7","郵便汽船三菱会社-M8.5"に改称し、海運界をリード、米太平洋郵便蒸気船会社、英ピーオー会社との競争にも打ち勝ち、日本で最初の海外定期航路を開設して、海運界を独占した。併し、M16年頃より、三菱の独占に対する批判、非難、更に、政府の抑制、排撃政策もとられ、これに、三菱をバックとし、後援しているとされた大隈重信、後藤象二郎を排斥しょうとする薩長派閥の井上馨、品川弥次郎との政争にもなり、これらは、糾合して、半官半民の"共同運輸会社"を設立して、対抗し、3ヶ年に亘り、激烈な競争の最中、M18年2月弥太郎氏は死去した。直ちに弥之助氏が2代当主となり、亡兄の遺業を継承した。

 時の政府は、此の侭推移すると、両社共倒れになろうとする事態を憂慮し、弥之助氏に合併をショウヨウされ、大局的立場でこれを受入れ、M18.10"日本郵船会社"を設立、三菱の要職にいた荘田平五郎、内田耕作、吉川泰二郎、近藤廉平、山本達雄、加藤高明、末延道成氏等を移籍、派遣した。

 以上の如く、初代弥太郎氏の時代は、海運業を主力とする単一事業体ーー政府の保護、助成策に伴う管理、監督、他事業への抑制もあつた為ーーーなものとせざるを得ない事情もあり、鉱山その他の事業は、付属的な立場にあつた。

 M4年よりM18年に亙り、徒手空拳にて、豪毅、カッ達な「力の独裁者」としてのそれなりの力量、知識、敢為の気象の必要とされる時代の要請にも答えたが、漸く、近代化が進み、実業人の品位、技術と学理の必要とされるM20年以降には、ニ代当主弥之助氏により、三菱を充分に開花させる事となつた。

                                   ーー編纂会編によるーー

 

 

  発言番号:416

    発言者  :樋口 三男

    題名    :三菱風土抄ーその3

        土佐稲荷、おかめの面、社章、弥太郎氏・弥之助氏を支えたスタッフ

    登録日時:98/09/13 21:10

 

1.土佐稲荷

  三菱関係生産、製造の工場、現場、店所の屋上には、稲荷神社がまつられて、2月の初午の日には、大祭が行われた。

 大阪西長堀の土佐藩の大阪藩邸の中に、稲荷神社があり、維新後、旧藩邸は、三菱会社の本拠となり、後に、岩崎家の別邸もおかれた。それで、岩崎稲荷とも呼ぶ者もあつた。M13年弥太郎氏は、社殿を改築し、M20年弥之助氏は、母親美和様の願いで、更に、規模の大きな改築をおこない、社前に銅製の狛犬を一対献上した。この狛犬は、第2次大戦中、供出を命ぜられ、行方が判らず、台座のみがのこつた。近年、宮司の努力によつて、鋳造し、旧台座の上にすえられた。台座には、弥之助氏の献辞が刻されている。

 稲荷社は、現在、土佐稲荷神社といわれ、弥之助氏の改築した社殿は、焼失したが、小社殿がある。境内には、桜樹が多く、春の盛りには、花見の人で混雑した事が、摂津名所図絵大成にみえる。この様な訳で、三菱関係社の構内、屋上に、あやかるため、祭られていると思う。

 

2.おかめの面

 M7年三菱商会は、本拠を東京南茅場町にうつした。豊川良平(弥太郎氏の従兄弟。本名は小野春弥。なんとなく、二枚目らしくて、いい名だが、本人が気にいらず、豊臣、徳川、陳平、張良の四人から夫々一字ずつとつて合体させたという)が、本社をたずねた時、弥太郎氏から「内容を充実して、大きく西洋式の会社らしくしなければならない。仕事がやれる男を慶応から、引っ張ってきてくれ。」と頼まれ、福沢諭吉先生に相談した。

 先生は、日本一流の海運会社の三菱が、近代的体質改善を志している事を喜び、門下生から荘田平五郎を選んだ。併し、躊躇いもあり、所要のついでに、南茅場町により、自分自身の目で確かめるため、三菱の本社をみた。店の正面に大きな「おかめの面」が、かけてある。商人が縁起を祝うためのお飾りで、それが、先ず、先生の心を捉え、店員達は皆前だれをかけて一生懸命仕事をしており、その真面目な姿がまた心をとらえた。三田に帰り、豊川氏を呼び、「山師でもなんでもない。あヽいう様子で、商売するならば、成功は間違いない」と。これを聞いて、荘田平五郎は、入社にふみきつた。弥太郎氏も十分にこれに報いて、初任給は、いきなり五番目の待遇をし、一年有余で、民間給与として、当時、破格の給与ででもつて、これを遇した。

                      −−福沢山脈上、小島直記−−

 

3.社章

 岩崎家は、甲斐武田源氏の武田信光の七男信隆で、甲斐国岩崎村に居住したので、岩崎姓を名乗り、その子長隆が、承久の乱後、甲斐より阿波に移りその子孫が、土佐に住み、土佐東郡の土豪安芸氏に仕えたが、長曾我部氏との戦いで、滅亡したので、長曾我部氏に臣属した。関ヶ原の戦いに敗れ、山内氏の入国に伴い、農耕に従事したが、後、郷士にとりたてられていた。弥太郎氏の3代前、その職を他家に売つたため、地下浪人となつた。

 又、一説では、戦国時代、阿波一円を領有していた三好一族は、甲斐源氏小笠原長行の支流だったから、阿波一円に三階菱がひろがり、それが、吉野川を伝わって、土佐にはいり、それを、岩崎家も使用していたという。

 いずれにしても、岩崎家の紋章は、「折敷きの内に三階菱」と「花菱」との二つがあって、前者は、定紋として男子の紋服、表向きの時に使われ、後者は、略式の紋として、婦人の衣服、調度品などに用いられた。

 三菱の三つ組みの盃の組み合わせに、山内家の紋所の丸に三つ葉柏形を組んだものを三菱商会の商標旗そして社章としたといわれている。

                                    ーー編纂会編ーー

                        ーー三菱王国(邦光史郎)    

 

4. 弥太郎氏を又弥之助氏−−M18年以後゛−−を支えたスタッフ

 九十九(ツクモ)商会の代表者は、一応、土居市太郎、中川亀之助(森田晋三)、後に川田小一郎、石川七財(七左衛門)が加わった。

 

●土居市太郎氏は、坂本龍馬の海援隊の汽船に乗り込み、洋式汽船の操作に明るかった。

 

●中川亀之助(森田晋三)氏は、弥太郎氏のダミーの様な存在で、土佐長崎商会時代から、外国商社との取り引きに当たった実務家で、創業以来の長老であつたが、郵便汽船三菱会社の閉鎖の時引退した。

 

●石川七財氏は、高知県土佐郡の出身で、藩の下横目ー警察ーとして、弥太郎氏が、大阪土佐商会の責任者のころ、土佐藩の放漫財政による莫大な借金、外人商人よりの借入れ、藩札の整理のため、対外的な接待をしていたのを、藩より調査、監察の指示をうけ、大阪にきていたのを説得し、後、三菱に入社させ、弥太郎氏の右腕となつて活躍した。

 

●川田小一郎氏は、弥太郎氏と多年辛苦をわけ、三菱創業の柱石であった。死期の迫つた弥太郎氏から、「三菱を岩崎家の嫡子に譲つてくれ」と依頼され、遺言をまもり、弥太郎氏の死後、万事、弥之助氏をたて、三菱の発展に尽くし、M22.9日銀総裁の頃、弥之助氏から、円満退職する事をいわれ、M24年三菱に関する一切の権利を放棄して退職した。

 

●荘田平五郎氏は、豊後臼杵の出身。慶応義塾福沢諭吉先生の推薦で、三菱に入社。弥太郎、弥之助、久弥当主の三代のもと、最高首脳として尽瘁し、東京海上、明治生命、日本鉄道、日本郵船、山陽鉄道の役員を兼務し、東京海上、明治生命の取締役会長となつた。

 夫人は、弥太郎氏の妹藤岡サキ女の長女で、岩崎一門の長老で、M43.5退職、76才で死去された。

 

●近藤廉平氏は、阿波の医者の息子。徳島の藩校長久館で英語を習い、剣道をよくした。弥太郎氏が、土佐藩 大阪藩邸一角に英語学校を開設した時の舎長を勤め、 生徒の監督役をしながら、自分も米人教師について、 学んだ。豊川良平氏はその時の生徒。筋が通り、文章もよくし、業務改善の意見書も屡提出した。弥太郎氏から、社用便箋1枚を私用に使い、減俸された事がある。三菱の組織化を進め、「三菱会社社則」は、当時としては、最高のものであつた。後、日本郵船の社長を勤められた。

 その他、数多くおられるが、次の弥之助氏の処に譲る事とする。

                        ーー編纂会編ーー

                          ーー三菱王国(邦光史郎)--

 

 

  発言番号:460416へのコメント)

    発言者  :巖 隆吉

    題名  :三菱風土抄−その3 土佐稲荷

    登録日時:98/10/21 12:57

 

1.土佐稲荷

 「土佐稲荷」については、その記事が出て以来私自身、大阪では「土佐稲荷」を三菱グループとしては大変、大切にしておりましたし、また三菱化成の黒崎工場に

も神社がありましたのでその祭神はどのようになっているのかと深い関心を持っていました。

 在京の元工場長や元総務担当に聞きましてが明確なことが判りませんので、先般來財団の山根さんより直接工場の有海総務副部長に問い合わせましたところ、この

度昔からの古い沢山の資料を送って来まして、下記の通り判明しました。

 かっての三菱化成黒崎工場の今の三菱化学黒崎事業所には「事業所(工場)神社」と「稲荷神社」の二つの神社があります。

 その「稲荷神社」のご神体は「土佐稲荷」で昭和2年に大阪市堀江にある「土佐稲荷」本家より旭硝子牧山工場に分霊奉斎され昭和3年2月12日に第1回初午祭が挙行されました。

 昭和13年2月1日に牧山工場よりコークス炉「消えずの火」を遷火し、8月1日黒崎工場内に遷座、8月19日に鎮座祭が執行されています。

 このように黒崎工場のコークス炉は、牧山骸炭所の伝統を継承しているわけで、そのコークス炉から各種の石炭化学を花咲かせております。その後、昭和32年12月27日に旧コークス門北側に遷座、昭和48年8月現在の元第2コークス炉の南に移っています。

 平成6年1月には鳥居の修復を行いその31日に遷座式を行い毎年初午には安全祈願祭を挙行中。

 

2.事業所神社

 事業所(工場)神社について記載します。このご祭神は黒崎工場発祥と同時に黒崎岡田宮経由で伊勢神宮ご神体を授受して現在にいたっている。

 昭和51年2月綜合事務所竣功と同時にその東側に遷座しています。ところがご神体の痛みがひどいので、改めて昭和57年2月18日岡田宮の波多野宮司とともに伊勢神宮に赴きご神体を拝受、その遷座祭を2月24日19時より当時の丸川工場長以下関係者列席のもと厳粛裡に挙行され現在に至っています。

 

3.三菱石油の土佐稲荷

 以上只今の黒崎事業所には事業所神社に伊勢神宮と三菱の守り神の「土佐稲荷」が祭られています。

 なお、三菱石油の藤原さんに聞きますと、川崎製油所には確かに「土佐稲荷」が祭られており、そのお祭りには社長まで出席されたこともあるようで大切にされているとのことでした。

 

4.旧岩崎家住宅の神社跡

 先日湯島の「旧岩崎家住宅」を拝見しましたが只今文化庁が管理する重要文化財になっています。その敷地の中に神社跡らしき土地が2ケ所ある由。祭神のことを説明者に聞きましたが明確なことは判りませんでした。

 

5.化成と硝子の先輩

 この度、三菱化成の大先輩桑田さんと岩崎さんの旭友会記事を拝見して改めて旭硝子と三菱化成とは深いえにしに結ばれているのだなと痛感しました。

 

 

  発言番号:473460へのコメント)

    発言者 :巖 隆吉

  題名  :三菱風土抄−その3土佐稲荷、おかめの面

    登録日時:98/10/31 18:44

 

 土佐稲荷について先般来種々報告しましたが、現在「協和新聞」を担当している三菱化学の安達恭子さんより昭和9年、11年、12年頃の「牧山協和」の記事を財団経由送って来ました。

 「牧山協和」は当時の旭硝子が発行していた新聞ですが、折角の彼女の好意を無にしないために簡単に取り纏めさらに重ねて報告します。

 

1.昭和9年    初午祭と表彰式と花相撲

 2月16日夕刻井上所長以下全従業員約300稲荷神社の初午祭に参列。

 松岡さんがゼネバで世界の全権を相手に日本主義をまくしたて国技相撲も盛んになったが、そのせいもあってか初午祭花相撲も近年にない大盛況。表彰式の後17時より開始、大関大砲優勝。時局柄「大砲」というシコ名も珍しい。

 

2.昭和11年  永年表彰式と初午祭

 初午の佳日に永年勤続者表彰式。

 2月6日夕16時半おごそかに初午祭挙行。

 

3.昭和12年  牧山工場と黒崎工場それぞれ初午祭

 お稲荷様の話という表題で牧山工場は2月12日の初午の日に黒崎工場は、4月12日に初午祭執行の予定との記事あり。その記事の中にこの稲荷神社のご本家は大阪堀江の土佐稲荷神社であるが、そのご神体は稲倉魂神といい、伊勢外宮の豊受比売神と同じ神様との説明があった。

 

4.1998年(平成10年)10月 三菱化学KYOUWA(協和)

 更に最近の三菱化学の記事が同封されていた。それによると、事業所神社には毎月末と14日榊を代えて塩酒米を供え毎月1日の朝製造1部長以下関係者が安全祈願。高見事業所長富羽環境安全室長も1日の安全祈願を恒例としている模様。定年退職の男性のスーツ姿でのお参りもある位。

 稲荷神社ー製1稲荷のお世話は完璧。毎月20日にお供えをしており個人的にお参りする人もあり、お賽銭箱に千円札が封筒に入れて入っていたとか。

 このように三菱と土佐稲荷との関係について、皆さんのご協力によりある程度詳しく知ることが出来た。先輩が大事にして来た「土佐稲荷」を今後とも大事にして貰いたいと思う。

 黒崎工場のコークスの火は消え、また最近の新聞記事によれば、三菱石油の川崎製油所は廃止されるとか。時代の推移とともに致し方ないことだが、そのような状況であるだけに先輩の心を心にして、お祭りして欲しいものだと思う。

 

 

  発言番号:688

  発言者 :村瀬敏哉

  題名  :読むクスリ〜三菱マーク由来

  登録日時:99/07/03 16:33

 

 従来閑話休題として折に触れてご紹介してきました週間文春の上前淳一郎氏のエッセイ今回からは原題で載せます。

 三菱電機、三菱自動車、東京三菱銀行、三菱商事・・・・・。「三菱」を冠した会社はたくさんあって、どれも旧財閥系、いまも強いグループ力を持っていることはご存じですね。それだけに、小学生のころからなじんだ三菱鉛筆もグループの一員、と思っている人がすくなくないでしょう。

 ところがこの会社は、三菱グループとまったくつながりがない。それどころか、世界的に有名なスリーダイアモンドのブランドを、三菱財閥に先駆けて商標登録した歴史を誇っている。

 三菱財閥の創業者、岩崎弥太郎(1834〜85)は土佐藩士で、同藩の通商を担当していた。1871(明治4)年の廃藩置県と前後して、藩の事業を継いで船会社を始め、九十九(つくも)商会と名乗った。

 ところで、藩政時代には土佐藩船は、藩主山内家の紋章である「三つ柏」の旗を掲げていた。ところが藩が廃されてみると、殿様の家紋を船上に翻らせるわけにもいかない。そこで、「三菱商事社史」によると、「三つ柏」に模して柏の代わりに岩崎の紋章「三階菱」の菱を当てた。図1を見ていただきたい。(textの為図は省略します)山内家の紋章に使われている「三つ柏」は本来は外側に輪があるけど、羽の部分だけを見ると、柏の葉三枚が放射状に出たデザインになっている。

 岩崎家の紋章に使われている『三階菱」も本来は外側に輪があるけれど、内側の菱の部分だけを見ると、大、中、小三つの菱形を積み上げたデザインだ。

 弥太郎は、三枚の柏の代わりに、菱形を置いてみた。するとスリーダイヤモンドになる。これは弥太郎が考え出したまったく新しいデザインで、九十九商会の船はこの旗を掲げて航海することになった。

 九十九商会は後に三川商会と名を変えたが、さらに1873(明治6)年、三菱商会に社名変更する。前掲資料によれば、「ここに初めて三菱の社名が現れ、弥太郎は社主たる地位についた。

 一方、岩崎弥太郎より十四歳若い真崎仁六という佐賀生まれの人物が1887(明治20)年、東京に日本で初めての本格的な鉛筆製造工場を作った。洋行先のパリで鉛筆を見て、よし、この筆記具をやろう、と決心したのだった。

 1901(明治34)年、彼の鉛筆はようやく品質を認められて、逓信省に採用される。局用1号(2B)、2号(HB)、3号(2H)の三種類だ。

 真崎仁六は、「三種の鉛筆が逓信省に採用された喜びを、なんとか後まで残しておきたい、と考えた」そこで、商標をこしらえることにした。

 面白いことに彼もまた、岩崎弥太郎と同じように、まず自分の家の紋章を思い浮かべた。(textのため図は省略します)

 真崎家の紋章「三鱗」に使われている鱗は、架空の動物である竜のものとされ、三角形をしている。真崎家のそれが、三枚組み合わされた、やや変則的な三鱗紋といえる。これをヒントにできたのが、三本の鉛筆が尖った先を寄せ合ったデザイン。

 そして、これが 岩崎弥太郎が考えたのとまったく同じ三菱マークへと発展していった。

 2年後の1903(明治36)年、真崎仁六はこの三菱マークを商標登録した。彼の会社の名は、「真崎鉛筆製造所」、のちに「真崎大和鉛筆株式会社」となったが、ブランドを積極的に宣伝したせいもあって、世間には「三菱鉛筆」として知られるようになっていく。

 太平洋戦争の1952(昭和27)年には、社名とブランドを統一して「三菱鉛筆株式会社」になった。

 財閥解体の直後で、グループ各社がまだ混乱している時期だったとはいえ、よくぞ「三菱」を名乗れたものだと思うが、それもブランドをいち早く商標登録しておいたおかげだろう。

 ところで、真崎仁六が三菱マークを商標登録するにあたって、岩崎弥太郎の旗印を知っていたかどうかは、今となっっては謎というほかない。かりに知っていたとしても、岩崎弥太郎はその旗印を商標登録していなかったから、盗んだことにはならない。

 ちなみに日本に商標条例ができたのは1884(明治17)年で、岩崎弥太郎の時代には商標についての意識が薄かった。それに、単なる旗印が商標として保護されるかどうかも、むずかしいところだろう。

 商標は個々の商品について使用されるものなので、「鉛筆とともに八十年」によると、三菱マークは、「明治末期にかけて、東京、大阪、長崎などの各地に在住する個人商店と思われる九人が、各種の商品について商標権を獲得している」。三菱財閥が初めて三菱マークを商標登録したのは、1914(大正3)年になってからだった。

それも、三菱電機、三菱商事など各会社ごとに、取り扱い商品一つ一つについて登録するという手間のかかる方法を取らなければならなかった。

 ともかくも、そのような経過をたどって、三菱鉛筆と三菱グループは平和に共存してきた。日本の産業界で、きわめて珍しい例だといえる。

 いま三菱鉛筆は、三菱グループの多くの企業と肩を並べて、東証一部に上場されている。                                          出典:週間文春 7/8

 

  発言番号:691688へのコメント)

    発言者  :村瀬敏哉

    題名    :読むクスリ〜三菱マーク由来

    登録日時:99/07/04 14:13

 

 雑誌から三菱マークの写真二枚デジカメで撮れましたので参考資料としてライブラリーの写真館に登録しましたのでご高覧下さい。(以下データライブラリーから転載)

 

 

  発言番号:443

    発言者  :樋口 三男

    題名    :三菱風土抄-その4

    登録日時:98/10/07 12:29

 

1.三菱の復興

 三菱の主力事業であった海運業を閉鎖し、社員の大部分を日本郵船会社に移籍した第二代当主弥之助氏は、M18年以降、残った鉱山、炭坑、造船、銀行(第119国立銀行)の経営へと、海の三菱から陸の三菱へと事業の転換を図らざるを得なかった。

 社名を三菱社とし、本社をM 19年京橋区霊岸島、7月神田駿河台紅梅町、20.4 には、神田淡路町へと移転し、金属鉱山の尾去沢、筑豊の新入、鯰田、唐津炭田を買収し、石炭積出港の若松の築港、若松−筑豊間の鉄道建設への援助、長崎造船所の改良、拡張、神戸の築港、貨物の揚卸、倉庫保管、海陸連絡運輸施設、和田岬の造船所の建設等矢継ぎ早やに行った。

 商法改正により、M 26.12三菱合資会社とし、社長を弥太郎氏の長男、若干29才の久弥氏に譲り、自らは、監務となり、その後見人となった。

 組織として、M 21年本社に鉱山、会計、庶務の三課、その後、鉱業部(後に、独立して三菱鉱業へと)、造船部(後に、独立して三菱重工業へと。)

 更に、造船部門より、内燃機関部門は T9年三菱内燃機械会社へと。

 又、電気部門は、T10年三菱電気株として夫々独立。)銀行部(後に、独立して、三菱銀行へと。)営業部(後に、独立して三菱商事へと。)が置かれた。

 以上の如く、生産、流通、金融の三部門に亙る広範な体制が出来、これを機能的に連関させる経営体制の基礎が確立され、人的要素も同じく、家的同志連帯感によって結ばれた。

  「明治維新後の造船工業は、幕府、大藩の着手していた造船所を政府は、接収し、外国人技術者により指導され、機械、機関ともに外国製品にいぞんした官営工場であったが、順次、払下げていた。

 三菱の長崎造船所は、当初、工務省の所管であったが、M17.6蒸気汽船三菱会社時代かりていたのを有償で払下げをうけた。その他の所は、横須賀、呉の海軍工廠を除き、川崎造船所は、旧加賀藩の兵庫造船所で、M20川崎正蔵氏が払下げを受け、石川島は、旧水戸藩が建設し、平野氏がM9譲受け、石川島平野造船所としたが、後、渋沢栄一氏が参画し、石川島造船所ー石川島播磨重工業株となる。ー浦賀船渠は、幕府が創設、後に、榎本武揚氏により、再生。函館船渠は、渋沢、大倉氏により、創設された。

 以上が、維新後の造船工業の姿。」

 

2.三菱倉庫、三菱製紙、東京海上の創設 

(1)三菱倉庫

 M20.2 ()東京倉庫会社を創設、事務所は、神田駿河台の三菱社に置かれ、実質的に岩崎家、三菱社によつて設立。之は、倉庫業と汽船運送業との密接な関係を考慮されたもので、川田小一郎氏等が兼務し、三菱社の深川倉庫、日本郵船の江戸橋倉庫を借り、又、M30神戸の和田倉庫、M35日本貿易倉庫を買収、神戸港に於ける保税倉庫の営業と通関業務を開始、更に、M32大阪の葦分倉庫、桜島に倉庫上屋を建設、M32三菱の直系会社として、三菱合資の指揮下に入り、T 7三菱倉庫()改称された。

 

(2)三菱製紙

  米人Thomas Wolsh &John Wolshの兄弟が経営し、その共同経営者として、弥之助氏も参画、工場は、神戸三宮、敷地2300坪、建物1570坪の Kobe Paper Mill Com.が其の発祥で、兄弟と弥之助氏との縁故と友誼により、M31.4 これを買収し、神戸製紙所とし、三菱合資の直接の支配下に置いた。 M34兵庫県加古川郡高砂町に敷地15800坪を求め、高砂工場とし、洋式生産技術を導入し、操業した。M37合資会社三菱製紙所、T6.11 三菱製紙()となった。

 

(3)東京海上

 M12.7多数の華族の有志により、保険会社の発起の計画があり、渋沢栄一氏を発起人とし、Cap.60万円のうち、参加を要請された弥之助氏は、11万円を出資(筆頭株主)した東京海上保険会社が設立された。これは、我が国の海損保険業の嚆矢であり、運送、火災自動車の三種の保険を開設、海外への営業拡張、船舶保険の引受を行った。 荘田平五郎氏が会長となり、末延道成、吉川泰二郎、近藤廉平、瓜生震氏等が役員として参加された。火災保険業の草分けであったM24設立された明治火災海上保険、三菱海上火災の二社とS19.3合併し、東京海上火災保険()となった。

 

3.丸の内街の建設−三菱地所

 維新後、丸の内一帯は、司法省、農商務省、陸軍省の官有地となり、官衛、兵営が建ち、一部は、練兵場で、他は、草茫々の野原であった。M22.10政府は、135000坪の土地を150万円にて、入札による競売を東京市に委託したが、買い手の見込みが無く、時の松方正義氏の懇請があり、払い下げ坪数丸の内81000坪、三崎町23700坪計107026坪、\128万円にて、三菱社と契約した。M23.8より、建設計画、ボ-リングの地質調査、建築家曽根達蔵氏を工事担当として、帝都の美観、新興日本の文明を内外に知らしめるという意図のもとに、着手、M27.6第一号館(三菱合資本社)M28第二号館(明治生命保険会社、東京海上火災保険会社、後に、第九号館と言い、(S43取壊し。) M29第三号館(日本郵船、エレベ-付き)M44迄第十三号館が完成し、馬場先門通りは、洋風建築が建ち並び、「一丁ロンドン」とよばれた。

 一方、神田三崎町の陸軍練兵場の跡地は、木造建築、店舗を建築、約600の貸家を建てた。 大正時代建家、土地とも売却した。T3東京駅が出来、帝都の交通の中心となるに及び、土地、建物の管理、賃貸営業を取扱う地所用地課が三菱合資会社に設けられ、後に、地所部となり、S12三菱地所()となった。

 

4.小岩井農場、米作事業、児島湾開拓

(1)小岩井農場

 M24上野-青森間に敷設される鉄道開設を記念し、地方産業開発の一助のため、当時の鉄道庁長官井上勝氏、日本鉄道会社副社長小野義真氏と同社の大株主であった弥之助氏が岩手山麓の3600町歩の農場を開設した。其の後の経営は、

 .井上、岩崎家の共同経営時代

    井上勝の経営       M24-31

 .岩崎家の時代

    宮内庁関係者         M32-38

        三菱合資             M39-T7

        東山農事()         T8-S12

      東山農事は、第三代当主岩崎久弥氏の設立。

 .小岩井農牧()       S13-

 

(2)米作事業

 M20新潟県西、南、北、中蒲原郡に米作事業を開始し、現地に、支配所を置き、資本的企業として、管理農業を行った。T8東山農事の経営に移り、T15所有農地を売却した。

 

(3)児島湾の開拓

  M23農地改革により、地元農民 に開放。

 

 

  発言番号:444

    発言者  :樋口 三男

    題名    :三菱風土抄−その5 旭硝子、三菱化成、三菱-ヨン

    登録日時:98/10/08 08:05

 

1.旭硝子

 明治の始め、小型のガラス器物製造を主とする家内工業で、技術は、未発達であった。大阪の島田孫市氏が、大阪天満橋筋に小工場をもっていたが、窓ガラスの製造を志し、ベルギエミ- ゴップの考案した製造窯の設計を譲受け、適当な出資者を求めていたので、岩崎俊弥氏−−小弥太第三代当主の弟−−が参画し、M39.12 Cap.75万円(俊弥氏45万円、島田氏30万円現物出資)で、大阪島田硝子製造会社が設立された。併し、窓板硝子の製造について、両者の意見は合わず、窓板硝子事業を別会社として、岩崎家、三菱資本を中心として、旭硝子合資会社を設立、−後解散。

 俊弥氏は、窓板ガラスの製造を目的として、M40.9尼崎に、20000坪の土地を求め、手ふき式の窓ガラス製造窯を築炉(東洋硝子より、山田三次郎氏、大阪島田より大野政吉氏の陣容)し、操業した。T元年ラバ-式機械吹法による製造のため、福岡県戸畑の三菱合資の牧山骸炭所に隣接する土地を買収、操業。T5鶴見に工場を新設、T9フルコ-式平板引上法とした。

 T5牧山に隣接する八幡市枝光にアンモニアソ-ダ法によるソ-ダ事業の生産を開始、続いて、人造絹糸、人造塗料、人造染料、農薬等の化学工業の研究を進めたが、S5.10.16 俊弥氏は京都の旅先で急逝したため、小弥太 氏が変わって、指導監督に当たった。S2鶴見工場内に、旭ラッカ-製造所を設け、絶縁塗料、オイルラッカ- ワニス類等の塗料の製造を始め、S11鉛粉塗料()と合併し、大日本塗料()として發足した。

 

2.日本化成

 三菱鉱業は、牧山骸炭製造所にて、ナフタリン、染料中間物、コークスの製造を行っていたが、三菱綜合化学工業会社設立のため、旭硝子と共同出資した日本-工業()S 9.8設立した。S9.10三菱合資会社の土地八幡市黒崎海岸の一部を譲受け、S11.2染料及び同中間体、-の製造を開始し、S11.5山田三次郎会長、中原省三常務の陣容で、-クスの他硫安の製造も開始した。(旭硝子より、中村能一、桑田時一郎−後の三菱化成の社長−−、岩崎郁夫、杉山徳三−−後の三菱樹脂社長−−を派遣。)  S11.10社名を日本化成工業()と改称、更に、牧山骸炭製造所を黒崎に移転、-クス炉、染料、肥料の一貫経営体制が実現した。

 S15.12日本化成は、三菱社(S12.12三菱合資会社の 改組により、株式会社三菱社、同18.2三菱本社と改 称。)の分系会社−−後述−−に編入。従つて、その 陣容は、三菱本社、系列会社の役員も名を連ねた。

    取締役   岩崎小弥太  三菱本社社長

             平井澄            常務理事

    監査役   加藤武夫    三菱銀行頭取、三菱本社取締役理事

             山室宗文    三菱信託会長

             平井、加藤

  山室氏は、三菱本社、分系会社の財務、起業、投資に関する重要事項を審査する財務委員

    池田亀三郎氏は、三菱本社の取締役で、本社、分社の事業計画の調整に関する査業委員

 

3.三菱化成

 その後、統制経済に入り、ア法ソ−ダ工業整備要綱の公布もみ、無機、有機一体の一大綜合化学会社の気運が高まり、S19.4.1日本化成は、旭硝子と合併、社名を三菱化成工業()Cap.11079万円−、とし、本社ライン部門は、化工部、新興部、硝子部、スタッフ部門は、総務、人事、経理、施設部と研究所の機構となった。

 

4.三菱化成の三分割

 S20.8終戦により、連合国の管理下に置かれ、その占領政策として、次々に潜在戦力の排除、財閥解体、経済民主化を基調とする諸法令が公布、施行された。関係するものとして、

 S20.11   財閥解体、 傘下会社の役員の退職

  21. 3   制限会社令による制限会社の指定25.8解除

   21. 5  軍需指定会社に対する軍需補償金のカツト、戦争保険金の相当部分のカツト

   21. 8  会社経理応急措置法による特別経理会社の指定 25.9.解除

   21.10   企業再建整備法に基づく新、旧勘定の分離

        物資需給調整法     物資配給、 価格調整

   21.11   公職追放−−森本貫一氏、森本政吉氏25.9.解除

   21.12  持株整理委員会令による持株会社の指定26.5.解除

   23. 1   財閥同族支配力排除法よる財閥直系会社の指定

   23. 2   過度経済力集中排除法による集排指定会社の指定

 又、23.3.「私的独占の禁止、公正取引の確保に関する法律」の公布があり、S24.4.15取消し、税務査察も先 輩各位の努力にて極小に交渉して S25.6.1三菱化成工業()は、「化成本部」が日本化成−−三菱化成工業

 三菱化学−−へ、「旭本部」が旭硝子()へ、「繊維 本部」が新光レィヨン−−三菱レィヨン()--に三分割された。

 

 

  発言番号:446

    発言者  :樋口 三男

    題名    :三菱風土抄

       −その6.岩崎家の人々、宗家、分家。分系、傍系、関係、縁故会社

    登録日時:98/10/08 22:38

 

1.岩崎家の人々

      岩崎弥次郎    (長女)

        「夫」吉村喜久次

          │────┼ (長男) 弥太郎 ───┬ (長男) 久弥

                                  │  「妻」保科寧子

    ()藤岡美和                        (長女) 春路

       (美福院)                        「夫」加藤高明

                                       (次女) 磯路

                                        「夫」木内重四郎

                                       (次男) 康弥

                                       (三男) 秀弥

                                         (四男) 正弥

                                       (三女) 富子

                                       「夫」早尾淳実

                                       (四女) 雅子

                                         「夫」幣原喜重郎

                   (次女) 佐幾

                           ├────── (長女)

                  「夫」藤岡善吉            「夫」荘田平五郎

                  (次男) 弥之助         (長女)繁子

                             ├─────┤    「夫」松方正作

                      「妻」後藤早苗     (長男)小弥太

                                             「妻」島津孝子

                                         (次男)俊弥

                                             「妻」櫨八穂

                                         (三男)輝弥

                                               「妻」桜井秀美

    小野篤治───  (長男)豊川良平

        (美和)

「註?@」弥次郎氏の祖先は、甲斐国岩崎村の出で、甲斐源氏の流れと。

「註?A」.久弥氏の長女は、沢田美喜氏で、エリザベスサンダ-スホ-開設

        .加藤高明氏は、後の外相、首相

        .木内重四郎氏は、後の京都府知事

        .幣原喜重郎氏は、後の外相、首相゜

「註?B」.早苗夫人は、後藤象二郎氏の息女

        .松方正作氏は、松方正義氏の息子

        .孝子夫人は、祖父は島津久光、父は島津珍彦氏

 

2.宗家、分家、別家の区別

 弥之助氏は、M24岩崎家の家政を改革した。これ迄、弥之助氏の家は、もとより、親戚の吉村、豊川、藤岡の家族は、岩崎家の扱いで、家計も共通であった。弥之助氏は、久弥氏のM24留学より、帰国を機会に、宗家と分家の区別をたて、自分の家族は、分家として独立し、他の親戚は、別家として独立させた。当時の財産分けの衝に当たった豊川良平氏は、「實に大変な苦労をした。」と述べているが、弥之助氏の受取ったものは、宗家の1/4にも達しなかった。それは、兎も角、弥之助氏のとった措置は、亡兄の長男久弥氏の将来に、後顧の憂いを残さぬ様に、配慮したもので、彼の深慮と情愛を語るものである。

 

3.分系会社、傍系会社、関係会社、縁故会社

 三菱本社では、分系会社は、直接支配下にある会社を言い、傍系会社とは、本社及び分系会社の持株割合が、50%以上のもの及び50%以下でも経営の實権を握っていると認められる会社

 関係会社とは、本社及び分系会社の投資金就中経営上関係が深い会社、縁故会社とは、岩崎家の事業会社で、例えば、三菱製紙、東山農事がこれに当たる。

  例えば、日本化成()が発足した時、役員、監査役に三菱本社から、派遣−兼務の形で−されたのは、分系会社となった為。

 

 

  発言番号:447

    発言者  :樋口 三男

    題名    :三菱風土抄−その7.先輩OBのこぼれ話

    登録日時:98/10/14 15:05

 

 三菱系会社の創業、前史的概観につきまして、岩崎弥太郎、弥之助伝記、編纂会編纂の弥之助伝上.下2巻を資料として、掲載し、鉱業、銀行、商事、電気、重工サンにつきましては、記載不十分な所が、多分にあり、この点は、是非掲載すべきとお指摘があれば、どしどし、REでもって補充していただければ幸いです。また、地所、倉庫、製紙、東京海上、化学、レィヨン 、郵船サン  につきましても、同様に宜しく願います。

 油化、電線、樹脂、信託、石油、明治生命、ニコンキリン、製鋼、伸銅、建設、化工機、ガス化学、アルミ サン等につきましては、一部の方には、その資料をお願い致しておりますが、これまた、宜しく、お願いいたします。

 さて、その7.では、「先輩OBの方」の「岩崎小弥太第4代当主の工場視察」又、井戸端会議にても、虫、鳥に造詣の深い方がおられますので岩崎俊弥社長ーー小弥太当主の弟ーーの「小綬鶏の話」について、「旭友会だより」で、述べられた記事を転載いたします。

 

−1.岩崎小弥太社長の工場視察

     佐々木久登(当時旭硝子牧山工場庶務課長)

 戦争が始まり、国民服で、お視察があり、私は、一課長であって、直接応対の出来る立場ではなかつたが、当時の工場長の心遣いなど、とても、大変だったことを身をもって、感じとったものである。

 先ず、宿泊は、下関阿弥陀寺の大吉楼で、ここは、お気に入りの割烹旅館で、関門の流れを座敷からみられ、海の向かうに、風師山が遠望出来る絶好の旅館であった。冬は、ふぐ料理が名物だが、四季を通じて、料理の上手い店であった。社長専属お手伝いは、お富サンで、寛がれた時の身の周りの事は、この人以外には近寄れなかったと聞いている。案内役の大野政吉旭硝子社長は、春帆楼で、その他鉱業、重工、化成等の系列各社の社長サンは、伺候に都合の良い山陽ホテルが選ばれた。

 小弥太社長の側近は、山之内秘書役、佐藤医師で、常時のお相手役であったと。工場では、来場日程が決まると連日の様に、会議開催、準備、説明リハーサルがあった。さて、当日、大吉楼の下に、牧山よりのランチを着けて待機し、このランチで、門司の郵船ビル下の市営桟橋に着け、それより自動車を連ねて工場に向かった。大吉楼のお富サンと昼食の弁当が、大切な同行者であった。工場到着後、小憩、場内視察、昼食で、二階の会議室を食堂とし、テーブルグリーンの羅紗を掛け、小弥太社長の椅子は、特に、大型のものを用意した。お陪食は、旭の大野社長、森工場長、重工、鉱業、化成の各社長、山之内秘書役、佐藤医師で、視察後隣の部屋で下着を召しかえるが、その身の周りのお手伝いは、例のお富サンが奉仕され、私達は、お富サンの指示で動く事となった。デザートフルーツについで、紅茶と栗饅頭。昼食後、ランチドウ海湾を一巡、若松港から黒崎に向かわれるが、若松築港の説明をうけ、化成、アルミの工場、筑豊の鉱業の炭坑を視察され、長崎の造船所へと向かわれた。

 余談として、お富サンの事に触れると、阿弥陀寺が空襲で焼け、大吉楼は、再興しなかったのか、その跡地に、割烹旅館「お富」と改称し、息子サンが経営していると。

 

−2.小綬鶏の話

    高良憲福(S19.4.1発足時の三菱化成の総務部長)

硝子初代社長岩崎俊弥社長は、硝子、ソーダ、炉材等事業界に多くの足跡を残されたが、趣味の方面でも、後世に余恵を残している。例えば、小綬鶏の輸入、蘭の蒐集.新種の作出、緬羊の輸入、馬術、尺八、人造繊維の研究など多方面の趣味を持っておられ、小綬鶏は、その狩猟好み余技の一面を表わしている。

 小綬鶏は、古くから杜甫や、李白などの詩に詠ぜられている中国の鳥である。我が国では、大正10年頃から、東京の青山、渋谷方面の森、林、竹薮などで、それまで聞いた事もない一種異様な鳥の鳴声が、始めて、聞かれるようになったと伝えられている。それがこの小綬鶏の鳴声であった。大正8年俊弥社長が、三菱商事上海支店の手を経て、中国から輸入し、青山高樹町の自邸で、これを飼育、繁殖をはかり、自邸の庭、神宮の森に放したが、これが半世紀の間に、後、逗子方面で放したものを加え、現在本州、九州の殆ど全域に広く棲息繁殖している。俊弥社長がこれを輸入した目的が奈辺にあったかについては何も伝えられていないが、恐らく、18世紀頃、欧州大陸からーー小綬鶏は、自力では、ドーバー海峡を渡る飛翔力はないーー これを輸入、繁殖を図り、絶好のゲームバードに育てあげ、ハンターに喜ばれている歴史が、狩猟好きの彼をかつて輸入させたのではないかと想像する。

 

.さて、この鳥は、その昔中国の中南部ーー呉、越ーーに発生、それが、広く世界に広がったといわれている。世界の現在の分布状態からみて、その発生地は恐らく小アジア地方で、チグリス-フラテス流域で、その旺盛な繁殖力、生活力とで、東漸し、インド、中国、西は、アフリカヨォロッパ大陸に棲息地域を広げたと考えるのが常識ではないかと思われる。

 この鳥−Perdix-は、雉、山鳥、鶏、鶉等と親戚筋に当たる鶉鶏類に属し、中国では、越雉、越鳥、アフリカでは、Chairco、欧州では、Partridgeと呼ばれている。姿や羽色は雌雉に近く、些かそれより小さく、濃い茶褐色に黒に近い斑点があり、地味ではあるが、美しい中型の鳥である。外観上雄雌の区別はつき難く、蹴爪の有無で見分けがつく。繁殖力が強く、一回に野生の時は、7−8個、飼育すれば、20個も産卵する。その鳴き声は何と聞こえるであろうか。日本人には、「チョットコイチョットコイ」、「-ロッケコ-ロッケイギリスでは、「one two three.one two three」「people pray people prayアフリカでは、「ドリンク ユワ- ビア-  ドリンク ユワ- ビア-」或いは、「ジンジヤ-ビア- ジンジヤ- ビア-」と聞こえるそうである。信心深い士には、「ピ-プル プレ-」と聞こえ、アフリカの暑い処で喉が渇いている人には、「ビ-」を思い出すであろう。

 小綬鶏の本国であるといわれる中国では、「シインプトウコオコオ」−−残念ながら、「行不得コオコオ-−−コオコオの字がない−−又は「コノルンコウチエ」と聞こえると言われて、「シインプトウコオコオ」は「兄さん(愛人)行っちゃいけない」と読むと。この鳥は、やまどりと同じく猟鳥として、保護をうけているが、果たして、益鳥か、害鳥か。雑食性で、春は害虫を駆除し農作物の発育に貢献するが、実りの秋には、その果実は幾分頂戴するので農家には有り難くない存在である。

  < 小綬鶏の詩 >

       越中覧古        李白

      越中匂践破呉帰    義士還家尽錦衣

      宮女如花満春殿    只今惟有綬鶏飛

  < 参考文献>

  ・高木正一 唐詩選   .中西悟堂著  定本野鳥記

  ・池田吉次郎著  日本の野鳥、鳥の生態とハンタ-ガイド

  ・内田清之助著  四季様々の鳥の研究

  岸田国士訳    ルナ-博物誌

 

 

  発言番号:456447へのコメント)

    発言者  :権藤 卓也

    題名    :小綬鶏

    登録日時:98/10/18 23:25

 

 樋口さんの「三菱風土抄」は本当によく勉強されていて、大変参考になります。そういえば、昭和40年代でしたか、三菱商事別館に三菱の展示ショウルームがあって、そこへ行くと三菱各社の製品や歴史、沿革などが詳細に展示されていて、岩崎の三菱創業以来の一覧表などもあったように覚えています。今はどうなっているのでしょうか。

 江東区の清澄庭園や、成蹊学園など、いろいろなところで岩崎家が残した立派な業績にびっくりすることが多いのですが、小綬鶏の放鳥が岩崎俊弥によってなされたことは全然知りませんでした。小綬鶏は中国原産ですが、これが1919年(大正8年)に東京で、後神奈川で導入されたことはいろいろな本に書かれていますが、これが岩崎によるものであることは全く書かれていません。もうそれから80年、小綬鶏は日本中のどこにでもといっていいぐらいに拡がって、どこででもあの元気な「チョットコイ」の声が聞かれます。この夏も神代植物公園で声を聞きましたし、榛名高原邑の私の家の庭先でも鳴いています。ここ石神井公園では数年前までは声が聞こえていましたが、最近は聞けなくて淋しい思いをしています。少しオーバーに言えば、下草の繁った雑木林があれば大抵小綬鶏の声が聞こえるといってもいいと思います。でも姿を見ることは難しく、声を頼りに追いかけてもなかなか見つかりません。

 小綬鶏の声の「聞きなし」もいろいろとあるのですね。小綬鶏の鳴き声は最初、突然に大きな声でピィッピィピィピィと鳴いた後、続けてピィッグゥグィ、ピィッグゥグーィを何度も繰り返し、次第に遅くなって7、8回も鳴くと静かになりますが、「ピィッグゥグィ」のところが私などもやはり「チョットコイ」とどうしても聞こえます。「聞きなし」というのは、鳥などの鳴き声を人の言葉に当てはめて聞くことで、鶯の「法、法華経」やカッコウの「特許許可局」などがそうです。頬白の「一筆啓上仕り候」や「源平ツツジ、白ツツジ」も有名ですが、センダイムシクイの「焼酎一杯グイー」などは傑作ですね。この「聞きなし」は中西悟堂の「定本野鳥記」によくまとめられています。

 

 

  発言番号:459

    発言者  :樋口 三男

    題名    :三菱風土抄−その8. 先輩OBのこぼれ話(2.

    登録日時:98/10/20 13:07

 

−1.春の花便り

    桑田時一郎:T7旭硝子入社、T10.日本-へ、S25.4三菱化成社長、

          S25.6日本化成社長、S.54.6.10旭友会だより 13

 春の花は連翹にはじまり、2月の梅、3月の桃、4月の桜と続く。梅は青梅の梅郷に心惹かれて、よくでかけるが、蕾の場合が多い。茶店の婆さんに聞くとこの梅の見頃はお彼岸の中日と覚えておいて下されと教えられた。神奈川県二の宮の付近、曽我神社を中心として、広大な梅林のあることを教えられて、訪ねてみると、成る程、その規模は青梅など比較にならぬ程広大であるが、ここは梅の実を採る畑で、鑑賞する処ではない。やはり、古木の下に赤毛布の床凡かござを敷いて、おでん燗酒のあるのがふさわしい気持ちがする。処が、桜と違つて梅見の酒盛りはまことに静かである。気候のせいか、花のせいか、梅はやはり林として見るものではなさそうであろう。

  桃といえば、甲州勝山の葡萄畑と川を挟んで、向かい合つている御坂峠へ通ずる山麓にかけての一帯の桃畑は、實に見事であるが、案外、知られていない。訪ふ客が少ないので、茶店もない。裾野の花は早咲きで峠を登るにつれて段々と遅れて咲く。遠望すると雛段に赤毛布をかけた感じである。之だけの景観を一向宣伝もせぬ地元の無頓着さにもあきれるが、或る有名な文人が甲州盆地では、第一の名勝地であろうと絶賛している文を読んだ事がある。

  この甲州盆地には葡萄畑と並んで、李の白い花が霞の様に棚引いて見える。

  中国では、桃李が春のシンボルの様に詩や歌に引き合いにだされる。

  日本では、何といつても花の代表は桜である。津々浦々到る処に桜の名所があり、種類も多く、風情を異にするが、この花にまつわる物語りや歌は数えきれぬ程ある。数の多いことで有名な吉野の千本桜や阿賀野河の堤防の桜も見事であるが、趣のある点から日本一と称される津軽の弘前城の桜へ案内された事があるが、成る程と唸ってしまった。長唄の娘道成寺の枕詞に「花の外には松ばかり」とあるが、その言葉其の侭の風景を見る気持ちである。

  古城の石垣にそって、丈の高い深緑の松の並木がある、その所々に挟まって連れ添う様に絡んで見える薄桃色の桜の花、又その影を写しているお濠の水の色、更に、眼を中空に移すとあの秀麗な岩木山の姿が指呼の間に見える。

  何とも言へぬ絶景である。

  桜と殆ど同じ頃に咲く杏の名所が、信州川中島の古戦場に近い更埴-コウショク−市にあるが、志賀高原の桜見物をかねて訪れ、村一面が杏の花でおおわれて見事であった。杏の花は「うてな」が深紅色で、なかなか艶っぽい色気のある花であり、これも桃李とともに中国で愛される花の一種である。

  春の終わりを飾る花として、あの可憐なカイドウがある。鎌倉長谷観音のすぐ傍らにある光則寺の本堂前の庭の中央に、鎌倉時代から一本の巨木があり、毎年鈴なりに花を咲かせているが、特に、小雨に遇うと一層可憐な風情を添える。

  最後に、大和路の麗らかな田圃路に咲く黄色い菜種の花は、桜が武士の花なら、さしずめ庶民の花であろうか。

 

2.放浪

      岩崎 郁夫:旭硝子、日本-、三菱マグネシユ-、三菱樹脂

 これは、岩崎サンS53.6.15発行の旭友会だよりに寄稿されたものから、抜粋したもので色々放浪した会社の如何なる場所においても、意義ある仕事をさせていただいた事に対し、感謝の思いを綴ったものです。

  S7年旭硝子に入社し、その時は、昭和初期からの深刻な不況から脱しかけた時で、勤務場所は、P式改造後の苦難の時の鶴見で、三交代勤務に服しつつ失敗しても失敗しても尚突進して行く不撓不屈の精神力の重要性などを四ヶ年の間まなんだ。S11年より日本-黒崎において、その当時最先端のアンモニア合成並びに硫安製造技術を所有していたIG社(現BASF社)より技術を導入し、S12年建設完了、操業開始したが、三ヶ年後計画生産量に達した。IG社から技術導入したとはいえ、アンモニア原料ガスとして未採用のウインクラ-法による歴成炭の流動バイ焼方式であり、ここに問題があった。ガス源が石炭から液体燃料に転換される迄、アンモニア原料ガス発生炉として、その名を世界に轟かせた。

 S18年三菱マグネシュ-へ出向を命ぜられ、北朝鮮の鎮南浦へと。ここは、信越化学の工場を縁あって買収したもので、着任後、日産3トンの線を確保しホットしたところ、S19年新設の関東州三菱マグネシュ-石河工場に又もや出向を命ぜられ、終戦の一ヶ月前20年7月操業開始、順調な生産であったが、生産されたマグネシュ-は戦力とはならず、全量ソ連に没収され、S21.4祖国に帰り再度黒崎に勤務、続いて本社へ。S49年杉山徳三氏の後を受けて三菱樹脂社長、会長となった。

 色々放浪の旅をしてきましたが、人間与えられた場所、場所で最善の努力を傾注する事が意義ある人生だと悟り、従って、私の好きな言葉は努力です。

 

 

  発言番号:462

    発言者  :樋口 三男

    題名    :三菱風土抄−その9.岩崎弥太郎と福沢諭吉

    登録日時:98/10/22 00:40

 

1.福沢諭吉

 九州中津出身の福沢諭吉が江戸鉄砲州の中津藩中屋敷にて、私塾を開き、後、慶応4年4月芝新銭座の有馬家中屋敷を買い取り、慶応義塾を開校したのは、25才の時で、当時の塾生は、馬場辰猪(後の民権運動家)、小泉信吉(信三の父、ともに後義塾の塾長)、阿部泰蔵(後の明治生命保険会社創立者)、早矢仕有的(後の丸善社長)など20-30名であった。

 明治3年三田の島原藩中屋敷を購入したが、塾生は300人を数え、甥の中上川彦二郎、従兄弟の豊川良平、臼杵の荘田平五郎、佐伯の矢野文雄、豊前の朝吹英二、豊岡の浜尾新、尾崎行雄、犬飼毅、松永安左エ門など好学の青年が集まった。

 諭吉は、「鄙事多能」ということをいっており、ホワイトカラ-が往々にして、販売、製造の現場に行きたがらず、社長室でアメリカ経済学の文献などをいじるのを理想とする事を戒めた「心がまえ」を説いたもので、妙な気どりを捨て、即物的な明るさと精神の柔軟な自由自在が大事である事を言ったようである。

 

2.岩崎弥太郎と福沢諭吉の結びつき

 弥太郎当主と諭吉を結びつけたのは、従兄弟の豊川良平で、当主から「ウチも内容を充実して、西洋式の会社らしくしなくてはならない。その仕事をやれる男を慶応から引っぱって来ぬか。」と言われ、それを聞いた諭吉は

.三菱という日本一の海運会社が、近代的な体質改善を志したという事で日本の産業発展、国力充実を念ずるものとして喜び

.塾の門下生が迎えられる事

.諭吉自身のビジネスに対する愛着「利を争うは、理を争うこと」で大いに喜び、自分も三菱の本社にたちより、確かめ、荘田平五郎を推薦した。

  その後、諭吉は、時事新報紙上に、發表した「事業論」中でも、弥太郎当主を褒め

.天資豪胆

.人のやれぬ事を思いきってやる

.その実、細心周密、いささかも油断しない

.よく人材を入れ、これを信任して、大きな権限を与えると。

 ハッピ前だれ精神が、三菱の社是である。又、弥太郎当主はこう言っている。「学校出の書生を採用してみて、客との応対、口のきき方、横柄な顔、まるで客を追う払うとする様な態度には、困ったが、反面、正直で、知見があり、モノおじせず、恐れず、難しい談判、文通などは、書生にかぎる。従って、番頭、丁稚に比べて、一長一短があるが、俗物に教えて知識人の気性をもたせるのは難しいが、書生を慣らして、その外面を俗化させる方が易い。ですから、福沢先生の門下生を」と。

  諭吉は、弥太郎当主を評価したのは、現実主義の底に流れる烈しい現状打破の心構えと情熱で、日本の商工業に新風を吹き込み、欧米先進国と対等の繁栄を齎す第一の人と思った。

 弥太郎当主の最盛期の三菱の陣容について、或る人は

  .総司令部    荘田 平五郎  朝吹英二

  .戦闘部隊    吉川泰二郎  久米弘行  山本達雄  岩永省一  吉武誠一郎

  .遊撃部隊    豊川良平    森下岩楠  大石正己 馬場辰猪

  .後方部隊    阿部泰蔵

  .支援部隊    矢野文雄  牛場卓蔵  尾崎行雄 中上川彦次郎  犬飼毅  箕浦勝人

という具合に、各部内に福沢門下生を配置していると。

 

.朝吹英二

 福沢一門で、三菱に入社し、初期の三菱に貢献した荘田平五郎とともに忘れてならないのは、朝吹英二である。その人となりは、大阪時代より諭吉と起居をともにしていた。諭吉は門下生個々人の人となりをみて、それぞれ、行き先を考えいた。諭吉の名声が上がり、著書も多くなり、それを直営にする方針で、出版局を設けた。これは、製版、印刷、製本、発売、集金、職人の管理などの仕事で、単なる頭脳の秀才では、捌ききれぬ、感と決断力、人柄の魅力がなければ務まらない仕事で、その責任者に朝吹を起用した。(その頃の著書は、「学問のすすめ」「西洋旅案内」「西洋事情」「収税論」「文明論之概略」など。)

 其の後、明治10年諭吉の進めで、三菱に出社、「第七等下級東京本社事務月給100円」の辞令をうけ、三ヶ月後、東京店支配人となった。

 従来の社風として、客先に対し、武骨一辺の土佐武士あがりの高圧的な態度に対し、彼の人あたりの良さ、オトボケ面、センスの良さによって、営業成績はグングン上げていった。明治13.1横浜正金銀行の創立とともに、貿易商会(Cap20万円、弥太郎当主8万、他は、諭吉以下の三田出身者の出資、社長早矢仕有的)が為替を取り組む機関として設立され、当主の慫慂と諭吉の薦めもあり、朝吹はその支配人となった。雑貨、生糸などを取り扱い、ウラジオニユ--ロンドンリヨンなどに店舗をかまえたが、薩長高官の圧力により、為替取り組みの禁止にあい、貸付金の返済の為解散した。その債務100万円を全額彼は負担した訳であるが、そんな時にも大隈重信への政党援助、人の世話をした。そして、当時日銀総裁の川田小一郎の推薦、義兄の中上川彦次郎の縁で、三井系の鐘ヶ淵紡績、三井工業部専務理事、本店管理部理事となり、専務理事の益田孝とともに三井の経営に携わり、三井全体を統括する立場となった。

 この様に三菱、三井という財閥の重鎮として特異な才を発揮した人物も珍しく、勿論、優れた頭脳の持ち主ではあったが、人並み以上の大きな頭、アバタ面、声の大きさ、トボケ面がこれを隠して、本来の人間的な人となりが多くの人を惹きつけたといわれている。

 

 

  発言番号:464

    発言者  :樋口 三男

    題名    :三菱風土抄−その10 岩崎家の社会事業等

    登録日時:98/10/25 21:37

 

1. 静嘉堂文庫

 弥之助当主は、若い頃学んだ漢学塾の重野博士を終生師として、仰ぎ、博士の修史事業を後援した。当主は、「蘭室」と号し、堂号を「静嘉堂」(祖先の祭りを大切にとり行う意)と名ずけ、書庫を「静嘉堂文庫」と命名した。その書庫に和漢書18万冊の典籍を収めた。

 当初、自邸の駿河台東紅梅町にあったが、明44年小弥太当主は、高輪に3階建文庫新館を、大13年世田谷区岡本の丘の上に鉄3階建の建物を建て、それに移した。昭15年財団法人静嘉堂を設立、文書、蔵書施設の一切を寄付し、これに岩崎家収蔵の美術品を寄贈した。

 

2.翻訳刊行援助

 明36年弥之助当主は、米国 Andrew Carnegie "The Gospel of Wealth"の翻訳刊行を援助し、「富の幸福」と題して発行した。

 

3.教育.社会事業への資金援助

.日本女子大学創立の發起人と寄付

 

.東京専門学校の大学−早稲田大学−昇格拡張募金への寄付

 

東京慈恵会に対する援助、顧問就任

 

4.六義園

 園名は、「古今集」の序にある和歌の六体にちなみ、名ずけられた。元々、加賀藩前田家のもので、綱吉が、前田家に無理を言わせず柳沢吉保に、与え、吉保はこれを下屋敷とした。八十八景の景地を作り、「回遊式築山泉水庭園」で、池のほとりの「田鶴橋」「渡月橋」「白鴎橋」「ふきあげ浜」「千鳥橋」「滝見の茶屋」更に、園の北側の藤代峠の築山より眺めると中の島が見渡せ、花木には、マツモミジ、ケヤキミズキクスノキツツジサクラロウバイウメツバキシダレザクラ、タイサンボクハギサザンカなど四季折々の花木、それに、ウグイスメジロカイツブリコジユケイモガモオシドリなど野鳥に恵まれその鳴き声に耳を傾け乍らそぞろ歩きでき、眼も耳も楽しませてくれる。

 明治にはいり、岩崎弥太郎、弥之助兄弟の別邸となり、昭13年久弥当主により、東京市に寄付され、昭28年には国の特別名勝にも指定されている貴重な文化財である。

 

5.清澄庭園

 江戸元禄の頃、紀伊国屋文左衛門の別邸であったが、その後下総関宿の城主久世氏の屋敷となり、、明治の初期前島密が住んでいた。弥太郎当主は、社員の慰労と賓客のため、「深川親睦園」として、購入した。隅田川の清洲橋に近く、そこから水を引き、回遊式庭園として、潮の干満により、趣に変化をもたせ、庭石は鑑賞するばかりでなく、灯篭、水鉢、石橋、碑、飛び石にも意を用いその石の銘柄は、花崗岩、安山岩、変成岩にわたり、伊豆磯石、伊豆式根島石、讃岐御影石、佐渡赤玉石、紀州青石、伊予青石など国内55個の奇岩、珍石が配されている。

 

.建築関係

.高輪邸の洋風建築

 旧伊藤博文邸地16.000坪−、後、19.000坪となる−に英人Josiah Conderの設計にて、クラシック式二階建坪987坪、日本家は駿河台より移築、洋館周囲の庭園は10.000坪、1500.坪の温室をつくった。

 第2次大戦の空襲により、内部は焼けたが、戦後、復旧工事を行い庭園も昔の美しさに復し、現時、関東閣として、使用されている。

 

.大磯別邸

 明治23年購入、母美和刀自の老を慰めるためつくり、思萱堂と名づけた。後、久弥当主の長女沢田美喜女史が社会福祉事業エリザベス  サンダ- - を開設した。

 

.箱根湯本邸

 早川と須雲川の合流する三角州に地所を求め、明治39年日本家を中心に大きな池を作り、洋館は、ヴィラ風の瀟洒な建物であったが大12年の震災で、洋館は崩壊した。早川、須雲川に鱒を放ち、繁殖させるため邸内に養殖場を設け、人工孵化を試みた。

 現在、古池旅館の所有となつている。

 

7.趣味関係

.刀剣、書画類

 小弥太夫人孝子氏は「父は美術品を、一度に長持一パイ買はれる事があり始めは、自分の鑑賞より国の宝が、外国に流出するのを防ぐためであったが、段々、本格的になった。」と。明33には、弥之助当主は、刀剣会設立の發起人となった。今村長賀氏(刀剣鑑定家、宮内省御剣掛)は、「当主の蒐集した刀剣類は、幾百千もあるが、天下の逸品尤物として知られるものも二.三十はある。」と。

 洋画家山本芳翠画伯の後援、彫刻家大熊氏広氏への援助なども行った。

.馬、盆栽 謡曲、養鶏、など多方面にわたり、弥之助当主は多趣味な人であったと言われている。

 

 

  発言番号:479464へのコメント)

    発言者  :村瀬敏哉

    題名    :三菱風土抄−その10 岩崎家の社会事業

    登録日時:98/11/03 12:34

 

 偶々昨日の産経新聞夕刊に成蹊学園の記事が出てましたので以下転載します。

 成蹊事始めの記

 成蹊学園は三人の明治エリート青年たちの友情と理想主義から誕生した。それは、明治二十四年(一八九一年)東京高等師範学校付属中学で中村春二、岩崎小弥太、今村繁三が同級生となった時点にさかのぼる。中村は学者の家に生まれ、父は宮内省御歌所の奇人、岩崎は三菱財閥の創業者岩崎弥太郎の弟、弥之助の長男、今村も全国の主要鉄道会社設立に関与し、鉄道王と呼ばれた今村銀行頭取、今村清之助の長男である。中学を卒業すると、中村は一高から東京帝大国文科へ、岩崎は同じく一高、東京帝大英法科へと進むが途中で退学し、英国ケンブリッジ大学に学んだ。今村だけは中学から直ちに英国のリース校、ケンブリッジ大というコースをとった。

 中村は教育への情熱を燃やし、いったんは中学教師となったが、日本の教育が形式主義、知育偏重に陥り、個性を無視しているのを痛感、恩師の嘉納治五郎に励まされ、先ず私塾で理想を追求することにした。おりから父の死期が迫り英国から帰国、二十六歳で銀行の頭取に就任した今村は、明治三十九年、育英事業の資金として一万円を支出、事業の一切を中村に委託した。

 中村は本郷西方町の自宅に私塾「成蹊園」を開く。最初の塾生は苦学中の優秀な青年三人で、彼らは後に官界、実業、医学へと進んだ。やがてロンドンから帰った岩崎も一万円を援助、成蹊園は塾生十人の規模となった。学資欠乏のため勉学の途閉ざされた者入塾させたが「ただし、第一に品性、第二に学才、第三に身体強健」を選択基準とした。

 本郷から駒込富士前町に移転した成蹊園はさらに発展したが、中村は塾ではあきたらず、私立学校を設立したいと思い始めた。

 このため中村は、父の死で継承した遺産のほとんどを投じ、岩崎、今村も五万円ずつ基金を贈り、明治四十五年、池袋に成蹊実務学校を開設した。学校設立之目的は「現今教育の欠陥を救うため」で「社会の中流に立ちて諸般の実務に当たり、よく国家の中堅となり、向上の精神に富み奮闘自研、他日高等教育を受けたる者と比肩しうる人材を育成する」とうたった。中村は自由な教育を行うため、あえて中学校令による中学校とせず、各種学校令による実務学校の道を選んだ。それが、成蹊実務

学校であった。

 中村は授業の中に「疑念法」という精神統一法を取り入れたり、人間の心の働きの偉大さをたたえた「心力歌(心の力)」を生徒に唱和させたりし、型破りな教育者であった。一方、岩崎と今村は英国仕込みの国際人。特に三菱合資の社長をつとめた岩崎は力士のような巨体で野性味を漂わせる一面、芸術を愛し、山田耕筰の音楽研究を援助、東京フィルハーモニーを作られるなど、文化的パトロンでもあった。

 成蹊実務学校は広く世間の注目を集め、続いて徳育面を重視した教育をという要望にこたえて大正三年、中学校令による中学を新設。さらに小学校、実務専門学校、女学校を相次いで開校した、だが大正十一年に岩崎を理事長とする理事会は、学園を初等教育から高等教育までの一環教育の場とする方針を決定。実務学校、実務専門学校は廃校となった。

 それからほどない大正十三年、中村は四十八歳で世を去った。その翌年、現在の成蹊大学の前身である成蹊高等学校(七年制)が開校、現在の体制の原型ができあがった。

 中村の死後、岩崎と今村は、それぞれ六十七歳、八十歳まで生き、物心ともに成蹊学園の発展を支えた。  (森彰英)

 

 

    発言番号:465

    発言者  :樋口 三男

    題名    :三菱風土抄−その11   三菱と外国人

  登録日時:98/10/26 11:23

 

 明治初年邦人はまだ洋式汽船の操縦、造船技術、鉱山技術に習熟していなかったため、多くの外国人を登用した。

 三菱雇用外国人は、明9年388名、明18176名、他に、下級船員106名を数えていたが、明20年になると、邦人技術者が進出し、外国人は次第に減少した。

 弥太郎当主はデンマ- Fredrick Krebs を外国人使用人の総監督とし、後、長崎造船所の事務管理役に任じ、退社後、コペンハ-ゲンに帰国しても、三菱は年金を送り、その労を報いた。

 Josiah Conder は、丸の内三菱事務所街、旧帝室博物館、海軍省、ニコライ堂有栖川宮邸、北白川宮邸、華族会館、明治生命本館、岩崎高輪邸、箱根湯本邸、玉川の岩崎家墓堂などの設計建築を遺し、又、Floral Art of JapanNotes Japanese Architecture などの著述があり、邦訳の建築技術入門書もある。

 幕末、明治初期の貿易史にのこる Thomas Blake Gloverは、安政6年開国直後、長崎に来て、共同経営でグラバ-商会を設立し、諸藩を相手に艦船、武器弾薬、器械を輸入、海産物、茶、生糸を輸出し、又、明治政府となってから軍艦、造幣局の印刷器械などの輸入に携わり、成功をおさめた。

 鍋島藩肥前領の長崎港外の高島炭坑を共同経営し、その鉱山機械、竪坑の掘索機械、蒸気力による巻揚げ機械、風車による坑内換気装置など洋式採炭法を採用した。後、高島炭坑は、明7年官営鉱山、更に、後藤象二郎の経営を経て三菱の時代となっても、坑主補助の形で残り三菱との関わり合いができ、高島炭の海外向け、外国商館向けの販売を担当した。東京本社の顧問に変わり、キリンビ-の前身であるJapan Brewery Co.LTDの役員にも名をつらねた。

 

 

  発言番号:467

    発言者  :樋口 三男

    題名    :三菱風土抄−その12.キリンビ-ル.ニコン.信託

    登録日時:98/10/27 15:56

 

1.キリンビール

 明治18年頃、横浜にビール会社をつくろうという計画が在住外人たちのあいだにおき、三菱顧問のThomas .B.Gloverが仲間とともに、外人に出資を求め、明18年スプング バレー ブルワリー の跡地にビール醸造所をつくりジャパン ブルワリー カンパニーと名づけられた。彼は、弥之助当主、益田孝、渋沢栄一などにも資本引受けを勧誘し、それを実現した。当時鉄道建設に貢献した英人ダイアックの指導のもとに建設された。販売網について、幾つか候補先があったが、Gloverの強い推薦で明治屋の磯野計にきまった。この磯野計の登場が「キリンは三菱系」といわれる發端となった。磯野計は、明13年三菱の留学生として英国に留学し、4年間英流の商務を学び、其の後三菱汽船に勤めたが、弥之助当主に「食料品を船に供給する会社をやりたい」と申しいで、賛成を得て明治屋を創設した。そして、明治屋は、ジャパン ブルワリーラベルが麒麟の図柄であったので、「キリンビール」と命名し、販売を開始したのが、明21年の事であった。麒麟は、中国では、霊獣とされてきた伝説上の動物で、当初のラベルは太陽を背景にした小さな麒麟が描かれていたのを明22年今日までつかわれている五色の麒麟が空中を駆ける豪壮なデザインとした。

 明30年磯野計が急逝、当時の明治屋は彼の個人のもので、一手販売契約が彼個人との間のものだったのを三菱の豊川良平が明治屋の米井源次郎を保証する事により、販売権は明治屋に委ねられた。

 時に、日本、大阪、札幌の三会社を合同して、大日本麦酒をつくりあげた馬越恭平の業界支配の意図を察知した米井源次郎は、外人役員のジエームスの帰国の申し出でのある時でもあり、又、販売担当者として、外人依存の経営から脱すべきだと考え、その資金の援助を三菱合資の岩崎久弥社長に願い出で、社長は約束した。

 明40年2月 ジャパン ブルワリーを買収し、麒麟麦酒株式会社とした。その創立総会の議事運営は、荘清二郎が進行係、三村君平が検査役となってすすめた。総会に於いて、ジエームスを始め、忘れる事の出来ない人達には、夫々、謝礼金でもって、これに報いた。又、新株3万株のうち久弥、弥之助当主の株主の他、岩崎家の出資した名義株、功労株として合資在籍の他の方達の名前もあった。

 兎に角、麒麟麦酒の産みの親は、岩崎久弥氏で、三菱グループの会社として、世間に知られているのも、こうした事情に端を發している。(キリンビール広報部社史編纂室より)

 

2.日本光学工業株式会社

 日本光学工業は、昭63年社名を()ニコンに変更したが、その発祥は、T6年7月東京計器株の光学部門と藤井レンズ、及び岩城ガラスの探照灯、反射鏡部門が三菱の資本のもと合同し、Cap.200万円、本社を東京市小石川区原町120番地の東京計器内に置き、社名を日本光学工業()と定め、社長に東京計器()の和田嘉衡社長が兼務した。

 大7年2月本店.工場を東京都荏原郡大井町5447番地に移転し、大7年6月定款変更、社長制を廃止、会長、専務制とした。会長には、武田秀雄氏(海軍中将三菱電気()会長)がこれを兼ね、専務に、曽根増吉氏がなり、大10年ドイツ人技師ランゲ博士他8名の技師を雇用し、技術の導入をはかった。大15年7月斯波孝四郎三菱重工常務取締役が会長を兼務した。(株式会社ニコン広報部及びニコンOB五島サンより)

 

3.三菱信託

 三菱信託株式会社は、昭2.3.10の創立で、初代取締役会長は、各務健吉 (東京海上会長兼務) 常務取締役田村秀実 (三菱銀行取締役)氏で、当初、社長はおかれなかった。

( 三菱信託OB太田、深沢サンより )

 

 

  発言番号:482(467へのコメント)

    発言者 :太田 

    題名    :三菱風土抄−その12  キリンビ-ルニコン、三菱信託

    登録日時:98/11/06  09:57

 

 我が国における信託会社の発展は、大正114月に公布された信託法及び信託業法の制定に始まるといえよう。従って、昭和2年に設立された同社は、我が国の信託会社が未だ創成期を出でざる時代にその第一歩を踏み出したのである。大正154月三菱合資会社を中心とし、三菱系諸会社の間に設立の計画が具体化し、同年412日三菱銀行内に創立事務所が置かれ、昭和2115日定款、目論見書が作成され、設立趣意書が発表、310日創立総会の開催、前述の会長、常務が就任、役員11名、行員46名であった。昭和238 月朝日信託kk、と社名変更、銀行業務を兼営、昭和275月再び三菱信託銀行kkとなつた。 ( 深沢龍一、太田 )

 

 

  発言番号:720

    発言者  :樋口 三男

    題名    :三菱風土抄18.南方石油資源(戦時中)の調査、開発、復旧、建設、生産       に挑んだ三菱マン

    登録日時:99/08/05 12:39

 

 去る平成11.3.6.ダイヤかながわ交流会にて、三菱石油OBの荒井猛彦さんが「戦時体制下の南方石油源に対し、三菱各社をあげて、陸.海軍に516(協力会社を含む)の人材を派遣し、この地の石油資源の調査、開発、復旧建設、生産を、軍人支配の形式主義の先行する組織の中にあつて、熱帯的気候、灼熱の風土、現地人との折衝、疫病等と戦い乍ら、然も、南方軍最後の引き上げまで、日本軍の償いを一手にとらされた」三菱マンの物語をされたが、その要旨を記述したい。

     ----------------------------------------------------

                            荒井 猛彦   三菱石油OB

 昭和16年にはいるや 国際情勢は益々緊迫の度を加え、同年6月には石油その他重要物資の対日輸出に関して行われていた日蘭経済交渉が決裂し、7月には、米、英、蘭 3国により、対日資産の凍結が実施され、また、米は、対日石油輸出を完全に停止するに至り、わが国の石油輸入は皆無となった。こうして、勢いの赴くところ、わが国は12 8日大戦に突入するに到った。わが国は、石油を始め、鉄鉱石、ポ-キサィトその他戦略物資の海外依存度は極めて高く、然も、日中戦争の長期化による予想外の消耗のため、過去の蓄積は極めて乏しい状況にあった。開戦直前の貯油状況は、

       海軍      650 kL

       陸軍      120

       民間       70

               840  L

                                            (日本海軍燃料史)

で、しかも、原油輸入先は、米 80 % 、蘭領東印度 10% その他となっており、他方、わが国の石油精製能力は14000KL/日に達しており、原油輸入の途絶は、国策遂行上一大支障となるので、南方石油地帯に眼がむけられ、その資源確保の為の方策が推進される事となった。

 

1.三菱の姿勢

 本社岩崎小弥太社長は、昭和16年12月10日三菱系事業の最高審議機関である三菱協議会において、「三菱は産業報国をもって使命となし、特に、現下国家の要求する最も重要な部面に直接関係を有するものであるから、今日こそ、従来培ってきた組織と精神とを有効かつ有意義に活用し、もって国難突破の大業に貢献されるよう。」に訓示された。

 更に、「在来、我が三菱と事業に於いて、相提携せるものに幾多の英米人あり、彼らは、今日に到る迄我らの友人として、同一の事業に提携し、同一の利害に終始し来れるものなり。今や不幸にして、干戈相見ゆるの両国籍に分属す。

 国家が彼等の事業並びに資産に対して、合法的の措置あるべきは当然なれども、旧誼は之により滅すべきにあらず。

 されば、国法の許す限り、彼等の身辺と権益とを擁護すべきはこれまた、道義に立脚せる我ら日本人の情義にしてかつ責務なるべし。他日平和克服の日来たらば、彼等は過去に於いて忠実なる好伴侶たりし如く、将来に於いてまた忠実なる盟友たるべく、かくて、両者相提携して再び世界の平和、人類の福祉に貢献するの機到るべきなり。」

 当時の国内情勢から考えて、極めて、果敢な発言と申すべきものであり、これは、外国権益をいかに擁護すべきかの指針となったものと言える。

2.日本軍による南方油田地帯の占領

 前述の如く石油の輸入が皆無となるや、わが国は、自衛上非常措置をとらざるを得なくなり、南方石油の確保へと行動を起こした。緒戦に於いて南方諸地域を席巻し、蘭領東印度のスマトラボルネオジャワなどの油田をまた英領ボルネオの油田を掌握した。

 そして、陸海軍は作戦の進展に伴い、陸軍はスマトラジャワ英領ボルネオ及び以西地区を海軍は蘭領ボルネオ及び以東地区を分担して復旧、開発する協定を結び、夫々占領地に軍政をしいた。

 その地区の産出量は次の通り。(商工省の重要物資管理営団委員会への提供資料)

         地区             油井数        年産/kL

     英領ボルネオ              470          1008130

     蘭領ボルネオ              880          1952385

       セラム                 55           115705

       ジャワ               330           973090

     同南部スマトラ            1350          5230450

     同北部スマトラ             170          1263630

                         3250         10543390

 

3.油井及び製油所の復旧、整備

 昭和16101日民間石油人に対して、徴用令が発動され、夫々陸軍又は海軍に配属され、軍による南方産油地の占領とともに現地に進出し、破壊された油井および製油所の復旧、整備に献身した。当時徴用された民間石油人は陸軍石油部隊(南方燃料廠  本部シンガポ-) 所属 4920名、海軍石油部隊(101燃料廠 本部サンガサンガ)(102燃料廠 本部パリックパパン)所属 2100名配属され、徴用されたのは、三菱石油、日本 石油、帝国石油、日本鉱業、昭和石油、丸善石油、満州石油、北樺太石油、朝鮮石油その他関連会社の従業員であった。

 

4.三菱班の活躍

 三菱石油従業員も南方製油所の復旧、整備のため徴用されたのであるが、軍の要請により、三菱各社の協力を得て、「南方石油三菱班」を編成し、陸軍班は、パレンバンに、海軍班は、バリックパパンに派遣された。陸海両三菱班の出身会社は、三菱石油を主力とし、鉱業、化成、重工業、商事、銀行、化工機、地所、倉庫、製紙(陸軍班のみ)、本社(海軍班のみ)製鋼(同左)、電機(同左)、海上(前同)、信託(同左) 15社及び関係会社であった。

  三菱班の延べ派遣員総数は、

                三菱石油従業員          246

                三菱各社              240

                三菱石油協力会社       30

                                      516

 三菱班と日石班とが、復旧、操業を担当した旧蘭印の三大製油所及びその能力は次の通りとなっている。

  所在地  旧製油所名  原油処理能力  分解蒸留能力  管理  担当

   スマトラ    バレンバン

             スンゲイゲロン    7200          2900       陸軍   三菱班

    同上     バレンバン      7200           400        同上   日石班

             ブラジウ

   ボルネオ   バリックパパン   5600          1200        海軍   三菱班

                      (単位:kL/D)      米誌調査記録

 

5.元従業員の回想

(1.)スマトラパレンバンについて

 スマトラ島の略中央を赤道が横断しているが、南緯3度線とムシ河の交わる所にパレンバン市がある。そこから河を10キロくだると、右岸に支流コメリン川がながれこむ。この支流を挟み、ムシ河を前にして、二つの製油所が並ぶ。市に近いプラジウ地区にあるのが第一(T製、シェル系のBPM) 、市から遠いスンゲイゲロン地区のが第二(2製、スタンダ-ド系のNKPM)製油所で、2製を三菱班が運営した。主装置群の規模の大きさ、パィプの太さ、敷地の広さなど当時の川崎製油所の10倍強の規模で、内地には未だになかった最新装置も稼働され、名実ともに東洋一を誇る精油所であった。

 破壊された施設を修復、装置の火入れ、運転稼動は1811月頃。最初の空襲は、19.8.11の真夜中。 20.1.29am10英艦載機120機の空襲で原油タンクは燃え、31pm22漸く鎮火、戦死2、戦傷者1がでた。

 

(2.)ボルネオバリックパパンについて

 海軍上海陸戦隊は、昭17.1.25占領、三菱班の第?T隊は3.28、第2隊は4.8到着。諸施設の破壊工作、戦火による被害は意外にも軽微であったので、復旧工事は順調に進み、17.5.8には、内地向け原油積み込み第?T船の出荷を完了した。18年の後半になると、敵機の爆撃を受けるようになり、19.8には、B24爆撃機の白昼来襲により壊滅的打撃をうけた。

 思えば、パリックパパン製油所は、湾にそって、山あり、谷ありの細長い百数十万トンの能力の製油装置、特に航空潤滑油合成装置は、内地には未だなかった近代装置であり、山上に林立するタンク群をもって東洋屈指の偉容を誇った製油所であった。

 

6.三菱パレンバン会戦友会の集い

 終戦後数年経ち、まだ生活も落ち着かない頃、戦友会の集いが結成され、五十数年後の現在も年一回、青春時代を偲び乍、懇親会が催されている。 (文責、樋口) 

 

 

  発言番号:468

    発言者  :樋口 三男

    題名    :三菱風土抄−その 13 三菱庭球の歩み

    登録日時:98/10/28

 

1.三菱の庭球の歴史は、大変古く、大5関東、関西戦、大11ロンドン外遊中の岩崎彦弥太副社長が三菱クラブ庭球部に銀製のカップの寄贈があり、三菱庭球同好会が出来、T12 HIカップは、北海道、関東、中京、京阪、神戸、関門若、長崎の地区予選の勝者が争い、コートは、染井(巣鴨 )コートを利用して、毎年盛大に行われ、昭17中断、昭27復活後、地区予選出場者をふくめると、三菱のテニス人口は、7000 ( 57現在 )と言われている。

 HIと同時に45才以上のダブルス100トーナメントを新たに設け、開催地を東京、関西、名古屋にて、三菱各社社長を順次大会委員長として開催され、更に、彦弥太副社長夫人寄贈のカップをうけ、昭47女子ダブルス トーナメントも加えられた。又、100トーナメントは、昭33105才、昭38110才、昭53115トーナメントと前衛、後衛出場者の年齢の加令する度毎に変えられて行った。 49.7には、日中国交回復を記念して、来日中の中国ナショナルチームを銀行の武蔵野グランドに招き、オール三菱チームと親善試合をおこなった。

 「HI盃は、三菱グループの横の繋がり、所謂、Horizontal Integration の象徴に他ならない」」といわれた通りグループの行事として、意義のある大会であった。

 

2.HI戦の記録をみると、重工、銀行、地所、商事、化成、電機のプレーヤが多く大12から昭17年迄の20回のうち重工の後藤サン(3回連続優勝)、航空の牧野サン(3回優勝)、地所の石井、海上の神田サンが優勝戦に顔を出し、かっての日本選手権者、デ盃戦手もおり、復活1回から三十回迄には、金商の藤倉、電機の石黒サンの連続6回は、特に光り、電機の藤井サンの通算7回、明生の山岸サンの4回、又化成の寺岡、電機の半那サンも屡優勝戦に名をだしている。同一会社内同志の優勝戦は、電機の藤井対石黒戦、同じく石黒対半那戦があり、電機のレベルの高さをものがたっている。

 又、100.105.110.115.-ナメントになると、同一ペァ−による連続優勝はなく、100才初期優勝戦に名を列ねた地所の石井サンが、戦後復活戦の100トーナメントペァ-を変えて名をだしている。110-115プレ-では、商事の山岸、金商の藤倉、河尻サンも名をだしている。

 柴田周吉サン (化成、昭40110才優勝 )は、「HI盃での想い出は大変多いが、昭32年の決勝戦で、5年連続優勝者の藤倉選手に対し化成の寺岡選手との試合である。3セットマッチであったが、セット -となり、ファイナルもとりつ、とられつで遂に、5-4で藤倉選手のリードの侭日没中止、翌日に持ち越し、翌日1ゲ-で終わり、藤倉選手が6回連続優勝を遂げた。 併し、寺岡選手の奮戦ぶりには、観衆一同手に汗して、賛辞をおしまなかった。」と。又、河尻慎サン (昭2年商事、金商、昭29100才、昭47110才優勝)は、スポ- マンの信条は、「鋭敏にして強靭」である事を必須条件としているが熊谷一弥サン (大6年銀行 )は、正に、その通りで、日本の生んだテニスの名手といえ、「銀行入社前の大5年米国でテニス行脚し、当時、米国男子シングルス第一位のW.ジョンストン氏を死闘の末破ったが、清水善造サンとともに、強さの他に、マナーの良さが米国のみならず、世界の賞賛を博し、アメリカの排日感情の極めてたかかった中にあって、それを賞賛に変えている。」と。「熊谷選手は、昭6年三菱銀行NY支店員として、米国各地を転戦し、戦果をあげ、日本の為、大いに、名声を上げたが、その費用は、入社日尚浅い青年行員には到底負担できないものであり、これを国際性の高いテニスへの理解の深い岩崎彦弥太副社長が自らのポケット マネ-で援助したそうだ」とのべている。

 又、地所の大淵、石井、商事の山岸、中村、銀行の浅田、片岡、倉庫の鈴木、海上の森野、諸戸、電機の小倉、間、関沢、重工の広兼、服部、田中、鉱業の富田、高萩、化成の生原サン等が三菱庭球史を特にかざっている。

 HI盃にて、共に戦い懐かしみ、心の拠り所にして、精進し、人生の一つのチャレンジの場として伝統ある大会を更に自分達の手で、より永続性を与え、内容の充実したものとしてきた先輩、それを継いできた後輩の努力が実ったものである。

 このスポーツ交歓は、グループ間の融和、三菱の団結、活力の源泉として、寄贈者岩崎彦弥太副社長の遺志と伝統を守るため、今尚続けられている。

 

3.染井テニスコート

 三菱の庭球といえば、戦前のテニス マンは、誰でも染井コートを思う。染井の土地1万坪は、大3年三菱クラブが創設された時、岩崎久弥当主の特別の好意で、無償にて貸与され、クラブは、上富士前町の岩崎邸の一部が移築された。染井のクラブが設立される前迄のコートは、丸の内八重洲ビル敷地の2面と深川佐賀町の1面であった。

 当時の染井は、殆どが森林、杉林が大部分を占め、大4年これらの杉林の一部を切り開き、400米のトラックを作り、その中に、テニスコート1面をつくったが、後、トラックの東側に3面増設された。昭10年クラブハウスを移転し、その跡に、コート7面が新設された。戦争末期食料難のとき、農地となり、社員の食料増産の場所にかわった。

 昭21年三菱合資本社が解体され、養和会が独立経営となり、経営上、一般会員を募集し、多くの人達に開放され、昭50年三菱創業百年記念事業の一環として、巣鴨集会所、思斎寮、運動場その他の施設は、近代的スポーツセンターの殿堂巣鴨スポーツセンターに変貌を遂げた。

 佐久間甫 (重工)サンはその想い出として、「今は、サッカー場と化し、かっての面影もない染井であるが、国電で巣鴨を通る度毎に、共にプレーした諸先輩の顔や、手コギの井戸で冷たい水を汲み、テニスオーバヒートした顔や背中を冷やした事、又、あのコートの広いバックボールを拾いに行くのが大変だった事等を想い出す」と。 (昭和57.3.15 三菱庭球同好会編集.発行  HI盃復活30周年記念「三菱庭球の歩み」より )

 

 

    発言番号:469

    発言者  樋口 三男

    題名    :三菱風土抄−その14.三社対抗ヨットレ-ス.硝子俳人伝

    登録日時:98/10/28 19:16

 

1.三社対抗ヨットレース

 去る昭53.8.19葉山沖で、三菱化成、三菱-ヨン、旭硝子の間で三社対抗ヨットレースが行われたが、このレースは、旧三菱化成の三分割がきまった昭和24年に第一回が開催されてから本年−昭和53年の事−で、丁度三十回目になる。優勝は、旭20回、化成6回、-ヨン4回となっている。

 この-には、「森 規矩夫 杯」がある。当時化成の社長であった森サンに私 (硝子 内藤雅夫氏 )が当番会社のヨット班長でもあったので、三社対抗の趣旨を申しあげ、恐る恐る「社長杯」の寄付をお願いにあがった。

 森サンは、大変喜ばれ、「会社というものは、別々になると兎角仲の悪くなるものだ。今は、三社とも別れる事ばかりに熱心になっていて、その先の事を考えていないようだ。その中で、君達は、将来も親睦を図って行きたいという申し出をしてくれた。こんな事をいってきてくれたのは、君達が始めてだ」といって、五千円に箱の署名までしてくださった。

 かくして、第一回は、横浜で、まだ、米軍の飛行艇が直ぐ側におり、プロペラの風でヨットが意外な方向に行く等のハップニングもあったが無事終了した。

         ( 昭和53.11旭友会だより内藤雅夫氏「森規矩夫杯のこと」より )

 

2.硝子俳人伝

  三菱系各社の社員の文化活動は絵画、写真、書道、音楽、和歌、俳句などにわたり、多方面に活躍されている事だとおもいますが、硝子の古い俳人とその俳句を「旭硝子俳人伝」として、下田昌三郎氏が纏めていますので、掲載してみました。

 昔三菱の重役で赤星水竹居といわれる俳人がおられ、高浜虚子に師事し、明快率直な句風で一家をなした。

    風鈴の  鳴らねば淋し  鳴れば憂し

 水竹居氏の勧めで俳句をはじめた三菱紳士は多く、ある時の句会で、次の句が特選に入った。

    傘さして  無月の月を  待ち居たり

 この句が、披講された途端に「三次郎」という大きな名のり声が響いた。

 旭硝子ニ代目社長山田三次郎氏その人である。始めての句会にたった一句それも虚子特選に入ったのだから、よほど、嬉しかったのに違いない。

 無月とは、十五夜の空が曇って、名月が見られ無い事をいうが「無月の月」とは、何と型破りの表現ではないか。初心なるが故の大胆な率直な言い方に虚子が斬新さを感じたのであろう。以上は、私 (下田昌三郎)の俳句の師である池内たけし先生より、お聞きした話である。たけし先生は、虚子の甥にあたり、親しく教えを受け、俳誌「欅」を主宰、平淡にして余情のある句風をもって数々の名句を詠まれた。

    草摘める  この子供等を  育て来て

    我が息の  白からん内    命あり

  たけし先生は、昭49年86才のお生涯を終える迄、硝子俳句班(草萌会)の指導を続けられた。この会を通じ、吟ぜられた人達の句は、辻 茂氏は、 たけし先生を硝子に招聘された草萌会の創立者でサラリとして、味わいのある句を遺されている。

    打ち水の  水を貰ひて  墨をする

    余生とは  草を取るにも   余念なく

翁長 良保氏は、虚子直門のホトトギス同人として伝統的句風を貫かれ

    砂利舟は  帆上げぬ多摩の  春浅し

    見送るや  田植さ中の   掌を上げて

村上正夫 氏は、欅一筋に投句を続け、穏健にして心持ちのある句風で

    重ねても   見しが冷たき  手なりけり

    富士見ゆる  日は矢車の  音高し

梅林辰男氏は、草萌会の初期に、華麗な句が見られる

    初日いま   氷れる海の  彼方より

    噴煙は     乱れ桔梗   空澄める

太郎氏は、ロマン豊かな句風で一味違う趣があり

   爪立ちて  青き木の実に  触れて見し

      妻のいぬ  夜の埋火の  灰を掻く

中西弥太郎氏は、欅を支える柱で、江戸っ子的気性その侭のカラッとした句風、写生一途に描写力があり

   冬の日や  死にそこなひし  虫一つ

      虹消えて  工場の空   ありにけり

      物干しに  物干せる妻  風邪引くな

下田 昌三郎氏は

      葛吹いて  あらしめきたる  山の風

      草の実を  つけてともども  行きし道

      虫鳴くや  わが生涯も   見えて来し

              (昭52.6旭友会だより第9号

                 下田昌三郎氏の「硝子俳人伝」より )

この流れをくむ早川元広サンの平9.9月の作

     夜のしじま  月下美人の  開きけり

      単線の    鉄路まっすぐ   夏の果

      鰯雲    空全景を   舞台とし

がある。続けて 私の駄作

      夢うつつ   幕は閉じたり   失楽園

      水浴びる   親子の水着   さいけ調

      潮の香を   遺して上がる  朧月

 

 

  発言番号:470469へのコメント)

    発言者  権藤 卓也

    題名    :三社対抗ヨットレース

    登録日時:98/10/29 15:35

 

 樋口さんの三菱風土抄の力作、いつも感服しながら興味深く読ませて戴いています。我々比較的シニアに近くなったOBには懐かしい人の名前や話題が次々と出てきて、とても楽しいですね。

 さて、今回は三社対抗ヨットレースの発祥についてでした。三社対抗ヨットレースについては、巌さんが9月2日(#393)に話題にされており、すぐ早川さんが翌日9月3日(#397)にコメントを入れておられます。私は巌さんから指名されていたのですが、すっかり怠けてしまっていて申し訳ありません。

 私も三社対抗ヨットレースの第1回から参加した一人です。その時は昭和24年ですからまだ三社ではなく、たしか「全三菱化成ヨット競技大会」であったと思います。当時はまだ三菱化成は化成本部、硝子本部、繊維本部の3本部制で、私は化成本部でした。第1回のレースは横浜の貯木場で、樋口さんの記事の通りで大変だった記憶が微かに残っています。発起人・世話役は主として硝子本部の方々がやられたのだと思います。森規矩夫杯のことは、私も後になって内藤雅夫さんと時々お会いするようになって、ご本人からじかに聞いた記憶があります。

 三社対抗ヨットレースはその後も続いていて、今年8月22日(土)、葉山沖で第50回が開催されました。正式名称は「第50回森規矩夫杯三社対抗ヨット競技大会」といいます。第50回ということで、各社のOBも多数参加されて、結局は三菱化学が優勝したのですが、その夜の懇親会は大いに盛り上がって、各社OBの懐かしい人達と昔話に花が咲き本当に楽しい一夜を過ごしました。肝心の森規矩夫杯ですが、現在は2代目です。確か30回位の時に優勝チームの旭硝子に取りきりにして、森さんの奥様におねだりして2代目を作って戴いたと記憶しています。その日は初代の森規矩夫杯も飾られいて、三社対抗ヨットレースの歴史の重みを実感しました。

 早川さんのコメントにもありましたが、昭和30年代は旭硝子の女性が強くて、特に山崎嬢には私などもどうにも歯が立たず悔しかった覚えがあります。その山崎

さんが元気で参加されていて、昔と変わらず美人であることにまたびっくり。

 このヨットレースは50年間、1回も欠けることなく続いてきました。総合成績は

    旭硝子    35勝 (勝率 0.70)

    三菱レイヨン  5勝 (   0.10)

    三菱化学   10勝 (   0.20)

となっていますが、このレースが今後も途絶えることなくいつまでも続くことを皆で誓い合っていました。

 三社対抗とは別に、オール三菱のヨットレースも随分歴史を重ねています。手元に資料がないので、もう何年続いているのかわかりません。私の遠い記憶では三菱商事の隈部さんが中心になって昭和30年代に始まったように思います。

 今年は9月26,27日に江ノ島沖で開催され、台風の悪天候にたたられてレース予定は半分しか消化できなかったようです。詳細は、送られてきたメールのファイルがどうしても開けないので、結果だけしか判りませんが、

    1位  東京海上火災

    2   キリンビール

    3   三菱重工 横浜

    4   三菱化学 四日市

    5   三菱重工 本社

    6   東京海上火災

    7   三菱化学 四日市

    8   三菱重工 本社

    9   三菱重工 横浜

   10   三菱電機 鎌倉

ということでした。

 

 

三菱サッカー史

 

 

  発言番号:547

   発言者 :羽鳥行郎

   題名  :三菱観世流合同謡曲会(菱水会)について

   登録日時:99/01/12 17:30

 

 平成11年3月21日()10時より国立能楽堂研修能舞台に於いて菱水会創立50周年記念大会が開催されますのでご来場を歓迎致します。

 

1・菱水会の沿革

 菱水会は観世流謡曲を通して三菱各社の親睦を図ることを目的とし,昭和24年3月21日三菱鉱業・三菱製鋼・三菱化成の三社謡曲同好会が下落合の藤波舞台に於いて第1回大会を開催,爾来三菱養和会の後援を受け毎年春・秋2回大会の催しが続けられ今回が第101回に当たります。菱水会の加盟会社は現在15社に及んで居ります。菱水会の名称は初代会長 広瀬政次氏が三菱の「菱」と観世流の象徴である「水」とを組合せ命名されたものであります。

歴代役員

初代会長 広瀬政次 「元三菱鉱業参与・研究所長」

二代会長 宮田正男 「元三菱地所副社長」

三代会長   鈴木    「元三菱アルミニウム社長」

四代会長 さこ健吉 「元日本カ−バイト工業社長」

五代会長  田中秀雄  「元三菱重工業常務取締役」

 現役員

会長  小野早苗 「現三菱化学MKV相談役・元三菱化学常務取締役」

副会長奥泉裕史 「現三菱地所専務取締役」

顧問 鈴木    「第三代菱水会会長」

顧問 崇島貞雄  「元協立不動産取締役・元菱水会副会長」

顧問 田中秀雄  「第五代菱水会会長」

顧問 輿      「元三菱倉庫監査役・元菱水会副会長」

 

2・菱水会加盟会社

海謡会   東京海上火災保険株式会社

金石会  三菱マテリアル株式会社

光華会  三菱化学・三菱樹脂・旭硝子株式会社

光楓会  三菱倉庫株式会社

行和会  株式会社 東京三菱銀行

三謡会  三菱地所株式会社

紫向会  三菱商事株式会社

松嵐会  三菱レイヨン株式会社

重謡会  三菱重工業・三菱自動車工業株式会社

羽衣会  三菱製鋼株式会社

瓢月会  三菱電機株式会社

郵声会  日本郵船株式会社

 

3・菱水会創立50周年記念大会番組

 3月21日午前10時から午後5時迄番謡6番・連吟15曲・仕舞15曲・独吟3曲・舞囃子1曲・番外連吟1曲と大変盛り沢山となりますので省略個所を設けて若干の時間調整を行いますが,詳しくは番組発行次第希望者に配布致します。(DZB12737羽鳥宛メ−ルして下さい)

 

4・ダイヤネットワ−クに投稿するに至った経緯

 樋口三男氏の15回に亘る三菱風土抄の内・三菱庭球の歩み及び権藤卓也氏の三社対抗ヨットレ−スを拝見して予てから三菱の謡曲会について投稿しようと考えていましたが,偶々巌 隆吉氏から菱水会幹事に投稿のお勧めがありまた・冒頭にご案内の通り来る3月21日菱水会創立50周年記念大会が開催されますのでこの機会に掲載することに致しました。謡曲は日本の伝統文化の中枢に位置するものだけに究めれば究めるほど益々奥深く,習得には長い年月を要しますが,将に「継続は力なり」と痛感する次第であります。謡曲にご関心のある方は是非菱水会に温かいご理解とご支援を賜り,小野新会長のもと更なる発展を期する為,若い方のご入会を是非希望致しますと共に高齢化社会での旧職場の繋がりや地域社会での趣味の繋がりの一つとしてダイヤネットワ−クの皆様も謡曲への仲間入りをお勧め致したいと思います。

 

 

  発言番号:548547へのコメント)

    発言者  樋口 三男

    題名    :三菱観世流合同謡曲会(菱水会)について

    登録日時:99/01/13 19:42

 

 頭書の件に関するコメント拝見致しました。50年に及ぶ菱水会の謡曲活動まつたく存んじ上げず面目ありません。只、硝子のOBの黒坂欣市氏が20才代から始め、今日まで50年以上にわたり、研鑚をつまれ、現在、趣味の域を越えて、大先生として、自宅や中野区民センター、都庁などで大勢のお弟子さんの指導にあたつておられるとか聞いており、多分、菱水会ーー光華会ーのメンバーになっているとおもいます。

  貴重な記録として、是非、「三菱風土抄」の一ページに掲載方をさせてください。その節は宜しくねがいます。 尚、番組が発行されましたならば、配布方お願いいたします。

 

 

  発言番号:472

    発言者  :樋口 三男

    題名    :三菱風土抄−その15 三菱の風土とは.他

    登録日時:98/10/31 02:22

 

 そろそろ、本稿も終わりに近付き、当初、三菱風土抄として、大上段にふりかざして、、とりくんできたが、舌足らず、筆足らず、一方的にかたより、大事な、殊に、三菱の中核といえる鉱業、重工、商事、銀行等に関しては、力不足をお詫びしなくてはならない。

 

1.三菱の風土とは

  弥太郎、弥之助評伝の編纂会の編纂人は、弥太郎、弥之助当主を評して、「弥太郎当主は、漢学者の出身で、情にかまけて、カットとなって、無茶をしてしまったり、馬鹿げた浪費をして、大酒を飲んだりするが、そんな弥太郎当主だから、維新のドサクサに紛れ、三菱商会を産みだす事ができたのであって、その人生をみると、微賎の階層に生まれ、封建的階級制度の桎梏に耐ぇ刻苦奮闘した辛酸をなめ、明治の近代社会の先頭にたった建設者というべきでぁつて、仮りに、弥之助当主が創業者として、一から事を興して、それが出来たであろうか。弥之助当主は、どちらかというと、守成の人だった。その代わり、気まぐれの兄とちがって、理路整然と事を行い、弥太郎当主より、優れた経営者であり、欧米流の知識とやり方を心得た実務家ではあった。たてがみを風になびかせたライオンの様に、獅子吠えする兄と違って、弟は、その影で、ニコニコ温和な顔つきをしているが、兄より。切れ味のよい頭脳をもっていて、事にあたり、冷静、沈着それに何があっても平然と実行する押しの強さをもっていた。」と。

 この兄弟のそれそれの良さと性格が、三菱の風土の基調となり、欧米新技術と思潮を取り入れ、育て上げた人材に権限を委譲し、、その人材は、当主の意を汲み、各部門で力を存分に発揮して、三菱を形成してきたと考えられないだろうか。

 私が先輩からうけた教育を顧みると、「酒はいくら飲んでもよいが、明日の朝の出勤には遅刻するな。」「飲んでも飲まれるな。」「だされた酒は、一滴も残すな。」また、「○○課長とか△△部長とかいうな。

  只、先輩として、◇◇サンでよい。」などあるが、専ら、酒の事に関する躾は厳しいものがあり、これも当主に薫陶をうけた方達が次々に次の社員をそんな風に鍛えあげて行ったのであろう。

 

2 この風土抄に、巌サン、五島サン、深沢サン、太田サン、権藤サンから色々なコメントで、紙面を飾っていただいた。

 最後に、鈴木安三サン(三菱経済研究所−三菱総研)から貴重な「弥太郎.弥之助伝記編纂会」についての資料解説とその掲載出典のコメントを頂きお礼申しあげ、それらについて、掲載する。

 

3.鈴木安三サンよりの「編纂会の伝記編纂」に関する資料解説

  

@弥太郎当主の経歴は「美福院(弥太郎.弥之助氏の母)夫人手記」及び「 岩崎東山先生伝記」稿本により

 

.美福院夫人手記は、母美和が自ら筆記した手記と書簡で、原本は「つれづれ草」と題し、数十冊あるが、歿後、近親に分贈。

 弥之助当主がこれを福地桜痴に委嘱して読み易くしたものと荘田允命 (荘田平五郎の父 )に委嘱した「安芸之叢」がある。

 

.「岩崎東山先生伝記」は、筆写数十冊で岩崎家に秘蔵。岩崎久弥氏が父弥太郎の伝記を豊川良平に委嘱 (高知市立図書館)

 

.其の他

    岩崎弥太郎      早稲田大学教授の著書

  岩崎弥太郎日記   不倶戴天備忘録    安政三年

    東征記           文久ニ年

    崎陽日暦         慶応三.四年

    公用日記

    滞坂日記

    壬申日暦

    其の他

 これらは、明治初年の長崎貿易、大阪貿易の状況、土佐藩の動静、三菱創業に到る経緯を明らかにした資料で、一つの明治経済史といえる。

 

A三菱事業関係資料

 明治5年6年以降の会社の記録、文書が旧三菱本社に保存され、現在編纂会が保管し、要所を年次別に編集、余録した資料集三菱社誌」36巻が印行。その他高知県立(山内藩文書)市立(平尾、奥宮文書)図書館長崎県立図書館(長崎奉行所関係)、早稲田大学図書館(大隈重信文書)、国立国会図書館(樺山資紀、松方正義、小野義信その他の文書)、静嘉堂所蔵文書、土佐史談 など

 

B弥太郎伝について

.明治から現在まで、十数冊、昭和の出版では、白柳秀湖、飯田忠夫、田中惣五郎、松沢卓郎、入交好修氏等の著書、これらは、日本近代経済史の研究として近代経済の成立、展開の研究となる。

 

.旧三菱会社長岩崎弥太郎君伝附三菱会社内幕秘聞   明18(日本評論社版「゜明治文化全集第22巻雑史篇」)

 

.南海漁人著 岩崎弥太郎 集文館    明31.7

  弘松宣枝〃            民友社     32.3

   松村巌            内外出版社 37.3

   山路愛山            東亜堂書房 大3

 初期のものは、立志伝、偉人伝の色彩があるが、その後のものは、経済史論に基づく史観的、経済史的評伝の構成に特色がある。

 尚、三菱創業の年時、最初の社名については、三菱合資総務部調査課が編纂した「社史」第一号冒頭の記事によるもので、この社史は、明43年会社の文書、記録類の散逸に備え、年次の順序に配列した資料集で、公刊を目的としたものでなく、丸秘文書として、保管した換言すれば参考文献であって、三菱の社史は、まだできておらず、今後、つくられるべきものである事が附記されている。

 

 

  発言番号:476472へのコメント)

    発言者  巖 隆吉

    題名    :三菱風土抄−その15 三菱の風土とは.他

    登録日時:98/11/01 14:36

 

 貴重な資料を15回に分けて報告していただき感謝しています。

  お陰にて私も改めて三菱の歴史を考える機会となり、「土佐稲荷」のことを先輩に聞いたり、また池之端の重要文化財「旧岩崎家住宅」を訪ねたり思わない収穫もありました。

  かっての三菱化成には、社名の由来となった「萬物化成」という小弥太さんの額も、かかっていましたが、私たちにとっては、三菱4代の社長にはお会いしたこともなく、全く歴史のかなたのことになります。しかし、その「前だれ精神」という創業精神は、特にこれからも継承して欲しいと思っております。

  なお、コンドルの設計した「開東閣」は藤祭り等で良く行きましたが、上記旧岩崎家住宅は見たことがありませんでした。たまたま最近NHK文化センターの案内で見ることが出来ました。さすが文化財に指定されているだけあって古く多少痛んではいますが、補修しつつ保存されていました。この住宅は開東閣が弥之助〜小弥太の建物に対して弥太郎〜久弥即ち本家の建物です。文化庁から依頼された案内人の説明では、主として建物の説明に重点を絞っていました。また、岩崎本家が住んでいた和館は目下修理中で、その敷地の隣(かっては岩崎家敷地内)に建っている司法研修所の立派なビルが空き家になっているのも時節がら問題だな痛感するとともに一抹の寂しさを覚えました。

  その案内人が三菱のことを知りたい人は、近くの「三菱経済研究所」に行くと良いというのでそれから訪ねて見ました。そこは岩崎本家の別邸になっていたところで、現在は美しいビルに立て替えられていました。そのビル内にはかっての応接間を復元しており、三菱の古い歴史資料等は良く整理され展示されていました。

  そこで貰った「三菱のあゆみ」の中には、明治10年頃の三菱幹部、明治21年の頃の高島炭坑、明治18年の長崎造船所、明治40年ころの佐渡鉱山、大正11年頃の工事中の丸ビル、戦時中の戦艦武蔵と零戦、大洋丸慰霊祭等古い歴史に残る写真が色々掲載されています。最後に三菱の経営理念としての「三綱領」が記載していますが、特に私が感心したのは、昭和16年12月太平洋戦争開戦の時、三菱協議会で、「わが三菱と相提携せる幾多の英米人あり。旧誼は滅すべからず。彼らを国法の許す限り擁護すべし。」と訓示していることでありました。

  「富国強兵」「所得倍増」の時代の三菱は大飛躍を遂げた。この変動期、これから如何に進むべきか。大いに悩むところでしょう。しかし「温故知新」、昔の精神を継承すれば自ずと道も開かれのではないでしょうか。

  さらに、これからも「三菱風土」についての樋口さんはじめ皆さんのご意見をお聞きしたいなとお願いしつつ...。

 

 

  発言番号:

    発言者  :樋口 三男

    題名    :三菱風土抄 その15 三菱 サッカ-

    登録日時:99/10/14 16:35

 

 三菱には、養和会の道場に於いて、柔道、剣道、弓道などの古来の武道は夫々、戦前から心身の鍛練を目的として、盛んであり、又 テニスボ-ラグビ-など源流をイギリスに求めるスポ-もまた長い歴史をもっていたが、日本代表、極東オリンピック出場の優秀な選手であった人が多いわりには、組織的なサッカ-の歴史はなかった。

  30年諸橋(商事)、津田(東日本重−重工)、荘田、則武(郵船)サンの尽力により、サッカリ-グ結成のアプロ-として、各社名簿の作成、郵船飛田給グランドの確保等の準備を整え、1955オリジナル メンバ-12社でもって、三菱サッカ-が、篠島化成社長を委員長として、戦後、初の日本最大の-゛が発足し、その後、30周年の85年、40周年の95年には、巣鴨の養和会グランドで行い、参加 -26社を数えるに至った。

  さて、三菱サッカ--グの郵船飛田給グランド、前史的な三菱サッカ-マンダイヤモンドサッカ-の放映、及び-グ参加会社 サッカ-史などを結成40周年記念「三菱サッカ-史」掲載の寄稿者の記事より、抜粋してみる。

 

1.飛田給グランド−−郵船OB三本サン

 戦時色も濃厚となった昭15年日本郵船飛田給練成建設計画ガ企画され、土地面積25万坪、本館を修練道場(中はクラブハウス)とし、建坪200坪、野球場、競争場、庭球、篭球、排球場を備え、土地購入費25万、施設費 22万にて、昭17年建設された。 18年一部施設を除き、陸軍航空隊に接収、終戦とともに、昭29年迄米極東空軍の将校クラブとして使用された。接収返還の際には、米軍駐留費により整備されたグランドは、絨毯のごとき芝生がしきつめられ、恐らく当時日本で一、二を争うサッカ-場であった。

  場所は、人家も疎らな甲州街道より、少しはいった所で、銀杏の大木が鬱蒼と茂り、武蔵野の面影を遺し、家族も連れて遊べる楽しい憩いのグランドであった。

 

2.前史的 三菱サッカ-マン−−商事OB力石サン

  昭和初期、東大船舶工学科に末広教授 (振動学の世界的権威、岩崎家と関係があり、一族の教育指導 、又当時サッカ-部長 )という方がおられ、その時東大はサッカ-の黄金時代で、試合の度毎に、必ず観戦され、激しく叱咤激励された硬骨漢 (当時の主将は竹腰重丸サン )でぁつた。その門下生が多く三菱にはいられた。化成篠島 (昭4)、製紙奥野 (4−極東オリンピック代表 )、日本光学倉辻(昭8 )、商事桑田 (9)、重工宮原 ( 9 )、電機八巻 (10 )、沖 (12 )サン等で、ベルリンオリンピック代表の商事加茂 (昭13)、重工加茂正 (15 )、郵船 荘田(15 )、慶応全盛時代をつくった 重工 津田 (16 )、鉱業笠原サンがおり、又 石油 には加茂兄弟、商事の力石 と名をあげきれぬ程のサッカ-マンが゛いて、相手を見つけて試合を楽しんでいた。

 

3.ダイヤモンドサッカ-  −−化学OB瀬藤サン  −−

                      テレビ東京OB金子サン

  ダイヤモンドサッカ-は、1968.4 から1988.3迄の20年間継続し、放送回数 994回をかぞえた。

  東京テレビ (東京12チャンネル )の金子アナが、イングランドスパ-ズマンチェスタ-Uの名門強豪対決を岡野俊一郎氏の解説のもとに、「ダイヤ モンドサッカ-」として実況放送したのが1968.4.23で、爾来、1988.3まで、サッカ-番組のバイブルと言われた。その間、イングランドリ-グの紹介から始まり、ドイツイタリァフランスブラジルアルゼンチンなど列強の-グ戦とカップ戦の戦術、技術をダイジェストで放映し、1970Wメキシコ大会、1974W杯西独大会決勝の衛星生中継を通じ、世界のサッカ-を日本につたえた。

  この放映を企画、発案された篠島化成社長 (当時、日本サッカ-協会副会長、東京 12チャンネル番組審議委員 )、諸橋商事ロンドン支店長 (前商事会長、2002W杯日本招致委員会副会長 )の裏話がある。

  1967年初冬、篠島サンが経団連のミッションとして渡欧され、ロンドン駐在の諸橋サンイングランドリ-グを観戦し、その夜、英国BBC放送の人気番組「Match of the Day 」を視聴 (この放送はイングランドリ-グダイジェストで放映)され、コメンテ-、音楽、編集技術などスポ-番組として質が良く、完成度の高い ものであった。「日本サッカ-振興のため、この番組を日本で放映できないものか−−」と両氏の思いは募ったという。

  偶々、12チャンネルの番組審議委員であった篠島サンは、野球しか放映しない民放テレビスポ-放送を改善し、他種目とアマァチュァスポ-の放送を奨励し、殊に、高い水準にある欧のサッカ-を日本で放映したいと思っており「国際感覚が身につくスポ-外交のステ-ジを提供して日本にその芽を育成しょう」という両氏の意見があい、諸橋サン Match of the Day」の放送権交渉に動き、折衝を重ね獲得したものであった。

 サッカ-は組織だよ。個の特徴を全体で生かし、発展させてゆく。ゴ-を奪い、守るという共通の目的の為に、夫々が、どう応用力を発揮するのか、企業の命題にも通ずる。」篠島サンは常にいっていた。この二人の三菱マンの思いが、日本サッカ-を動かし、J-グの結成基盤をつくり、-ルドクラスプレ-を育成、躍動させるに到ったものといっても過言ではないだろう。

 

4.三菱リ−グ参加会社のサッカ−史

 

1)商事

 

イ.力石サン

) 昭7−8年頃迄、神戸在勤の八巻サンを頂点として、重工、電機、商事のクラブが、和田岬にあって、夫々、連合軍を組み、試合をおこなっていた。東京にても、巣鴨の至誠寮内グランドで同様の状態でスポ-を楽しんでいた。

 

( ) 22.5 東大御殿下グランドで、実業団選手権決勝が三菱 (加茂、二階堂、大掛、角田、力石、諸橋、橋本、高橋、青木、田代サンメンバ-)と三井との間で行われ優勝した。この年7月商事はGHQの命で解散。

( ) 昭29.7商事として合同。実業団-グ二部に入り、メンバ-は、二階堂、角田、森、奥田、力石、菅原、猪俣、加藤、近藤、諸橋、島原、ニ宮、田代サンで、30年一部昇格、三菱-グには、3031年優勝。

 

( ) 56年より香港、台湾、ジャカルタシンガポ-、北京、上海、クァルンプ-ブルネィバンコックなどへの海外遠征をおこなった。

 

ロ.加茂健サン

 イズリントンコリンシアンズの国際試合の為、昭13年機械部大阪支部への出社がおくれたが、同年7月の阪神大水害に遭遇し、阪神地区-三菱のサッカ-メンバ-は、六甲の山麓から流れでた多量の土砂で埋没された家、逃げ遅れた人達の救出作業の為、指定された地区を、全員、シャベルスコップをもって後片づけに協力しあった。

 

ハ.峰岸サン

  昭61年夏より、三菱サッカ--グOB会が始まり、冬の会には、満60才以上の方も集まり、かっての戦いの想い出を語り、球で結ばれた相互の健康を寿ぎ、杯を交わすトリンケン サッカ-へと変わってきている。

   

2) 鉱業  笠原サン

イ.戦前には、新田、橋寺、近角、向井、塚本サン等の方が熱心であった。

 

ロ.私は、高島端島時代、重工長崎クラブに入り、船でグランド通いし、昭26年大阪クラブで団体に出場した。

 

ハ.三谷サンは、鯰田、上山田で活躍し、全九州軍の監督を務め、化成、硝子、造船と交歓試合をした。

 

ニ.鉱業サッカ-部としてのたちあげは、昭25年松宮サンを部長とし、笠原、板倉、荻野、三谷、高崎、伊藤、藤田、藤村、深川さん等のメンバ-を揃えて臨み、中位-下位、関東実業団の方はニ部の中位であった。

 

ホ.尚、高崎サンは、現在のサッカ-は、全員攻撃、全員守備がサツカ-の技術、戦法だと力説されている。

 

3) 重工

イ.島田サン

  32三菱造船はサッカ-部を造り三菱-グに参加していたが、昭39三重工の合併に伴い、新三菱 島田、岡野、三菱日本 津田、造船野口、鶴岡サンの話合いで、三菱-グ出場の本社-と実業団大会、全日本選手権を指向する-にわかれた体制とした。

 

ロ.二宮サン

 昭43年四連覇中の東洋工業を破り、天皇杯完全優勝、日本の-ディングチ-となった。

  この優勝が契機となって、金曜会 重工牧田、商事藤野、銀行田実サンの肝いりで、三菱養和会巣鴨施設を活用し、三菱百年祭記念行事として、三菱綜合病院建設計画が急遽「養和の精神を体し、治療目的でなく、健康増進」を目的としたスポ-ツクラブ建設計画に変更された。

 

(4) 化学  大倉サン

 化成サッカ-は昭22年頃から、瀬藤サンの指導により、基礎的練習を始めた素人集団のサッカ-で東京実業団第四部に加盟し、日産化学を3対0で下した幸先の良いスタ-をきった化成東京-をその創部とする。翌23年第三部、24年ニ部、25年第一部に昇格、その後、主力メンバ-の転勤に伴い、第ニ部に転落したが、28年再び一部に昇格、三菱-グには、当初より参加した。その間、瀬藤サンの行動力で、昭和23年以来米を持参して、東京、黒崎、大阪の三場所対抗サッカ-戦のあった事は化成サッカ--の歴史の中に大きく刻まれている。

 

(5)海上  香川サン

 関東実業団には、平均年齢32才の高齢-をもって参加した。三菱-グには、小林、原田、河野、藤本サン、私のメンバ-で昭3233年優勝した。

 

(6) 銀行  奥田、横山サン

 昭30.1中谷、金井サン私奥田の三人が発起人となり、中村部長、松本主将、加藤、栗野、岩田、佐々木、高橋、坂口サンと私横山、大久保、三島、福井サンでもって、創部し、中村、岩崎、石坂、菅井サンの賛同も得て、三菱-グに参加した。

 

(7) 石油  松枝サン

 加納兄弟、荒川サンが草創期の三石サッカ-で活躍し、三菱-グには当初より参加し、殊に、水島製油所は、中国-グで活躍し、そのグランドを使用し、地域小学生を対象に「サッカ-スク-」を1976年迄実施した。

 

(8)ニコン  公文サン

 三菱-グには、昭44Cブロックに加入45Bブロック47Aブロックと昇格し、東京社会人-グ、品川区サッカ--グにも加盟した。

 

(9)製鋼  赤羽サン

 昭23年奥村、益田、藤沢サンにより創部、関東実業団連盟に加入三菱-グには、昭35Cブロックで優勝、昭44Bブロック優勝、昭45年よりAブロック

    好きだから蹴り、走り、ボ-をとろうとし、負傷しても癒えれば直ぐに始めるサッカ-、篠島サンが「全世界のあらゆる民族が、常に、行う運動競技、それはサッカ-−である。」と。1995年で40周年を迎えた三菱サッカ--グは、これをたちあげられた先輩、その中には、既に、鬼籍にはいられた方もおいでになるが、今日の姿を見られて、全く、感無量でありましょう。

   クラブハゥスと芝のグランドが゛゙セットになった三菱-グは、和気藹々の試合で、三菱各社の社員がサッカ-を通じ、古くからの知己のようになり、その縁は更にOB会へと広がっている。

   「三菱サッカ--グ結成四十周年記念 三菱サッカ-史」より                           (文責  樋口 )

追伸

1.本-グ史は、未だ現存され、然も、三菱の大御所的な方のお名前もでてきますので、三菱サッカ-史編纂責任者の商事OBの峰岸典雄サンに、このコピ-と、財団のパンフレットや活動状況 など送付して、お意見をききましたところ、「この40周年史に掲載した人は、日本のサッカ- の基礎を築いたのは、俺達だという誇りがあり、一人でも多くの方々に知って頂く事に異存はないと思う。従って差し支えはなく、財団もそのメンバ-も素性の判った身内ですから、諸橋サンなり大御所的な方には何も言わずにおく」というコメントをいただきました。

 

2.峰岸サンは、現在もOBサッカ-の幹事役をされ、又諸橋サンとは、親の代からの懇意な関係。